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研究報告
天野恵:騎士道と火器(1) [3/5]
では、信長が南蛮人から学ぶことができたであろう、いわば既製の鉄砲隊戦術とはどのようなものだったのだろうか。
ヨーロッパで火器が戦争に用いられるようになったのは、今われわれが問題にしている時代よりもはるかに昔のことである。しかし、まずはじめに普及したのは鉄砲ではなく大砲だった。日本ではむしろその逆だったわけだが、それは種子島に流れ着いたのが大砲ではなく、鉄砲だったことによる。
これは文明の波動の発信地ではなく到着地であったわが国ではよくあることだけれど、地球上のどこかで正常進化を遂げて既に一定の発展段階に到達したブツがいきなり伝播してくるために起きる現象である。
もっとも、鉄砲も大砲も初期の段階では大きな違いはなかった。単純に大きさが違っていただけである。現在でこそ、鉄砲と言えばだいたい口径20ミリ未満の対人用小火器を指し、大砲となると砲弾の中にも炸薬が入っていて着弾の衝撃その他によってそれが爆発する仕組みになっているものをイメージするのが普通であろうが、大砲がこの種の爆裂弾を発射できるようになったのはずっと後のことである。
15?16世紀の砲弾は単純な石や金属の球が普通だった。なぜ球かと言うと、ライフルの施されていない、いわゆる滑腔砲の場合、球形の砲弾でないと弾道が安定しなかったからである。
さて、こうした大砲の用途であるが、それはまずもって敵の城壁を破壊するための攻城用兵器としてのものであった。要するに遠方から使うことのできる破城槌であって、兵員を直接殺傷することを目的とするものではない。
もちろん、野戦において敵の隊列に向けて発射すれば対人兵器にもなり得た。この場合、ほとんど水平に近い浅い仰角で砲撃を行ない、地面すれすれに飛び出していった丸い砲弾が何度もバウンドしながら敵をなぎ倒していくことを狙うわけである。
実際、この手の砲弾には弾速が落ちて肉眼で砲弾を確認できるようになってからでも十分に人馬を殺傷する力があったから、歩兵の密集隊形などをまともに貫通すれば、一発の砲弾で相当なダメージを与えることも期待できたのだけれど、現実にはなかなかそうは問屋が卸さなかった。
と言うのも、当時は砲弾の速度が低かったからである。最近、平凡社から邦訳の出たバート・S・ホール『火器の誕生とヨーロッパの戦争』という本によると、昔の銃砲弾は、初速は意外や相当に高かったらしい。ところが球形をしていたために後方でものすごい乱流が起きてしまい、これが巨大な抵抗となっていくらも飛ばないうちにどんどん速度が鈍ってしまったのである。そこで、ある程度の射程を確保しようとすれば、いくら水平方向への射撃とは言ってもどうしても仰角をつけざるを得ない。大げさに言うと曲射砲のような撃ち方になってしまう。
すると、地表から人間の身長に相当する高さまでを砲弾が通過するのは、発射直後のしばらくの間と、今度は落下してきてから後のしばらくの間ということになり、その中間地帯では敵の隊列のはるか頭上を通り過ぎてしまう。
地面への突入角度が深すぎれば砲弾はうまくバウンドしてくれずに落下地点にめり込んでしまっただろうし、地形に凹凸があってもうまく行かなかったはずである。湿りやすく性能の安定しない火薬にスピンのつかない丸い砲弾の組み合わせという当時の悪条件のもとにあって、こうした問題をクリアするべく正確な射撃を行なうのは極めてむずかしい、と言うよりもほとんど不可能なことだった。
しかも、これに加えて当時は砲車も未発達で、大砲を自由に移動させるのがまた困難だった。だいたい移動のためには牛馬に砲車を牽かせるのだけれど、その場合には砲口は後ろ向きになっている。だから、所定の位置に移動させても、それから発射にこぎつけるには方向を180度転換させなければならない。
そのうえ更に発射速度がまた低いときているから、一発撃ってしまうと、次の発射までにはえらく時間がかかる。なにしろ、大型の大砲になると、次の装填以前にまずは砲身の冷えるのを待たなくてはならないという、おそろしく悠長なものだったのである。そうこうするうちに敵の騎士団や歩兵部隊の突撃をくらって大砲を分捕られてしまうのが関の山だった。大砲が当初はもっぱら城市を包囲攻撃する場合の城壁破壊に用いられたのは、こうした理由による。
ちなみに、では城を守る側も大砲で応戦したかと言うと、これが意外にままならぬ場合が多かった。攻め手の砲弾が城壁に届くということは、守備側の砲弾もまた攻撃軍の大砲のあるところまで届くことを意味する。しかも、こちらは移動の必要もなく最初から城壁に据え付けておけるから、ちょっと考えると守備側の大砲の方が有利だったように思われるかもしれない。
ところが、実際には必ずしもそうではなかったのである。と言うのも、15世紀以前の城壁は大砲の装備を考慮に入れて建設されてはいなかった。だから、そうした昔ながらの城壁に大砲を据えて発砲したりすると、反動で城壁が崩れてしまうのである。大砲が、攻城用兵器としてならば、比較的早い時期から大きな効果を挙げることができたゆえんである。