明石城
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坤櫓(01年10月)                   天守台(01年10月)

その他の写真

JR明石駅ホームから目の前に見える。ホームから見るのが全体を俯瞰でき、一番良い。坤櫓(伏見城から移築)と巽櫓(船上城から移築)の二つが残る。この二つの櫓ともに、神戸の震災で壁が崩れ落ち、無残な姿になった。その後、修理が終わり、綺麗な姿を見せている。ついでに二つの櫓を結ぶ塀も復元された。本丸内には元々四つの隅櫓があったが、天守閣は築かれなかった。かなり大きな天守台だけが残っている。坤櫓が天守閣代用とされた。以前、本丸内にはいろんな建物があったが、現在きれいに撤去整備された。少しずつ、本来の明石城にもどりつつある。市内月照寺山門は明石城大手門(伏見城から移築)を移築したもの。

 

天 守 台 (天守台説明板より)

  ここは明石城の天守台です。天守閣は造られませんでしたが、いつでも築くことができるように、設けていました。  元和元年の大阪夏の陣を最後に戦乱がやみ大平になった、いわゆる元和偃武のころ造られたお城には天守閣のないものが多い。元和五年(一六一九年)にでき上がった明石城に天守閣がなかったのも不思議なことではなく、時代の趨勢であったと言えます。

松平直明公遺愛のお茶の水 (井戸わき説明板より)

一、八代城主、直明公在城中(一六八二年〜一七○一年)日常この水を使用してお茶を点てられた。   一、明石城内でもっともよい水の出る井戸として昔から親しまれてきた。    県立明石公園事務所  明石市教育委員会

 

遺跡  人丸塚(明石城本丸人丸塚脇の説明板より)

一、弘仁三年(八一二年)僧空海がここに楊柳寺を建てた    一、仁和のころ(八八○年のころ)住職覚証が柿本人麿公の夢のおつげで人麿公を祀った    一、明石築城後は城の守り神として祀られてきた    兵庫県

 

明石市指定文化財(昭和四十八年)旧明石藩主松平家廟所(長寿院現地説明板より)

一、第九代松平直明から第十六代斉宣までの藩主でその家族の墓五十九基があります 一、斉宣(将軍徳川家斉の二十五男)夫妻の墓は豪壮な石の扉塀つきで御霊屋もりっぱで徳川幕府の権政がしのばれます。 明石市教育委員会

 

由来略記(月照寺門前石碑より)

当山ハ弘仁二(八一一)年弘法大師空海ガ現明石城本丸ノ地ニ湖南山揚柳寺ヲ建立シタニ始ル 仁和三(八八七)年住僧覚証和尚ガ大和國柿本寺ヨリ船乗十一面観世音菩薩ヲ勧請シ同時ニ柿本人麿ノ祠ヲ建テ鎮守トシ寺号ヲ月照寺ト改メル 天正三(一五七五)年三木雲龍寺ヨリ安室春泰禅師来ル座禅ニ入ルトキ人麿ノ神霊ガ現レ禅定ヲ讃セラルコト七日ニ及ブ依ッテ曹洞宗ニ改宗シ改宗開山トナル 元和五(一六一八)年明石城ノ築城ニ際シ此ノ地ニ移サレタ 享保八(一七二三)年人麿ニ神位神号ガ贈ラレ各天皇ヨリ宸筆短籍外多クノ品ヲ賜ツタ延享元(一七四四)年前宝鏡寺本覚院宮ヨリ「人麿山」額ノ奉納ガアリ 此ノ時ヨリ山号ヲ人麿山ト改メタ 明和六(一七六九)年永代長日勅願寺ノ沙汰ヲ蒙ッタ

 

明石市指定文化財(昭和四十五年度)建造物「月照寺山門」

一、元和四年(1618)小笠原忠政が徳川秀忠から伏見城薬医門を拝領明石城の切手門とする。 一、明治六年、月照寺山門として移し建てられた。 明石市教育委員会