2003.11.19 (Wed)   幾夜寝覚(井上究一郎著 新潮社)
 
 井上究一郎はM・プルースト「失われた時を求めて」の全訳を完成した人としてその名を知られているが、私にとっては、30年以上前に読んだジャン・グルニエ著「孤島」や「アルベール・カミュ回想」の名訳者としての存在が優位を占めている。
 
 井上究一郎は自選エッセー集「水無瀬川」(筑摩書房刊)の『旅の快楽』と銘打った小文のなかで、『私は昨年(1990年)の六月、「幾夜寝覚」と題する自分の一風変わった旅の告白の書を新潮社から出版したのですが、その内容に盛られた現代の中高年層における快楽追求の一形式』は、『ただ大人の楽しみをじっくり味あう以外にはなんの目的もない、いいご時世にめぐり会えた人たちの、平和で罪のない旅』と述べている。
 
 それは具体的には「北イタリア・ルネッサンス美術の旅十五日間」という旅行会社主催のツアーであり、当時78歳の井上氏とご令室が1988年5月18日、ほかの参加者20名ほどと共に、アリタリア航空便で成田を発って帰国するまでの創作風紀行文である。
 
 ツアーにした理由を、『このたびは、しかし、たとえ妻が同伴するにしても、個人旅行をするための面倒な手続万般に堪えるだけの体力はなく、それらをひきうけてもらえる代行者もなければ、現地で案内をたのむべき知人縁者ももはやなかった』からで、しかし、『窮すれば通ず、考えてみれば、いまや海外旅行ブームの頂点にあり、各旅行社は競争して客集めに狂奔している』がゆえに、『運よく恰好のコースがあればそれに便乗するに越したことはない』。
78歳という年齢を考えればむべなるかなとも思われる。
 
 著者は『森繁節をもじっていえば、「バッグ片手にとぼとぼと」ついていけばよい』と軽口をいうが、これは森繁節ではあるまい、近松門左衛門作「心中天網島」の「河床」での紙屋治兵衛(鴈治郎)・花道の出である。
紙治は「魂ぬけてとぼとぼと」だが、著者は「気合いを入れていそいそと」ではあるまいか。
一方は一応快楽追求の旅、他方は快楽の後の死出の旅なのだ。
 
 旅程は以下の通りである。
 
 東京発→ローマ二泊  オルヴィエート→アッシジ一泊  アレッツオ→シエナ一泊  
 サン・ジミニャーノ→フィレンツェ三泊  ピサ、ルッカ、ボローニャ→ラヴェンナ一泊  
 フェラーラ、パドヴァ→ヴェネチア二泊  ヴィチェンツァ→ヴェローナ一泊  
 マントヴァ、パヴィア→ミラノ二泊
 
 なんともはやせわしないというか、いそがしいというか、著者の年齢に釣りあわない強行軍での適応はいかなるものであったろうと気になるのであるが(旅行に関して著者はすべて奥方に一任したという。女性はことのほか欲ばりだから、こういう旅程を選択したと思われる)、余人の心配などどこ吹く風、著者はツアー参加者の観察に余念がない。
 
 『この旅の途中で、あるときは乗物の座席に隣りあい、あるときは食事のテーブルで相席となり、またあるときは美術館の廻廊で肩をならべながらガイドの説明を聴いたあと、たがいに親しく口を利きあった同行者たちのことを語るのは、本来の目的から逸脱した、余計な道草であるかもしれない。』と前置きしつつ饒舌になるのがいかにも著者らしい。
 
 その同行者たちとは、『樺山紘一の公開講座「ルネッサンスの人と文化」を聴講している奥さんたちや、初旅の熟年夫婦が三、四組、かいがいしく面倒を見る娘さんにかしづかれて、毎日和服で通している老婦人、一見やもめらしく無骨にみえてどこかいなせな風格をただよわせている健康そうな老人、ほかは中高年の主婦のグループ』(「水無瀬川」)で、『そうした人のすべてが、自国からも世間からも私生活からさえも解放されて、遠慮も束縛もない平等の自由に身をまかせている』(「水無瀬川」)のであった。
 
 私が創作風紀行文と記したのは、旅の記録を新聞記者のように現実に即して味気なく描くのも能がなく、かといって、幻影にとりつかれた浮かれ人のごとく支離滅裂に描くのもつまらない。想像力のたのしみは、想像力自体がのぞみを達しさえすれば衰えてゆくのが定めであってみれば、現実と幻影とがないまぜになってこそ紀行文も精彩をはなつのではないだろうか。それゆえの創作風なのである。
 
 サン・ジミニャーノの聖堂の左脇廊下の突きあたりにある「受胎告知」についてのJ氏の述懐『絵具の剥げ落ちた糸杉が三本透けた箒のように立っていて、鳩がもたらすおぼつかない光の筋が、いったんその先に引っかかり、それからその一本の幹をつたって、天使がもつ百合に降りてくるのです。』とか、ギルランダイヨ「最後の晩餐」のフレスコについてのJ氏の、
 
 『あかるい背景に、糸杉と黄熟する果樹と無心に飛びかう鳥。窓にとまる孔雀。食卓の中央でキリストの胸に寄りかかって泣いている若者、左右の弟子たちに添うように離れるように描かれている暗い影。食卓のこちら側に一人だけ横向きにすわり、よく見ると円光をもたぬユダ、彼の足もとでじっとこちらを見つめている小さな犬。私はあんなに美しい初期ルネッサンスの「最後の晩餐」を見たことがありません。』などはあきらかに著者自身の述懐である。
 
 著者が特にこだわったのはやはりプルーストで、ヴェネチアのホテル・ダニエリにプルーストが投宿したのは1900年5月(ホテル・ダニエリについては、塩野七生が「イタリア遺聞」に詳述している)。それから88年をへて著者はダニエリ探訪をはたしたのであった。蛇足ではあるが、ツアー最終日にミラノをもってきたのはいうまでもなくご婦人方のショッピングのため。
 
 ツアー自体が著者の快楽を求める旅であり、快楽の最たるものは美術鑑賞であるのだが、イタリアを短期間旅することで著者が味わったよろこびは、時空をこえたプルーストとの出会い、そして無上の解放感であったろう。著者にとってすでに自家薬籠中のものとなった以下の文がそれを端的にものがたっている。
 
 『ときどき驟雨に見舞われていたあたり一帯が、坂道の中腹にあって菩提樹の深いしげみに被われているサン・パトリチヨの井戸に着いてからは、からっと晴れあがり、燦々とふりそそぐ太陽の千の矢を透かす葉と花のひんやりとしたこまやかなみどりの揺れが、パノラマを背景にして、たまらなく目に快かった。』

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