2004.01.01 (Thu)   ルネ(シャト−ブリアン著 辻昶訳・筑摩書房)
 
 シャトーブリアン(1768〜1848)ほど19世紀フランスの作家に影響を与えた人も少ないだろう。ヴィクトル・ユゴーの「シャトーブリアンとなるか、それとも無だ」ということばはやや誇張めいてもいようが、シャトーブリアンに冠される修辞は常に「魅惑家」であり、19世紀ロマン派の特長‥色彩と音楽的豊かさ‥はシャトーブリアンぬきでは語れないだろう。
 
 シャトーブリアンは北フランス・ブルターニュの港町サン・マロに生まれた。フランス革命直後(20代前半)に米国旅行を企てサン・マロから出帆、数ヶ月にわたって北米各地を歩いたが、革命激化の報をきき帰国。ルイ16世処刑後英国に亡命(1793年)、再度フランスに帰国したのは七年後の1800年であった。
「ルネ」は北米旅行からヒントをえて1802年に出版された。歴史に「もし」は禁句であるという人もいる、しかし、もし英国での七年に及ぶみじめな生活がなかったなら、「ルネ」も「アタラ」も生まれていなかったに相違ない。
 
 サン・マロ時代の思い出を綴った「わが青春」には、「ふくろうが塔から塔へと飛び回り、月と私との間を行ったり来たりし、月の光に照らされた夜の大キャンバスに翼の軌跡を描いた。」とシャトーブリアンは記している。
 
 私たちは未来や現在の狩人、あるいは蒐集家であるよりもむしろ過去の狩人ではないか、と思うことがある。現在はなぜこうもとらえようのないことだらけなのだろう、そう思って過去をなつかしむからではない。シャトブーリアンは1802年にこういっている。「18世紀が日毎に視野から消えてゆくのに、17世紀は遠くなればなるほど大きなものになる」と。
 
 現在の果実より過去の果実のほうが実が大きくて甘いと感じるのは特別のことではなく、すべてが大量生産される現在より、少量生産にたよった過去のほうが果実の味は濃厚で美味であったにちがいない。シャトーブリアンの文体を詩的であると評価する人々は多い。
 
 たしかにそうであるのはあるのだが‥M・プルーストは「私がシャトーブリアンを好んで読むわけは、二、三ページごとに(ちょうど夏の夜の沈黙の間の後で、フクロウの鳴き声を構成しているつねに同じ二つの音色が聞こえるように)同じく単調ではあるけれども、同じく模倣しがたい彼自身の叫び声を聞かされて、詩人とはどんな人であるのかが十分に感知されるからだ」と記している《「プルースト評論選1文学編」》‥英国での長い亡命生活でシャトーブリアンが得た果実は、詩よりもさらに濃密な味がする。
 
 とはいえ、世の中は広いからアンチ・シャトーブリアン派も存在し、私の知るかぎりの代表格はアナトール・フランス(1844〜1924)である。
「シャトーブリアンはフランス語を本当に富ませたのではなく、その柔軟さとその音楽的特質とを失わせた」、「シャトーブリアンやユゴーの19世紀は、真の人間感情の伝統をうしなった。文学の題材となる価値のあるのはこの人間感情だけなのに」と辛辣な評価を下している《「知性の愁い=アナトール・フランスとの対話」(ニコラ・セギュール著)》。
 
 ところで、アナトール・フランスのいう「真の人間感情」とはいかなるものであったのか。
1807年、シャトーブリアンはメルキュール・ド・フランス紙に「言論の自由の擁護」と題して投稿している。
 
 「卑劣きわまる沈黙のなか、奴隷の鎖の音と密告者の声しかきこえないとき、なにもかもが暴君の前でふるえあがり、暴君の恩顧を蒙ることが不興を買うことと同じくらい危険であるとき、歴史家が出現する、民衆の恨みをはらす責務を負って。皇帝ネロが栄華を誇っても、タキトゥスはすでに帝国に生まれていた。彼はゲルマニュウスの遺灰のそばに人知れず立つ。公正なる神の摂理は、無名の子供に世界を導くものとしての栄光を委ねられたのである」
 
 暴君(ナポレオン)は激怒し、メルキュール紙を即座に発禁、シャトーブリアンを迫害した。
 
 シャトーブリアンが承服しがたかったのは帝政や帝国主義だけではない、なんの抑制もない個人主義に対しても異議を唱えたのである。皇帝ナポレオンの出現以前に執筆された「ルネ」を読むとそのことが痛いほどわかる。「ルネ」を詩的で音楽的ととらえるのはかまわないが、それよりむしろ、勝手気ままに闊歩する個人主義への諷刺とみなすほうが正鵠を射ている。
 
 30年ほど前のこと、氷雨ふる私鉄沿線のちいさな駅のホームで、いきなりめくったページを目で追って愕然とした「ルネ」の文章、それはいまなお私をとらえてはなさない。
 
 『おまえの身の上話には、いまこの人がおまえに示した憐れみの気持に値するようなものはこれっぽっちもない。わしの目に映るのは、妄想にとりつかれて何もかもおもしろくなくなり、社会に対する責務をのがれて、無用な夢にひたっているひとりの若者の姿だけじゃ。おまえに言っておくが、人生をいまわしいものと考えたからといって、すぐれた人間だとはけっして言えないのだ。人間や人生を憎むのは、ただ、ものを見通す力が欠けているからにすぎない。』
 
 『もうすこし、おまえの視野をひろげるがよい。そうすればおまえには、おまえの不平の種であるあらゆる不幸が、これっぽっちも値打のないものであることがすぐに納得いくだろう。それにしても、おまえがこの世で現実に味わった、ただひとつの不幸に思いをいたすとき、顔を赤らめずにいられないというのは、なんと恥ずかしいことじゃろう。』
 
 『おまえはひとり森の奥に世を避けて、人間としての義務をすべて投げうち、むなしく日々を送っているようじゃが、いったい何をしているのじゃ? おまえは、聖者たちもおまえとおなじように荒れ野に身を埋めたのだと言うかもしれない。だが、あの方たちは涙を流して荒れ野にこもり、その欲念をしずめようとつとめられたのだ。それなのにおまえは、おまえの欲念を燃えたたせるために時をついやしているように思われる。』
 
 『荒れ野は、神とともに生きない者には害になるばかりだ。荒れ野は魂の力を強めもするが、同時に魂の力が鍛錬される機会をも、ひとつ残らず取りあげてしまうのじゃ。』
 

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