世界の窓

このページでは海外で現在活躍されているビジネスマンや暮らしておられる方の生の声を、掲載しております。
現在、海外で滞在されている方で、その国について、レポートして下さる方、広く募集いたします。

  fineview@hotmail.co.jp

◆ 海外特派員: Ica(イチャ)


1989年に岐阜高専の建築学科を御卒業後、東京の建設会社で設計を7年弱の間、
携わっておられました。 1996年、心機一転、インドネシア大学のインドネシア語講座に
通いはじめ、1997年、修了されたそうです。
1998年、大学で会った主人と御結婚され、現在に至っておられます。
「子供はなく、お手伝いもいない2人暮らし。イスラム教徒です。
インドネシア語を日本人に教えたり、翻訳したりしているほかは のんびりと家事をこなす毎日です。」
とおしゃっています。
現在、インドネシア・ジャカルタに滞在されています。
 

Homepage:Icaさんのジャカルタ生活を綴っておられるホームページは下記の新アドレスとな りました。
      http://alianisa.hp.infoseek.co.jp/
E-mail :ica@cbn.net.id



◆ Back Number ◆

インドネシアの人々の食事
インドネシア人の奥ゆかしさ
インドネシアの足拭きマット
東ティモールとは?
アチェ特別地域について
インドネシアのイスラム
アンボンのイスラム教徒迫害
子供の楽しみ
来る6月7日の総選挙について
東ティモール、アメリカの軍事基地になる??


(2001/07/29 インドネシア・ジャカルタからの便り)

◆「学校に行けない何百万の子供たち」

 

2001年4月11日(水)、Terbit紙より抄訳すると、 インドネシア政府は、2000年4月にセネガル共和国ダカル で行われた世界教育会議(World Education Forum)決定に 違反すると、インドネシア共和国教師協会(PGRI)世話役に より判断された。インドネシアは、学校にいけない子供たち について、これを早期に解決すると約束した9カ国のうちに 含まれていた。

インドネシア共和国教師協会世話役代表ムハンマド・スルヤ (バンドゥン・インドネシア教育大学教授・学士)によると、イン ドネシアはこの約束を守らないでいる。インドネシアは現在、 学校に行かない子供、あるいは学校を続けることができなく なった子供の総数が、世界において最大である。

現在、1億2500万の子供が貧困による理由で、学校に行く 権利を実行できないでいる。その他、何百万の学校へ行く子 供は、水準を満たす教師、教材の不足などで困難な状況にあ る。

学校に行かない子供、あるいは学校を続けることができなくな った子供の総数のうち2/3は女子である。発展途上国の成人 のうち1/3が文盲といわるが、インドネシアにも未だに多くの 文盲がいる。

インドネシア政府、政府団体とも、未だに教育問題に対し関心 が低い。このことは、教育に対する国家予算が常に低く、職業 としての教師が軽視されていることからも、見て取れる。これは 政府が義務教育9年間を実際に施行できない原因のひとつに なっている。

バングラデシュ、ブラジル、中国、エジプト、インドネシア、メキシ コ、インド、ナイジェリア、パキスタンの9カ国が世界教育会議に おいて、これらの教育問題を2015年までに解決すると約束し た。しかし、世界はこれらの発展途上国の問題解決に対する、 やる気と能力に首をかしげている。

また、2001年7月26日(木)のRepublika紙によると、 ジャカルタの全住民838万4853人のうち、 2万8364人が住居を持っていない。このうち 4千人は船員や漁師で、残りは肉体労働者、 平従業員、小商人など。

一方、貧困とみなされる世帯は2000年国税調 査によると8万5835世帯(28万4871人)で、 ジャカルタ全体の224万8388世帯において 3.82%をしめている。貧困世帯の条件は@ 世帯の成員一人あたりの住居面積が8uに満 たない、A住居の大部分の床が土間、B水とト イレの施設を持たない、C食事のおかずの種 類が少ない、D成員一人当たりにたいし年一度 一そろいの服を買うことが出来ない、という項目 のうち3つに該当することである。

貧困世帯の大部分は北ジャカルタで39.6% (3万3990家庭)、次が西ジャカルタ23.33% (20,029家庭)、追って東ジャカルタ14.73%、 中央ジャカルタ12.28%、南ジャカルタ10.28%。

1990年国勢調査では住民数は825万9266 人で、増加率はもっとも低いものとなっている。 1990〜2000年においては年間0.16%の増加 率、1980〜1990年においては年間2.46%の 増加率であった。


(2001/02/22 インドネシア・ジャカルタからの便り)

◆  【LAのオガー氏漂流物語】(2001年2月14日、Republika紙より)

* (  )内は、Icaさんの解説となっています。

 

駐車屋(道端などに駐車する車を誘導してお金をもらう仕事で、 誰かに雇われている時もあるが、自主的に自分の縄張りなどを 管理する者も多い)に飽きて、公共乗合車の運転手になった。し かし、腹立たしいことに、この車は持ち主によって、まもなくどこ かへ売られてしまう。それで、彼は南ジャカルタ、ISTN大通りと レンテン・アグン大通りの重なる三叉路に「漂着」したのであった。 この三叉路で毎朝交通整理をする彼のことを、人は「LAのオガ ー氏(オガーとはジャカルタ会話用語で「嫌だ」という意味。渋 滞などの最中、信号も少ない道路で右左折や方向転換を自主 的にあるいは勝手に手伝ってくれ、小銭を要求するにわか職人 のオガー氏という人物が登場するテレビ番組があった。小銭を くれなきゃ嫌だという意味での命名と思われる。このような自主 的職業の人は数限りなく存在する)」と呼ぶようになった。LAと は(ロサンジェルスではなく)レンテン・アグンのことである。

しかし、ミスター白人(LA「出身」だからであろう)とも呼ばれるこ のオガー氏はちょっと人と違う。彼は100ルピア玉(1.25円相当) をもらうために、彼が右左折あるいは方向転換させてやった車 の運転手に、手を差し伸べたことは一度もない。そればかりか、 氏は彼らに笑顔をふりまくのである。7年もの間これが続いてい るというのだから、ただ者ではない。この方法で、彼は妻と5人 の子供を養ってきた。そんなことができるのだろうか?

神は確かに、慈悲あまねく慈愛深き御方である。ミスター白人が この「社会的労働」をしている間、常に収入があるのだから。 思いやりのある運転手(職業としての運転手を指す)たち、そし て自家用車を運転する人々は、彼にお金をあげることが多い。 それは、100ルピア玉だけでない。他の交差点で(もちろん自主 的にあるいは勝手に)交通整理し、運転手に手を差し伸べる別 の「オガー氏」たちに比べたら、とても大きな額である。時として、 一度に500ルピア、1,000ルピア、まれに5,000ルピア札や10,000 ルピア札の時もある。

毎日、彼に慈善を施す「通りすがり」がいるのだから、普通事で はない。それも毎日、一人、二人ではないことが多い。たぶん、 彼らは氏の誠実さを知っているのだろう。そして、オガー氏が 家には6人の被保護者をかかえていることも、知っているのか もしれない。それで、氏はインファック、ザカート、サダカ(どれも イスラームの教えによる喜捨)の対象となっているようである。 「私は運転手たちがお金をくれることを期待していません。交 通状況が渋滞しないようにと、心からそう思って私はやってい るだけのことです。でも、くれる人がいたら、アルハムドゥリッラ ー(神に感謝)です。」先週、彼はこう語った。

こんなわけで「定収入」が彼のポケットに入ってくる。この収入から、 彼は家族を養い、子供達を学校に行かせている。「アルハムドゥ リッラー、私は一日に15,000から30,000ルピアぐらいもらっています」 と彼は言う。

この他に、彼の誠実さの成果として、ラマダーン月(断食月)にな ると、彼の顔を覚えている運転者たちから度々贈り物の包みをも らう。Tシャツやお金の包み(ザカート;喜捨など)、生地、衣類、 また米などの必需品が、彼に恩返しをしたい人々からの特別な 贈り物である。

この三叉路を毎日通っている人は、彼の「社会的労働」を見たこと があるだろう。茶色の肌をした中年男は、毎朝渋滞した道路の交 通整理に忙しい。彼の吹く笛のピーッピーッという音は止まること なく響き渡る。一方、彼の両手は「止まれ」・「進め」の号令を機敏 に送り続ける。

人は一見、彼を普通のオガー氏だと思う。ところが、この憶測は 見事に外れる。彼は通行する運転者達に手を振りながら笑顔を 振り撒いているほうが多いのである。そして、100ルピア玉をくれ と手を出すことはない。彼は身長167cm、本名をヌヌンという。19 94年から、この仕事をしている。多くの人に「オガー氏の手本」と 呼ぶばれるようになった。

この45歳くらいの髭の男がする仕事は、もちろん公式のもので はない。このような仕事は、地域を守るための「自主的な義務」 であると言える。「前はこの三叉路はすごかったんですよ。特に 朝は渋滞もいいところです。前は今ほど道路も広くなく、がたが たしていました」と彼は言う。「あの時、私はたまたま失業状態 でした。ですから、私はここの交通整理をする決心をしたのです」

レンテン・アグン町、クラパ・ティガ03/06組ブンガ路地の住民で ある彼は、土日を除くほとんど毎日朝6時から9時半まで「勤務」 している。出勤の1時間前に起き、すぐに入浴、スブーの礼拝 (早朝の礼拝)をした後、小学校1年生の末っ子が学校へ行く 準備を手伝う。暖かいコーヒーとナシ・ウドゥック(ココナツミル クで炊いたご飯)を味わってから、ジーパンTシャツ姿で出掛ける。 「民間交通警察」の仕事が終わると、彼は残りの多くの時間を自 宅で過ごすか、夕方まで釣りをしたりする。

ミスター白人の仕事が軽労働であると言うことはできない。例の 三叉路の交通の流れは大変に混雑しているからである。デポッ クやスレンセン・サワーの住民が出勤する時、この道を通るしか 他に選択はないからである。その他、数十の公共乗合車や市バ スが、更に渋滞をひどくしている。

天候の悪さにも彼は慣れ、交通整理をするにあたり何ら障害で はないという。「雨に降られるのにはもう慣れました。一度、親切 な運転者が、雨に降られている私に帽子をくれたことがあります」 と彼は言う。彼の交通整理中の多くの微笑みが、彼を有名にさせ、 人の関心をひいているようである。

いい思いも嫌な思いも経験したという。「いい思いといえば、お年 玉や贈り物をもらえる他に、運転者からありがとうと言われるのが 嬉しくて、心のささえになります」とのこと。

嫌な思いといえば、公共乗合車やバスの運転手達の横暴さに接 した時である。「彼らは好き気ままにどこにでも止まる。渋滞して いる交通状況などお構いなし。こちらが優しく呼びかけても、逆に ふんばる者がいるという具合。こういうのに接する時には忍耐が いります」彼は語る。

警察や地元の町役人は、彼のことを悪く思ってはいないようだ。ま るで両者の非公式許可を彼が所持しているかのようである。現に、 彼と交通警察が一緒になって交通整理をしている姿がよく見られる。

現在のところ彼は、他の仕事を掛け持とうとは考えていない。彼は この仕事に十分満足している。そして、「私はただの小学校卒です から」と彼は少し微笑みながら言う。

(中略)

貧乏な生活は変らないが、ミスター白人は彼の運命に感謝している。 親切な人がくれたインファックやサダカ(いずれも喜捨の種類)から、 わずかばかりの資金を集め、自宅に小さなよろず屋を開くことがで きた。しかし、彼の誠実さと「社会的労働」は勿論お金にはかえられ ない。(Yusuf Assiddiq筆、Ica訳)


 


(2000/05/10 インドネシア・ジャカルタからの便り)

◆  「ジャカルタの相乗り屋さん」

相乗り屋さんと聞いて、何を連想されますか? 実はここジャカルタには三つの相乗り屋さんがあるのですが、三つとはすなわち、バイク、自転車、傘のことです。二億人の人口を抱えるインドネシアの失業率 は大変高いと言われていますが、それでも人々はたくましく、その日一日、「食べる」ためにいろんな職を作ってしまうのです。相乗り屋もそんな職のひとつと 言えるでしょう。

相乗り屋のことをインドネシア語でオジェック(ojek)と言い、バイク、自転車のオジェックは公共の交通機関が走っていない路線をカバーする 形で機能しています。傘のオジェックは突然の雨降りに、ビルの軒下などで傘を持って待っていてくれる、多くは小さな子供たちのことです。

私がまだジャカルタに来たばかりの頃、道端でバスを降りたとたん、バイクのお兄ちゃんに次々と声をかけられる、その意味がしばらく分かりません でした。これは、若い女の子を冷やかして声をかけているわけではなく、オジェックが「乗らないか」と声をかけてくるのです。ですから、恐がることは全然な く、不要なら無視をするか、要らないと言えば良いのです。誰が決めたのか、一定の場所に数台や時には十数台のオジェックバイクが整然と並び、乗客を待ち構 えています。彼らの資本は何と言ってもバイクなのですが、時々、このバイクを盗もうとする悪人が、乗客を装ってオジェックに乗り、運転手は殺されるという 悲惨な事件が起こっています。それでも、街の隅々にオジェックははびこるように機能し、需要も多く、数が少なくなることはなさそうです。彼らには生活がか かっているので、簡単に止めるわけにはいかないのです。

バイクは大変高価な乗り物で、バイクオジェックには大きな資本がかかりますが、もっと少ない資本で直ぐに仕事が出来るのが、自転車オジェックで す。現にジャワの田舎から出てきた、何のあてもない人が手っ取り早く就ける職のひとつとなっています。自転車の荷台に乗客は乗ります。バイクオジェックと 同じで、行きたいところを告げ、交渉で料金が決まります。この自転車オジェック、荷台に座って何キロも走れば、乗客はさぞお尻が痛くなるだろうと思ってい たのですが、よく見ると荷台にはバイクのようなクッション内臓のレーザー(ビニール
シートが装備されているではありませんか。上手に改造してあります。なるほど、ちゃんと乗客のことが考えられているというわけでした。自転車オジェックは それほど数は多くありませんが、ジャカルタ郊外には多いといいますし、時々、ジャカルタの目抜き通りの歩道橋の下などで、列になって乗客を待つ姿が見受け られます。

実は私はこのバイクと自転車オジェックは乗らないことにしています。それは、主人に禁止されているからです。それは、やはり男性である相乗り屋 さんの背中にぴったりくっついて乗る姿が、女性にはあまりふさわしくないからなのです。

三番目のオジェックは、子供たちの傘オジェックです。貧しい子供たちが、家計を助けるためにしているようです。彼らはサンダルも履かず、裸足で す。利用の仕方は、傘を借りて目的の場所まで歩き、傘を返す時にいくらか払います。オジェックの子供はあとをついてきます。もちろん、雨に濡れてびしょび しょになっていま す。
しかし、これを可哀相と見るかどうか・・・というのは、利用してあげないと、彼らにとってせっかくの雨降りの仕事のチャンスを無駄にすることになるからで す。バイクや自転車と違って、値段交渉することはありません。それは小さな額なので、利用するほうも心付けというような気持ちであげるからなのです。ジャ カルタのビルと ビルの間を行き来するのに傘は不要です。雨振りになったら、どこからともなく傘を持って現れるこの子供たちに、どんどん傘を借りて下さい。それが、学校に も行けない彼らの家計を少しでも助けることになるのですから。
 



(2000/03/23 インドネシア・ジャカルタからの便り)

◆  「我が家のゴミの行方とゴミで生活する人」

日本でゴミの分別に慣れていると、こちらの家庭でのゴミの扱い方にはびっくりすることがあります。我が家では月に1万ルピア(約 150円)のゴミ代を払っています。これを払うことによって我が家のゴミ置き場から1日おきぐらいにゴミを回収してくれます。こういったジャカルタで出る 家庭のゴミはジャカルタ郊外にある最終ゴミ捨て場に焼却なしで捨てられ、ゴミから発生するガスで自然発火し、悪臭を近隣に撒き散らし、問題になっていま す。ほとんどが野菜屑、調理屑などを含む有機ゴミなんだそうです。

我が家のゴミは家のゴミ置き場に一番きれいに?捨てられています。他のお宅では、ゴミ袋を使用しないため、コンクリートやモルタル造りのゴミ置 き場の中に、いろいろなゴミをごちゃまぜで袋に入れず放り込んでいるようです。ところが、我が家のゴミ置き場に時々ビニール袋に入れて捨てたはずのゴミが 散乱していることがあります。

原因は二つ考えられます。一つはは野良猫のせい。もう一つはインドネシア語でプムルン(pemulung)という有用なゴミを探して回る職業の 人のせいです。野良猫はなぜかこちらには多くて、ゴミをあさるなどして餌を確保しているようです。プムルンはゴミとして捨てられた物を柄の長い金属製の 引っかき棒のようなもので引っかき、缶やビン、ガラス、ダンボール、紙類などを回収します。これらを売ったお金が彼らの収入です。恵まれない人が付く仕事 といえます。小学校低学年ぐらいの小さな子供たちが裸足(恵まれない人の多くはサンダルを履いていない)で、まるでサンタクロースがプレゼントの袋を肩に 担ぐようにして、空の米袋を担ぎ歩き回っていることがあります。彼らはおそらく学校には行っていないでしょう。身に付けている服も破れていたり、茶色く薄 汚れています。

プムルンのお陰でせっかくスーパーの袋に入れて捨てたゴミが、かき回されることが分かってからは、少し捨て方に気を付けるようになりました。生 ゴミはそれと分かるよう、なるべく半透明の袋に入れます。
そして、他のゴミは小分けして少量を袋に入れて捨てます。こうすることによって、生ゴミは引っかきまわされることはないし、小さな袋は中身に期待できない ためか開けられずにすみます。プムルンが無駄にゴミをかき回さないようにする配慮です。実際、我が家ではめったに「有用なゴミ」は出ないのです。

それでも、古新聞やソース類のビン、電球、履き古しの靴などを処分したいときがあります。そんな時は、ゴミ置き場に捨てず、通りがかるプムルン に直接渡すか、これまた通りがかる廃品回収屋(古新聞、ビンや不要品を買い取ってくれる)に持っていってもらいます。廃品回収屋さんも貧しい人たちなの で、お金は受け取らずそのまま持っていってもらっています。私としては要らないものを持っていってくれるので助かっているのですが、お金を受け取らないた め、「ありがとう。」と感謝?されてしまうのですが、そんな時、なんだか心が痛みます。彼らはこの回収品を売ったり、修理してやはり売ったりして生計をた てているのです。
 


(2000/01/06 インドネシア・ジャカルタからの便り)

◆  「孤児院の子供と道端の子供」

最近、家の近くの孤児院に日本のあるムスリム(イスラム教徒)A氏から頼まれた寄付金を持っていきました。私としても初めての孤 児院訪問でした。看板だけは見ていたのですが、どこにあるかもはっきりは知らなかったのです。

寄付金はどのように使っても構わないというA氏の伝言でしたが、私は主人にも相談して「一番困ったところへ持っていこう」ということになったの です。

新聞や雑誌などで写真や記事を目にしている限り、孤児院というのはいつもお金に困っているのが普通です。予算が足りなければ、食事が切りつめら れ野菜だけのおかずになり、果物もつかないなどという話を読んだこともあります。主人が強く勧めるのもあり、孤児院へお金を持っていくことにしました。
 

孤児院は予想に反して、結構立派でした。ぴかぴかの車が2台ありました。エントランスから内部まで床はタイル張りです。断食月の間、学校が休み の子供達はテレビを見てくつろいでいました。現在、7歳から18歳までの62人の子供たちがここに住み、それぞれ近くの学校に通っているということでし た。
片親だけの子供が多いですが、両親ともいない子供もいます。大概の子供は今度のルバラン(断食月明けの祝日)には家に帰るということでした。
 

私と主人は家に帰ってから話をしました。「今度、機会があったら別のもっと貧しい孤児院に行こう。」ということになりました。というのは、ここ らの地域はジャカルタでももっとも高級な住宅街に隣接しており、寄付金が多く集まる傾向があると思われたからです。

そして、私は前から気になっていた道端で生活する子供たちのことを思い出しました。彼らは道行く車に歌を歌ったり、楽器を奏でたりしてお金を乞 う道端の子供です。彼らのうち孤児には仕切っているボスがいたり、あるいは両親がいるのが普通だということなのでした。

孤児院など考えることも出来ない親なのでしょう。学校にも行かず(行けず:義務教育でもお金がかかります)、道端で生計をたてているのです。

彼らの住まいは橋の下などにあるバラック小屋なのだそうです。援助したいけれど、そこへ直接足を運ぶのは危険だといいます。そして、お金や食べ 物を持っていってもいきなりどの人にあげれば良いのか迷うでしょう。私達個人のちっちゃな援助ではどうにもならないことが多いのです。両親の仕事の問題も あるでしょうし、食べ物だけでなく、住む家も着るものも、教育も全ての面で不足しているからです。
 

クリスティーン・ハキムという有名なスマトラ島パダン出身の女優さんが出ていた「枕の上の葉(Daun Di Atas Bantal)」という2年ぐらい前の映画があります。そこに出演していた路上の子供達は「本物」を採用したということでした。この映画出演をきっかけに その親のない子供たちは、ジョグジャカルタという地方の町から首都ジャカルタのクリスティーン・ハキムさんに引き取られ、学校にも通い始めたということで した。
 

ところが、この子供たちはそういった新しい生活になじめず、ジョグジャカルタに帰り、路上の生活に戻ったそうです。彼らにとっては路上の生活こ そが、生まれ育ったふるさとに他ならないのかも知れません。
 
 

孤児院の子供と道端の子供・・・どちらも恵まれない子供たちです。
しかし、孤児院に「行かせてもらえる」子供は、まだ運が良いのかも知れません。孤児院にも「行けない」子供がどれだけいることか援助をどうやってすればい いのか・・・私達で出来ることはないものでしょうか。