伊丹城
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ダイヤモンドシテイから城址遠景(04年2月)     荒村寺門(04年2月)

 

転用石が混じる石垣(04年2月)            土塁(04年2月)

その他の写真

JR伊丹駅前に城址が広がる。伊丹駅そのものも、城址の一部である。駅前の道を渡り、城址公園には発掘整備された石垣や土塁を見ることが出来る。公園の中には建物の礎石も保存されており、わずかではあるが、規模を想像できる。だが、荒木村重が信長に頑強に抵抗した城の面影を見るには、あまりにも周りが開け過ぎた感じがする。黒田官兵衛が閉じ込められた土牢はどの辺だったろうかと想像するが、浮かばない。落城した時の悲惨さも感じられない。伊丹駅の南側にある荒村寺と忠魂碑が建つ丘に私は魅かれた。阪急伊丹駅までが城域で、南北は猪名野神社から社若寺と、かなり大きな城であった。城址公園の東側を流れる駄六川を挟んでダイヤモンドシテイが建つ。古い伊丹城は滅んだが、現代の城郭はますます繁栄していくことだろうか。

 

国指定史跡  有 岡 城 跡(現地説明石碑より)

昭和五十四年十二月二十八日 指定

 伊丹氏がこの場所に城を築いたのは、鎌倉時代末期頃のことである。はじめは居館として建てられたが、戦国時代を経て次第に堅固な構えになっていった。  伊丹氏の城は、天正二年(一五七四)織田信長方の武将荒木村重の攻撃によって落城した。その後村重は信長の命により有岡城と改名し、壮大な城を築いた。  有岡城は伊丹段丘の高低差を利用し、南北一・六キロメートル・東西八○○メートルに及ぶ惣構えが築かれ、要所には岸の砦・上臈塚砦・鵯塚砦が配置された。  謀反を起こした村重は、天正六年、信長勢の攻撃を受け、十ヶ月間の攻防の末、強固な城も遂に落城した。  天正八年池田之助が城主となるが、同十一年美濃の国に転封を命ぜられ、廃城となった。  明治二十六年、鉄道の開通によって、城跡の東側が削り取られたが、土塁や堀など今もよくその姿をとどめている。  昭和五十年より発掘調査が実施され、土塁・石垣・堀・建物・池等の遺構を検出し、中世城郭から近世城郭への移行期の様相が明らかになった。

平成四年ニ月  伊丹市教育委員会

 

懐古園 碑文の概要(意訳)(現地説明板より)

 この地は、もともと荒木村重の城郭があった跡であるが、次第にさびれて、武内氏の所有するところとなった。氏は城跡が滅していくのを嘆き、修復して永く後世に伝えようと欲したが果さずに亡くなった。未亡人の奈如女は、その遺志を継ぎ、時機が来るのを待った。この丘陵は大変風光明媚で葛城・金剛・六甲・池田の山々に囲まれ、足もとを猪名川が流れている。村重から三百三十年にあたり、未亡人は先人の志を生かそうと決意してこの碑を立て、祭りをした。未亡人の貞節と子息利右衛門の孝順を称え、荒木氏の霊を以て冥すべきである。

明治三十四年九月二十四日  七十五翁  北山撰ならびに書

 

懐古園石碑碑文(風化が激しく、判読困難文字が多い)

伊丹元荒木村重之城郭而以址丘陵■■城其遺跡■■■■■■

終為竹内利兵衛氏有氏■■英雄経兄之地■■■■地形適将■■

修築傳之不朽惜■■■■未亡人奈如女深■■志待措■■■丘陵

風光明媚葛城金剛及六甲呉山圍繞遠近平■■■■■■之以■■

以村重明年三百卅年祭未亡人決意経元人之志以本月起ニ稙以

時花寺詩文余嗚乎未亡人貞節男利右衛門之孝順利和経■■■

荒木氏之霊可以

明治卅四紀九月ニ十四日  七十五翁  北山撰(■は判読不明文字)