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圓同寺境内にある中山玄蕃供養塔(12年11月) 山形市から国道112号線を寒河江に向う途中、中山町長崎が城址。圓同寺、頼圓寺、正法寺境内から国道にかけてが本丸、二の丸跡で、国道よりに本丸に植えた銀杏の大木が残る。訪ねた時は、圓同寺前の銀杏が黄色い絨毯を敷き詰めたように見事で、思わずこの木を本丸の銀杏と勘違い。本丸の銀杏はまだ青いままで少しなりかけ。本堂前の小川が堀の名残りに見えたが確証はない。境内には中山玄蕃の供養塔があり、城址の雰囲気は十分。天正12年の戦では、寒河江の大江氏側として最上義光と戦ったが負けて服したが、元和8年の最上家改易で廃城となっている。しかし、背後に最上川を背負った戦いでは、勝ち目がなかったろう。国道112号線は六十里越街道と言われ、山形から寒河江を通り、月山を抜けて、鶴岡に出る重要な街道である。当時の街道は城下を通っていたと想像できる。大銀杏は、三代「宗朝」が西方の谷木沢山に山城を築き、そこから本丸館の位置を確認するために植えたものと伝わる。だが植えた当時から大木なら目印になるが、実際は火災時の火除けと実を食料にするために植えたものだろう。 中山玄蕃頭「朝政」の碑 (現地説明板より)長崎館八代城主中山玄蕃頭「朝政」は、天正十一年(1583)九月二十九日、六十八才で卒去した。中山氏の菩提寺円同寺は、文安元年(1444)に開山、長崎館二ノ丸内(西北)に在ったが、宝永元年(1704)、現在地に移転した。碑には、文政十三年(1830)の建立とあるが、初めの埋葬か所は西方「玄蕃壇」=町文化財指定遺跡=がその場所に当る。寺院には他に、朝政の嫡子「光直」(九代城主朝正)が、天正年間に最上義光の重臣氏家尾張守にあてた「年始状」=町指定文化財=や種子を刻んだ「石塔婆」=中世資料=などが現存されている。 所在地…中山町大字長崎四二○ 管理者…太虚山「円同寺」54/3 中山町
長崎館と大銀杏 (現地説明板より)寒河江市に下向した大江親弘(源頼朝の重臣大江広元の嫡子)の部将中山忠義を始祖とする「中山継信」(八千石)は、最上川南岸沼尻郷(現中山町)の開拓に当り、至徳元年(1384)長崎に舘を築いた。 三代宗朝の時代(文安二年(1445))には外堀をめぐらし、輪郭式平城(本丸=東西六十間・南北四十五間、二ノ丸=東西二百五十間・南北百五十間、三ノ丸=東西三百間・南北二百間)を完成し、領地開発と統治に当ったが、元和八年(1622)山形最上氏改易と共に廃止された。大銀杏は、中山氏居館の本丸内、舘の庭前にあったものと伝えられ希にみる大木である。 54年3月 中山町
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