伏見桃山城
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映画撮影のために化粧直しした大小天守閣(07年12月)(左)と1968年当時の大小天守閣(右)

移築関係の写真

京阪電鉄「伏見桃山駅」でおりた。近鉄のガードを潜ると、以前(1968年当時)は天守閣が望めた。桃山丘陵の木々が大きくなり、今回は何も見えない。時代の流れを感じないではおれなかった。模擬天守が建てられたのが1964年、当時は太陽に輝いているキンピカの天守だった。左手に伏見城大手門を移築した御香宮神社表門を眺めながら、JR奈良線を越える。明治天皇陵の本丸跡を見、治部池の暗い水面を眺めながら行く。深い木立の中からは天守閣をうかがい知ることは出来ない。とにかく広い。ジョギングをしている人に出会う。そういえば、伏見桃山城キャッスルランドの跡地は運動公園に変わったとか。迷いそうになりかけた時、ようやく木の葉越しに天守閣が見える。駐車場の脇に、以前の入場門がある。そこから見上げる天守閣も、何故か輝いている。塀も出来ている。京都市も本格的に開園を目指しているのだろうか。人影はまばら。いけるところまで行こうと、天守へ向かう。すると入口から人が出てくる。でもおかしな感じで、肩から懐中電灯。たまたまその日居合わせた京都市の職員。なんでも、東映の「茶々 天涯の貴妃」撮影で、大坂城に見立てお色直し作業をし、望楼の下に虎の装飾を施し、鯱や屋根瓦先端部は金色に塗り替えたそうである。改修費の約1億円を東映が負担したとの事。塀は張りぼてで、撮影も完了したので撤去予定との事。おお、そう言われて見上げれば「なんじゃこれ、大阪城の天守閣にそっくりや」。 4年前に経営不振で閉園し、その後は京都市が無償で譲り受けたものの、老朽化もあって内部は非公開が続いている。 良い時に来たものだと一人ほくそえむ。伏見城の遺構という物が各地にある。江戸城伏見櫓、福山城伏見櫓(伝松の丸東櫓)が現存。大阪城にも三層の伏見櫓があったが、残念なことに1945年に空襲で消失。近く京都では源空寺の山門、御香宮神社表門(伝大手門)、豊国神社唐門、二条城唐門、西本願寺唐門、二尊院総門(伝薬医門)、天竜寺勅旨門(伝台所門)他数ヶ所。明石城の坤櫓、明石市月照寺山門(伝薬医門)、富田林市の興正寺表門と御成門、奈良県田原本町浄照寺山門などたくさん伝わっている。これだけの建造物が各地に残ったのは、元和九年廃城の時、徳川家の威光を示す為、各地にさげわたしたからなのだろうか。でもそれだけではなく、秀吉時代の移設もある。その他、鳥居元忠ら自刃した時の血天井と伝わるものが京都市内で養源院、源光庵、正伝寺、宝泉院、興聖寺、天求院にある。少し離れて、大阪夏の陣で逃れた豊臣方が伏見城で自刃した血天井が大阪府和泉市の蔭涼寺にある。伏見の地には無くなったが、こうして各地に残る遺構を合わせたら、たくさんの建造物が残る。伏見の町を歩くと、あちこちの町名が面白い。銀座町、白銀町、片桐町、鍋島町、桃山町正宗、桃山町松平筑前、桃山町島津などなど、このまま残してもらいたいものである。

御香宮神社(現地説明板より)

前略……以後、伏見の産土神として人々の信仰を集めたが、度々の兵乱や天災により荒廃した。文禄年間(一五九二〜九六)豊臣秀吉は、当社を伏見城内に移し、鬼門の守護神としたが、慶長十年(一六○五)徳川家康により旧地である当地に戻され、現在の本殿(重要文化財)が建立された。表門(重要文化財)は、旧伏見城の大手門と伝えられている。…‥後略   京都市

豊国(とよくに)神社(現地説明板より)

前略……唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝え、二条城から南禅寺の金地院を経て、ここに移築されたもので、その両脇の石灯籠は、秀吉恩顧の大名が奉献したものである。  京都市

富田林御坊の表門

富田林市の興正寺別院(御坊)の表門とそのわきの御成門は、もと伏見桃山城の一部を京都の興正寺に寄贈あり、安政年間これを縮小して、この別院に移したものである。原形より小さくなったとはいうものの表門の前に立ち、十数歩退いて仰げば、木組木造りのすべてが、太く力強くて威力をもち、豪壮の気に圧せられる。右側の御成門は桧皮葺を瓦葺にかえたが、欄間の彫刻などに雄麗の面影を見ることができる。(河南町史第四巻より抜粋)