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岡崎秀雄は文化13年(1816)山城国乙訓郡寺戸村の庄屋の家に生まれ、幼名を小三郎、
長じて治郎左衛門を名のり、枡屋の屋号を持つ。京東山の麓に居を移し、北辺門(きたのへも ん)といわれた富士谷成章を祖とする学統のもとで和歌を学び、当時活躍していた文人たちと 交流があった。安政6年(1859)跋刊「国学人物志」に記載される。左端の短冊は辞世と思わ れる。「花下忘世 月影もにほへる花のこのもとは わが世ふけ行物おもひもなし」。文久2年 (1862)没。47歳。(向日市文化資料館特別展録(1993年)より引用。) 太田垣蓮月書状 ![]()
向日市文化資料館で1993年に企画された「幕末京郊の文化サロンー向日里人物志」という
特別展での「蓮月と秀雄」というコーナーでの解説を展示図録より引用します。
太田垣蓮月は、幕末の京都を代表する女流歌人です。自活のために作陶もおこない、自作の
和歌を釘で彫りつけた素朴な陶器は蓮月焼と呼ばれ、今日では広く知られています。この蓮月 と親交のあった向日里出身の歌人に岡崎秀雄がいます。向日町の北、寺戸村の庄屋の家に 生まれた秀雄は、京に出て、当時一流の文人墨客と交わり、歌人として名を連ねていました。 向日里という地域文化サロンの雰囲気の中で成長し、京に出て活躍した人ということができま す。
「太田垣蓮月書状」(向日市崗崎家蔵)岡崎秀雄に宛てられた蓮月の書状によって、二人の交
流を知ることはできる。年月未詳11日付の書状には、明日の会合(歌会か)をいつもの通り欠 席し、その代わりに「こしおれ」(自作の歌)を差し出すこと、また訪問者に対し姿も出さなかっ たことなどが記されており、当時各階層の人々との交流があったものの、わずらわしさを避け るためひんぱんに居を移したという蓮月の人となりを伝えている。なお末尾に、蓮月焼の販売 に関すると思われる部分があり興味深い。
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