王女の理由
−Princess of Destiny−

二章

   1

 小鳥の耳障りな鳴き声が、外からひっきりなしに聞こえていた。
「朝、か……」
 ウェリアは視線を窓の方にやる。
 カーテンがきっちりと閉まっているが、僅かな隙間からまぶしい光が射し込んでいた。
 軽く息をついて、椅子に座り直す。
 ずっと椅子に座ったままだったから、腰の辺りに違和感がある。だがそれよりも、左肩の傷がどうしようもなく痛い。今日にでも薬を塗らなければならないと思った。
 ウェリアは、視線をベッドの方に巡らせる。
 そこには、寝息をたてているラウシェの姿があった。毛布がかかっていて見えないが、彼女の両腕は後ろで括られている。
 その毛布は、ラウシェが眠る前にウェリアがかけてやったものだ。勿論、ウェリア自身はそんなことをする気は全くなかったのであるが、ラウシェに言われて、かけさせられたのだ。
「まったく、よく眠ってるよ」
 ウェリアは声にならない呟きを発した。
 彼女の図太さは、今まで接した短い時間の中でも十分味わった。今さら、誘拐犯の目の前で、警戒なく眠ることにいちいち驚きはしない。
 それでも、自分が眠れない中で、こうもすやすや眠られると呆れもするのだ。
 結局、ウェリアは昨晩もほとんど眠らなかった。少し微睡んだことが何度かあったがそれだけで、眠りはしなかった。夜の静寂に響く物音が、追撃者の気配に思われて、おちおち眠っていられないというのが、主な理由だった。
 勿論、目を離したら、いつラウシェが豹変して逃げ出すとも限らない。そんな懸念も理由の一つではあった。
「おい、起きろ」
 ベッドのそばに行って、彼女を呼んだ。
 しかし、起きる気配はない。安らかな寝息が聞こえるだけだ。
「起きろってんだ、人質」
 ラウシェの肩を掴んで揺さぶる。
 んん、と小さく呻きながら、ラウシェがゆっくりと目を開けた。
 ぼーっとした翠色の瞳が、半開きでウェリアを捉えている。三回瞬きを繰り返して、目が完全に開いた。
「ああ、おはよう、ウェリア」
 暢気な声でラウシェが口にした。
「出るぞ。起きろ」
「ええっ、もう? 朝食は?」
「動きながらだ。ほら、早く起きろ」
「わかったわよ」
 答えながら、ラウシェが上体を起こした。何気なく起こしているが、彼女の両腕は後ろで括られたままである。バランス感覚に恵まれているのだろう。
「んんーっ」
 脚をベッドの外に投げ出して、ラウシェが身体を伸ばす。だが括られているため完全に伸びきれず、不満げに口を尖らせて、溜息をついた。
「なに落ち着いてやがる。出るぞ」
 ウェリアは、まだベッドに腰かけたままのラウシェに、ローブを被せた。
「また、これ着るの?」
 ラウシェが不満そうな声を出した。
「これ、視界が暗くなるのよね。手がふさがっちゃってるから、フードをあげることもできないし」
 ぶつぶつ文句を言うラウシェを無視して、フードを頭から被せた。
 部屋を出て、一階の酒場に降りる。
 酒場は、朝食をとる旅人で混雑していた。その間を縫い、二人はカウンターに向かう。
 カウンターでマスターに、朝食用の弁当を作ってもらう。それを受け取って、店から出た。
 店横の厩舎も、少々混雑していた。忙しく動き回る厩務員の少年を捕まえて、自分の騎馬を持ってきてもらう。
「トイレは?」
「大丈夫よ」
「……考えてみれば、お前、一度もしてないよな。大丈夫なのか?」
「したいから、とあたしが言ったら、ロープを外して、トイレに行かせてくれるの?」
 微妙な問題だ。ウェリアは黙り込んだ。
 確かに、今の彼女の状態ではトイレは出来まい。だからといって、ロープを解いてトイレに遣らすのも逃げてくれと言っているようなものだ。トイレへ行くといって誘拐犯から逃げ出した話はよく聞くから、その危険性は高いのだろう。
 ついていって見張るというのは嫌だったし、食事のようにさせてやるというのは論外だった。人権とかそういうのを尊重しているわけではないが、そんなことをする気にもならない。悪人になりきれない部分なのかもしれないが、別に悪人になりたいわけでもなかった。現況は、成り行きなのだ。
「本人が大丈夫って言ってるんだから、気にしないことね」
 他人事のようにラウシェが言った。
 それでいいんだろうかとウェリアは疑問に思ったが、あまり深く悩みたいような事柄ではない。疲れていることも相まって、とりあえずは気にしないことにした。
 街中では、馬に乗っている方が目立つ。馬に乗らず、曳きながら街中を歩いた。
 途中、露店の薬売りを見つけて、消毒薬と包帯を買う。
「それで、次の行き先はどこ?」
「西」
「えっらく大雑把ね。西に行って当てはあんの?」
 ラウシェが、呆れた声を出した。
「そんなことはお前が気にすることじゃない」
「気にするよ。変なとこ連れて行かれたら嫌じゃん」
「お前に、行き先を選ぶ権利なんぞあると思ってんのか。お前は、黙ってついてくりゃあいいんだ」
「女だからといって、そういうこと言う」
「女だからじゃないわ! 人質だからだ!」
 ウェリアは思わず声を荒げた。それに気づいて、すぐに周囲をうかがったが、視線を浴びた様子はなかった。ほっとすると同時に、余計なことを言う隣の小娘がとても憎く感じる。まったく、と苦々しく呟いた。
 実際のところ、当てはあった。否、そこしかないと言うべきか。
 この街はトーラという。それは宿屋に入った時に確かめた。トーラはマルカ王国の西端付近にある街だ。
 マルカ王国の西は、ライマ王国である。マルカとライマは古くからの同盟国で、王室は縁故関係にある。両国は一度も交戦状態になったことはなく、国境の警備はとても穏やかである。
 国境を越えてすぐの街の一つに、トラムという街がある。その街で、ウェリアはラウシェ襲撃の仕事を請け負ったのだ。
 トラムのある宿には、襲撃前に置いてきた荷物がある。それを確保するのが目的だった。
 着の身着のままといった表現が正しいような現状で、いつまで続くかわからない逃亡生活をするには、今は路銀が少なすぎるのだ。トラムにある荷物には、まだ多少の資金がある。その上、ライマ周辺を主な活動拠点とするウェリアにとっては、人のつてもコネも全てその周辺にあったのだ。
 道を左に折れた。ここを真っ直ぐに行くと、街を東西に分けている大通りに出る。そこから西に向かい、西門から街を出るつもりだった。
 不意に、前から歩いてくる集団がこちらを見ているのに気がついた。
 四人の男たちだ。傭兵風の男たちで、小剣で武装している。ウェリアがそちらに注意をやると、視線をそらした。
 彼らに剣呑な雰囲気はない。だがあからさまにそらした視線が気になった。
 必死に記憶をたどって、あの乱戦時に彼らがいたかどうかを思い出そうとするが、うまくいかなかった。
 すぐに襲いかかってこないところを見ると、勘違いなのだろうかとも思う。だが、まだ本人かどうか確認している途中なのかもしれなかった。
 自分もローブを着ておけば良かった。ウェリアはそう後悔したが、今さらどうにもならない。今すぐ逃げ出したい衝動に駆られたが、あやしまれるのを恐れて、ぐっと堪えた。
 冷や汗が背中を流れ、手綱を握る手が小刻みに震える。その様子を敏感に感じ取った馬が訝しげに鼻をならすが、かまっている余裕はなかった。
 男たちとすれ違う。
 その時、男の一人が腕を伸ばして、ラウシェが目深に被っているフードをめくった。
「女だ!」
「紅い髪!」
「ラウシェだ!」
 一斉に男たちが動きだした。二人がラウシェを取り押さえようと腕を伸ばし、残りの二人がウェリアに襲いかかるため小剣を抜いた。
「畜生!」
 ウェリアは慌ててラウシェの肩を掴み引き寄せた。同時に手綱を引っ張り、馬を男たちと自分たちの間に入れるように動かしながら手を放す。空いた手で、長剣を抜き放ちながら、駆けだした。
 間に入った馬が牽制の役に立って、男たちとの距離が稼げた。すぐに細い路地に曲がる。
 後方で笛を鳴らす音がした。
「仲間を呼んだな」
 ウェリアは苦々しく呟く。後方を見ると、追ってきている男たちの姿が視界に入った。大した距離はなく、追いつかれるのも時間の問題のよう。その推測がウェリアに絶望感を抱かせる。
「くそっ!」
 手近に重ねて置いてあったバケツを蹴飛ばして転がし、また駆けた。
 どこをどう駆けているのかわからない。曲がり角ではとりあえず曲がった。目についたバケツやら木材を片っ端から蹴って崩し、後方へばらまいた。
 それらが功を奏したのか、何度目か振り返った時、男たちの姿が見えなくなっていた。
 立ち止まり、一息つく。
 荒い息が後から後から出てくる。ウェリアは手近な壁に手をついて、身体を支えた。
 だがラウシェは息一つ乱さず、ウェリアの横に立っている。
「お前……、いったい、どういう、身体の、構造を、してるん、だ?」
 吐く息で途切れ途切れになりながら、ウェリアはラウシェに尋ねた。どう考えても、後ろ手に括られている彼女の方が走りづらいし、大変なはずだ。
「走るのって嫌いじゃないのよ」
 ラウシェが、さも当然のように答えるが、全然理由にはなっていない。
「でも、ここで休んでていいの?」
「よくはないな」
 息が少し整ってきたウェリアは、辺りを見回した。
 まだ追っ手の姿は見えないが、仲間を呼んだ様子があるから、相当数が捜索しているだろう。動き回りすぎると、見つかる危険性がある。
「どこかに隠れられないかな」
「あそこは?」
 ラウシェが視線で指し示す先には、崩れかけた民家があった。民家といっても、小屋に毛が生えた程度のもので、一間ぐらいしかなさそうである。
「中まで捜されたら、どうしようもないぞ」
 ウェリアがそう反論した時、複数の足音が聞こえてきた。
「もう来たか……!」
 どうやら考えている時間はないらしい。
 ウェリアはラウシェを連れて、その民家に入っていった。

   2

 息を殺し、壁の向こうの気配をうかがう。
 足音は何度も小屋の前を行き来し、その度にウェリアは寿命が縮まる思いをしていた。
 どれくらいそうしていただろうか。しばらくして、足音が完全にやんだ。
 それでも、ウェリアはまだ動き出す気にはならず、息をひそめたままでいる。
「もう、やり過ごせたんじゃない?」
 ウェリアの腕の中から、ラウシェが囁いた。ウェリアはラウシェを抱え込むようにしていた。この状況下で、突発的な動きをとられたら、困るからだ。先ほどまでは、彼女の口も手で塞いでいた。
「……そうかな?」
 ウェリアは、ちらりとラウシェの方を見やる。
「もう行ってしまったと思うけど。気配も感じな――!」
 普通に答えていたラウシェが、急に厳しい表情に変わった。視線がウェリアから外れ、ウェリアが背もたれにしている壁の方に向いた。
 急にどうした、と問おうとした時、再び足音が耳に入ってきた。
 ウェリアは慌てて開きかけた口を噤み、手を伸ばして、ラウシェの口も再び塞いだ。
「…………」
 足音は一つだった。だが他に蹄の音が聞こえていた。馬か驢馬だろう。
 全然関係のない人物だろうか。追っ手は動物を曳いてはいなかった。それでも、最初の乱戦の時を思い起こすと、警戒は解けない。あの時、襲いかかってきた集団の一つは、馬に乗っていたのだ。
 足音が止まる。丁度、ウェリアたちが隠れている小屋の前だ。
 見つかったか! ウェリアは、そう緊張する。長剣を握る手に力が入った。
 しかし、どれほど待っても誰何の声はない。
 一体何をしているんだとウェリアが不安にかられた時、穏やかな声がかかった。
「もう追っ手はやり過ごしたみたいだよ」
 若い男の声だった。
 最初、ウェリアは何を言っているのかわからなかった。意味が理解できると、更にどういうことなのか判断に苦しんだ。
 ラウシェの方を見ると、当初の厳しい表情は見られず、大丈夫なんじゃない、といった風な気楽な表情で、ウェリアを見上げていた。
 ウェリアはラウシェのフードを被せてから、ゆっくりと立ち上がった。追っ手の芝居だったらすぐに襲いかかれるように、長剣を構えておく。
 そこにいたのは、若い男と、二頭の馬だった。
 二十を少し過ぎたところだろうか。金色の髪をたらした、人の好さそうな男だった。
 身なりは旅装だがかなり良い。佩いている剣もウェリアの持つような、武器屋のセール品ではなく、名の通った名剣であることをうかがわせた。その上恐らく、魔力を持った魔剣だろう。
 曳いている馬のうち、一頭は毛並みの整った芦毛だった。そして、もう一頭は、先ほど手放したばかりのウェリアの馬だった。
「これは、君たちの馬かい?」
「あ、ああ……」
 ウェリアは、相手の真意を測りかねて、頷くだけにとどめる。
「何か揉めていると思ったら、君たちが馬をおいて逃げ始めたのを見てね」
 つまり、彼は事の最初から見ていたというわけだ。
「何だと思って追いかけていくと、君たちがここに隠れたのが見えたから、彼らが違うところを探しに行くのを待ってたんだ。彼らは、もう向こうの方を探しに行ったようだよ」
 話ながら青年は、東の方に視線をやった。どうやら、追っ手は東の方を捜索に行ったらしい。
 そうか、と頷きながら、ウェリアは小屋から出た。
「彼ら、北狼傭兵団のようだが、どうして追われているんだい?」
 青年が問いながら、馬の手綱を差し出す。
「北狼傭兵団?」
 思わずウェリアは声を上げる。
 北狼傭兵団は、傭兵団としては、規模も名声も実力もトップクラスの組織だ。ウェリアクラスの傭兵でさえ、その名を知っている有名どころであった。
「彼らのさげていたペンダントは〈北狼〉がレリーフしてあった。あれは北狼傭兵団の団員しか持っていないものだろう。だから、北狼傭兵団だと思ったのだけど」
 そうか、と頷きながら、ウェリアは手綱を受け取った。
 現実の重さが、ウェリアの肩にのしかかった。北狼傭兵団のような強力な組織が自分を追っているというのは、目の前を真っ暗にさせるのに十分な事実だった。
 後方のラウシェをちらりと見る。
 この小娘を北狼傭兵団が追っている。この小娘に、いったい何があるというのだ。ウェリアは激しく理解に苦しんだ。
「わけありかい?」
「ああ」
「そうか。それなら、早くこの街を出た方がいい。ここに来るまでにも、北狼の団員をかなり見かけた」
「そうか。馬は助かった」
 そう言って、ウェリアはラウシェを促して、歩き出そうとする。その背中ごしに、そういえば、と青年が声をかけた。
「どこに行くつもりだい? もしよかったら、聞かせてくれないか?」
 ウェリアは答えず、青年を睨んだだけである。その視線から不審を読みとったのだろう。青年が穏やかに微笑した。
「もしかしたら、協力できるかもしれない。そう思ったからさ」
 これにもウェリアは答えない。ますます不審の色を露わにした視線で、睨みつけた。
「怖いなあ。そんな眼で見なくてもいいと思うけど。好意で協力を申し出ただけじゃないか。それがそんなに悪いことかい?」
 全く怖がっていない目で、青年がウェリアを見返す。
「お前がどうして協力したいのかがわからない」
 吐き出すようにウェリアは答えた。
 なんだそういうことか、と青年が破顔する。だがすぐに生真面目なな表情を作って、厳かに語り出した。
「私には厳格な祖父がいたんだけれども、私はほぼその祖父に育てられてきたわけだ。いろいろ厳しい人で、礼儀とか道徳とかそういうのにとてもうるさい人でねえ。その教えの一つに、困っている人を見捨てるな、というのがあるわけさ。幼い頃からさんざんそう教えられた私としては、もう条件反射のように協力を申し出てしまうわけさ」
「……そんなことを信じろとでも?」
「あれ、駄目かなあ。信憑性があると思ったんだけどな」
 青年が頭をかいて笑った。
「母にした方が良かったかな」
「一緒だ」
 ウェリアは呆れた声で言い切った。
 青年の身なりからして、いいとこのお坊ちゃんなのだろう。何の理由かわからないが、旅をしているお人好しで、金持ちの気まぐれに近い感情で協力したいと言っているのだろう。ウェリアはそう推測した。
 それなら、協力を利用してもいいのかもしれない。もしかしたら、路銀の足しになるかもしれない。ただ、こちらのことを詮索されたら厄介だが。
 少し考え込んでいるウェリアを見て、青年は後一歩だと思ったのだろう。最後の一押しをした。
「私の名前はリック。リーブルに戻る途中なんだ」
 リーブル帝国は、ライマより更に西にある大国である。
「俺たちはとりあえずトラムに行く。それでよければついて来るんだな」
 そんな言葉で、ウェリアはリックの協力を諒承した。
「名前ぐらいは聞いてもいいかな? 呼ぶとき不便だろう」
 リックが尋ねる。
 その言い種に、ウェリアはどこか聞き覚えがあるような気がした。そういえばラウシェにもそう言われたのだと思い出して、軽く苦笑する。
「ジョン・ロールだ。ジョンでいい」
 その時使った偽名を名乗る。もっとも、ラウシェにはすぐにバレたのだが。
「こいつは、ラ、……ラーラだ」
「ジョンにラーラね。よろしく」
 リックが疑った様子も見せず微笑した。

「トラムというと、ライマ王国だね」
 街を出てすぐに、リックが口にした。
 三人はそれぞれ馬に乗っている。ウェリアとラウシェが同じ馬に乗り、リックが一人で乗っていた。順番としては、リックが先に進み、その後をウェリアたちがついて行っている。
 ウェリアは、ラウシェと同じようにローブを着ていた。街を出るときに買ったものだ。先ほどのように、自分の顔からバレることをなるだけ避けようという判断である。判断する時期としては、ちょっと遅い。
 左肩の傷も薬を塗り込み、処置をした。そのおかけで、少し痛みが増した気がするが、この痛みはいずれひいていく痛みだと経験が告げていた。あと数日もしたら、気になる痛みではなくなるだろう。
 ああ、とウェリアは頷いたものの、小声だったので届いたかどうかはわからない。
 ウェリアが少し気になるのは、先ほどから自分の前に乗せているラウシェが、一言も喋らないことだ。
 リックに変に詮索されないから、それはそれで助かるのだが、今までが今までだったから、少し不気味だった。時折、リックの方をうかがっているようだったが、目深に被ったフードが表情を隠し、何を考えているかは全くわからない。
「国境を越える時に、早速役に立てそうだね」
 ウェリアの返答が聞こえずとも、暢気な調子でリックが語った。
「ライマとマルカの国境で何が起こるって言うんだよ」
 ウェリアは、吐き捨てるように呟いた。
 両国の国境は、両国内の州境より警備が薄いと言われている。両国の友好の度合いを示す様子であり、ウェリアのようななるだけ穏便に国境を越えたい者にとっては、重畳なことである。
 しかし。
「最近は、そうでもないんだよ」
 ウェリアの呟きが聞こえたのか、リックが振り返った。
「何だと?」
「今、ライマとマルカの国境は、物々しい警備が敷かれているよ。警備兵の数も相当数配置されている。普段のライマとマルカの国境を想像していたらいけないよ」
「どういうことだ?」
「理由まではわからないけど、両国が交戦状態に入ったってわけじゃなさそうだな。それどころか、両国が協力して何かしている感じだった」
「本当か?」
 ウェリアは訝しげに聞き返した。
 ライマを中心に活動するウェリアは、何度も国境を越えてマルカに行ったこともあるから、国境の様子はよく知っていた。更に、つい先日も渡ったばかりである。その時は、全く穏やかなものだった。
 そういう様子を知っているだけに、リックの言うことが突拍子もなさ過ぎて信じられない。
「本当だよ。まあ、行ってみればわかると思うけど」
「それはそうだな。で、もしそうなら、どうやってお前が役に立つんだ?」
「簡単なことだよ」
 リックが笑いながら、懐から掌大の銀板を取り出した。
 旅券である。旅人の身分を保証するものであり、通常、これがないとどこの街にも入れないから、旅人は必ず持っている。
 発行人はまちまちである。国家が出しているものもあれば、領主が出しているものもある。都市の太守が出しているのもあれば、村長が出すものもある。職工組合などが出す場合もある。要は旅券発行の権利と義務を有する者なら、誰でも発行できるわけだ。そんなわけで、旅券を望む者ならば、交付されやすい。
 ただ発行者の格に従って、信用度、通行税などが変わってくる上に、行ける範囲や場所が決まっている場合もあり、誰から発行を受けるかで、旅の煩雑さが変わってくる。格下の発行者から旅券を受けた場合、要所要所で尋問を受けたり、いらぬ詮索を受けたりする上に、割高な通行税まで支払わなければならない。旅を生業にする者たちにとっては、誰から旅券を受けるかは、大きな問題なのだ。
 ちなみにウェリアは、傭兵ギルドの構成員ではないのに、ギルドから発行を受けていた。
 ギルドからの発行の場合、通行税の税率も一律、ギルドの影響力が及ぶ範囲ならどこにでも行けるし、信用も得やすい。発行に少し金がかかるが、それでも莫大なものではない。だから、ギルドに参加せず、旅券の発行だけ受ける傭兵も多い。ギルドに参加するには、ウェリアクラスの傭兵の場合、ギルドの年会費を払うのが困難なのだ。
 旅券は、その発行人の格によって材質が違う。通常の場合木製で、その上に銅版が打ち付けてある。だが、ある程度格上の発行人の場合、例えば、国家やその元首、閣僚や大貴族などの場合、旅券は銅板ではなく銀板である。銀板旅券を所有しているということは、それだけで身分が高いということを示しているのだ。
「お前……」
 それだけ言って、ウェリアは絶句した。
 ウェリアは銀板旅券の存在は聞いて知っていた。だが自分の眼で見たのは、これが初めてだった。
 確かに、その銀板旅券は、国境を越える時に大いに役に立つだろう。発行者が、ライマとマルカの国境にまで影響力があるのならば。
「発行人は、ロディウス大公。聞いたことはあるかい?」
「聞いたことはない。が、多分わかる」
 ロディウスはリーブル帝国の地方名である。リーブルで大公位をもつのは皇族だけだから、発行人はリーブルの皇族ということだ。
「お前、一体何者なんだ……?」
 ウェリアは、不審を込めた目でリックを見た。
 リックが穏やかに笑う。
「私もわけありなんだ。聞きたいかもしれないけど、お互いに詮索はやめた方がいいと思うよ」
「確かに、な」
 ウェリアは、呟くように返した。
 その後、旅は無言で進んだ。追っ手が追いかけてくることもなく、国境付近までつつがなく進んだ。
「さて、あれだ」
 リックが馬を止めて、先を指差す。
 その先は、ウェリアには見慣れたライマとマルカの国境である。
「確かに、厳戒態勢だ」
 ウェリアが、眉根を寄せた。
 そこはウェリアの知る国境ではなかった。彼の知っている国境は、塀も柵もなく、両国の少数の警備隊が、街道上にある守衛門でやる気がなさそうに任務に就いているという姿である。だが今の国境は、急造したのだろう、木の柵が左右に広がり、異常に多い警備隊が、緊張した面もちで警備していた。
 国境を渡ろうとする旅人は、例外なく厳しい詮索を受けている。
「何なんだ、いったい」
 ウェリアは苦々しく愚痴た。その後、何でこの時期に、と心中で続ける。
 何の理由かはわからないが、詮索されたくないウェリアにとっては、非常に迷惑なことだった。
 さあねえ、と答えて、リックがウェリアの方を向いた。
「行こうか」
「あ、ああ……」
 ウェリアは頷くものの、なかなか踏ん切りがつかない。
 気がつくと、リックは少し先に進んでいた。それでも、ウェリアは馬を前へ進ませようとはしなかった。
 すると、今まで黙ったままでいたラウシェが、ウェリアの方を見上げた。
「ここまで来て、何迷ってんのよ。ここで立ち止まっていると、逆に怪しまれちゃうわよ」
「そ、そうだな」
 ウェリアは、ラウシェに視線をやらずに答える。それから意を決して、馬を進ませてリックに追いついた。
 三人は、門の前で警備兵に止められた。
 リックがすぐに、旅券を見せながら、警備兵の一人と何か話す。ウェリアには、何を話しているかは聞こえない。
 旅券を見た警備兵の態度が一変し、恭しい態度でリックに接するようになった。直立不動でリックの言葉を聞いている。
 その後、警備兵が他の誰か、恐らくは隊長だろう、を呼びに行こうとするのを、リックが穏やかに制し、ウェリアたちの方を向いた。
「いいみたいだ。行こう」
「あ、ああ……」
 不安で高鳴る鼓動を抑えながら、ウェリアはなるだけ顔を見られないようにフードを目深に被り直し、馬を進ませた。
 警備兵の視線が突き刺さる気がする。ウェリアはそう感じながらも、どうにか門を抜けた。
 ウェリアが大きく安堵の息をついたのは、国境の様子が見えなくなった時だ。後方を何度もうかがって警備隊に怪しまれないように、振り返って追いかけてこないのを確かめたい欲求に逆らい続けていたのだ。ウェリアは、国境が見えなくなった頃初めて振り返り、上手く切り抜けられたことを確信した。
「次はトラムだね」
 リックが言った。
「トラムも、国境と同じように物々しいのか?」
「さあ、どうだろうねえ。そこまでわからないけど、多分、普段よりは警備は厳しいと思うよ」
「そうか……」
 ウェリアの声が沈む。
「まあ、厳しい警備でも、さっきと同じ手段で何とかなると思うけど」
 暢気な調子でリックが続けた。
 確かに、あの国境の警備を何の詮索も受けずにパスできたということは、他でもそう大差なくパスできるように思われる。ウェリアはそう考え、警備のことを深く考えるのはよした。
 国境から、トラムまではそう離れていない。三人が馬を進ませていると、しばらくしてトラムの街が見えてきた。
 そこは、ウェリアが事に巻き込まれる仕事を受けた街である。

   3

 トラムに入るのに、苦労はほとんどなかった。
 リックの旅券の威力と言うより、国境ほどの警備の物々しさがなかったからだろう。何にせよ、ウェリアにとっては僥倖なことである。
 陽は傾いて久しい。そろそろ落ちるだろう。
「宿はどうするんだい?」
 リックがウェリアに尋ねた。
「心当たりはある」
 ウェリアはそう答えた。
 ウェリアにとって、トラムはよく知った街だ。拠点にしている街の一つである。だからこそ、荷物を置いてきたというのもあった。
 そういう街だから、懇意の宿も幾つかあった。やばい仕事をした時、隠れる宿とかもある。
 ウェリアは、知っている宿屋のうち一つをリックに教え、先に行ってもらうことにした。
「それは構わないが、君はどうするんだい?」
「ちょっと、やることがある」
「そうか。なら、先に行っておくよ」
 リックが頷いて、教えられた宿に向かっていった。
 その後ろ姿を、ラウシェがじっと見ていた。
「どうした?」
 ウェリアが聞く。
 ん、とラウシェが我に返ったように、ウェリアの方を向いた。
「ちょっと、あいつ、気になってね」
 ラウシェが、再び視線を戻す。既に、リックの姿は見えなくなっていたが、それでも瞳は彼の姿を見ているようだ。
 なるほど、とウェリアは鼻で笑った。それで、彼女が今までほとんど喋らなかったことの理由がわかった。
「確かに、奴はいい顔してたからな」
「んん?」
 眉根を寄せて、ラウシェがウェリアに向き直る。
「一目惚れするのもわからんでもないが」
 ウェリアは、一目惚れした少女がどういう行動をとるかを知っているわけではなかったが、こういうものだろうという想像はできた。
 ラウシェが苦笑する。
「そういうのとは、ちょっと違うなあ」
「じゃあ、何が気になる?」
「そうね。いろいろ、かな」
「わけわからんな」
 ウェリアは顎をかいた。無精髭が少し伸び始めている。
 そうねえ、とラウシェが少し考えてから、疑問を口にした。
「例えば、リーブルに帰ろうとしているあいつが、どうして、最近のライマとマルカの国境のことを知ってたの?」
「どういうことだ?」
「ウェリアが越えた時は、まだ穏やかだったんでしょ、国境。つまり、物々しい警備を敷くようになったのは、ウェリアが国境を越えた後ってことになるわよね。ウェリアが国境を越えたのは、あたしをさらった日?」
「ああ」
「じゃあ、二日前ってことね。ってことは、早くても昨日からということになるわね。厳戒態勢が敷かれたのは」
「そう……なるな」
 ウェリアも考えながら答えた。
 じゃあ、とラウシェが言葉を続ける。
「リックは、昨日の国境を見たことになる」
「そうなるな」
 ウェリアは頷いた。確かに、リックの口ぶりは、彼自身が実際に国境を見たような感じだった。
「それって不自然じゃない? リーブルに帰ろうって言ってた人よ、あいつ」
 国境からトーラまで半日ほどかかることを考えれば、リックにどんな用事がマルカにあったのかはわからないが、彼の用は一瞬ですんだことになる。リーブルからわざわざ出てきた人間の用事が、そんな一瞬で終わるようなものであるとは考えにくい。これがラウシェの理屈であった。
「トーラで手紙を渡すだけの簡単な用事だったかもしれないぞ」
「そんな用事に従事するような人が、銀板の旅券を持ってると思う?」
 ラウシェが、どう? という視線をウェリアに送った。
 確かに、とウェリアは呟く。
「とにかく、警戒は怠らないことね」
「そうだな」
 ウェリアは頷いた。
 ところで、とラウシェが急に話題を変える。
「ここでやることって何?」
 ウェリアは、考え込んでいた思考を中断し、ラウシェをちらりと見た。
「お前が気にすることじゃない」
「相変わらず、その台詞ねえ」
 ラウシェが呆れた声を発した。
「お前が、いちいち詮索するからだ」
「だって気になるんだもん。あたしの立場じゃ仕方ないと思わない?」
「お前の立場で、聞けると考える方が間違ってる」
 ふん、とラウシェが鼻で息をついた。
「まあいいわ。どうせ、すぐにわかることだし」
「何?」
「どうせ、あなた、あたしをおいて、何かする気はないでしょ」
 図星だったから、ウェリアは何も答えられなかった。やれたのは、くそ、と吐き出して、視線をラウシェから外すことだけだった。
「やることって、ここで立ち止まってること?」
 絶対、わかっててからかっていやがる。ウェリアはそう確信しながら、歩き出した。
 トラムでのウェリアの目的は、ここに置いていた自分の荷物を確保することである。ウェリアは自分の荷物を預けてある宿屋へ向かった。
 二人は、警戒のため裏通りを通った。
 トラムは、ウェリアが最初に依頼を受けて騙された街でもある。つまり、ウェリアがこの辺りを活動拠点としている傭兵だということが、依頼主側には容易に推測できるのだ。だから、依頼主の追跡の網が、既にトラムに張ってあってもおかしくはない。
「へえ、こんなとこ知ってるんだ」
 ラウシェが周囲を見回しながら、口にした。人一人が通れるような細い路地を通っている時だった。
「ウェリアってここの人?」
「違う」
「じゃあ、どこの人?」
 どこでもいいだろ、とウェリアは答え、立ち止まって振り向く。ちなみに、振り返るだけの隙間はない。
「少しは黙ってろ。それから、あんまり、俺の名前を呼ぶな」
 依頼主の警戒の網が張られているのなら、自分の名前をわざわざ知らせるのは馬鹿というものだろう。
「じゃあ、何て呼べばいいのよ?」
「呼ぶな。お前が喋らなければいいんだ」
「そんなの、横暴だわ」
「拉致自体が横暴だと俺は思うけどね」
「それとこれとは別」
「何でだっ!」
「声、大きいわよ。警戒してんじゃないの?」
 しれっとラウシェが言った。
 このガキ、と憎々しげにウェリアはラウシェを睨み付けるが、そんなことでラウシェがひるむことがないこともわかっていた。舌打ち一つ、すぐに顔を戻して歩き始めた。
 その後、ラウシェが色々話しかけてきたが、ウェリアはそれを悉く無視した。
 やがて、目的の宿に着く。
 着いたといっても、正面ではない。裏路地から来たので、建物の裏である。ウェリアたちの目の前には、裏口とその横に地下へと続く階段があった。
「ここ?」
 ラウシェがウェリアに聞くが、ウェリアは相変わらず無視を決め込んでいたから、答えず、階段を下りていく。ラウシェは、つまらなさそうな表情をしてから、彼女も後から降りていった。
 階段を下りきると扉がある。ウェリアは逡巡せずにその扉を開け、中に入っていく。
 中は短い通路になっていて、すぐ先にまたドアがあった。ウェリアはそこまで進み、今度はドアをノックする。
 すぐに反応はない。
 ややあって、ドアののぞき窓が開き、人の目がそこからウェリアたちをのぞいた。
 ウェリアはフードを外し、顔を露わにした。
「ハッキか、ちょっと待ってろ」
 ドアの向こうの人物は、そう言ってからドアを開け、ウェリアたちを迎え入れた。
 迎え入れられた部屋は、宿屋のカウンターのような部屋だった。違いは狭く活気がない点である。
 ここは、いわば裏の宿屋だった。
 表では普通に宿屋として営業しているが、ここは、隠れて泊まりたいような者たちを泊めるためのものだった。あまり綺麗でない仕事を生業にしている者たちが主に使用していた。
 もっとも、客は完全に宿屋の主人の親交者のみで、誰でも泊まれるというものでもない。そもそも、主人の親交者しかこの宿の存在を知らない。その点で、客となった者の安全度は高い。
 ウェリアは、その実力から、傭兵の主な仕事とする隊商護衛や、怪魔退治にあぶれる場合が多い。それで仕方なく、犯罪まがいの仕事を受けることが何度もあった。勿論、犯罪は治安当局の捜査を受ける。そういう時、この宿屋が役に立った。
「お前、何をやらかしたんだ。変な輩がお前を捜しているぞ」
 ドアを閉めながら、店主の親父が言った。勿論、鍵をかける。鍵は三つあった。
「ちょっとな。で、ここにも来たか?」
「来た。知らん、と追い返したがな」
 がはは、と店主は豪快に笑った。
「来たのはどんな奴らだった?」
「さあな。そこまではわからん。奴ら、名乗りもしなかったからな」
「北狼傭兵団じゃなかったか?」
「北狼? いや、少なくとも、北狼のペンダントはさげていなかった。まさか、北狼に追われているのか?」
 店主が驚いて声を上げる。
 らしい、とウェリアは疲れたように肩を落とした。
 そのことを考えると、ウェリアは目の前が真っ暗になる。追う者の強大さが、心中に絶望を湧き起こすのだ。
「本当に何やらかしたんだ、お前?」
「そんな大それた事をしたつもりはなかったんだがな」
 ウェリアは、後方に立っているラウシェの方に視線をやった。
「そいつは?」
「まあ、連れだ」
「なるほどな」
 店主が腕組みをした。
 客のことを深く追求しないのが、店主のマナーである。特にこういう店の場合は。この店主はその辺のことをちゃんとわきまえている人物だったから、もう事件についてウェリアに聞くことはなかった。ほらよ、とカウンター奥から鍵をウェリアに放った。
 ウェリアはそれを受け取りながら言う。
「表に、リックという奴が泊まってると思うんだが、もしいたら、明日の朝、北塔で会おうと伝えておいてくれるか」
「それは構わないが。リックという男の姓は?」
「知らん。金色で長髪の男だ。俺はジョン・ロールと名乗っている。わからなきゃ、別にいい」
 無理して落ち合う気持ちは、ウェリアにはなかった。確かに、リックの銀板旅券は魅力だったが、無理してまで一緒に行く必要はない。もともとそう思ってた上に、先ほどラウシェが指摘した疑問で、リックに対する不信感が大きくなっていたのだ。
「わかった。ジョン・ロールだな」
「ああ」
 頷いて、ウェリアはカウンター横の階段を上がっていった。
 表と裏は、完全に隔てられており、行き来は不可能である。また、表も裏も同じ建物の中にあるが、上手くカモフラージュされていて、建物の構造から裏の宿の存在を知る者はいない。
 そんなわけで、裏の部屋は表よりも手狭だが、それで安全が確保出来るのだから、そんなことで文句を言う客はいなかった。
 ウェリアは二階の奥の部屋で止まり、ドアを開ける。
 部屋には窓が一つもなかった。入るとすぐにウェリアは壁の燭架に火をつけ、部屋を照らした。
 部屋の中には、ロッカーがあるだけである。ウェリアはその一番左上の棚を開けた。
 中にはリュックがあった。ウェリアはそれを取り出し、中を確かめる。
 ダガーやロープ、火口箱、携帯寝具、たいまつ、手袋など、今まで入っていた持ち物が、ちゃんと入っていた。金を入れておいた小袋も、リュックの奥にあった。
「ここ、なかなかいいシステムね」
 ラウシェが、頭を揺らしフードをめくった。
「からくり宿みたいになってんでしょ」
「からくりはないな。単に隠れられるだけだ」
 今の俺にとっちゃあ、ありがたいことだが。ウェリアはそう続けながら、リュックを背負う。
「ささやかだけど、魔術処理も施されてるじゃない。一般クラスの捜索魔法なら、抵抗できるわね」
 ラウシェの台詞に、ウェリアは彼女を見た。
 ウェリアは魔法のことに詳しくなかったから、そういう魔法がかかっていることは、知識でしか知らなかった。それを誰にも聞かず、ラウシェは一瞬でわかってしまったのである。
「どうして、そんなことがわかる?」
「どうしてって、あなた。こんなの、魔術を使える人なら、誰だって簡単に感じることが出来るわ」
 至極当たり前の事を言う口調で、ラウシェが答えた。
「お前、魔術師なのか?」
 ウェリアが少し驚いた口調で聞き返す。
「そう見えない?」
「見えるか。ただの煩わしいガキにしか見えんわ」
 失礼ね。ラウシェがそう口を尖らせた後、言葉を続ける。
「前に、あたし強いんだって言ったわよね。そういうことよ」
「ほう」
 ウェリアは異質な者を見るような目で、ラウシェを見た。
 実際、魔法を使えないウェリアにとって、魔術師というのは異質な者でしかなかった。
「で、これから、どうすんの?」
 不意にラウシェが話題を変えた。
「このまま、ほとぼりが冷めるまでここに隠れ続けるの?」
 そうしたいのは山々である。だがウェリアは首を横に振った。
「状況次第だな。北狼が追ってるんなら、ここもそう安全とは言えないだろう」
「そりゃ、まあね」
 嬉しそうにラウシェが同意した。
 ウェリアは、それを見咎める。
「なんで、そんなに嬉しそうなんだ?」
「だって、ここで籠もられるとか言われたら、嫌じゃない」
 ラウシェが肩をすくめた。
「お前の好き嫌いに合わせて、逃亡生活ができるか!」
「あたしの好き嫌いなのよ、これは」
「何だと?」
「あ、ウェリアの気にすることじゃないから。で、状況次第って、どういうこと?」
 すぐに、ラウシェが話題を戻す。
 納得のいかないものをウェリアは感じたが、そのまま流した。
「本当に、北狼傭兵団がお前を追っているかどうか確定したわけじゃないだろ」
「ま、確かに」
「それに、あの乱戦の時の様子じゃ、お前を狙っている奴らは、もう一つあるわけだ。お前を守っていた奴らもあわせて、都合、三つかな。そいつらが何者なのか。そして、そいつらは俺をどうしたいのか」
「多分、殺しちゃいたいんじゃないかな」
 あっさり、ラウシェが言う。
 そうだろうが、とウェリアは溜息をついた。
 あの乱戦の時を考えてみるに、ウェリアの命も狙っているのは明らかだ。
「その点に関して、あんまり楽観しない方がいいわよ。もし命が惜しいのであれば、あたしを、あたしのいた場所に返すことね。そうしたら、あたしが、あなたの保護をするように言ってもかまわない」
「何だと?」
 ウェリアは眉を上げた。
 でも、とラウシェが言葉を続ける。
「もしそうするなら、あたしは逃げるけどね」
「はあ?」
 ウェリアは、わけがわからないといった表情をした。
「あたしにも、いろいろあるのよ」
 ふう、と疲れたように息を吐きながら、ラウシェが首を左右に振った。だがすぐにいつもの表情に戻る。
「でも、そういう状況ってどうやって掴むのよ?」
 色々話題が飛んで、こいつと話をするのはとても疲れる。ウェリアはそう思いながら、視線をラウシェからそらした。
「知り合いの情報屋がいる。そいつに聞く」

   4

 ウェリアの知る情報屋は何人かこの街にいる。
 だが、情報屋を宿に呼び出すには、資金がたりないから、出向くしかない。
 基本的に情報屋と接触を持つのは大変である。彼らも、自分がどれだけ危険なことを生業としているか自覚しているから、滅多に人と接触をとらない。幾つかの手段を経て、情報屋と会えるというのが、通常である。
 ウェリアの現状としては、そういう煩雑な段取りをとっている余裕はなかった。次の瞬間にも、襲われて命を落とす危険性があるわけだから、あまり、外をうろうろしたくないのだ。
 そうなると、店を開いている情報屋に当たるしかない。
 店を開いているといっても、大抵、表の看板は違うものである。自分が情報屋であることを知られないために、表の職業を持っている者たちがほとんどだ。そして、そういう情報屋は、傭兵にもなかなか知られる存在ではない。
 ウェリアも、そういう情報屋をほとんど知らなかったが、たった一つだけ知っていた。向かう先は、そこである。
 そこについた時には、既に夜の帳が辺りを包んでいた。
「マリーの占い館」
 ラウシェが表にかかっている看板を読み上げた。そして、ここ? というような視線でウェリアを見る。
 頷きながら、ウェリアは店内に入っていった。
「ふーん」
 店に入った途端、ラウシェが不敵に微笑する。何か感じたことでもあったらしいが、口にはしない。ウェリアも別段気に留めず、どんどん奥に入っていった。
 奥の扉に、空席中の札が貼ってある。今は客がいないようだ。ウェリアは、そのドアを開けた。
 ドアを開けると、すぐに香の匂いが鼻についた。部屋の中で、蝋燭の炎に照らされて、香の煙がゆらゆらと揺らめいている。
 ウェリアは気にせず入室した。
 部屋の中は暗く、蝋燭の炎だけが唯一の光源だった。その弱々しい光だけでは、部屋の中が広いのか狭いのか判断がつかない。
 部屋の中央部には、丸いテーブルが置かれていて、その向こうに、サリーを着た妖艶な女性が席に着いていた。マリーである。
「あら、生きていたのね」
 マリーがウェリアを認めて、物騒な声をかけた。
「おかげさまでな」
 答えて、ウェリアはテーブル前に置かれている椅子にどかっと腰を下ろした。
 テーブルの上には星図が広げられており、その上にはタロットカードが丸く並べられていた。
「で、何を占いに来たの?」
 マリーが、見上げるような視線でウェリアに問う。口許の微笑が淫靡に見える。
「冗談言うな」
「あら、占い館に来て、占いをしないでどうするの?」
「あんまり、お前とふざけてる時間はないんだ。聞きたいことがある」
「その娘は誰?」
 マリーの視線が、ウェリアの後方に立つラウシェに移った。ラウシェはフードを被っているものの、立っているので、下から見上げる格好のマリーからは、顔が見えるようだ。
「とっても可愛い娘ね」
 マリーがラウシェに微笑んだ。
「連れだ。あまり気にするな」
 ウェリアはぴしゃりと言った。
 だがマリーが怯んだ様子はない。
「あなたには不釣り合いね」
「だから、気にするなと言っているだろう」
 ウェリアは、マリーを睨んだ。
 はいはい、と苦笑しつつ、マリーはウェリアに向き直った。
「で、何が聞きたいの?」
「俺が追われているのは知っているだろ」
「さあ」
「今さらとぼけるな。宿の親父も知っていたんだ。お前が知らないはずがない。それで、俺を追っている奴らは誰だ?」
 ウェリアは一気にまくしたてた。
「ふふ、聞きたい? 後悔するわよ」
 マリーが、ウェリアから視線をそらさず、テーブルの上に両肘を着いて手を組んだ。
 その視線の強さと言い方に、ウェリアは一瞬怯んだが、それでも頷いた。
「聞かせてもらおう」
「まず、北狼傭兵団」
 それを聞いた瞬間に、ウェリアは長く息をついた。頭がくらくらするのが止められない。覚悟はしていたつもりだったが、改めて事実だったとわかると、崖から突き落とされたような衝撃が胸に襲ってくる。
「北狼の背後には、センジェスタの〈兇王〉ランドルフがいるわよ。だから、潤沢な資金が北狼に流れてる。相当数の団員が動いているわ」
「〈兇王〉ランドルフ!」
 ウェリアは呻いた。
 建国間もない北の軍事強国センジェスタ王国の、野望高き王。その性質は、〈兇王〉の異名が示す通り暴虐だった。占領地に居住する老若男女を屍に変えたことは少なくない。その秘めたる野望は、大陸制覇だという。
「これで驚いていたら、幾つ心臓があっても足りないわよ」
 ウェリアが顔色を失っていくのを楽しむような口調で、マリーが言う。
「もう一つは黒の教団。その中の特殊部隊、黒衣衆が動いているわね。この街に入り込んでるのは、黒衣衆よ」
 黒の教団は〈黒の魔神〉を信奉する教団で、魔神の力で世界を闇に覆う、という危険な教義をしている。
 規模こそ大きくないが、〈黒の魔神〉の神格が高く、古く強い神の一柱なので、教団自体の力としては、強い部類に入る。
 どう? というような視線で、マリーがウェリアを見つめた。口許に貼り付けた微笑がウェリアには嫌味に感じられるし、事実そうなのだろう。何をやらかしたのかしら。そう揶揄されているようである。
 ウェリアは、答えず考え込んだ。
〈兇王〉やら黒衣衆やら、大陸でも有名どころの物騒な奴らに狙われるような心当たりは、ウェリアにあるわけがなかった。あるのはラウシェの方で、そのついでにウェリアは狙われている。
 一体、こいつは何者なんだ。そうウェリアは、何度も考えた疑問を脳裏に蘇らせた。
「ところで、お前、ラウシェという名前を知っているか?」
 さすがにもう、ウェリアは彼女のことを無視することは出来なかった。本人の目の前で聞くのはどうかと思ったが、仕方がない。
「あなた、あたしを馬鹿にしてるの?」
「そんなに有名なのか?」
「そりゃ、マルカの王女様だもの」
「なに?」
 ウェリアは知らず声を上げていた。思わず振り返りたくなる欲求を抑えるのに、相当の苦労が必要だった。
 態度の端々から、ラウシェがいいとこの令嬢だとは推測していた。だがそれはあくまでも令嬢クラスで、よくて貴族の娘程度に思っていた。実際、ウェリアの想像する令嬢というのはその辺りが限界で、それ以上の身分は想像の外だった。
「あなたの聞いているのが、ラウシェ・マルカース・スカーレットのことならね」
「……多分、違うな」
 ウェリアはそう否定して見せた。だが実際にそう思ったわけではない。自己保身の一環だった。
 マリーは情報屋である。彼女に情報を聞くと言うことは、彼女に情報を与えるということだ。彼女は多くの情報を握っているのだから、聞かれた情報から、パズルを組み立てるように現状を推測していくだろう。そして、それを新たな客に売る。情報屋は、来た客に情報を売るだけではない。ある情報を、しかるべき筋に流すのも仕事のうちなのだ。
 ここでのやりとりから推測された情報を北狼傭兵団や黒の教団に売られては困るから、ウェリアとしては誤魔化す必要性があるわけだ。
「そんなご大層な姓はしていなかったな。試しに聞くが、その王女様は、幾つくらいなんだ?」
「今年十五になられたばかりじゃなかったかしら。リーブルの第三皇子との婚礼が近いらしいわよ」
「なるほどね。完全に別人のようだ。俺が聞いたラウシェというのは、五十近いばばあだったからな。魔術を使って魔禍を起こしてる迷惑な奴で、何者かと思ったんだ」
 ウェリアはとってつけたような理由を述べて、誤魔化しにかかった。
 そうなの、とマリーの微笑が妖艶さを増す。
 ウェリアは、あまりマリーの表情を見ないようにして立ち上がった。表情を読まれたくなかったからだ。
「邪魔したな」
 そう言いながら金貨数枚をテーブルの上に置き、ラウシェを促して部屋を出た。
「お前、王女様だったとはな」
 店を出てしばらくしてから、ウェリアはラウシェに言った。
 ラウシェが、まあね、と笑う。
「驚いた?」
「そりゃな」
 ウェリアはあっさり認めた。
 ふふ、とラウシェがまた笑って、今度は足を止めた。
「どうした?」
「それを知ったあなたは、これからどうする?」
「何?」
 ウェリアも立ち止まり、訝しげにラウシェの顔を見た。
 ラウシェの表情はいつもと違っていた。いつもの勝ち気で不敵な感じではない。ウェリアの方が怯むような生真面目な顔をしていた。翠の瞳が熱気を帯びてウェリアを射抜いている。
「……どういうことだ?」
 かすれた声でウェリアは聞き返した。
「あなたの掌中にはマルカの王女がいる。それで狙われてるけど、これは逆にチャンスでもある。そう考えない?」
 ウェリアには、ラウシェの言っている意味がよくわからない。想像力が欠如したように、ラウシェの語る言葉が右から左に抜けていく。
「マルカとの交渉次第によっては、身代金がとれるわ。それどころか、今狙われてる状態だって、マルカの保護下に入ることで解消できる」
「……そういえば、宿を出る前に、命が惜しいならってことで、そんなことを言っていたな」
 ウェリアは、宿を出る前のことを思い出した。
 ラウシェの身分がマルカの王女なら、確かに、その方法は魅力的な方法と言えた。
「身代金に、命の安全か……」
 ウェリアは、そうすることを想像してみる。ラウシェを窓口にすれば、マルカと交渉できるだろうし、成功の確率はありそうに思えた。
 王女の身代金は安いものではあり得ないだろうし、保護してもらえるなら、ウェリアにとって一石二鳥である。どれか一つだけの成功でも、ウェリアにとってはおいしい話である。
 しかし。
 そんなに上手くいくか。ウェリアはそう苦笑した。どんなに、成功の確率が高い方法であろうとも、そういうことは自分の器を超える気がするのだ。自分の実力を卑下するわけではないが、人には得手不得手があると思うし、そういうことは自分のやることではないと思う。
 自分のやれることで最善を尽くすとか、そんな格好のいいことは思わないが、自分のやれることで活路を開きたいとは思うのだ。それ以上のことは手に余るから。
「駄目だな。やらない」
「……何故?」
「実力が足らない」
「そう」
 答えたラウシェの表情が、一瞬安堵の表情に変わった。それからすぐに満面の笑みに変化する。
 彼女の中で、いったいどのような心情の変化があったのだろう。それを考える前に、ウェリアの思考は中断された。ラウシェがウェリアの胸に飛び込んできたからだ。
 弾みで、彼女のフードが外れる。
「お、おい……?」
 ウェリアはラウシェを受け止めるものの、驚愕して思わず、ラウシェを見下ろした。
 ラウシェは、ウェリアに体重を預けたまま、頭をずらしてウェリアの目を見た。表情は満面の笑みのままである。
「今の解答次第によっては、あなたと別れるつもりだったのよ」
「はあ?」
「残念だったわね。これからも、狙われるわよ」
 ラウシェが嬉しそうに言った。
 それはつまり、とウェリアがラウシェの肩を掴んで、引き離しながら尋ねる。
「俺は不正解を引いたのか?」
「さあ、どうだか。でも少なくとも、まだ危険な二人旅が続行することは確かってこと」
 だから、好きでお前と一緒にいるわけじゃない。ウェリアのそんな言葉は、ラウシェの笑顔に口の中で消えた。
 ウェリアは大きく溜息をついて、ラウシェから手を放した。
「まったく」
 そう呟いて、踵を返した。
 その途中、ラウシェの表情が笑顔から、不敵な微笑に変わったのが見えた。
「来たわよ」
 ラウシェが鋭い声で、ウェリアに告げる。
 何、と答えようとした時、視線の先に黒いローブを纏った男が現れた。
「黒衣衆か!」
 ウェリアは再びラウシェに向き直り、彼女の肩を抱えると、黒ローブの男とは逆方向に走りだした。
「逃がすか!」
 黒ローブの男がそう叫び、印を結んだ。そして、呪文を唱える。
「魔法?」
 ウェリアが恐慌した声をあげるのと、呪文が発動されるのが同時だった。
 雷撃が、後方からウェリアを襲う。
「くそっ!」
 ウェリアは叫びながら、横の路地に飛び込んだ。背中を雷霆がかすめる。背負っていたリュックが吹っ飛び、黒焦げになった。
 せっかく確保した荷物だったが、そんなものよりも命の方が大事だ。ウェリアは用を為さなくなったリュックの残骸を、まとっているローブごと棄てながら立ち上がり、逃げ出した。
 あちこちから、怒号が聞こえる。黒衣衆も人数がいるようだ。包囲して捕らえようという腹づもりらしい。
「そうは行くか」
 トラムの裏路地では、ウェリアの方に一日の長がある。ウェリアはトラムの路地を熟知していたから、迷わず細い隙間に入っていった。身体を横にしなければ通れないような建物と建物の隙間だ。逃げるスピードは遅くなるが、ここをしのげれば、何とかなる確信があった。


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