この城はカレル4世の別荘で、彼のお気に入りだった。戴冠式用の宝物やキリスト受難にまつわる
遺品をこの城に収めていたことからそれが伺い知れるのではないだろうか。そしてまたカレル4世は、
ここの小さな聖カテリーナ礼拝堂で日夜祈りを捧げていたという。お気に入りの理由がそこにもある。
ローマ・カトリックの権威はすでに失墜していたと思われる。教皇などというものは当時、主要な枢機卿を
抱き込めばいかようにもその地位に就けたもののようであるし、だいたいが俗世のアカにまみれた輩が
ヴァチカンの最高位にいたというのも整合性のある話なのだ。権力の座を維持するにも先立つモノが要る。
表向きは教皇権を尊重するふりをし、実は蔑視していたカレル4世の小気味よい顔がみえてくる。
彼が崇敬したのはそんなものではない、崇拝し畏敬したのは中身である、信仰心である。
14世紀のボヘミア王は敬虔なキリスト教徒であった。王としての権威と威信を保つための事業と画策を
行う一方で、彼自身はちっぽけな礼拝堂にこもって祈りを捧げたのである。それは16世紀、
太陽の没することのない大帝国・スペインで権勢を誇示したカルロス一世にも似ている。
現在の城は19世紀に入って、J・モッケルによって再建されたのであったが、カレル4世の寝室は
当時のままである。寝台は朽ちはて、往時を偲ばせるにはあまりにみすぼらしく、西行ではないけれど、
「よしや君 昔の玉の床とても かからんのちは なににかはせん」という状況なのだ。
しかしながら、プラハからここまでの小旅行は正解であったと思う。カレル4世の別の顔をみた、
その思いが私の心にのこり、帰国後もカレル4世についてあれこれ調べるよすがとなったからだ。
★カレル、カレルとうるさいほど出てきますが、チェコ語のカレルはスペイン語のカルロス、
ドイツ語のカール、フランス語ならシャルル、英語ではチャールズです。喜劇王チャップリン
のファースト・ネームはチャールズ、故ダイアナ妃の夫君もチャールズでありました。
カレルシュタイン城はプラハの南西25qにある。城内の壁面にアフガニスタン特産のラピスラズリ
がちりばめてあった。ガズニ朝(アフガニスタン)当時、東西交渉の盛んであったことをしのばせる★
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