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研究報告
天野恵:騎士道と火器(9)[1/4]
実を言うと小生は南イタリアとはあんまりご縁がない。仕事...と言うか専門にしている研究の面でもまた個人的な面でも関係が深いのはもっぱら北イタリアだし、若い頃に留学していたのがピサだったことからトスカーナやウンブリアあたりまではなじみがあるのだけれど、ローマから南となるともうほとんど外国(?)みたいな感じがする。今回のお話の舞台であるプッリア地方にもほとんど日帰り同然の短期旅行を二度ほどしたことがあるだけなので、イタロマニアの読者の中には小生よりもずっとこの辺りに詳しい方がおられるだろうと思う。
小生が最初にプッリアへ行ったのは、まだこういう道に入るよりも前、理系の学部で学生をやっていた頃、たぶんこれが最初で最後だろうと思いながら生まれて初めてイタリアへ行ったときのことだった。当時、日本でもレコードの出ていたニコラ・ディ・バリというカンツォーネ歌手の家を訪ねていったのである。そう、あの頃はイタリアン・ポップスとは言わず、カンツォーネと言っていたのだ。このニコラ・ディ・バリというのはサン・レモ音楽祭で優勝もしていた人気歌手だったから、小生の世代の方々の中にはご記憶の方もおられよう。雰囲気としては森進一と布施明を足して2で割って、それをイタリア人にしたみたいな感じの男だった。ザッポネータという名の辺鄙な海辺の村の出身で、この村の名前をタイトルにした曲を自分で作って歌っていた。で、小生はローマからはるばるその村を見に行ったのである。すると彼の家はごく慎ましい庶民的な長屋の一軒だった。家人と思しき若い女性が出てきたので、まさかと思いながら彼のことを尋ねると、「さっきまでは家にいたけど今は浜へ出かけちゃったわ」と無愛想な顔で言うではないか。
(アドリア海を背に聳えるトラーニ大聖堂)
浜と言ったってすぐ近くだから探しに行こうかとも思ったが、いっしょに旅行していたもう一人の日本人が非常に育ちの良い上品な趣味の持ち主で、こんなド田舎にまで連れてこられて小生のミーハーぶりに付き合うのもいい加減ウンザリ...って様子を露骨に示したので諦めた。それに、当時の小生はイタリア語もホンの片言しか話せなかったから、大スターに話しかけるのに何か気後れしてしまったのである。今から思えば残念なことをしたものだし、何よりもそういう引っ込み思案な生き方に対して後悔の念しきりである。
二度目には、今から十年ばかり前にやはり2泊3日の駆け足旅行をした。このときはプッリア地方独特のロマネスクの教会を見るためで、これまた騎士道とも鉄砲ともまったく関係はない。ロマネスクというのは近代になってからゴシック以前のスタイルの総称として使われるようになった命名だから、一口に“ロマネスク”と呼ばれているからと言って必ずしも統一があるわけではなく、ヨーロッパの内部でもその実態は地域ごとに異なっていて、ものすごく多様である。だから、一旦ハマッてしまうとヨーロッパ中をあっちこっち走り回る羽目になる。時間とお金と気力があればこんな楽しいことはないので、それらをみんな持ち合わせていたシカゴの銀行家の御曹司のアーサー・キングスレー・ポーターという男は、20世紀もまだ初頭というのにすでに自動車を使いまくって、とんでもない僻地まで隈なく歩き回り、偉大な研究を成し遂げた。が、この三つをどれもろくに持っていない小生は、ときどきチョコチョコッと駆け足旅行をしては気分だけ味わうのである。
で、奇妙なことにプッリア地方にはフランス南西部のペリゴールという地方とだけ共通項を持つたいへん美しい独特のロマネスクが残っている。これがもし「プッリアだけ」というのならばまだ話は分かるのだけれど、地理的にも文化的にもえらく離れたペリゴールとだけ共通するのが不思議なところで、あるいは専門家の間ではもう解決済みの問題なのかもしれないけれど、小生なんかが読むレベルの本ではまだ納得のいく説明がされていない。しかも、面白いことにプッリア地方のロマネスクには、もうひとつこれとはまったく別の様式の教会群も混在していて、こちらは北フランス、特にノルマンディーとの繋がりが指摘されている。そして、これらの古い教会がどれもみな完璧なメンテナンスを施されてピッカピカに磨き上げられ、しかも余計なものを一切付け加えられることなくオリジナルの状態を保ったまま(…かどうか、実を言うと専門家でない小生には断言できないが、いかにもそういう風に見えた…)聳え立っているのである。実に印象的であった。住民や警察官がみな親切で礼儀正しかったのも忘れられない。