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研究報告
天野恵:騎士道と火器(9)[3/4]
戦争がプッリアで始まったのはざっとこんな事情による。もっとも、これは単なるきっかけであって戦争の【原因】ではない。本当の原因は要するに「両雄ナントヤラ」というところにあったわけで、フランスとスペインが仲違いするのはいわば時間の問題だった。このあたりはマキアヴェリが『君主論』のはじめの方で実にうまく説明している。やはり彼は軍人ではなく政治家だったんだなァとつくづく思わされる。彼が言うには、領土欲というのは誰もが持っているごく自然な欲求であって、だから自分の力でそれを満たすことができる場合には満たすのがよろしい。しかし、分不相応なものを欲しがって無理をしてはならない。独りで手に入れるだけの力が無いからといって仲間を作るのは危険だ、というのである。ミラノを手に入れたルイ12世は、これでせっかくイタリアで一番の強者になったというのに、ナポリを欲しがる余り、愚かにも、その気になれば彼を追い出すことができるほど強力なライバルを自ら呼び込んでしまった。
ともあれ、上のような事情で始まった対立はじきに武力紛争へと発展した。フランス軍の総司令官はヌムール公ルイ・ダルマニャック。これに対抗するべく送り込まれたのが《グラン・カピターノ》ことゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ(伊:コンサルヴォ)であったのは前回お話ししたとおりである。
コンサルヴォはまずスペイン軍の本隊をバルレッタに置いた上で、マンフレドーニア、アンドリア、カノーザ、ターラントといった主要都市に守備隊を配置した。これに対してフランス軍はすぐさまカノーザを攻略すると、さらにここから敵の本拠地バルレッタにまで突進するほどの勢いを見せ、もってスペイン軍を野戦に誘い出そうとした。コンサルヴォはしかしバルレッタに篭城したままこれに応じようとはしなった。やむなく合戦を諦めたフランス軍は、一旦カノーザへと引き上げ始めた。そして退却する本隊から後衛軍が少し距離をとり過ぎるかに見えた、まさにその瞬間、突如バルレッタから討って出たスペイン軍がこれに襲い掛かったのである。このあたり、名将コンサルヴォの名は伊達ではなかった。ただし、実際に討って出たのはコンサルヴォ自身ではなく、ディエゴ・デ・メンドーサ率いるスペイン人とプロスペロ・コロンナ指揮下のイタリア人からなる混成部隊である。
ともあれ、この戦術の巧みさゆえにフランス軍の後衛からは捕虜になる貴族が続出した。軍隊というのは一般に行軍中を襲われると脆い。で、捕虜になった騎士たちの中にシャルル・ド・ラ・モットという男がいた。この男も他の捕虜たちと共にバルレッタに連れて行かれたのであるが、城内でのさる宴会の席上、彼はスペイン軍の武勇を敵ながらあっぱれと褒め称える一方で、イタリア人の不甲斐なさに対しては嘲りの言葉を放ったのである。
実際には先に述べたように、彼らを破って捕虜にしたのはスペイン人とイタリア人からなる混成部隊だったし、その場にはもちろんイタリア人もいた。そこで、これを聞き捨てならぬとして行なわれることになったのが、騎士道史にその名を残す《バルレッタの果たし合い》Disfida di Barlettaである。
エットレ・フィエラモスカをはじめとする13人のイタリア人騎士が選ばれ、件のド・ラ・モットを主将とする13人のフランス騎士と公式に対戦することになった。1503年2月13日、この日のため一時的に休戦したスペイン・フランス両軍の将兵は、バルレッタとアンドリアの間にしつらえられた決闘場の周囲に集結した。自信満々のフランス騎士は自分たちの勝利を確信しており、負けて捕虜になったときに身代金に充てるよう預託しておく金も用意することなく試合に臨んだ。ところが、結果は彼らの惨敗であった。フランス騎士のうち一人は殺され、残りの12人もすべて落馬ないし囲いの外に追いやられたり降参したりしたが、フランス側がこうして全滅した段階でもイタリア側はまだ11名が馬に乗ったままピンピンしていた。あらかじめ身代金を預託しておかなかったフランス騎士たちは、そのまま捕虜として身柄を拘束されることになった。