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研究報告
天野恵:騎士道と火器(8)[1/4]
先日のこと、邦題『ジョヴァンニ』というイタリア映画を観てきた。『木靴の樹』で日本でも有名になったエルマンノ・オルミ監督の作品で、もとのタイトルはIl mestiere delle armi。「軍人稼業」といったところである。軍事のことをこういう風に呼ぶモノの言い方は、戦争が高貴な活動であった中世も騎士道華やかなりし頃にはもちろんなかった。やはり傭兵戦争が一般化したルネサンス期ならではのものである。ただし、ちょうどレオナルド・ダ・ヴィンチが自分のことを「無学者」omo sanza letteraと呼んだように、自嘲的あるいは侮蔑的な響きがあるのは表面だけという場合もあるわけで、必ずしも真意がその言葉通りとは限らない。映画の中では主人公であるジョヴァンニ・ダッレ・バンデ・ネーレが自分のことに関してこういう表現を口にしていたから、やはりこれはどちらかというと戦争のプロとしての自負を込めた、しかしながら、それと同時に少々斜に構えた言い回しと解するべきだろう。
が、それはいいとして、オルミ監督がこの映画で一体何を表現しようとしたのかは小生にはまったく分からなかった。このジョヴァンニ・ダッレ・バンデ・ネーレというのは存命中から騎士道の鑑とされていた男で、しかも大砲にやられて戦死しており、それがまた当時から大いに話題になったことから、いずれこの連載にも登場することになっている。だから小生としてはこの映画を観ないわけにはいかなかったし、実はかなり楽しみにしてもいた。
ところが、残念なことにこれはメチャメチャ退屈な映画であった。観る価値はまったくないと言って差し支えない。ストーリーの進行が呆れるほどノロいうえに、思わせぶりな沈黙が続くばかりで事件に関しても人物についても、とにかく掘り下げて真実を描こうという追求がまるでなされていないから、作品にまったく深みがない。数多く登場する歴史上の人物は紋切り型そのもの、いや、紋切り型以前のほとんど子供だましのレベルで、日本の時代劇にたとえるならばせいぜいTVドラマの『暴れん○将軍』とか『水戸○門』程度である。あの手の時代劇をただひたすらネクラにして、しかもテンポを落とせるだけ落としてやっているわけだから、付き合わされる側はたまったものではない。モ〜退屈の極みである。
そもそも日本のお茶の間向け時代劇ははじめからああいうジャンルの作品として作られており、観る側もそれをちゃんと了解して楽しんでいるのだから娯楽作品として立派に存在の意義がある。あれを観て「あの番組は水戸光圀公の真の姿を歪めているから怪しからん!」などと言い出す奴がいたとしたら、そいつはバカである。ところが『ジョヴァンニ』の方は、娯楽映画ではなくシリアスな作品であるかのように装っているから、デキが悪いだけでなくタチが悪い。要するに観客をナメて騙そうとしているのである。こうなると退屈を通り越して腹が立ってくる。
相手役の女優も○スだった。一体なんでまたあんな女優を使ったのだろう。年齢にしてからがジョヴァンニ役の男優の母親くらいイッてそうである。しかも、役柄がまたひたすら暗くてメソメソしているだけの、いてもいなくてもどーでもイイような役まわりだから、女優は女優で気の毒だった。それに対して、ひとりだけ小生好みの俗悪で下品で美人のイイ女が掃き溜めの鶴よろしく目立っていた。フェデリーコ・ゴンザーガの愛人である。もちろん、これも映画での描き方はなってなかった。と言うか、ホンのチョイ役で、誰なのかが分かるようにさえなっていなかったから、帰ってからインターネットで見たイタリアの映画紹介サイトではフェデリーコ・ゴンザーガ相手の〈コルティジャーナ〉、つまり高級娼婦だと書いてあった。とんでもない。あれはコルティジャーナなんぞではなく、フェデリーコのちゃんとした妾で、イサベラ・ボスケッティという貴族である。この人物も、映画のようなあんな扱いをするくらいなら一体なぜ彼女を登場させたのかさえまったく分からない。実に中途半端と言うか、あの映画は何もかもがこの調子で、ホント、何を考えてこしらえたのかが全然ワカラン代物である。