富松城
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土塁と保存看板(10年1月)

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阪急神戸線「武庫之荘駅」北東へ600m、「富松城跡前」交差点の北東隅に土塁が残る。「中世の富松城跡を守ろう!!」の大きな看板がある。土塁沿いに堀跡らしきものが少し残るが、変形がいちじるしい。土塁内側が本丸なのだろうか、旧家が鎮座する。以前、土塁上にあった祠も、旧家の敷地に移っている。一部は駐車場になり、残すとしてもこの土塁しかない。交差点の一画であり、附近は急速に宅地化が進行しており、大型店舗も進出している。このままでは、消滅するのが目に見えている。市で買い上げて公園にするかしかないのでは。町中に中世の土塁が残っているのは珍しいのではないだろうか。

富松城跡(現地説明板より)

富松城は戦国時代の城館で、長享2年(1488)の史料にその名がみえます。永正4年(1507)から始まった室町幕府管領の細川氏の分裂抗争を発端とする戦乱が尼崎地域に及ぶと、西摂地域の重要拠点であった尼崎城伊丹城越水城(現西宮市)のほぼ中間地点に位置し戦略上の要地である富松城は、その戦乱の主要な舞台のひとつとなります。目の前に残る小山と溝は、城の西側の守りとして築かれた土塁と堀の一部と考えられます。これまでの発掘調査では、土塁の内側(東側)に当る場所で大規模な堀が見つかっていることから、富松城は土塁と二重の堀を備え、東西150m以上、南北200m以上の規模の城館であったと推定されます。今も残る小高い土塁は、戦国時代の争乱を今に伝える大切な歴史的遺産です。  平成17年2月  尼崎市教育委員会