越水城
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大社小学校前の石碑(10年1月)

その他の写真

阪急電車神戸線「夙川駅」から東北へ約1km。西宮市桜谷町、城山、満池谷町、清水町が城址。旧西国街道に面している桜谷町が本丸で、石碑のある大社小学校は二の丸跡。ニテコ池がある谷地は外堀跡と推定できる。阪急電車の線路南側にも城ケ堀町があるので、この辺まで外堀だったのだろうか。旧街道が桜谷町で大きくカーブしているが、城の大手がこの辺りに存在していたのだろう。小高い丘の麓を街道が通じ、高台だった地形が読み取れる。四国から淡路を通り、京都へ連絡する重要な中間地点だった。現在ほとんどが住宅地に化し、当時の遺跡らしいものは何もない。松永久秀の生涯を書いた津本陽著「乱世、夢幻の如し」に越水城の概要が載っている。附近を散策しても昔日の血なまぐさい戦いの跡はどこにも無く、大きな住宅が立ち並んでいる。

越水城について(現地説明板より)

目の前の小高い丘は観応2年(1351)足利尊氏と弟直義が戦った小清水の陣所跡で、瓦林正頼は永正13年(1516)ここに越水城を築城しました。いまの町名では城山・桜谷・満池谷・清水の4町にまたがり、その広さは南北約200m・東西約100mで小清水城あるいは越水城といわれていました。ここは西国街道の要衝で、城にかかせぬ水にも恵まれた築城の適地でした。  この城は、一説には天守閣もあり外堀を備え、人びとを住まわせた西宮には、城下町のようなふんに気があり、「おおよそ目を驚かす風情」で、摂津では他に例がなかったようです。  応仁の乱に始まる戦国時代初期、城主正頼は細川氏の内紛に高国方につき、四国より京にのぼる澄元を迎えうって敗れ、その上澄元に内通したとして切腹、死後澄元の家臣三好氏が入城しました。天文2年(1533)には瓦林と一向一揆が三好を攻めて城をうばい返し、瓦林の一族が城を守りますが、さらに攻防を繰り返されて、ついに畿内の覇者三好長慶の居城となり、彼は家臣松永久秀を京に止めて越水城で指揮をとりました。  永禄9年(1566)時の城主四国阿波の篠原長房は、瓦林三河守に攻められ、一旦開城しますが4日後に復活、9月には足利義親(のちの足利幕府14代將軍義栄)が入城しましたが、11年に織田信長の入洛により、越水城の戦略的価値が消えました。  それから330年を経た明治29年(1896)12月、この城跡に大社尋常小学校の新校舎が建ち、中村地区から移転した3学級210名の児童が勉強を始めました。深い緑の木立につつまれた新しい学校は、大阪湾をへだてて摂津・河内・和泉や紀伊の山やまを望む素晴らしい環境に恵まれた学校でした。  しかし、時代と共に発展する大社村(昭和8年4月西宮市に合併)の小学校としては狭くなり、大正7年(1918)11月現在地に移りました。最早越水城は遠い思い出ですが、戦国の世以来こんこんと清水が湧き、城や地名のもととなった3ヶ所の泉こそ越水城を語りつぐ証人として大切に保護したいものです。

「越水城跡」石碑について

この「越水城跡」石碑は、大正9年に旧学校跡地(ここから北東約100m)に自宅を構えられた中弥兵衛氏が自宅正門横(旧西国街道沿)に建立され、地域の人々に親しまれていたもので、この度、孫寅蔵氏(西田町在住、昭和2年大社小学校卒業)からのご寄贈でこの場所へ移したものです。  この石碑を移転建立するに当って元西宮市立図書館長(昭和9年大社小学校卒業)南野武衛氏に「越水城について」の一文を寄せていただきました。  平成5年3月  西宮市教育委員会