聖ヴィート大聖堂2
聖ヴィート大聖堂2
 
聖ヴィート大聖堂のヴォールト天井はトレーサリー装飾(ゴシック様式)といって、
模様がクモの巣のように対角に結ばれている。着工は1372年にさかのぼる。
面白いと思ったのは画像右の格子窓に外の青空が映っていたこと。
 
このステンドグラスは薔薇窓といい、聖ヴィート大聖堂の玄関上部にある
有名な窓で、F・キセラの作品。創世記を題材にした場面が描かれている。
名作には違いないが、私は右側の空の映った青い窓にみとれてしまった。
 
上の写真でも特徴的であるが、下の写真をみればさらによく分かるのは、
柱が天井で歪曲したようにみえること。これがゴシック建築の画期的とも
いえる構造で、こうなれば重い天井を支えるための補強壁だけで事足りる。
柱が天井でアーチ形に歪曲することで力を分散させているのである。
 
こういった技術のおかげで大きな壁が消え、かわりに大きな窓が入った、
すなわちステンド・グラスである。こんにち私たちが端麗華美な、または
荘厳なステンド・グラスを目にすることができるのもその賜物なのである
 
聖ヴィート大聖堂3
聖ヴィート大聖堂3
 
聖ヴィート大聖堂はカレル4世が建設し、歴代のボヘミア国王の戴冠式をここで行う礎をきずいた。
プラハ城を構成する建築物のなかでもひときわ大きく、正面の二本の尖塔とその奥にある鐘楼は、
ブルタヴァ川河畔の旧市街やカレル橋からも眺めることができ、プラハの象徴的建物である。
 
内部の寸法は奥行124b、幅60b、高さ34b、広い空間を有している。
あれは誰であったか、城のなかの聖堂にしては立派すぎるといったのは。
 
教会は国や王に帰属しない、ローマ教皇に帰属するという価値観、それが
当たり前であった中世に、ローマ教皇や枢機卿をどう籠絡したのか、あるいは、
はなから教皇の権威と威信など犬にでも喰わせてしまえと考えていたのか、
カレル4世という人は旧来の慣習、いや、因習を打ち破った人のようである。
 
近世、15〜16世紀においては、ヘンリー8世が英国に国教会制度を導入し、
カトリック、つまりローマ教皇と訣別し、自らがその首長となった例はあるが、
14世紀にいわゆる政教分離をはかった王は、カレルの他にいたのであろうか。
 
朝の光
朝の光
 
ステンド・グラスに朝の光が差し込み、それが壁面に映った写真。
 
カレルシュタイン城
カレルシュタイン城
 
この城はカレル4世の別荘で、彼のお気に入りだった。戴冠式用の宝物やキリスト受難にまつわる
遺品をこの城に収めていたことからそれが伺い知れるのではないだろうか。そしてまたカレル4世は、
ここの小さな聖カテリーナ礼拝堂で日夜祈りを捧げていたという。お気に入りの理由がそこにもある。
 
ローマ・カトリックの権威はすでに失墜していたと思われる。教皇などというものは当時、主要な枢機卿を
抱き込めばいかようにもその地位に就けたもののようであるし、だいたいが俗世のアカにまみれた輩が
ヴァチカンの最高位にいたというのも整合性のある話なのだ。権力の座を維持するにも先立つモノが要る。
 
表向きは教皇権を尊重するふりをし、実は蔑視していたカレル4世の小気味よい顔がみえてくる。
彼が崇敬したのはそんなものではない、崇拝し畏敬したのは中身である、信仰心である。
14世紀のボヘミア王は敬虔なキリスト教徒であった。王としての権威と威信を保つための事業と画策を
行う一方で、彼自身はちっぽけな礼拝堂にこもって祈りを捧げたのである。それは16世紀、
太陽の没することのない大帝国・スペインで権勢を誇示したカルロス一世にも似ている。
 
現在の城は19世紀に入って、J・モッケルによって再建されたのであったが、カレル4世の寝室は
当時のままである。寝台は朽ちはて、往時を偲ばせるにはあまりにみすぼらしく、西行ではないけれど、
 
「よしや君 昔の玉の床とても かからんのちは なににかはせん」という状況なのだ。
 
しかしながら、プラハからここまでの小旅行は正解であったと思う。カレル4世の別の顔をみた、
その思いが私の心にのこり、帰国後もカレル4世についてあれこれ調べるよすがとなったからだ。
 
カレル、カレルとうるさいほど出てきますが、チェコ語のカレルはスペイン語のカルロス、
ドイツ語のカール、フランス語ならシャルル、英語ではチャールズです。喜劇王チャップリン
のファースト・ネームはチャールズ、故ダイアナ妃の夫君もチャールズでありました。
 
カレルシュタイン城はプラハの南西25qにある。城内の壁面にアフガニスタン特産のラピスラズリ
がちりばめてあった。ガズニ朝(アフガニスタン)当時、東西交渉の盛んであったことをしのばせる
 
 
城の絵
城の絵
 
城内に展示されていた創建当時の絵。上の写真と比較するために掲載した。
どう見ても、どう考えても、創建当時のほうが素晴らしい。この絵をみて、
つくづく当時の景観のままでカレルシュタイン城をみたかったと思った。
 
ものにもよると思うが、たいていは時代を経るにつれてつまらなくなってゆく。
古き良き時代をしのぶのは老いのせいもあるかもしれない、だがやはり、
ただ懐かしいだけでなく、古いものは今より良いものが多かったと思うのだ。
 
城内のギフト・ショップにいた熟年世代の女性従業員が、おつりを渡すさいに、
チェコの貨幣単位であるコルナ(王冠)を「クラウン」と実に優雅に言った。
コルナもクラウンも意味は同じ「王冠」なのであるが、かつてクラウンは
カレル4世が皇帝をつとめた神聖ローマ帝国で広く使われた通貨の呼称である。
 
彼女がクラウンといったその雅やかな発音は、今も私の耳にのこっている。
 
 
古地図
古地図
 
子供の頃からすきだったもののひとつが地図である。ほかにすきだったのは、クレパスと携帯鉛筆削り、植物図鑑。
携帯鉛筆削りは刻印の入った小さなナイフではない、鉛筆を挿入してグルグル回すプラスチックのあれである。
縦横数センチ、削った鉛筆の屑は二回分も入ればもう満タン、削り屑を捨てないと次の鉛筆は削れない。
単純すぎるほど単純な構造なのに、なぜかその風合いが良くて長年愛用し、ハンドル式の鉛筆削りは無視した。
 
地図はいまでも収集するほどすきで、国内、国外を問わず様々な地図をもっている。ハイキング用、ドライブ用と
用途によって使い分けている。その二種類は海外旅行の必需品で、常備薬を忘れても、地図を忘れたことはない。
そして、海外旅行のたびに地図がふえる。トレッキング・コースなどそう変わるものではないし、道路にしても、
公共事業王国のこの国(日本)のように頻繁に新しい道路ができるわけのものではない。だけど買う。
 
地図と長年つきあって分かることだが、地図にも個性がある。上の写真の地図と、「ウィーン」で紹介した
インペリアル・ホテルの壁に掛かっていた地図とは異なる顔をしている。また、あちらはモノクロ、こちらはカラー
という違いもある。それにデザインや縮尺寸法など、ひと目みたら誰にで違いが分かる。こちらのほうがたのしいが。
 
この地図に描かれている地域は‥というような「いらざる講釈」はまったく不要、写真的面白さのみで私は撮影した。
うしろ向きの女性、髪の色、身につけているもの、カレルシュタイン城のこの部屋の古地図になじんでいたのです。
 
 
城からの眺め
城からの眺め
 
なんといってもこれ、森に囲まれたこういう環境は身も心もやすまります。
カレルシュタイン城の裏側は、道の一部が舗装されたことと、車がいることを
除けば、数百年間ほとんど変化はないように思います。いやされます。

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