王女の理由
−Princess of Destiny−

一章

   1

「ちょっとお、なにもここまでする必要ないんじゃない?」
 ラウシェが抗議の声を上げた。
「うるさい」
 ウェリアは全く取り合わず、作業を続けた。いったんラウシェを縛るロープを解いて、手近な樹に彼女ごと縛っているのだ。
 ここは、小川の川縁である。追っ手を撒いた後、街道を外れ、森の小径を進んで見つけた場所だった。
 もはや地理的にどの辺りになるのか、全く見当もつかない。方角と進んだ距離からして、マルカとライマの国境付近ではないかとは推測できるが、それも確実ではない。
 周囲は静かで人の気配がない。清涼感漂う場所である。休憩する場所としては良と思われた。
「手のロープは解いてやったんだから、ありがたく思え」
「思うわけないでしょ。こんなことしなくたって、逃げないわよ」
「うるさい」
 聞く耳持たず、ウェリアは作業を続けた。
 やがて作業が終わると、一つ息をついてその場に腰を下ろした。否、下ろした、というより、腰が落ちたという感じが強い。それぐらい疲労が溜まっていた。
 顔を伏せ、息と気持ちを落ち着ける。
 左肩がずきずき痛んだ。これの手当もしなければならない。ウェリアは顔を上げ、自分の服の裾を破り、それを左肩に巻こうとした。
 しかし、片手でやらねばならないので、なかなか上手くいかない。何度も巻き付けようとしては、失敗した。
 見かねたラウシェが声をかける。
「やったげようか?」
「いらん」
 ウェリアは即答する。やってもらうには、ロープを解かなければならない。そうすれば、彼女がどういう行動に出るかわからない。拒否するのは、当然の帰結である。
「だーかーらー、あたし逃げないって」
 呆れたようにラウシェが言った。
「人質はみんなそう言うよ」
「わかんないかなあ」
 ラウシェが盛大に溜息をつく。
 思わずウェリアは手を止めて、ラウシェを見上げた。
「逃げるんなら、もっと前に逃げ出せたのよ。あなたに捕まった時、あたし抵抗しなかったでしょ。もしあの時、あたしがその気なら、簡単にあなたの手から逃げ出せたのよ。あたし、これでも強いの」
 ラウシェが、じっとウェリアを見る。
 ウェリアは、一拍間を置いてから言葉を返した。
「それは、つまりなにか? お前の厚意で捕まってくれたと。そう言いたいわけか?」
「ええ、そうよ」
 ラウシェが迷いなく頷いた。
 今度は、ウェリアがじっとラウシェを見た。
 年の頃は、十四・五才だろう。白皙で勝ち気そうな顔立ち。瞳は翠色で睫毛が長い。華奢な体躯をしているが、女性的な丸みがちょっとだけ見て取れる。見事な赤毛が微風に揺れていた。
 そして、彼女の表情からは何の恐怖も見て取れない。
 そういえば、捕まえた時も、そのまま引っ張っていった時も、逃走の途中吊り橋を渡った時も、彼女は悲鳴すら上げなかった。あまつさえ、逡巡するウェリアに決断させる言葉を放ったりしていた。そうなると、彼女が言う言葉もあながち嘘ではないのかもしれない。
 そんなことを考えながら、ウェリアは再び口を開いた。
「そいつはどうも」
「わかってくれた?」
 ああ、とウェリアは頷く。
 それに応えて、ラウシェが嬉しそうな表情を作った。
「じゃあ、早くこれ解いてよ」
「ロープは解かない」
 えっ、とラウシェが眉根を寄せる。
「なんで?」
「お前が言葉通り強いのなら、なおのこと解くわけにはいかない。解いた瞬間、何されるかわかったもんじゃない」
 ウェリアはそう言い切って、ラウシェを見返した。
 それはつまり、とラウシェが目を細める。
「あたしが強かろうが、そうでなかろうが、解く気はないというわけね。逃げないって言ってるあたしの言葉なんか、これっぽっちも信じてないんだ」
「信じる馬鹿がどこにいる?」
「現にあたし、逃げなかったじゃない」
「次は逃げるかもしれない」
「あのねえ」
「もういい。お前が何と言おうがロープは解かない。言うだけ無駄だから、黙ってろ」
 ウェリアはそうラウシェを睨め付けて、会話を終わらせた。
 傷の応急処置は、時間こそ相当にくったが、なんとかできた。できたといっても、布を傷口に巻いて、止血しただけであるが。いずれ本格的な手当をしなければならないだろうが、今はこれで十分である。
 さてと、とウェリアは立ち上がった。
 上空を見上げるまでもなく、景色は薄暗い。日が暮れかけているのだ。
「これからどうすんの?」
 黙っていろと言った言葉をあっさりと無視して、ラウシェが再び口を開いた。
 そうだな、とウェリアは拳を顎に当てる。あっさり命令を無視されたことには思いいたらなかった。
「どうすっかな。夜営を張るのが順当か……」
 言うまでもなく、夜の旅は危険である。
 夜盗の類が出没するし、怪魔にしても、夜行性のものが多いのが通説である。そんなものに襲われたりしたら、命がいくつあっても足らない。しかも、ここの正確な場所がわからないから、どの街がどの方向にあって、どこが近いかということがまるでわからない。
 しかし、このまま長時間ここにいるのも嫌だった。まだ奴らが探し回っているかもしれないのだ。その網にかからないように、できるだけ早く、できるだけ遠くに逃げたかった。
 ウェリアは、しばらく思案してから決断した。
「やっぱり夜営を張る。命あっての物種だ。夜には、奴らも捜索を打ち切るかもしれないし」
「夜営!」
 ラウシェが声を上げた。あまり嬉しそうな声ではない。
「本気? こんなとこで? 寝るとこは、どうすんのよ?」
「この期に及んで、お前に選択の余地があると思ってるのか」
 ウェリアはラウシェを冷ややかに睨め付け、夜営の準備に入った。
 夜営の準備といっても、小枝類を集めて、火をつけるだけである。たいした時間はかからない。
「ねえ、夕食はどうすんの?」
 火をつけ終え、その場に腰を下ろしたウェリアに、ラウシェが問うた。
「なしだ」
 ウェリアの返事は素っ気ない。
「ええっ!」
 ラウシェが大仰に驚いた。翠の瞳が、信じられないことを聞いたと言っている。
「どこに食料があるって言うんだ?」
 ウェリアは鬱陶しそうにラウシェを見た。軽く両手を開いて、何も持っていないというポーズを作って見せてやる。
「ほんとにないの?」
「あったら食ってるよ。誰が好きこのんで、飯抜きを選択するか」
「あなた、弱っちくても傭兵なんでしょ? 保存食ぐらい用意しときなさいよ」
「夜を越える仕事という話ではなかったんだ。だいたい、人間を連れて行かなきゃならなかったんだぞ。身軽に装備を調えるのが普通だ」
「それでも、何が起きるかわからないのが傭兵の仕事ってもんでしょ。現に今、不測の事態で夜を越そうとしてるのよ。そんなんだから、しょーもない仕事しかまわってこなくて、あまつさえ、依頼主に騙されるのよ」
 うるさいな、とウェリアは不機嫌そうにラウシェを睨む。
 彼女の言っていることは、いちいちもっともなことである。傭兵として、最低限持つべき常用品を持たなかったウェリアが迂闊なのである。備えという点においてすら、三流ということを思い知らされる。
 しかし、迂闊さを他人に指摘されたら、誰だって不愉快である。
「お前、人質の分際でいちいちうるさいんだ。だいたい、例え食料があったとしても、貴重な食料をお前になんぞにやるか。人質は生きてさえいればいいんだ!」
 ウェリアは脅しを込めて一気にまくしたてた。
 しかし、ラウシェは何の痛痒も感じないのか、ふん、と鼻で息をつき冷たい視線をウェリアに送る。
「食料があれば、そうしたらいいわ。なくて食べらんないのは、あなたも一緒」
「ああ、そうだよ。だから、少し黙ってろ」
 ウェリアはそう言うと、視線を火にやった。ラウシェは、まだしばらくぶつぶつ言っていたが、無視して火を見続けた。
 気がつくと、辺りは闇に包まれていた。日が落ちたらしい。
 月もなく、暗い夜。焚き火の炎だけが、この辺りの唯一の光源だ。オレンジ色の炎が、ウェリアの顔を少し照らす。夜の冷気で冷え込んできているだけに、焚き火の熱は暖かく、心地よい。
 周囲は静寂に包まれている。小川のせせらぎ。炎がぱちぱちと爆ぜる音。森の葉音。確かに音はあるが、不思議なことに、それら全てが静寂さを醸し出していた。
 手当したはずの左肩がまだ痛む。消毒も何もしていないから、化膿しているかもしれない。せめて水で洗うべきだったか。ウェリアはそう悔いたが、今さら洗う気にもならない。
 空腹はそれほど気にならなかった。ウェリアの生活水準が低いということもあるし、三流傭兵である彼は、何度かこういう目に遭っていて慣れていたのだ。いばれることではないが、現在役立っているのは事実である。
「ねえ」
 しばらく黙っていたラウシェが、また声をかけてきた。
 何だ、とウェリアは顔を向けずに聞く。
「夕食がないのは仕方ないけどさ。せめて座らせてよ。このままずっと立ちっぱなしじゃ、足、つっちゃうわよ。ロープで縛ったままでいいからさ」
 ラウシェがそう頼んだ。
 ウェリアは火を見ながらしばらく思案したが、やがて立ち上がり、樹から彼女を放してやった。
「ついでにロープも解いてくれると嬉しいんだけど」
「甘えんな」
 ウェリアは、ラウシェを最初に捕まえた時のように縛り直した。
「ま、仕方ないわね」
 ラウシェが諦めたような口調で言って、その場に腰を下ろした。両手が後ろでふさがっているので、座る時にバランスがとりにくそうだったが、少しよろけるだけで無事に座ることができた。
「もう少し我慢するんだな。どこかの街について、少なくとも俺の安全が確認できるまで、つきあってもらうからな」
「安全が確認できたら、ね」
 ラウシェが意味ありげな口調で、繰り返した。
 しかし、ウェリアは別段気にせず、また炎を眺めた。
「ねえ、まだあなたの名前、聞いてないわ」
 ラウシェが炎越しに尋ねた。
「人質に名乗る奴はいないね」
 ウェリアは素っ気なく答える。
「じゃあ、あなたを呼ぶ時、何て呼べばいいのよ?」
「あなた、とか呼んでるじゃないか」
「二人以上誰かがいたら、どっちかわかんないでしょ。それに、もしこのまま街に入ったら、あなたの名前をあたしが聞かれた時、ちょっと困るんじゃない? もう少しこの状態が続くんなら、名乗ってもいいと思うけど?」
 ラウシェがもっともらしいことを言った。
 そうだな、とウェリアは少し考える。
「ジョン・ロール」
 不意に思いついた偽名を名乗った。意味も由来も全くない名前である。
 しかし、ラウシェはそれをすぐに看破した。
「嘘おっしゃい」
「なんでわかる?」
 少し驚いて、ウェリアはラウシェを見た。
「乱戦の最初の方で、そういう名前は出てこなかったもの。ハッキとか、ウェリアとかいう名前は出てきたけど?」
 ラウシェが、どう? という表情を作って見せた。
 ウェリアは、うっと唸って頭をかいた。
「そこまでわかってんなら、聞く必要はないだろう」
「あら、当たったの。他の誰かかもしれなかったんだけど」
 しれっとラウシェに答えられ、またウェリアはううっと唸る。
「くそっ、俺の負けだよ。ウェリア・ハッキ。それが俺の名だよ」
「ウェリア・ハッキ。そうウェリアね」
 ラウシェがにっこり微笑んだ。
「あたしはラウシェ。知ってる?」
「知らん」
 ウェリアは即答した。現実に知らなかったからだ。
 そう、とラウシェが少しがっかりしたような声になった。ちょっとした有名人なのかな。ウェリアは彼女の態度からそう思った。
「そういえば、何でお前は狙われてるんだ? しかも、あんだけの乱戦になっても、殺そうとはされずに、生かして捕らえようとした相手の意図は普通じゃないぞ」
「だから、ウェリアも生き残れたんだよね」
「そうだけどよ」
 実際、例え捕虜にしようとした場合でも、それが叶わなかった場合、そいつを殺害するのが通常である。
 生かして捕らえよ。それが叶わなかった場合、殺害せよ。
 こういう場合の依頼や命令は、大抵こんなものである。どこぞのお姫様が焦点でも、そうされるのが普通である。
 しかし、ラウシェを捕らえようとした者たちは、彼女を殺害をしないことが暗黙の了解のように戦っていた。生かして捕らえるより、殺してしまう方が労は少ないはずなのにだ。
 この小娘が余程重要なのだろうか。ウェリアは、まじまじとラウシェを見つめた。偉そうな口振りから、権門の生まれだろうとは推測できるが、それ以上のことはわかるはずもない。
「あたしの名前も知らないようじゃ、どれだけ考えてもわからないわよ」
「じゃあ、何者なんだ、お前は?」
「聞きたい?」
 ああ、と頷きかけて、ウェリアは躊躇した。野生の勘というか、小動物の危機察知能力とでもいうのか、そういうものが警鐘を鳴らしたからだ。
「やめとく」
 頷きかけた首を横に振り、ウェリアは視線をそらした。
「どうせ、遠からずお前とは縁が切れるんだ。聞いてしまって変なことに巻き込まれたりするのはごめんだね」
「巻き込まれるという観点から見ると、もう巻き込まれてると思うけど?」
「まだ本格的じゃないはずだ。俺はお前の争奪戦に加わるつもりは毛頭ない」
「そう。それも一つの選択かもね」
 ラウシェが静かに答えた。その口調に少し憐れみとか同情とかが混じっていたのが気になった。無駄だと思うけど。そう言われている感じである。それでもウェリアは、ラウシェのことを聞く気にはならなかった。
 実際の所、こういう危険な目に遭っているのだから、情報収集の機会を逃すのはいい傭兵とはいえない。危険を回避したいなら、どんな危険かをまず知る必要があるのだ。危険があるという警鐘は正しいのに、その対処方法に問題があった。身に迫る危険に目を背けてしまう辺りに、彼が三流に留まっている理由の一端がある。
「ところで、どうやって眠ったらいいの?」
 ラウシェが小首を傾げて問うた。
「横になればいいんじゃないか」
 ん、とラウシェがわからないという顔をした。その顔にウェリアは、何がわからないんだという視線を送る。
「毛布とか敷物とかないの?」
 ごく当たり前のことを聞いている口調である。育ちが良すぎるらしい。
「あると思うのか?」
「じゃあ、どうやって寝たらいいのよ?」
「だから、横になればいいじゃないか」
「そのまんまで?」
 まさか、という風にラウシェが聞いた。
「そのまんまで」
「地面は固いし、夜中になったら冷えるじゃない。敷くものもかぶるものもなかったら、どうすんのよ?」
「耐えろ」
 ウェリアは冷たく言い放った。
「そんなあ」
「嫌なら寝るな」
「わかったわよ。……まったく、これも選んだ道ね……」
 ぶつぶつ言いながらも、ラウシェはその場でごろんと横になった。だが目はまだ開いている。そのままの体勢で、ウェリアを見上げていた。
「ねえ。両手ふさがったままじゃ、明日の朝、起き上がれないんだけど」
「心配せんでも、引っ張って起こしてやるよ。お前は大事な人質なんだから、寝てようが何しようが連れていくから」
「そう。じゃあ、お願いするわね」
「ああ」
 ウェリアは面倒くさげに答えた。
 しばらくして、ねえ、とラウシェがまた尋ねる。
「お前、ねえねえうるさい。早く寝ろ」
「べつにいいじゃない。いつ寝ようがあたしの勝手でしょ。それにお腹空いてなかなか眠れないのよ」
「そうか。で、何なんだ?」
「ウェリアは寝ないの?」
「寝られるか!」
 ウェリアは、じろりとラウシェを見やった。
「どうして?」
「あのな、お前を取り返そうとしている輩がいつ現れるかわかったもんじゃないだろ。ここはまだ安全圏じゃないんだ。それに、見張りをたてずに寝ちまったら、夜盗や怪魔が近づいてきてもわからないだろ」
「じゃあ、ウェリアがそういうのを見張っててくれるわけね」
「お前に頼むわけにもいかんだろ」
「どうして?」
「逃げる可能性だってあるし、それに絶対、お前は寝てしまう」
 ラウシェが徹夜に耐えられる精神をしているとは、とても思えないのだ。
「まあね。一晩なんてとても起きてらんないわ」
 ラウシェがいともあっさり認めた。そして、やっと目をつぶる。
「おやすみなさい」
 それからしばらくすると、穏やかな寝息が聞こえてきた。
 ウェリアは溜息をついて、呆れた目でラウシェを見やる。
 早く寝ろとは言ったが、こうも安心して寝られるとは。一応人質なのだから、もうちょっと警戒してもよさそうなものだ。
 いいとこの令嬢だろう。掛け値なしの美少女でもある。そんな少女が、目の前で何の警戒心もなく眠っている。おあつらえ向きに両手を縛ってある。何をしようが、抵抗の余地はないはずだった。
 何もする気はないのであるが。
「ナメられてるとしか思えんな」
 ウェリアはそう呟いて、ラウシェから視線をそらした。

   2

 頬に陽の光を感じてラウシェは目を覚ました。
 身体が少し痛い。固い地面で横になり、夜の寒さで身を縮めていたせいだろう。そして何より、手が括られていて動かせなかったことが大きい。
「いたたたた。これは、とてもさわやかな朝とは言えないわね」
 上体を起こそうとするが、両手を後方に縛られているので上手くいかない。仕方がないので、ラウシェはそのままの状態で視線を巡らせ、ウェリアを探した。
 ウェリアは昨日と同じ所に、同じ姿のままで座っていた。彼はラウシェの視線に気づき、寝不足気味の目を向けた。
「起きたか」
 ウェリアは立ち上がり、ラウシェを引っ張り上げた。よっこいしょと声をかけながら、立ち上がらす。
「ちょっとお、もっと優しく扱ってよねえ」
 物でも扱うような起こし方に、ラウシェが抗議の声を上げた。
「うるさい」
 聞く耳も持たず、ウェリアはそのままラウシェを引っ張って、ずんずん歩いていった。馬を繋いである木の所に来ると、一つ息をついた。
「どうしたの?」
「いや。またこれに乗せるために、お前を上げるのかと思うとな」
「なにそれ、失礼ね! あたしはそんなに重くないわよ」
 ラウシェが口を尖らせた。
「人一人を抱え上げるんだぞ。多少の軽重が何の慰めになる」
「んじゃ、このロープを解いてくれたらいいのよ。そしたら、あたしは自力で馬に乗れるもの」
「できるか、そんなこと。逃げてくれと言っているようなもんだ」
 ウェリアはそう言ってから、ラウシェを荷物のように強引に抱え上げ、馬に乗せた。
 どさっと馬の上に乗せられたラウシェが悲鳴を上げる。
「きゃあ! ちゃんと人の扱いをしろお」
「うるさい、人質」
「あたしは女の子なんだぞ。それなりの抱え上げ方ってもんがあるでしょ」
「黙れ、人質」
「そんなんだから、三流なのよ」
「喋るな、人質」
 ウェリアも馬に乗り、出発させた。
 ラウシェは、後背のウェリアに背中ごとぶつかり、不満一杯の表情で彼を見上げた。
「人質人質ってねえ。ちゃんと名前を言ったでしょ。ラウシェってーのよ、あたしは。ちゃんと呼べ」
「わかったから、ちょっと黙っとれ、人質」
「わかってなあい!」
 ラウシェは一度身体を離し、今度は勢いをつけて、思い切り背中をぶつけた。
 ぐえっ、とウェリアは呻く。
「なにしやがる!」
「ふん。物覚えが悪いからよ。自業自得だわ」
 ラウシェが、つんと前方に視線を戻した。
「このガキゃあ……」
 ウェリアは、ラウシェの赤い頭を睨む。だが彼女は気にもとめない。
「で、ウェリア。今日はこれからどうすんの?」
「そんなことぁ、お前が知る必要はない」
 ウェリアは睨むだけ無駄なことを悟って、前方に視線を戻した。
「いーじゃないよ。どうせ、味方のいない二人旅なんでしょ。少しくらい情報提供してくれてもよさそうなもんだわ」
「あのなあ……」
 ウェリアは疲れた声を出した。
「べつに、俺は好きこのんでお前といるわけじゃあない。今のところ、お前は俺の生命線なんだ。そうじゃなきゃ、誰がお前みたいなのと、一緒にいるか」
「そいつは、失礼な言い種ね。あなたの理屈からいけば、あたしはあなたの命の恩人じゃない。もっとあたしを敬うべきじゃなくて?」
 ラウシェがいけしゃあしゃあと言ってのけた。
「なんでじゃ! まったく、あーいえばこう言う。もうどうでもいいから、少し黙っててくれ」
「ウェリアが、あたしの質問に答えないからいけないのよ」
「わかったよ」
 ウェリアは疲れた声で敗北の言葉を吐いた。緊張しっぱなしで、しかも徹夜明けというのが、体力的にも精神的にもこたえているらしい。こましゃくれた口答えに反論する気力が失せてきていた。
「街に出て、場所を確かめる」
「マルカとライマの国境付近だと思うけど。それで?」
「それだけ。その後のことは、その時に決める」
 なるほど、とラウシェが感情のこもっていない口調で頷く。
「つまり、行き当たりばったりってことね」
「どうとろうと構わん」
 ウェリアは、もうどうでもいいような口調になっていた。
 ふうん、と応えながら視線をウェリアに向けたラウシェだったが、それ以降何も言わなくなった。反応がないのがつまらないらしい。
 静かなのはいいことだ。ウェリアは、最初からこうしておけば良かったと思いながら、騎馬を進めた。
 小径はそろそろ終わりそうである。木々の間から、幅員がある程度ある道が見え隠れしていた。あれは街道であろう。あれに出て道なりに進めば、どこかの街につくはずだ。
 ふとウェリアは馬を止めた。
 どうしたの? という視線をラウシェが送る。
 ウェリアはそれに答えず、鬱陶しそうに後頭部をかいた。
「どうすっかなー……」
 声にならない呟きを発して、木々の隙間から覗く街道へ視線をやった。
「どうしたのよ?」
 ラウシェが、今度は声に出して問うた。
「このまま街道に出ても、やばいだろ」
 鼻で息をつきつつ、ウェリアは答えた。
 ああ、とラウシェがウェリアの考えを察したように何度も頷いてみせる。
「そりゃそうよね。あたし、縛られたままだし。あからさまにあやしいよね。で、どうすんの?」
「それは、暗にロープを解けと言っているのか?」
「さあて、ねえ」
 ラウシェはとぼけたが、その口調は明らかにウェリアの言葉を肯定していた。
「絶対に解かねえ」
 ウェリアはそう言い切って、思案に入った。
 だからといって、そうすぐに良策が浮かぶわけではない。早く決めて街にまぎれなければという焦慮ばかりが頭を巡り、なかなか形にならないのだ。
「逃げないって言ってんだから、さっさと解けばいいのに」
 そう呟くラウシェの声が耳に入ったが、当然無視する。
 しばらく途方に暮れていると、遠くから馬の蹄の音が聞こえた。
「! ……追っ手が来たのか……?」
 ウェリアの身体に緊張が走る。一気に冷や汗が背中を流れ、手綱を持つ手が細かく震えた。
 視線を後方に巡らすが、そこは木々が生い茂り、街道の先を視界に捉えるにはいたらない。
 その時、不意に顎にこそばゆい感触が走った。
 視線を下げて見てみると、ラウシェが身体を寄せるようにして額をウェリアの顎に当てていた。こそばゆく感じたのは、彼女の前髪が触れていたからだった。
「大丈夫よ。あれは違うわ」
 ラウシェが穏やかに言う。
「よく聞いてみて。馬の蹄の他に車輪の音がするでしょ。あれは馬車よ。追っ手は騎馬隊でしょ。違うわ。街道だから、馬車も普通に通るのよ」
「そ、そうか……」
 言われてみて、初めてウェリアは車輪の音を聞いた。一つ安堵の息をつく。
 確かに、街道なんだから馬車などが通るのは当たり前で、それらが全て追っ手であるわけがない。
 そうだよな、とウェリアは騎馬を再び進ませる。
「頭では、わかっちゃいるんだ」
 しかし、身体がわかっていないらしい。後背からの物音に、神経が過敏になっている。
「ま、わかる気はするけどね」
 ラウシェが頭を元に戻した。その瞬間に、また前髪がウェリアの顎をかすめ、こそばゆさが増した。
 ウェリアは人差し指で、顎のこそばゆくなった部分をかきながら、情けない気分にはまっていくのを自覚していた。
 仕方がないこととはいえ、人質の少女に慰められているのだ。ちょっと情けなさすぎると自分でも思う。
「で、どうすんの?」
 ラウシェが問うた。
 何が、とウェリアは問い返しかけて、それが先ほどから継続した質問ということを思い出した。
「今、考えてる」
 不機嫌そうに答え、再び思案する。
 問題なのは、ラウシェを縛っていることが露わになっていることである。それを隠せれば、問題は解決すると思われる。
「そうか」
 ウェリアの脳裏に、これからどうしたらいいのかがひらめいた。
「なんか、思いついたの?」
 ラウシェが聞くが、ウェリアはそれに答えず、騎馬を急がせた。何度も何度もラウシェが同じ質問を繰り返すが、全て無視して街道と合流する付近まで来た。そこでラウシェを下ろし、手近な喬木に縛り付ける。
「ちょ、ちょっと、なにすんのよ! ――んぐっ」
 ウェリアは、抵抗するラウシェに無理矢理猿轡をかませた。
 むむむむむ、とラウシェが不満一杯の表情でウェリアを睨みつける。
「黙ってろ」
 ウェリアは言い捨てると再び騎馬に乗り、街道へ出ていった。
 ラウシェが視線で追おうとすると、街道に出た所で彼は止まる。そこは、ラウシェが縛られている喬木からは、ほとんど離れていない。
 微妙な距離だ。ラウシェに何か起こっても、すぐに気づき取って返せる距離である。彼はそこから街道の向こうを見ていた。
 そこに馬車がやってきた。
 ウェリアが手を上げて馬車を止める。そして、御者と何か話している。
 やがて、ウェリアは懐の革袋から貨幣を取り出しそれを御者に渡すと、御者はワゴン内からローブを取り出しそれをウェリアに渡した。
 商談が成立したらしい。その後、二人は会釈しあって別れていった。御者は馬車を発車させ、ウェリアはラウシェの所に戻ってきた。
「これを着るんだ」
 ウェリアがそう言いながらラウシェと喬木を縛るロープを解き、先ほど買ったばかりローブをラウシェに被せた。腕と胴を縛るロープはそのままである。
「むむむむむっ!」
「うるさい」
「むむむむむっ!」
「黙れ」
「むむむむむっ! むー! むー! むむむっ!」
 妙に騒ぐラウシェの様子から、ああ、とウェリアが思い出したように、彼女の猿轡を解いた。
「ぷはあっ!」
「忘れてた」
「というより、あたしが主張しなきゃ、そのままにしておくつもりだったでしょ」
 ラウシェが険悪な口調で指摘しながら、ウェリアを睨んだ。
「そんなことはないぞ」
 ウェリアは口では否定するが、心中は勿論そのつもりであった。そのことは、ラウシェも見透かしているから、彼女は、はん、と鼻で息をつく。
「どうだか」
「ちゃんと解いてやったんだ。文句はあるまい」
「猿轡はね」
「他を解くんなら、ローブなんぞ買う必要はあるまい」
「確かに、隠れるけどさ」
 ラウシェが、ローブを着込んだ自分の姿を見下ろした。
「これなら、あやしくはないだろう」
 ウェリアは満足げに言いながら、ラウシェの頭にフードを被せた。

 街に着いたのは、昼過ぎのことである。
 街道を往く途中、何人もの人間とすれ違ったが、妙な視線を感じることは少なかった。ローブのおかげと言えるだろう。
 ウェリアは街に入ると、宿屋を探した。
 この街は中規模の街で、宿屋もそれなりに点在している。そのうちの一つに入り、個室をとった。
「一緒に泊まるんで?」
 宿屋の親父が、ウェリアとラウシェを奇異の目で見た。
 ああ、とウェリアはできるだけ素っ気なく頷いた。当然のことを言ったまで、という印象をなるべく与えたかった。
「へえ、ご夫婦か何かで?」
「そう見えるか?」
 ウェリアは警戒した口調になった。
 ラウシェはフードを深く被っている。だから、彼女がどんな顔で、どういう感じの人物かは親父にはわからないはずだ。だが明らかに小柄なのと、フードの陰から除く細い顎の線が、彼女を女性だと判断させたのだろう。
 少年と思ってくれれば良かったのだが。そう思ってはみるものの、女性だと見破られた以上、それをごまかすのはかえって怪しまれる。
 宿屋の親父が敵の一味だと妄執するほどまでは、自分を見失っていないつもりである。だが追っ手がここに迫ったとして、自分たちの居場所を親父に尋ねた時、不自然な二人連れのことを思い出されたくはないのだ。それが懸念である。
 宿屋の親父は、ウェリアの口調に気づいたようだ。すぐに営業スマイルを浮かべて、いえねえ、と答える。
「つい先ほどにも、お客さんがたと似たような、お年のはなれたご夫婦がお泊まりになられたもんですからねえ」
 営業用の嘘である。そんなことはわかっているのだが、あえてつっこんだりはしない。
 ウェリアは素直に頷いておいた。
「なるほどな」
「はい、では、二階の一番奥の部屋でございます」
 ありがとよと応じて、ウェリアは親父から鍵を受け取ると、ラウシェを促して部屋に向かった。
 部屋に入ると、ウェリアはすぐに鍵を閉める。そして、窓のカーテンも引いてしまった。
「カーテンまで引いたら、暗いじゃないのよ」
 ラウシェが抗議の声を上げた。彼女は首を振ることでローブのフードをめくり、顔を出していた。そのため、赤い長髪が少し乱れている。
 しかし、ウェリアは答えず、手近な椅子に腰を下ろした。そして、大きく息をつく。
 ウェリアが答えないのを見てとるや、ラウシェはぶつぶつと呟きモードに入った。
「まったく臆病なんだから。だいたい、カーテンなんか引いたところで無駄なのに」
 そのままベッドに腰掛けた。
「あーあ、お腹空いたあ。ねえ、今日も食事なしなんてことはないわよね? さすがに二日続けては辛いわ」
 そうだな、とウェリアは気怠そうに顔を上げた。
「何か買ってくるか」
 言って立ち上がる。
「どっか買いに行くの?」
「下に降りるだけだ」
 普通、宿屋の一階は酒場になっている。宿屋専門の店はそれほど多くない。この宿屋も例に漏れず、一階は酒場である。ウェリアはそこで、二・三品見繕ってもらうつもりであった。
「と、その前に」
 ウェリアはラウシェの方を向いた。
「なに?」
「ちょっと固定するぞ」
「またあ?」
 ラウシェが呆れた口調で言いながら、ロープの端をベッドに括りつけているウェリアを見やった。その視線は、そんなことしなくても逃げないのに、と言っているようである。勿論、ウェリアはそれを真に受けたりはしない。黙々とラウシェを固定していった。
「そんなに縛るのが好きなの? 趣味悪いわよ」
 そういうラウシェの挑発にものらない。結び終えると、じろりとラウシェを見やってから、部屋を出ていった。
「よっぽと疲れてるみたいね。猿轡するの忘れてる。あたしが叫び出せばどうするつもりなんだろ」
 ラウシェが閉じられたドアに視線をやって、呆れたように息をついた。
「ま、仕方ないか」
 呟いて、ごろりとベッドに仰向けになった。
 ウェリアが部屋に帰ってくるまで、それほど時間はかからなかった。彼は四皿載っているトレイを持って、帰ってきた。
「おかえり」
 ラウシェが首だけ横に向けて声をかけ、よっ、とかけ声一つ、腹筋だけで上体を起こした。
 ウェリアは、それに視線を向けただけで何も返さず、トレイをテーブルの上に置いた。
「ねえ、あたしどうやって食べたらいいの?」
 ラウシェが訊く。
 え、とウェリアは不意をつかれて、彼女を見返してしまった。
「このまんまんじゃ、食べらんないんだけど」
 ラウシェが、ロープに縛られている自分の身体を見下ろした。腕は後方に括られたままだ。
「ま、そりゃそうだ」
「じゃあ、どうすんの? ウェリアが食べさせてくれるとか。あーん、て」
「何で俺が」
「じゃあ、ロープを解いてよ。食べらんない」
「嫌だ」
「じゃあ、食べさせてくれるしかないじゃん。あ、そうそう、ちゃんと手は洗ってね。汚いの、やだから。それでねえ、あたし、そのチーズののったパンからがいいな。おいしそう」
「ベッドに繋ぐロープを解いたら食えるだろ」
 ウェリアは冷たく言い放った。
「あたしに犬食いをさせようっての!」
 ラウシェがまなじりを上げた。
「お前、食べ方を選択できる立場にいると思ってんのか? 食べられるだけマシだと思え」
 ウェリアは疲れた口調で返した。
 実際、疲れ果てていた。昨日から一睡もしておらず、周囲に注意を払いっぱなしなのだ。それほど強靱とはいえない彼の精神は、相当にすり減っていた。
「犬食いなんてできない。人間なんだから」
「じゃあ食うな」
「あ、そういうこと言うの」
 ラウシェが不機嫌そうにウェリアを睨め付ける。
 一時の沈黙の後、ラウシェがぶつぶつと聞こえよがしに呟き始めた。
「まったく、なんて心の狭い奴なのかしら。だいたい、人質のあたしが飢え死んだら困るのは自分なのに。誰のおかげでまだ生きてられると思っているのかしら。そんなこともわからないから、三流なのよ。しかも、こんなとびっきりの美少女を縛っておいて、なおかつ、犬食いさせようだなんて、変態的でサディステックな趣味があるとしか思えないわね。病んだ御主人様幻想でもあるんじゃないの? ああ、やだ。もしかしたら、あたし貞操の危機じゃない。もしかして、昨日眠っている間に何かイタズラされたんじゃないかしら。身体触られたり、下着とか脱がされてるかもしれないし――」
「そんなことするかぁっ!」
 ウェリアは叫んだ。ぶつぶつ喋るラウシェの言葉が、疲れ切った今ではいちいち癪に障る。
「誰が、お前みたいな口うるさいガキに手を出すか!」
「そりゃあ、あたしはまだ大人じゃないけど、ちゃんとした女よ。据え膳喰わぬは、て言うじゃない。おあつらえ向きに両手を縛られてたんだし。女に飢えた誘拐犯が、手を出す確率は高いと思うわ。ああ、そういえば、今朝、起きたら、体中が痛かった」
 ふう、と息を吐きながらラウシェが肩を竦めた。
「何もするか!」
「この変態」
「ああ、もう! 少し黙ってろ、人質!」
 ウェリアは思い切り怒鳴りつけた。勿論、ラウシェがそれで怯むわけがない。しれっと言葉を返す。
「ものを食べてる間はちゃんと黙ってるわよ」
「ああ、わかったよ、食べさせたらいいんだろ!」
 くそうっ、と憎々しげにウェリアは敗北の言葉を吐いた。
「そうそう。最初はそのチーズののったパンからね」
 ラウシェがにっこり笑う。
 仕方なくウェリアは指定のパンを掴み、ほらよ、とぶっきらぼうに言いながら、ラウシェの口許にやった。
「おいしい!」
 それを一口囓って食べたラウシェが、感嘆の声を上げた。
「やっぱり空腹は最高の調味料ね。こんなにおいしく感じるなら、たまには食事を抜くのもいいかも」
「言ってろ」
 ウェリアは口内で呟く。その後、どうせ抜く気はないくせにと続ける。
 勿論、ラウシェはウェリアの呟きなど気にする素振りもない。二口目でウェリアの手にあったパンを食べ終わると、次それね、と指定する。いちいち対応するのも面倒になったウェリアは、無言で言われた通りのものを掴んで口許に差し出した。
「あ、これもおいしい。なかなかいけるわ、このパン。そっちのはどうかしら。あっ、あれもよさそうね」
 ラウシェが調子にのって、次々と要求する。
「なあ」
 ウェリアは、それらを差し出しながら尋ねた。
「なに? ――あ、次はそれがいいな」
「さっき、食べてる間は黙ってるとか言わなかったか?」
「ちゃんと、食べてる間は黙ってるじゃない」
 あっさりとラウシェが答えた。
「喋ってたじゃないか。うまいとか、結構いける、とか」
「その時は食べてないじゃん」
 なにあたりまえのこと言ってるの。ラウシェの瞳がそう言っていた。
「え?」
「今、口の中にパンは入ってないでしょ。だから喋ってるの。あたしも噛んでるときはさすがに喋んないわよ。マナーってものがあるしね」
「普通、食べている間は喋らないと言われたら、食事中のことと考えないか?」
「そう? 見解の相違というやつね」
 ラウシェがそう言い切った後、口許に差し出されていたロールパンを囓った。
 言い返す気はとうの昔になくなっていたから、ウェリアは、そうか、と答えるだけにとどまった。
「ところでだ」
 ウェリアは話題を変えた。
 まだパンを咀嚼中のラウシェが、視線で先を促す。
「お前、見ず知らずの男に食べさせてもらうのって、全然気にならないのか?」
 パンを嚥下し終えたらしいラウシェが、肩を竦めた。
「仕方ないじゃん。あたし人質なんだし。両手、括られてるし」
「仕方ないって言うんなら、別に食わせてもらわなくても、食う方法はあるだろ」
「さっきの犬食いのこと言ってんの?」
 まあ、とウェリアは頷いた。
「人としてのプライドの問題よ」
「食わせられるのは、プライドを傷つけないのか?」
「比較の問題かしらね」
「犬食いよりマシって程度か」
「数倍ね」
「にしては、抵抗なく食べてたような気がするが」
「だって、誘拐犯に食べさせてもらうってシチュエーションって、なかなか興味深いと思わない?」
 ラウシェがあっさりと言ってのけた。
 ウェリアはしばらくラウシェを見ていたが、やがて、そうか、と視線をそらした。
 ここだ。ウェリアはそう思った。彼女のこの余裕が気に入らない。
 彼女の立場は人質である。現状としては、両腕を後背で括りつけてあり、自由を奪ってある。生殺与奪の権はウェリアにあるはずである。
 実際の問題として、彼女の命を奪うことは、追われている現状としては好ましくない。彼女を盾にすることによって、ウェリアは逃げのびようとしているからだ。
 彼女はそのことを知っている。だから出る余裕なのか。そう考えてみても、納得はいかない。
 彼女自身が冗談めかしていった通り、気分次第で彼女を強姦する選択もウェリアにはあるのだ。極論すれば、生きていさえすればいい。いっそ括らずに腕を切り落としても、ウェリアにとっては構わない。いくら彼女が強いと言っても、現況で彼女に抵抗の余地はないはずだ。小賢しい彼女が、そのことに考えがいかないはずはない。
「ねえ」
 考えに沈みかけたウェリアに、ラウシェが声をかけた。
 視線だけ向けて、ウェリアは聞き返す。
「ウェリアは食べないの?」
 そう言われてみて、初めて自分が何も口にしていないことに気がつく。
「食べるよ」
 吐き捨てるように答えてウェリアは、手近なパンを掴んで口に放り込んだ。

   3

 どこまでも続くような長い廊下を、靴の音を高々に響かせて、凛々しい女性が歩いていた。
 白いマントを羽織り、腰には細身の剣を佩いている。
 イリア・ハス。それが彼女の名前である。肩書きは紅姫衆総帥。ついでに言えば、先日のラウシェの護衛についていた一人である。
 長い廊下には幾つも魔力結界が張ってあった。目に見える代物ではないが、通り過ぎるたびに身体を撫でる感触があった。これが結界で排除されるべき存在であれば、即座に死にいたらしめる魔力攻撃となる。
 廊下の先には豪奢な観音開きの扉がある。扉の左右には女性の衛視が立っていた。衛視たちはイリアを認めると、一礼して扉を開けた。
 部屋は広く、広間と称して良いほどである。中央には円卓が置かれ、十個の椅子が据えられている。
 十の椅子のうち、九まではすでに席が埋まっていた。席に着いているのは、皆若く美しい女性たちである。
 空いている席は、ちょうど部屋の向こう正面で、そこがイリアの席である。
「で、ラウシェ様の居場所は掴めたのか?」
 イリアは席に着くと同時に尋ねた。
「まだです」
 円卓に座る女性のうち、一人が首を横に振る。
「試せる限りの魔法探索を試みましたが、いずれにも引っかかりませんでした」
 そうか、と答えながら、イリアは円卓に肘をついて手を組んだ。
 通常、魔法による物体の探索は、探索する対象の存在が強いほど見つけやすい。存在が強いというのは、何かしら強力な力を有しているということで、例えばそれが人であるならば、強い魔力を持っているとか、強力な魔剣などの魔的アイテムを所持している、異界生命に憑依されている、などである。理屈としては、強力な存在ほど見つけやすいということだ。
 ただし、実際問題としては、そう簡単ではない。
 強力な存在は、大抵自身の力を隠蔽する能力を持つものである。それは、感知阻止能力とも呼ばれる。一概に言えるものでもないが、ほとんどは強力な存在であればあるほど、感知阻止能力も高いと考えていい。
 結論として、強力な存在を見つけるのは、探索魔法の探索能力が、対象の感知阻止能力を上回らなければならない。
 ラウシェの場合はどうか。
 紅姫衆の面々には、考えるまでもなく明らかであった。
「ご自身の意志で、隠れておられる、……か」
 イリアは、溜息とともに言葉を吐きだした。
「確かに、ラウシェ様を狙う不届きな者どもがいることは確かだ。しかし、どうして我々にまで姿を隠す?」
 ラウシェの方から、紅姫衆の面々に接触する手段はいくらでもあるはずだった。だが今のところ、彼女からの音沙汰は全くない。
 やっぱり、とイリアの右隣に座っていた女性が口を開く。彼女もラウシェの護衛についていた一人だ。名をフィリス・ラウラという。
「今回のご結婚が、とてもお嫌だったのでは……」
 フィリスがそう言うと、円卓についている紅姫衆の面々は無言だったが、思い思いに納得したように息をついた。側近中の側近である彼女たちは、ラウシェが結婚を嫌がっていたのは知っている。その嫌がり方が尋常でなかったことも含めて。
 イリアも溜息した。
「だが、ことはラウシェ様ご自身だけの問題ではないのだぞ。そのことはラウシェ様も重々ご承知のはずだ」
「それはそうですが、そこはやはりラウシェ様のことですから……」
 フィリスが言いにくそうに答えた。
 彼女たちはラウシェをよく知っている。その知識からすれば、ラウシェの行動もある程度予測できた。
「わざとか……」
 イリアはこめかみを押さえ渋面を作った。
 まったく、と口内で呟く。
「あの人は、どうしてそう我々を困らすのだ」
 脳内に、今までラウシェの行動に振り回されておきた事例が走馬燈のように蘇った。
「イリア様、それよりも、今はラウシェ様の行方を突き止める方が先決です」
 フィリスが、自身の思考に沈みかけたイリアを現実へと戻した。
「あ、ああ。それもそうだな。で、ラウシェ様を狙っている不届き者どもの正体はわかったか?」
「はい」
 イリアの左隣の女性が頷いた。ラウシェの護衛についていた一人で、ルーウェ・シェンナといった。
「黒衣の集団は、黒衣衆と呼ばれていたことから察するに『黒の教団』ですね。かの教団の特殊部隊の一部が動いているとの情報も掴んでおります。もう一つ、騎馬隊は『北狼傭兵団』ではないかと思われますね」
「黒の教団に北狼傭兵団か……。目的は考えるまでもないな」
 ラウシェを狙っているのが明確な時点で、紅姫衆の面々には彼らの目的は簡単に推測できた。
「厄介と言えば厄介ですね」
 フィリスが感想を述べる。
 どちらの集団も、規模は小さくなく、戦闘力も魔力も侮れない。
 そうだな、と頷きながらイリアは問い返す。
「北狼傭兵団は自由傭兵団のはずだな。とすると、奴らの直接の意志でラウシェ様を狙うとは考えにくい。その雇い主は誰だ? いや、そう断定するのは早いかもしれないが」
「いえ、雇い主はいると考えるのが自然でしょうね。昨今の彼らは資金不足で、組織単独で動くことは難しいはずです」
 ルーウェがイリアの懸念を払拭した。
「ふむ。では、北狼の背後には誰がいるのだろうか?」
「まだわかりません」
「ルーウェの推論でいいから、聞かせてもらえないか?」
「個人的な推測で言わせてもらえるのなら、恐らく個人ではないですね」
「個人ではない、と言うことは、国家や組織ということか?」
「北狼傭兵団は規模も小さくなく実力としても高いので、雇うレートは高い傭兵団ですね。それが、逆にかの集団の慢性的な資金不足の原因ですけど」
「北狼を雇えるだけの資金力を持つ組織、ということか」
「そういうことですね」
「目星はつけているのでしょう?」
 フィリスがルーウェに問うた。
「ディセルバかロナ、センジェスタ。この辺りでしょう」
 どれも、建国五十年以内の軍事強国である。併せて、国家境域は広くない。
「この辺りが、北狼と強いパイプがあります」
 軍事的飛躍を狙う新興の国々が、様々な事件の背後で動いているのはよくあることだ。その上、挙げられた国々は現実に北狼傭兵団との間に繋がりがあるのだから、ルーウェの推測もそれなりに説得力があった。
 しかし、断定できるわけではない。
「調査報告待ちか」
 イリアは溜息をついた。
「そうですね。諜報部隊は鋭意努力してますが」
「焦らず待とう、……という訳にもいかないのが現実だ。ラウシェ様の身に何かあってからでは手遅れだ。できるだけ急いでもらおう」
「そう伝えておきます」
 頷いたルーウェに頷き返してから、イリアは腕を組み替えた。
「懸念はもう一つある」
「ラウシェ様をさらった男の事ですね」
 フィリスが答える。
 そうだ、とイリアは頷きながら、その時のことを思い浮かべた。
 あの乱戦の最中、男は自分が脱出するのに、こともあろうにラウシェを人質に取ったのだ。
 その時、ラウシェは抵抗しなかった。
「ラウシェ様の実力からいって、あの程度の輩に人質に取られることなど、あり得ないでしょう」
 フィリスの独白は、紅姫衆共通の存念である。
「やはり、わざととしか思えんな」
 イリアは、苦々しげにそう結論づけた。
 はあ、と紅姫衆の面々も溜息をつく。
「もしかして」
 ルーウェが考え込むようにして発言した。
「あの男が、ラウシェ様の〈天命の相方〉なのではないでしょうかね?」
「まさか! あの程度の男が? あり得ない!」
 イリアは言下に否定する。
 あの乱戦の中に見た男は、どう見ても三流以下の腕前でしかなく、あのような仕事を請け負い、なおかつ女を人質に取るような奴である。人間的にもたいしたことはないと思える。
 しかし、とフィリスも会話に加わる。
「過去、〈天命の相方〉が、必ずしも優れた人物だったと言えるわけではないのですから、もしかしたらあり得ることかもしれませんね」
「そうだと考えたら、あの時のラウシェ様の行動も、納得のいくものかもしれませんね」
 乱戦の最中、自分を人質に取った男が〈天命の相方〉だった。だから、彼についていった。
 もしそうだとするなら、一応理解はできる行動である。
「だが本当にそうなのか?」
「〈天命の相方〉かどうかは、ラウシェ様ご本人しかわからないことですから」
「それもそうか」
 イリアは組んでいた腕を放し、疲れたように髪をかきあげた。
「その男の身元を完全に掴む必要があるな。その男がラウシェ様の〈天命の相方〉であるのならば、なおのこと」
「そうですね」
「それでもし、その男が残忍、卑劣等の為人であったらどうなさいますか?」
 フィリスが尋ねる。
 仕方あるまい、とイリアは視線を上方に巡らした。
 その先にあるであろう天を睨む。
「その命を絶つ」


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