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研究報告
天野恵:騎士道と火器(4) [2/4]
さて、前置きはこれくらいにして前回の続きを書くべきところなのだけれど、実はかなりの時間が経過してしまったせいか、どうも気分がのらなくなってしまった。本当はもう完全にやる気が失せてしまっていたのだけれど、最近になってこの頁を見たという社会人の聴講生の方から、なかなか面白かったというお褒めの言葉を頂いたものだから、気をよくしてまた続きを書こうという気分になった、というのが真相である。
前回の終わりに予定していたのは、まずナンシーの戦いに至るまでの15世紀のブルゴーニュ公国の軍隊がどんなものだったのか、といった話をして、その後でスイス歩兵との戦いがどのように展開したのかを書くという展開だった。しかし、それをやっているとさらに脱線がひどくなって時間を無駄にする、というか、もっと正直に言えば、そうこうするうちにまたやる気をなくして途中でどうかなってしまいそうな気がする。
まァ、前回にかなりくわしくスイス歩兵の戦法を説明したので、シャルル突進公率いるブルゴーニュの騎士団がどのようにして殲滅されたのかは大体ご想像いただけるのではないかと思う。さる軍事史家は、三隊のスイス歩兵の密集隊形によって包囲されたブルゴーニュの騎士団が、あたかも巨大な万力にかけられたかように、抗う術もなくそのままメリメリと押し潰されていった様子を、まるで見てきたように描写していた。たぶん本当にそういう感じだったのだろうと思う。ともかく、これが三百年間続いた「騎士の時代」の終焉であった。これからしばらくは、今度はピックを武器とするスイス歩兵の黄金時代が続くことになる。ただし、これがそう長くは続かないことを、察しのよい読者の方はもう既に予想しておられることと思う。
ただ、ここで誤解を避けるためにひとことだけ付け加えておくと、シャルル突進公の騎士団は、決して昔ながらの伝統的な戦法にばかりこだわっている時代遅れの軍隊ではなかった。ブルゴーニュ宮廷というのは、確かにデュファイやらジル・バンショワやらの典雅な楽の音を響かせながらの「雉の誓い」やら何やら、それこそ凝りに凝った騎士道的儀礼が幅をきかせていた所らしいけれども、こういうものに夢中になっていたのは別にブルゴーニュの貴族だけではないし、ホイジンガも言っているように15世紀のヨーロッパはおしなべてそういう傾向を強く持っていた。美術史上の国際ゴシックなどというのもその表れのひとつである。
そして、ここではこちらの方がむしろ重要な点であるが、ブルゴーニュは、騎士道にこだわる一方、新兵器、すなわち火器の導入にもおおいに積極的であった。実際、ナンシーの戦いで瓦解する直前のブルゴーニュ公国は、と言うと要するにシャルル突進公は、という意味であるが、ヨーロッパ最強の騎士団のみならず、当時としては最大の砲兵隊によっても知られていたのである。もちろん、この時代の大砲が城壁破壊用の兵器であって野戦ではあまり役に立たなかったことは前に見たとおりなのだけれど、実はシャルル突進公という人は大砲のみならず鉄砲の導入にもおおいに熱心だった。が、ここでこれ以上こんな話をしているとまたまた脱線していくのが目に見えているので、この辺は端折らせていただく。それにしても、シャルル突進公だのジャン無怖公だのフィリップ豪胆公だのと、ブルゴーニュというのは殿様のあだ名からしていかにも騎士道の国ではあった。
ともあれ、15世紀の最後の四半世紀においては、ブルゴーニュに代表されるような騎士の軍隊にかわって、スイス歩兵が向かうところ敵なしの強さを発揮することになる。中世の歩兵部隊というのは、たとえ騎士団に勝った場合でも(それがいかに稀なことであったかは既に強調しておいたが)、あくまでも防御的性格の強いものであった。つまり、相手の攻撃を待ちうけた上で、これを粉砕するという戦法を例外なくとったものだったのである。具体的にはどうやったのかと言うと、例えば馬が疾駆できないような地形上のアドヴァンテージを利用したり、あるいは人工的な障害物と速射性能に優れた長弓を組み合わせてこれを有効に迎え撃ったり、といった具合である。ところが、スイス歩兵の編み出した密集隊形による戦法はこれらとはまったく異なり、はっきりと攻撃的なものであった。つまり、その戦闘能力は、自分たちの方から騎士団に対して積極的に攻撃を仕掛けていく段階にまで達していたのである。だから、いかなる勢力も、もはやこの種の歩兵部隊なしで野戦に勝つことは覚束なかった。
ナンシーの戦いでシャルル突進公が戦死すると、フランスとドイツは彼のテリトリーを奪い合って早速一戦交えることになったが、この戦争においてもまたまた密集隊形を組んだ歩兵の優位が立証される。フランドル諸都市の歩兵部隊を味方にすることのできたマクシミリアン1世は、これをスイス式にピックで武装させ、圧倒的に優勢だったフランスの騎士団を破ってみせたのである。このとき、彼は自らも下馬してピックを手に歩兵として戦ったという。後に皇帝になるハプスブルクの王子様がわざわざ馬を下りてしまい、しかも勝ったというのだから、これは相当に時代の変化を感じさせる事件ではある。戦術的な意味もさることながら、当時の人々に与えた心理的な効果も大きかったのではなかろうか。
ちなみに、心理的な話をするならば、フランドル市民軍の歩兵部隊というのは、実は輝かしい伝統を誇るちょっと特別な存在であった。だからこそ、こうして短期間にスイス式の戦法をものにすることもできたものと思われる。ちなみに、この時に彼らの訓練・指揮にあたったのは、かつて突進公の側近の一人であった人物らしい。が、それはともあれ、フランドル諸都市の市民軍というのは、未だ騎士が全盛を誇っていた二百年近く前の14世紀初頭、当時まさに無敵と考えられていたフランス騎士団をクルトレーで潰滅させたことがあったのである。スイス人たちがモルガルテンでハプスブルクの騎士団を破るよりも少し前のことである。