船上城
[ ホーム ] [ 上へ ]

 

わずかに残る本丸跡(04年7月)

その他の写真

 山陽電鉄「西新町駅」で降りて西へ、明石警察署裏手、明石市新明町にある。入り口がわかり難い。船上南会館裏手の住宅地を川に沿って路がある。路と言っても、田んぼのあぜ道である。この川がかつての堀。会館裏手に田んぼが残っているが、ほぼこの一帯が城址であったのだろう。本丸跡として残っている場所は、田んぼから2mくらいの高さを持ち、古城神社が鎮座する。本来の参道は南側の住宅地にあったのだろうが、今は北側に移動している。古城神社が無かったら、この本丸跡も消滅していただろうと想像できる。そんなにも、あのバブル時代は猛烈な時代であった。ギリギリの所で残った、貴重な遺跡である。周りを見ても、この場所と、堀として利用された川を除き、何も面影は無い。ただ一つ、明石公園近くに、当時の武家屋敷の長屋門が残っている。建築様式からして、船上城武家屋敷のものに間違いないという。高槻から船上城へ来た高山右近。この地で彼は、総てを棄てて信仰をとる。右近の後しばらくして、明石の城は現在の場所に移る。船上城の櫓の一つが、現明石城の巽櫓との説もある。この地の建物、石垣が転用されたことは、想像できる。明石公園の賑やかさに比べ、あまりにも寂しすぎるここに立つと、世の中の非情を感じるのは私だけだろうか。田んぼのあぜ道を、元気な小学生が歩いていた。

 

船 上 城 跡(本丸跡、祠横の説明版より)

ここは、かつての船上城の本丸跡と考えられています。 この地には、室町時代に播磨の豪族赤松氏が砦を築き、その後も三木城主別所長治の叔父別所吉親や蜂須賀小六正勝などが居城しました。 天正一三年(一五八五年)、国替えにより明石に入った高山右近は、明石海峡の戦略的な位置にあり大阪城を守るかなめとして船上城を整備しました。 同時に、キリシタン大名だった右近は、明石でも熱心に布教を行いましたが、二年後のキリスト教禁止令により領地を没収され、ついには国外追放となったのです。 その後、元和三年(一六一七年)に小笠原忠真(初名忠政)が船上城に入りましたが、忠真は明石城を築き、船上城は廃城となりました。しかし明石城やその城下町には、船上から移されて利用されているものが数多くあり、現在、市指定文化財になっている織田家長屋門は、当時の侍屋敷の門だと言われています。 明石市 明石観光協会

明石市指定文化財(昭和45年度)

 

織田家長屋門(現地説明板より)

一、この附近は、明石藩築城の当時から歴代家老、重臣が住んでいた屋敷跡である 一、門は、船上城から移築されたものという 一、建築は、江戸時代初期のもの門の止め金は、室町後期の様式をつたえている 明石市教育委員会