王女の理由
−Princess of Destiny−
四章 1 一瞬、何が起こったのか、ウェリアにはわからなかった。 馬を走らせていたら、突然、自分だけ見えない剛球に激突されたような衝撃を受け、馬から転げ落ちたのである。 魔法攻撃を受けたんだと頭が認識したのは、落馬してその勢いのまま、斜面を転げ落ちている途中だった。 気を失いかけたが、全身を駆けめぐる痛みが、皮肉にもウェリアの意識を辛うじて保っていた。 起きあがろうとか、状況を確かめようとかする以前に、激痛が全身を走り回り思考にならない。ウェリアは、無意識に呻き声を上げるだけしかできていなかった。 「な、何で突然……」 ウェリアは、無意識化でそう考えてから、今までは遠隔魔法攻撃は、全てラウシェが防いでいたんだということに思いいたる。 しかし、何故、ラウシェを手放した今になっても狙われるのだろうか。ウェリアは、そう混乱した。狙われないために、ラウシェから離れたのではなかったか。 激痛に苛まれながらも、ウェリアはうつ伏せの体勢から、腕を支えに上体を起こした。 右目に映る視界が赤い。それを認識した瞬間、右目がひどく染みて、開けていられなくなった。どうやら、額の右の方から出血しているようだ。触るまでもなく、痛みを伝えてくる感覚でそうとわかった。 刹那、目の前に脚が現れた。前方からやってきたのではない。本当に突然現れたのだ。 驚いて、ウェリアは視線を上げていく。 そこには、短髪で軽装革鎧で身を包んだ女性が立っていた。 彼女は、無表情にウェリアを見下ろしている。それがひどく恐怖を誘った。 どこかで見た顔だと思った。それがいつだったか考え始めたとき、女性が口を開いた。 「紅姫衆のルーウェ・シェンナだ。悪いけれど、死んでもらうわね」 そう宣言すると、ルーウェは腰の剣を抜く。 「くっ……!」 ウェリアは慌てて、身体を横に転がした。その勢いのまま、立ち上がろうとする。だが、足腰が急激な運動についてこれず、無様によろけて再び転んだ。 それでも、両手両脚を止めずに動かし、四つん這いの格好になりながらも、ルーウェとは反対方向へと進んだ。 ウェリアは、ちらりと後方に視線をやる。 「げえっ……!」 ウェリアは、驚愕の声を上げた。ルーウェの剣を持っていない左の掌に、淡い光が灯っている。 魔力を感じられないウェリアにも、それが魔法攻撃をしようとしているのがわかった。ウェリアは慌てて、手足を動かし前方へと進もうとする。 手足を動かしているうちに、偶然立ち上がれた。 その刹那。 背中に恐ろしいほどの衝撃波を喰らう。その衝撃で、ウェリアは前方へ吹き飛ばされた。 痛みと宙を浮く感覚がない交ぜになり、ウェリアの頭は混乱した。次いで、鈍い痛みが全身を襲う。どうやら、地面に激突したようだ。だが衝撃の勢いは、それだけでは終わらず、何度かバウンドしてから喬木にぶつかり、そこでやっとウェリアの身体は止まった。 「……う、あああ……」 言葉にならない呻き声をウェリアは発した。口内のぬめりで、衝撃波を喰らったときに吐血していたことを悟る。 「まだ生きているんだね」 そんな声が、上から降ってきた。 ウェリアが、倒れ伏したまま辛うじて視線だけを向けると、ルーウェが先ほど現れたときと同じ様な表情で、ウェリアを見下ろしていた。 「く……、ううっ……うう……」 ウェリアは、慌てて身体を動かそうとする。だが蓄積された疲労と、それ以上に多大なダメージを負った身体は、もはや持ち主の言うことをほとんど聞かなかった。結局、ウェリアの出来たことは、喬木に上体をもたれさせることだけだった。 もう駄目だ。ウェリアはそう絶望した。 「生命力はたいしたものだわ。でも、もう終わり」 ルーウェが冷たく言い放ち、剣の先をウェリアの胸部に向けた。 「ど、どうして……?」 荒い息の合間に、ウェリアは問うた。 「言葉は最後まで言うものよ。そんなだと、相手に通じないわね」 「お、お前らの目標は……ラウシェだろうが。……な、何で、俺を狙う……?」 「ラウシェ様は、婚約を間近に控えたマルカ王国の第二王女。そのお方を、あなたは誘拐したのよ。死罪は当然よね」 ルーウェが、無表情のまま答える。 「お、俺は、あの時、ああするしか生き延びる道はなかった……。そ、それに、あいつは、あいつの意志で、俺についてきていたんだ……」 「それが問題なのよね。魔皇剣が、それを所有する器でない者に渡ったら、それこそ取り返しがつかないのよ。例え、それが〈天命の相方〉であってもね」 「ま、魔皇剣だと?」 ウェリアは驚愕した。 「……ていうことは、ラウシェは〈剣の王女〉……?」 さすがのウェリアも、魔皇剣の名前くらいは知っていた。 神々を放逐し、史代を開闢した剣。〈剣の王女〉が選んだ者のみふるうことが出来る、世界最強の魔剣である。 道理で、とんでもない奴らが狙ってるわけだ。ウェリアは、そう場違いにも合点がいった。ラウシェが〈剣の王女〉なら、各集団がどうしても彼女を生かして捕らえたいのかも、納得がいく。 「あら、知らなかったの?」 意外そうに、ルーウェがウェリアを見た。 「知るかよ、そんなこと……」 答えながらも、ウェリアは事の重大さに今さらながらに気づいていた。 魔皇剣は、誰かがそれを手にした瞬間から世界が変わる。それを防ぐために選ばれた婚約者以外は。それくらい、強力無比な魔剣だ。それは歴史が証明していた。魔皇剣のために、何度世界は救われ、何度破壊されたことか。そのような代物を、ウェリアはそれと気づかずに連れ回していたのだ。 「じゃ、じゃあ、何であいつは、俺についてきてたんだ……?」 「あなたが〈天命の相方〉だから。私たちはそう理解しているけどね」 「そ、そんな馬鹿な……」 「他に理由が思いつかないからね。もっとも、そうでないにしろ、あなたに魔皇剣を渡すわけにはいかない。だから、死んでもらうの」 そう答えてから、ルーウェが突きつけている剣を握りなおした。 「さあ、お喋りはここまで。覚悟はいいかしらね」 「……くっ……」 思わずウェリアは目を閉じた。 その時。 「そんなこと、許すと思う?」 そんな声が聞こえてきた。次いで、どおん、という衝撃音が耳に入る。 ウェリアが慌てて目を開けると、まず視界に飛び込んできたのは、目の前にあがる土煙だった。ルーウェは後方に跳んでいて、その場にはいない。 土煙が収まると同時に、陽炎のような揺らぎが目の前の空間に浮かぶのが見えた。 直後、その場に人の背が現れる。 「え……?」 ウェリアは、驚愕で開けられる左目を見開いていた。 その背には見覚えがあった。忘れられないほどだ。 後ろに垂らされている真っ赤な髪が、風に軽くなびく。後ろ手に括られてはいるものの、そいつは傲然と胸を張って立っていた。 「ラ、ラウシェ……」 「遅くなってごめんね、ウェリア」 ラウシェが、振り向いて微笑する。 ウェリアは何と答えたら良いかわからず、ただ茫然とラウシェを見返しているだけだった。 「ラウシェ様」 ルーウェが、ラウシェを呼ぶ。その声に、ラウシェが再び視線を前に戻した。 「久しぶりね、ルーウェ」 「心配しておりました」 「うん。まあ、あたしは大丈夫。心配いらないわ」 そうですか、とルーウェが一端言葉を切る。では、ともう一度話し始めたのは、しばらくたった後だった。 「これから城にお戻りになられますか?」 「まだ戻らないわ。やることが残ってるから」 ラウシェがあっさりと答える。 ルーウェはその解答を予想していたのだろう。全く表情を変えず、ウェリアを一瞥した。 「やることというのは、やはり彼に?」 「だったら、どうする?」 ラウシェが挑発的に聞いた。 「阻止するまでですね」 ルーウェが肩をすくめる。 「それが紅姫衆の総意?」 「そうですね」 「あたしを敵に回してもそうするって言うのね?」 「そうすることが、結局はラウシェ様のためと考えています」 「あたしのためか……。そうでしょうね。あなたたちの立場なら、そう考えるでしょうね。あたしも、それが正解だと思うわ」 ラウシェが微苦笑する。 思わぬラウシェの言葉に、さすがのルーウェも眉根を寄せた。 「でもね、それは紅姫衆だから。あたしの立場ではそうは考えないの」 「……どういうことですか?」 「それは言えないわね」 ふふん、とラウシェが笑った。 ルーウェが、当惑した視線をラウシェに送る。 「ラウシェ様は、一体、何をお考えなのですか? それは、私たちにも話せないことなのですか?」 「立場が違うからね」 今度はラウシェが肩をすくめてみせた。 「立場……」 「どっちにしろ、それはウェリア次第。あたしは、ウェリアの安全を確保しに来たの」 そう言うや否や、ラウシェがにやりと笑んだ。 ルーウェは、ラウシェの魔力が稼働したことを知った。その瞬間、ラウシェとウェリアの姿が、その場から消えた。 2 気がついたとき、ウェリアの視界は、先ほどとは全く違っていた。さっきまでは、森林の中にいて、紅姫衆のルーウェとかいう女性に狙われていたのだが、今はどこかの岩場の陰で、ラウシェと向かい合って座っている。 これが転移魔法か、とウェリアは驚きながら考えた。瞬時に遠くへ移動する魔法だ。知識としては知っていたが、実際に転移されたのはこれが初めてだった。 「こ、ここは……?」 「ウェリアと初めて出会った場所かな」 ラウシェが笑顔を見せる。 その解答に、ウェリアは思わず周囲を見渡してみた。 「……え?」 街道が通る山間の岩場。その周囲に立ち並ぶ木々。見覚えはある。確かにここで、ラウシェの乗る馬車を襲ったのだ。更に、今いる場所は、ご丁寧にも、当初ウェリアの隠れていた岩陰である。 「なんで、こんな所に?」 「ここが一番相応しい気がしたから」 そう答えるラウシェは、表情こそ笑顔だったが、口調も瞳も真剣だった。 「やっぱり、あたしにもまだ未練があるのよ」 「未練……?」 ウェリアは眉根を寄せて、ラウシェを見返す。 だがラウシェは、それよりもよ、と言いながら、ずいっと膝立ちになりながらウェリアに近づいてきた。 「な、なんだよ?」 ウェリアは、勢いに押されて身を引こうとする。だが、それより先に身体が妙な感覚に包まれた。全身を柔らかく覆う感触に、ウェリアは慌てた。 その感覚は、すぐに終わる。一体何をしたんだとラウシェに問おうとしたとき、ウェリアは自身の身体に変化を感じた。 今まで全身を苛んでいた激痛がない。身体中にあった傷口もないし、出血もない。それどころか、限界を越えて溢れていた疲労感すらない。 「な……」 驚愕したまま、ウェリアはラウシェに視線をやった。 ラウシェが、小首を傾げてにっこり笑う。 「どう? 治った?」 「お前がやったのか?」 「そりゃそうよ。他に誰がいるって言うのよ」 「それはそうだが……」 「なに釈然としない顔をしてるのよ。素直にあたしに感謝すればいいの」 「……別に、治癒魔法をかけてくれと頼んだわけじゃない」 ウェリアはそっぽを向いた。 その姿に、ラウシェが軽く溜息をつく。 「相変わらず素直じゃないわねえ。これからもうちょっとあたしとつきあうことになるんだから、もっと打ち解けてくれると助かるんだけど」 「なに?」 ラウシェの台詞に不穏な言葉を聞き取って、ウェリアは思わずラウシェを見返した。 「これから、あなたの安全が確保できるまで、あたしが守ってあげるから」 「なんだと?」 「ま、今までと一緒だってことよ」 間接魔法攻撃は、あたしが防いでいたんだし。そう続けて、ラウシェが笑顔を見せた。 「じょ、冗談じゃない!」 咄嗟にウェリアは声を上げる。 「そんなこと言っても、あたしがいなかったら殺されてたじゃん」 「そ、それは……」 「ウェリアの生命線はあたし。これを忘れないことね」 ラウシェが、ウェリアの鼻先まで顔を近づけて言い切った。 その妙に真面目な表情から、置き捨てて逃げたことに、結構腹をたてているんじゃないかと、なんとなくウェリアは感づいた。何故、怒られるかは全くわからなかったけれど。 結局、こうなるのか。ウェリアはそう重い気分になった。生き延びられただけでも良しとしなければならないのだろうが、そういう気持ちにはなれなかった。 確かに、ラウシェは強いようだ。どういう理由かは知らないが、ウェリアを守るという。彼女に守ってもらえるのなら、逃亡生活は今までより楽なものになるだろう。 しかし、逃亡生活はいつまで続くのか、全く見当がつかない。そもそも狙われているのはラウシェなのだ。その事実は変わらない。 「いや、俺もか……」 ウェリアは、先ほどルーウェに言われた言葉を思い出していた。 ラウシェは〈剣の王女〉である。そして、ウェリアはその〈天命の相方〉かもしれない。 魔皇剣を狙っている奴らは、その正統な主である〈天命の相方〉をどう思うだろうか。あまり、いい答は期待できないだろう。そして、〈天命の相方〉の資質を問題としている紅姫衆もいる。自分が〈天命の相方〉だと思われているなら、十分に標的になる。紅姫衆には現に襲われた。 なあ、とウェリアはラウシェに問いかける。 「なに?」 「お前は〈剣の王女〉なんだってな」 「ええ、そうよ。びっくりした?」 悪戯っ子のような瞳で、ラウシェがウェリアを見た。 ウェリアは、ラウシェの問を無視して、自分の質問を続ける。 「さっきのあの女に言われたんだが、お前の〈天命の相方〉は、俺なのか?」 「違うわ。ウェリアは違う」 ラウシェが首を横に振った。 「そうか」 ウェリアは安堵の溜息をつく。 そんなウェリアにラウシェが、冷ややかに声をかけた。 「そんなに安心していいの? 結局、あなたも狙われることには変わりがないのよ?」 「どうして?」 「あたしが側にいるから」 魔皇剣の主は〈剣の王女〉が選ぶ。それは、何も〈天命の相方〉だとは限らない。 ウェリアは、すごく嫌な顔をした。 「だから離れたんだ」 「あたしと離れたら死ぬわよ」 ラウシェがあっさりと言う。 堂々巡りである。思わず、ウェリアは怒鳴っていた。 「じゃあ、一体どうしろって言うんだ!」 「それは、ウェリアが考えることよ。あなたがあたしをさらったんだもの。今さら無関係にはなれないわ」 ラウシェの言葉は冷たい。 「そんなことはわかってるよ」 無関係に戻れるのなら、すぐにでも戻っている。そう思い、ウェリアはふてくされて、ラウシェから視線を外した。 「じゃあ、何かいい策を考えなきゃね」 「そんないい策があるもんか」 ウェリアは吐き捨てるように言って、ラウシェに視線を戻す。 そして、気がついた。 「そうか……。一つだけあった……」 「ん? 何か思い浮かんだ?」 ラウシェが小首を傾げて聞き返す。 ウェリアは、それに答えずラウシェを見据えた。 「魔皇剣、よこせ」 魔皇剣を持って、敵を全て掃討する。これがウェリアの考えた策である。世界最強の魔剣が、実際にどのくらいの力を有するのかは知らないが、逸話通りの力があるのならば、全てを終わらせることが可能だ。 驚くだろうと思っていたが、ラウシェは全く驚かなかった。むしろ、一瞬だが瞳には喜色が浮かんだ。 「確かに、魔皇剣なら全てを終わらすことができるわ。でも、本当にいいの?」 「もはや、それしかないだろ」 「そうね。多分そう」 答えながら、ラウシェが立ち上がる。 「いいわ。魔皇剣、あなたにあげる」 ウェリアを見下ろしながら、そう微笑した。 ウェリアも立ち上がる。 「で、どこにあるんだ、魔皇剣は?」 「どこって、ここに決まってるじゃん」 何馬鹿なこと言ってるの。ラウシェの口調はそう言っていた。 「何?」 「あたしが〈剣の王女〉なのよ。だから、あたしが持ってるの」 「どこにだよ?」 ウェリアは疑いの眼差しで、ラウシェを見た。 ラウシェの格好は、彼女をさらったときのままである。薄汚れてはいるが、豪華そうなドレスしか着ていない。剣を隠すような場所は、どこにも見当たらなかった。 「あたしの中よ」 「はあ?」 不可解な言葉に、ウェリアは眉根を寄せる。 「あたしの魂に魔皇剣はあるの」 「……魂?」 「そう。〈剣の王女〉はね、言わば魔皇剣の鞘なの。あ、心配しなくていいわよ。別に魔皇剣を抜いたからって、あたしが死ぬわけじゃないから」 ラウシェが笑った。 「そんな心配はしてねえよ」 ウェリアは、そうは答えるものの、一瞬そう思ったのは事実である。 「で、どうやって抜くんだ?」 「とりあえず、このロープを解いて」 ラウシェが、手を縛っているロープを示した。 「何故だ?」 「両手がふさがってたら、出せないのよ」 「いや、だが……」 ウェリアは躊躇する。これを解いてしまったら、ラウシェが逃げるのではないか。そういう懸念がまだあった。 そんなウェリアに、ラウシェは苦笑を漏らす。 「手をロープに縛られてようがいまいが、あたしが逃げられるのはもうわかっているんでしょ? 今さら何を躊躇ってるのよ」 「そ、それはそうだが……」 「だいたい、こんなロープ、いつだって解けるのよ」 「じゃあ、自分で解けよ」 「何言ってるの。あなたが括ったんじゃない。あなたが解くのが筋でしょ」 ラウシェが、強い口調でウェリアに迫った。 「ちっ」 このまま会話を続けていても無意味なことを悟ったウェリアは、釈然としないものを感じながら、ラウシェの手を縛っていたロープを解いた。 「ありがと」 妙に殊勝な声で、ラウシェが礼を述べてくる。 「えっ、あ、ああ……」 どうかしたのだろうかと思っていると、ラウシェの表情はすぐに笑顔に変わった。 「さてと、やりましょうか」 「あ、ああ」 「じゃあ、あたしの正面に立って」 「こ、こうか?」 ウェリアは、言われたとおりにラウシェの正面に立つ。 そう、とラウシェが頷いて、左の掌を前に差し出す。 「これに右手を重ねて」 「ああ」 ウェリアが、ラウシェと手を重ねる。 その瞬間。 重ね合わせた手から、ものすごい力が弾けた。それは、ウェリアにも感じることが出来るほどのもので、魔力とかそういう範疇を越えた、絶対的な力が出現したのだとわかった。 いつの間にか、右手にラウシェの掌以外に何かが触れている。ウェリアは知らずそれを握る。 そして、引いた。 刹那、力が爆発したように思った。 「…………」 ウェリアの手に握られているのは、大剣であった。 黒曜石も黒真珠も霞んでしまうほどの暗黒色に輝く刃に、真紅の宝石で装飾された柄。そして、大剣全体から、すさまじいまでの力の波動が放たれていた。 「……こ、これが魔皇剣……?」 ウェリアは茫然と、自身の握る大剣を見つめた。 「そう。それが魔皇剣ファウルス。究極の魔剣よ」 3 「魔皇剣ファウルス……、究極の魔剣……」 ウェリアは唾を飲み込んだ。 史上に幾度となく現れた魔剣。そんなものが、傭兵でも三流クラスの自分の手にあるのだ。驚いていいのか、喜んでいいのか、感情が混乱していた。 「さあ、ウェリア。覚悟はいい?」 ラウシェが、未だ混乱の中にあるウェリアに声をかけた。 「か、覚悟?」 我に返ったウェリアが、問い返す。 「そう。来るわよ」 「何が?」 「敵に決まってるじゃない」 「敵! どうして? ここがバレたのか?」 「うん。バレちゃったね」 「け、結界はどうした?」 慌てるウェリアに、ラウシェが腰に手を当てて、盛大に溜息をついた。 「あのねえ。あなたの持っているそれは何なのよ?」 「魔皇剣……なんだろ?」 担がれているのか。ウェリアはそう不安になった。 だがラウシェの言いたいことは、そんなことではなかったようだ。 「そうよ。見てわかるとおり、平時でもそれだけの力を発しているの。その力の前に、あたしの結界なんかは、簡単に壊されてしまうのよ。あなたの持っている剣は、それぐらいの力を持つ剣なの。そこんところ、ちゃんと認識しときなさい」 「そ、そうか……」 ラウシェの結界は、黒衣衆や北狼傭兵団の魔法を完璧に防いでいたような代物だ。決して弱いわけではなく、むしろ強い部類に入るだろう。それを何もしていない状態で破壊するのだ。ならば、これをふるったなら、一体どうなるのだろう。想像を絶する力という表現が、これ以上似合う剣はないと思われる。 「ラウシェ様!」 不意に前方から声がした。視線をやると、そこには紅姫衆の面々が立っていた。 また、後方に殺気を感じる。そこには、黒衣衆が現れていた。彼らは弓を構え、いつでも射られるような態勢だった。 さらに右側からは、殺気とともに馬蹄の響く音がした。北狼傭兵団の一部隊が、集団転移してきたようだ。 三つの勢力が、ウェリアとラウシェを中心に牽制しあう。 「最初と同じシチュエーションね」 ラウシェが不敵に笑った。 「確かに、そうだが……」 ウェリアは周囲を見回す。 全員の視線が、自分に注がれている。それはラウシェの言うとおり、最初のときと同じだった。 似通った印象が、ウェリアにあの時の恐怖を思い出させる。降り注ぐ弓矢や、迫る白刃から逃げまどう自分が、脳裏によみがえる。 「ラウシェ様……、やはりその者に……」 イリアが、茫然とした声をラウシェにかけた。 「そうよ。ウェリアにあげた」 「その者が、〈天命の相方〉だったのですか?」 「違うわ」 「では何故そのような者に? 魔皇剣を、その器にすぎたるものが持ったときの恐ろしさをお知りにならないわけではありますまいに!」 「知ってるわ」 「では何故!」 ラウシェが、ちらりとウェリアの方を振り向いた。ウェリアは、魔皇剣を持ったままその場に立っている。それに微笑をやってから、イリアに向き直った。 翠色の瞳が真摯に光る。 「ウェリアだから。他の誰でもない、この人だから渡したのよ」 「……えっ?」 イリアが絶句する。 「ウェリアは、あたしを解放してくれるかもしれない人なの」 「そ、それは、どういう……?」 「あなたたちにはわからない。あたしとは立場が違うから」 「ラウシェ様……」 「で、どうする? それでもウェリアを殺す? 勿論、あたしはそれを防ぐわ。もっとも、魔皇剣を持ったウェリアをどうにか出来る者なんていないと思うけど?」 ラウシェが、顎を上げ傲然と問う。 「…………」 イリアが唇を噛む。 ややあって、力を抜いた。 「紅姫衆は、ラウシェ様をお守りする部隊です。ラウシェ様のご意志がそうであるならば、我々はそれに従います」 「そう、よかった。あたしも自分のわがままで、あなたたちを敵に回したくなかったから」 ラウシェはそう言うと、今度は黒衣衆と北狼傭兵団の方を向いた。 「あなたたちはどうする? 魔皇剣はもうウェリアに渡したわ。それでも、まだ奪いに来る?」 「くっ……」 依頼主――黒衣衆の部隊長は、悔しそうに唇を歪めた。 どうやら、上手く終わりそうだ。事の様子を見ていたウェリアは、そう少し安堵する。 その直後、馬蹄が轟いた。北狼傭兵団が、ラウシェとウェリアの注意が黒衣衆に向いている隙を狙って、突撃してきたのだ。 「ラウシェ様!」 イリアがラウシェの注意を喚起しながら、剣を抜いてラウシェの側へと走った。他の紅姫衆もそれに続く。 「ウェリア!」 ラウシェが呼びかけてくる。 「うわあっ!」 慌ててウェリアは、魔皇剣を握りなおした。 すると、刃が黒い炎を纏う。同時に、とてつもない力が自分に流れ込んでくるのをウェリアは感じた。 心臓が、一際大きく高鳴ったような気がした。 「ふるって!」 ラウシェが叫ぶ。 ウェリアはそれに従い、魔皇剣を騎馬隊に向けて薙いだ。 轟音がした。力が空間を歪める音だった。 衝撃波と言うにはあまりにも桁違いな力の波動が、騎馬隊を襲う。 「うあ……」 茫然とウェリアは、それを見た。 剣を薙いだ方向は、コーン状に向こうの方まで土が抉れ、その途上にあった木々や岩などは綺麗になくなっていた。北狼傭兵団の姿などは跡形も見えず、一部隊全てが木々や岩々とともに遙か彼方に吹き飛んだのがわかった。 「なんていう力だ……」 思わずそう呟いて、ラウシェの方を見る。 しかしラウシェは、不満そうに唇を歪めていた。 「魔皇剣は、〈剣の王女〉への信頼度によって、山をも破壊し、地形を変えるぐらいの力があるわけよ」 そうウェリアに語りかけながら、ウェリアが剣を薙いだ方向を見る。 「でも、今は北狼の奴らを吹き飛ばしただけよね」 そして、溜息。 「あなた、あたしを全然信頼してないわね」 「そりゃ、まあ、そうだが……」 今までの経緯が経緯である。彼女を信用しろと言う方が無理な話だった。 「ったく、いい加減、もっと素直になったらどうなの」 「うるさい」 「まあ、いいけどさ」 再び溜息をつきながら、ラウシェがまた黒衣衆の方を向いた。 魔皇剣の力を目の当たりにした黒衣衆は言葉を失っていた。茫然と北狼傭兵団が先ほどまでいた場所を眺めている。 「敵をとる?」 ラウシェがウェリアに声をかける。それが、事の初めに集められた傭兵たちのことだと気づくのにしばらくかかった。だが、それに思いいたると、ウェリアは無性に腹が立ってきた。 奴らに騙されて、死ぬ思いをして。 「ひぃっ……!」 黒衣衆の一人が、ウェリアがそっちを向いていることに気がついた。 だが、もう遅い。 ウェリアは、先ほどと同じように魔皇剣を薙いだ。 黒衣衆は壊滅した。 4 「さて、終わったわね」 ラウシェが、ウェリアの前に立った。 ああ、とウェリアは頷く。 「これから、どうする?」 「というと?」 「あなたは、今や世界最強の男になったの。世界を征服することも、破壊し尽くすことも出来るわ。世界に蔓延る邪悪を討って、歴史的な英雄になることだって出来る。全てはあなた次第なの。〈剣の王女〉は魔皇剣に従う者。だから、あたしはあなたに従うわ」 「…………」 ウェリアは沈黙した。 周囲の視線を痛く感じる。自分の一挙手一投足全てに注目が集まっているようで、とても居心地が悪い。 「はあ」 大きく息をつく。 魔皇剣の力は、今まさに実感した。これを持つ者が、世界最強だと言うことに異存はない。世界を征服することも破壊することも可能だろう。だが、それが自分だということになると、違和感を感じるのだ。 「英雄か……」 ウェリアは呟いた。 魅力的な響きである。傭兵家業を営む身として、憧れないわけではない。 しかし。 どう考えても、自分が英雄になれるとは思わなかったし、そもそもそういう柄ではなかった。 「俺には過ぎた剣だな」 ウェリアは、手に持った魔皇剣に視線をやった。 「こんな剣、持ってたら人生狂う」 「既に狂ってると思うけど」 ラウシェが、茶化したように口を挟む。 ウェリアはそれに、うるさいと言葉を返しながら、彼女の方を見ると、彼女は意外にも真剣な面持ちをしていた。 その表情に、妙な既視感を感じて、ウェリアはそれをいつ見たのかを思い出そうとする。 「いらんよ、こんな剣」 ウェリアは、ラウシェに魔皇剣を差し出した。 え、という驚きの声が紅姫衆から聞こえる。だがラウシェだけが全く表情を変えずに、ウェリアを見つめ返していた。 ああ、あの時の顔だ。そうウェリアは、やっと思い出した。トラムの情報屋で彼女の身分を知ったときに、彼女にどうするかを問われたときと同じ表情だ。ラウシェの翠色の瞳の帯びる熱気が、改めてあの時の視線とだぶる。 「……どうして?」 「これは、俺の器を越える剣なんだよ」 「魔皇剣の所有主は一代に一人。〈剣の王女〉もそう。つまり、今あなたがこれを持たないと、魔皇剣は次代の〈剣の王女〉の所に行くわ」 「それで?」 「もし次に持ちたいと言っても、もう持てないということよ。もし、またあなたが狙われた時、魔皇剣はもうないの」 「だろうな」 「そう。じゃあ、いいのね?」 ラウシェの瞳が僅かに翳った。 不正解を引いたか。ウェリアはそう感じた。だがそれで答を翻すつもりはなかった。 「お前にゃ悪いがな」 ウェリアはそう言い捨てて、魔皇剣をラウシェに放る。 すると、魔皇剣がラウシェに着く前に、忽然と姿を消した。 ウェリアが眉をひそめると、ラウシェの解説が入る。 「所有主が手放したんだから、次の〈剣の王女〉の所へ行ったのよ」 「そうか」 何の感慨もなくウェリアは頷いた。次の〈剣の王女〉と言われても、世代が変わってくるわけだから、実感はわかない。 改めて、ラウシェを見る。 「……え?」 さぞ落胆してるだろうと思ったら、彼女はいつぞやのように満面の笑みを浮かべていた。 そして。 「ウェリア!」 喜びの声を上げながら、ウェリアの胸に飛び込んできた。 「お、おい……?」 戸惑うウェリアに構わず、ラウシェはウェリアの腰に手を回して抱きしめた。 「ありがと! 本っ当にありがと!」 上目遣いに、ラウシェが喜色を崩さず安堵のこもった声で礼をのべる。 「何を言っているのか、わからないのだが?」 「うふふ、そうね、そうだわね。もう教えてもいいわね」 どんなに我慢してもあふれ出てくる笑みを抑えきれないといった風なラウシェが、一度腕に力を込めてウェリアに身体を押しつけた後、ゆっくりと離れて、ウェリアを見上げた。 「あたしはね、あたしにまとわりついてた運命から逃れたかったの」 「運命?」 ウェリアは、訳が分からず眉根を寄せた。 そう、とラウシェが頷く。 「〈剣の王女〉という運命」 静かに答えたラウシェの台詞に紅姫衆の面々がざわついた。彼女たちには、ラウシェがどういう意図で動いていたか理解できたのだろう。 だがウェリアには全くわからない。 「うん、まあ、そこんとこは詳しく説明できないから、わからないでもいいの」 「へ?」 「つまり、あたしが〈剣の王女〉を辞めるには、魔皇剣の所有主が、剣を自らの意志で放棄しないと駄目だったわけ」 ラウシェがにっこり笑った。 その笑顔は妙に輝いていて、ウェリアの心臓を打った。そのため、ラウシェの台詞を理解するのが、少々遅れた。 だが理解すると、その呆れるほど単純な理由にウェリアは愕然とする。 「はあ?」 思わず素っ頓狂な声が出た。 「わかった?」 「……ようするに、お前は魔皇剣を厄介払いしたかったということだな」 「そういうこと」 「そんな理由で、俺は死ぬ寸前まで追いつめられたっていうのか……」 愕然としながらウェリアは呟いた。 「怒ってる?」 ラウシェがウェリアを上目遣いに見つめる。 「当たり前だ!」 「ごめんね」 「お前、その一言で済ますつもりか?」 「だって、仕方ないじゃない。どんなフォローすれば、ウェリアの気が済むかもわかんないし。あたしだって、こういう手を打つしかなかったわけだから。ウェリアが、あたしを人質にして逃げなきゃならなかったみたいに」 そう言われると、ウェリアも鼻白むしかなかった。彼にしても、やっぱり少女を人質にとるという行為を完全に正当化する気持ちにはならず、自身に対する言い訳が必要だったのだ。 「最初はねえ、単純に結婚が嫌だったから、あなたについてったのよ。どうやって逃げ出そうか考えてた時だったから。あたしが結婚を嫌がってたのは、紅姫衆には周知の事実だったから、監視も厳しかったの。あなたが来た時は、ちょうど逃げ出すタイミングをうかがっていた時だったのよ。渡りに船ってやつね」 「だから、わざと俺に捕まったと」 「まあね。でも、本当はすぐにウェリアからも逃げ出すつもりだったのよ」 「どうして、そうしなかったんだ?」 「だって、ウェリア、狙われてたじゃない。あたしもね、ウェリアを利用した以上、あなたの安全には責任を持つつもりだったから、ある程度安全が確保できるまで一緒にいるつもりだったわけ」 「あれで安全を確保してきたつもりなのか?」 ウェリアは過去を振り返り、疑わしげな目でラウシェを見た。 「してたわよ。結局無事だったでしょ? だいたい、あたしが手を括られたままで、あなたにわかるように何かしてたら、あなた、あたしを側に置いてた? 実際、結界のこと言ったとき、すぐに逃げちゃったじゃない」 ラウシェが、少し口を尖らせた。 「そ、それはそうだが……」 「まあ、別にいいんだけど。今さらだし」 あえてそうつけ加えるあたり、やっぱりあの時のことを怒っているのが確信できた。 「でも、一緒にいる間、あなたを見てて、もしかして、ウェリアならあたしを解放してくれるかもしれないって思ったの」 「そこんとこがわからん。どうして俺なんだ?」 俺でなくても良かったはずだ。その思いを滲ませながら、ウェリアは問うた。 「魔皇剣の力っていうのは究極なのよ。本当にそれを持った瞬間から世界最強になれる。神や魔神すら滅ぼすことが出来るのよ。そんなの持ったら、普通、性格が変わるわ。でもあなたなら、魔皇剣の力に溺れないって思った。それを持って野心を為そうともしないし、世界を救うべく立ち上がろうとも思わないって。あたしにとっては、魔皇剣を善良な方向に使うべくする人も駄目だったから」 ラウシェは魔皇剣から逃れたかった。だから、魔皇剣を持ち続けようという者では、例えそれが鎮禍を志す英雄であってもいけなかったわけだ。 「つまり、お前は俺が小市民だったから選んだってわけだな」 「分相応な人間だから、よ。どんな時でもね。多少、自虐癖があるけどね」 誉められているのか貶されているのかよくわからない台詞だった。ウェリアの受け取った感覚から言えば、貶されてる感が強い。 ほっとけ、と後半の台詞に返答してから、ウェリアは一つ息を吐いた。 「お前の理屈はわかった。納得するかしないかはともかくとして、とにかくこれで全て終わったわけだな?」 「あたしの結婚問題とか残ってるけどね」 「そんなことは知らん」 「冷たいのね」 「うるさい」 吐き捨てて、ウェリアはラウシェに背を向けた。 「どこ行くの?」 ウェリアの背に、ラウシェが問う。 「まだ決めてない」 「相変わらずの秘密主義ねえ」 「結局全部お前に吐かされた気がするけどな」 「気のせいよ」 「気のせいで済ませるか? まあ、もうお前に言う必要もないだろ」 ウェリアは振り向いて、答えた。 「これで、さよならってわけ?」 「もうお前に俺は必要じゃないだろ。俺だって、お前に利用されたわけだ。そろそろ、お前から解放されたい」 「そう。じゃあ、ここでお別れね。今までありがと。お元気で」 ラウシェが微笑した。 なんとなく、今までそれなりに執着されていた分、その呆気なさに肩すかしを喰らった気分ではあるが、事が終わればこんなもんだろうとウェリアは思い苦笑する。 「ああ。じゃあな」 軽く手を挙げ、ウェリアは歩き出した。後背に感じるラウシェの視線に、どんな表情をしているか確かめたい気分になって、それが今まで一緒にいたための一抹の寂しさから来る感情だとわかり、再度苦笑する。 「ちょっと一緒にいすぎたか。まあ、あれだけ一緒にいれば、捨て犬にだって情はわくしな」 そう自分に弁解し、その感情を心底に永久封印することに決めた。とりあえずは、近くの街で今日は落ち着こう。そう今後のことに思考を変えながら歩き続けた。 |