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世界の窓

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インドネシア・ジャカルタ VOL.

ICA女史

 

 

 

(99/09/19 インドネシア・ジャカルタからの便り)

◆  「インドネシアの足拭きマット」
 

 

 
インドネシア語でKesetan(クセタン)という足拭きマットの話です。

我が家で大事に使っている「お風呂マット」。汚れてたら、洗濯機で洗い、きれいに乾燥させて使っています。このお風呂マットは常に浴室を出たところに置いてあり、1日中誰かの足の水分を拭い取ってくれます。というのも、浴室は1日中使われるのです。こちらでは、浴室とトイレは一緒の場所にあります。水浴び用(お湯は普通ありません)の水溜と便器が同じ場所にあるのです。トイレの時も足が濡れる事になります。もちろん、浴室には裸足で入ります。

こちらでは実に良く水浴びをします。最低でも朝起きてからと夕方の2回、さ らに必要に応じて昼寝の後や出かける前などに水浴びします。浴室はこれらの水浴びに使われる他、トイレの時や鼻をかむ時も使います。また、就寝前に足 を洗ったりもします。我が家には台所や洗濯場がありますが、それらがなけれ ば歯を磨いたり顔を洗ったり、洗濯も浴室で行う事になります。そして、イスラム教の家庭ではお祈り前のお清めをやはり浴室でします。

そういうわけで、「足拭きマット」は休む間がなく、常に濡れている状態なの です。洗う習慣もどうやらないらしく、汚くなって破れてきたらお払い箱のよ うです。素材は硬く編まれたものなどが多く、洗ったら二度と乾かないような ものなのです。これに我慢できなくなった私は日本で丸洗いできる速乾性のお 風呂マットを買ってきました。こちらには売っていません。

こんなに大事にしているのに、我が家のお客様はスリッパをお風呂マットの上で脱いだりします。スリッパを履く習慣もないので、私の一人よがりに過ぎないかもしれませんが、汚れてしまったマットを見ると本当にがっかりします。

家の入り口の前にもマットは置いてあります。家に入る前に靴をぬぐうためで す。ところが、この玄関マットと浴室マットが同じようなものとして売られて いる事からも分かるように、家の内部も外部も同じ空間の延長でしかないので す。家の床はタイル張りのことが多いのですが、ポーチやエントランス部分も 同じタイル張り。家の外部と内部に段差はありません。お客様は人の家に入る 前に、こちらのエチケット上の理由で絶対靴を脱ぎますが、土足で私の家の中 を歩く親戚の人はいました。それは、自分の家と同等に扱っている証拠なので すが、そんな事をすればもちろん床は汚れ、足も汚れ、ついにはお風呂マットも汚れます。

日本の一段上がって家に入る習慣で育ったものにとって、つらい環境です。
 
 
 
 



 
 
 
 

(99/09/06 インドネシア・ジャカルタからの便り)

◆   「東ティモールとは?」

 

私自身の話で申し訳ないですが、日本を出たことがなかったころ、国内で報道される全てのニュースの内容をほとんど100%信じていました。インドネシアの東ティモールの独立運動についても同様です。でも、ニュース(特に西洋からのニュース)は巧妙に操作されています。それは、アメリカに魂胆があるからのようです。

東ティモールはもとはポルトガルの植民地でした。住民達による共産主義政党と民主主義政党による争いをポルトガルは傍観するのみ、ついに匙を投げる。国連は共産主義政党を危険分子と判断、インドネシアにこの争いを静めるよう働きかけたそうです。インドネシアは国軍を使い多くの犠牲者を出しながらも併合を果たしました。この共産主義政党が中核になっているのが東ティモールの独立運動なのです。

当地はキリスト教(カトリック)の地域となっていますが、それが目立ち始めたのはインドネシアに併合されてからの事です。というのは、インドネシアは国民の一人一人に5つの宗教(イスラム、カトリック、プロテスタント、仏教、ヒンズー教)のうちのどれかを信仰するよう義務づけているからです。その前はむしろ共産主義(=無宗教)の方が目立っていました。カトリックはポ
ルトガルからの影響です。

西洋の報道機関はさんざんインドネシアの当地に対する武力制圧を非難していますが、もとは国連が併合を促したとは驚きです。その後の国連の態度の変化は、当地がカトリックの地域となり、独立運動による闘争も絶えないため、利用しやすくなり、アメリカの傀儡政権または国軍基地にでもしようとしている!?からかもしれません。

今回の独立か否かを問う選挙では独立派の勝利となりましたが、この選挙は全面的に国連の監視下に置かれ、当地以外の場所で選挙した人の投票用紙はいったんオーストラリアに送られてから集計されました。国連による不正はいくつも摘発されています。中でも住民が独立を選ぶようお金を使っているとの見方が強いのです。

インドネシアの大多数の人は国連やアメリカを全然信じていないと思います。東ティモールはアメリカの傀儡となり、東南アジアの癌になるだろうという意見もあります。1年に10兆ルピアの政府予算がつぎ込まれる当地は全然感謝してない。独立できるんだったらやってみろというのがインドネシア庶民の考え方のひとつです。或いは、中国との国交を開くという見方もあるので、カトリックはどこへやら、無宗教の共産主義に傾くだろうという見方もあります。

私たち日本人にとって宗教の問題は軽視されやすいですが、同じインドネシアからの独立運動を展開している地域でも、イスラム教の最も強い北スマトラのアチェは国連や西洋世界からのニュースにあまり取り上げられないところから見ても、東ティモールの独立運動がいかに純粋でないかが推測されます。悪く言えば、躍らされたかわいそうな人たちが独立運動に参加し、犠牲にもなっているのです。
 
 



 
 
 

(99/07/12 インドネシア・ジャカルタからの便り)

◆ 「アチェ特別地域について」

 

インドネシア、スマトラ島の最北端に「アチェ」という地域があります。

アチェの歴史は17世紀から現在に至るまでの「反抗と戦争」の歴史と言って もよいでしょう。1873年から1914年まで(アチェのデータによる)、 40年もの長い間、アチェの住民達はオランダによる植民支配に反抗し 戦争を続けました。これにより、37500人のオランダ人と70000人の アチェ人が犠牲になりました。
結局、オランダの植民支配には勝つことが出来ませんでしたが、その後、太平 洋戦争中にはアチェを含むインドネシア全域は日本の統治下となります。 日本が敗戦し撤退した後は、インドネシアは独立宣言をしますが、オランダは これを認めず再植民化を図ろうとします。1948年から1949年、これに 反 抗し3000人のアチェ人が戦争に加わりました。このような歴史を経て、 1949年11月にインドネシアは一応の独立を果たしたのです。

アチェはインドネシアの一部でありつづけることを望みませんでした。 そもそも、アチェはひとつの国だったのです。そして、アチェはイスラムの 国でしたが、インドネシアはいろんな宗教を認める国です。 アチェは石油や天然ガスの産地で、そういった資源をインドネシアによって 搾取されている、つまり、還元されていないといいます。 1953年頃から現在に至るまで、アチェの独立運動はとどまることなく 続いています。アチェ住民と国軍との衝突での犠牲者は後をたちません。
 

1953〜1964年 インドネシア国軍との衝突で4000人のアチェ住民が犠牲に なる。
1991〜1995年 反政府運動者でマレーシアなどに避難したアチェ住民5000人に達する。
 

そして最近では、1999年5月に起きた、デワンタラ事件です。 この事件は北アチェ、デワンタラ、クルン・グク−の製紙工場交差点で 数千人の大衆が陸軍の2台のトラックを乗っ取ろうとしていたことに 始まりました。
5月10日現在で42人の死亡者、10人の行方不明者が確認されているそうです。

アチェではこんなことが頻繁に起こっているので、 このようなニュースを聞いても慣れっこになってしまった嫌いがあります。 でも、これは恐ろしいことではないでしょうか。

アチェのホームページhttp://www.aceh.orgには、目をそむけたくなるような 写真がたくさん公開されています。英語とインドネシア語、アチェ語による ページです。ただし、このページ、エラーになることも多いです。

アチェはよく東チモールと比較されますが、インドネシアは東チモールは 手放しても(独立させても)、アチェは絶対手放さないだろうと言われており、 それだけ資源の豊富な「おいしい」地域なのだそうです。

今でこそ、ある程度の言論の自由が認められていますが、 去年までの旧体制の時代には、このような私のレポートなども 反政府的とされ摘発の対象になったようです。 そういう点では、少しずつではあるけれども、インドネシアが民主化の 方向に向かっているような気がします。