王女の理由
−Princess of Destiny−

序章

 陽は傾き、薄暮にかかろうとしていた。
 山間に立ち並ぶ喬木は西日を遮り、周囲の明度を下げている。その樹林帯を縦断するように街道が通っており、馬車はそれを南下していた。
 馬車を牽く馬は二頭。毛並みの見事なペルシュロンである。牽かれるワゴンは四輪で大型、造りは豪奢だった。明らかに、貴人を乗せるためのものであって、商用のものではない。
「あれだな」
 遠く馬車を眺めながら、男が周りに目を配った。それを合図に、その場にいる総勢十五人の男たちが、馬車の方に視線をやった。
 そこにいる男たちは、皆武装もものものしい傭兵たちだった。ただし、鎧や剣は安物と一目でわかる代物で、彼らの程度が知れた。
「お忍びとはいえ、護衛もつけずによく行くぜ」
 最初に馬車を見つけたリーダー格の男が、呆れた口調で感想を述べた。
「そうだな、襲ってくれと言っているもんだ。軽くやっちまえるぜ。楽な仕事になりそうだ」
 リーダーの隣にいた男が、そう同調する。
 確かに、とその場にいたウェリアもそう思った。あの馬車内にいるのは、多くてもせいぜい六人。十五人なら楽に対応できる数だ。
 しかし、完全に楽観したわけではない。
 六人ぐらいで、あらゆることに対応できる自信があるのかもしれないのだ。そこまではいかなくとも、相当な腕利きが同乗しているのかもしれない。その辺りは、感知魔法でも使えればそれなりに判断できるのだが、そういうことができる人材はこの場にはいない。
 つまるところ、やるしかないということだ。当たって判断するしかない。それに、やらないと報酬が貰えない。
「行くか」
 リーダーが顎をしゃくった。
 おう、と傭兵たちは応え、各々の得物を手に取る。ウェリアも腰から長剣を抜き放ち、前の傭兵に続いて配置場所に向かった。
 ウェリアたちは、今回の仕事のために方々から集められた傭兵である。今回の仕事とは、あの馬車の中にいるはずの少女の誘拐だった。
 仕事的に良い仕事ではない。法的にも、倫理的にも、質的にも。
 通常、こういう仕事は、ごろつきどもと呼ばれる輩が担当する仕事である。
 それをやらねばならないところに、ウェリアの悲しさがある。単純な話、ウェリアの傭兵としての実力は、ごろつきどもとそう変わらないものだった。隊商護衛や魔禍鎮圧といった昨今の傭兵が主な活躍場所とする仕事にあぶれてしまい、今回のような仕事を受けざるを得なかったのだ。実力がない傭兵には、仕事に選択の余地はあまりない。
 それは、ここに集められた十五人全てに言えることであって、つまるところ、見るからに大男であるリーダーも見かけ倒しの体格で、実力的にウェリアとそう変わらないのである。
 配置場所は森の中央部で、大きな岩場の陰である。場所的には馬車の行く手を先回りした所になる。ここで待ち伏せて襲うという算段だ。
「そろそろか」
 ウェリアは唾を飲み込んだ。
 その呟きを肯定するかのように、リーダーが小さく、そして鋭く全員に声をかける。
「来たぞ!」
 全員に緊張が走った。
 それと同時に、蹄の音と馬車の車輪の音が聞こえてきた。
 リーダーが戦斧を軽く振る。かかれの合図である。傭兵たちは一気に岩陰を飛び出し、馬車に襲いかかった。
 先頭を走っていた男が馬車に後少しと迫った時、さすがに気づいたのか、馬車の扉が開き、中から三人の人影が出てきた。
「何奴だっ!」
 最初に出てきた女が大喝する。それと同時に、剣を抜き放ち、突っ込んできた男を一瞬で突き返した。男ははじき返され、そのまま気絶する。
 出てきたのは、三人とも白銀の軽装鎧で武装した美しい女性だった。白いマントを棚引かせている。
 しかし、彼女たちはターゲットの少女ではない。
「やっちまえ! ターゲット以外は殺しても構わねえ!」
 リーダーが、戦斧を振り上げながら吠えた。それに声を上げて応じながら、傭兵たちは三人の女性に打ちかかっていった。
 だがあろうことか、戦況は不利だった。
 どうやら、その三人は相当な腕利きのようで、十四人を相手に回して、有利に戦闘を進めていた。それも、打ちかかる傭兵たちを峰打ちにして気絶させるという、余程の実力差がないとやってられない技で応戦しているのだ。実力的にお話にならない。
「駄目か」
 ウェリアは最初に出てきた女に、横の傭兵と一緒に二、三度打ちかかったが、どれも返され、危うくやられそうになっていた。いつの間にか、横の傭兵が先に気絶させられて倒れているから、もう盾になってくれる傭兵は近くにいない。
 やっぱり駄目だと、ウェリアは女から一歩下がり、周囲を見回してみた。
 立っている傭兵はリーダーを含めてあと三人。勝敗は決したも同然である。
 ウェリアは、その三人と視線を合わせた。
 三人とも考えていることは同じであった。
 逃走である。
 逃走したら、仕事は当然ながら失敗である。そうなれば、仕事の報酬は貰えない。だがそんなものはこの際どうでもいい。捕まったり殺されたりするよりはマシである。それに、ウェリアは傭兵として活動してきた間、何度もこういう失敗をしてきた。今さらでもある。
 ウェリアたちは頷き合うと、脱兎の如く逃げ出した。
 その瞬間、黒い斜線が目の前を通り過ぎた。その後、横にいたはずの傭兵が倒れた。胸に矢が刺さっている。
「な、なんだ……?」
 ウェリアは驚いて足を止める。
 刹那、右から弓矢が雨のように降りかかってきた。馬車を含めたその辺り一帯に立っている者を、残らず射殺そうという勢いである。
 見れば、森の右側にはたくさんの人間が弓を構えている。皆黒いローブをまとった不気味な集団だ。
「あわわわわわ」
 粟を食ったようにウェリアは悲鳴を上げ、踵を返し馬車の方に帰る。
 左肩に激痛が走ったが、構っている暇はない。転がるように馬車の陰に隠れた。
「な、何なんだ、一体? ――いてっ!」
 ウェリアは肩に刺さった矢を無理矢理に抜きつつ、声を絞り出した。
「そんなもの、俺が知るか!」
 横に隠れていたリーダーは、反対に怒鳴り声をあげた。彼は無傷であった。リーダーの方が体積が大きいのに、無傷だなんて。そうウェリアは、納得のいかないものを感じた。
 ややあって、少し矢の勢いが緩まったようである。ウェリアは、馬車の陰からこっそりと首を出して様子を窺う。
 驚いたことに、女三人は無傷で立っていた。その足下に無数の矢が落ちているのを鑑みるに、どうやってか射出攻撃を悉く防ぎきったようである。
 彼女たちの視線は、新たな敵の方に向けられていた。その瞳は厳しい。
 視線を追ってウェリアが新たな敵の方を見たとき、見知った顔を見つけた。
 そいつは、森にいる敵集団の指揮官で、新たに射出用意の指示を飛ばしていた。
「あ、あいつは……!」
 あの顔はどう見ても今回の依頼主と同じである。それがわかった瞬間に、ウェリアは騙されたことを悟った。
「何者だ?」
 女のうちの一人が問うた。
「お前たちに名乗る名なぞないよ」
 依頼主は下卑た笑みを浮かべた。そのまま、視線を馬車の方にやる。
「君たちのおかげで、部隊の配置を行う時間稼ぎができたよ。感謝している」
「なんだとっ!」
 リーダーが吠え、馬車の陰から飛び出した。怒りにまかせて、依頼主に襲いかかる。
「やめろ!」
 ウェリアが慌てて裾を掴もうとするが、届かない。
「馬鹿が」
 依頼主が嘲弄した。その直後、数本の矢が放たれた。
 矢は全て狙い違わずリーダーを貫く。
 リーダーは、ぎゃっと悲鳴を上げ、倒れた。
「そこの小僧のように、大人しく震えておれば、もう少し長生きできたものを」
 依頼主が視線をウェリアの方に向けた。
 勿論、その言葉で自分が安全なのだと信じるほど、ウェリアも馬鹿ではない。この先どうやって逃げ出そうか、必死になって考える。
 さて、と言いながら、依頼主は女たちに注意を返した。
「理由はわかっていると思う。ラウシェを渡してもらおうか」
「断るに決まっているだろう」
 女が即答する。
「貴様のような奴からラウシェ様をお守りするために、我々がいるのだ」
「これだけの人数を相手に?」
 依頼主が余裕の笑みを浮かべた。彼の後背には三十人ほどの部下が弓を構えていた。
 しかし、女が鼻で笑う。
「貴様らが何人いようが同じこと。来るなら斬り伏せるまでだ」
 十五人からの傭兵の奇襲を一蹴し、雨霰のような射出攻撃を完全防御した彼女たちだ。その自信も、あながち嘘ではなさそうである。
「では死ね」
 依頼主が右手を上げた。その手が下ろされれば、後背の部下たちが矢を放つはずだ。
 女たちが再び剣を構える。
 その時。
「うっさいわねえ」
 そう馬車の中から不機嫌そうな声がして、扉を開けて少女が一人出てきた。
 豪華そうなドレスを着た少女だ。見事な真紅の髪をなびかせてワゴンから降り立ち、依頼主の方を睨んだ。
 恐らく、この少女がターゲットであろう。それを肯定するかのように、女たちと依頼主がその少女の名を呼ぶ。
「ラウシェ!」
「ラウシェ様!」
 ラウシェは、数歩前に歩み立ち止まる。
「あなた、何なのよ?」
 三十人ほどの敵を前にして怯えた色も見せず、ラウシェは依頼主に問う。
「返答次第によっちゃあ、タダでは済まさないわよ」
「勿論、お前を手に入れるために決まっている。他に理由があるか?」
 依頼主があっさり答えた。
「あたしを手に入れてどうするのよ?」
「決まっている。世界を我らが統べるのだ」
 我らね、とラウシェの瞳が鋭く光った。
「あなた一人の独断ではなさそうね。誰の差し金?」
「くくっ。そんなことは我らと一緒に来ればおのずとわかること」
「じゃあ、残念ながらわかることはないわね。あたしは、あなたたちのとこなんか行かないもの」
 ふん、とラウシェは言い捨てた。
「強気だな」
 依頼主が、殺気が漲る後背の部下たちを誇示するように顎を上げた。
 しかし、ラウシェはそれに全く脅威を感じないのか、微笑を浮かべる。
「あなた、あたしが何者なのかを知っててここに来てるんなら、あたしを護る彼女たちのことも知っていて当然じゃなくて?」
 ラウシェも三人の女性を誇示するように両手を開いた。それに応えて、三人の女性が不敵な表情を作る。
「ラウシェの紅姫衆か。だがたった三人で何ができる」
「さっきあなたがけしかけた十五人は、相手にならなかったけど」
「あんなごろつきどもと、我々を一緒にしてもらっては困るな」
「やろうとしてることは、そのごろつきどもと変わんないじゃない。それどころか、そいつらを囮に使うあたりがせこいわね。身の程が知れるわ」
 なにを、と依頼主が低く呻いた。顔に怒りの筋が浮かぶ。だが後背の三十人を思い出したのか、すぐに余裕を取り戻した。
「なかなか強気だが、いつまで続くかな?」
 そう笑い、依頼主が右手を下ろした。
 否、下ろそうとした。
「な、なんだ?」
 馬車の陰でウェリアは驚愕の声を上げた。前方に十数騎もの軽装騎兵の姿が見えたからだ。しかも騎兵はこちらに向かって駆けていた。
 依頼主もそれが目に入ったのだろう。発射の合図を出せずにいた。
 ラウシェと女たちも、依頼主たちも、十数騎の騎兵が何者なのかがわからないから、迂闊に動けなかった。警戒心は、お互いと騎兵に分散されていた。
 騎兵は止まる気配は全くなく猛然と突進してくる。先頭の騎兵が、馬車付近に近づいた時、抜剣して、すれ違いざまウェリアに斬りかかった。
「うわあっ!」
 ウェリアは慌てて避ける。無様に転がったのは、彼の実力からして仕方のないことである。
 騎兵はどうやら誰にとっても敵らしい。彼らは問答無用で依頼主や女たちに斬りかかっていた。
「撃て、撃て、撃て!」
 依頼主がヒステリックに喚いた。その瞬間、騎兵の一人が依頼主に斬りかかった。依頼主はそれをかろうじて剣で防いだが、身を捻って動いたために後背の部下たちと離されてしまった。
 矢が再び乱舞する。
 何人かの騎乗者が矢に撃たれて落馬するが、残りの者は馬を縦横無尽に動かし、剣と盾を巧みに揮い、ほとんど防御していた。
 騎兵たちの目標もラウシェのようである。三騎がラウシェを囲んでいた。もっとも、護衛の女たちは、そんなことにとっくに気がついているようで、ラウシェの周囲を固めていた。騎兵三騎は女たちがラウシェの傍で構えているため、容易に目的を達せられない。
「ちっ、どけ!」
 騎兵の一人が苛ついた声を放った。
「そちらこそ、退け!」
 女の一人が怒鳴り返す。
「ラウシェ様には指一本触れさせぬ!」
「ほざけ!」
 三騎は、一斉に剣を女たちに投げつけた。女たちはそれを剣を揮って弾き飛ばすが、その防御の隙に、三騎が距離を詰めていた。
「ちっ」
 女たちの体勢が少し崩れた。そこに一騎が割って入る。
 手が伸びて、ラウシェに迫る。
「ラウシェ様!」
「なめんじゃないわよ!」
 ラウシェは身体を沈め、その腕をかわした。
 かわされた騎兵は、今度は目前に女の剣を認めた。その切っ先は狙い違わず、騎兵の喉を貫く。騎乗者はどうっと落馬した。
 しかし、そのためラウシェと護衛の三人との距離が空いた。
「黒衣衆抜剣! 突撃せよ!」
 騎兵の攻撃に対処していた依頼主が命令を切り替える。黒衣衆と呼ばれた連中は弓を捨て剣を抜き、騎兵たちに突っ込んでいった。
 今や状況は乱戦状態であった。
 ウェリアも自分の身を守るため、乱戦の中を逃げまどっていた。
 明らかに、誰も彼もウェリアより実力が上である。彼が最初の矢傷の他は、怪我をせずに生きていられるのは、防御に重点を置いている点と、乱戦の焦点が彼にない点である。
 逃げ出すなら今なのであるが、どうしても戦場から出られない。彼にもう少し実力があるのなら、誰かを打ち倒してそこから突破を図れるのだが、今の彼の力量では逆に切り捨てられるのがオチだ。
 そうこうしているうち、視界に赤い色が飛び込んできた。
 それがラウシェの髪の毛だと気づくのに少し時間がかかった。だがその後の行動方針は、脊髄反射のように一瞬で決断した。
 ウェリアは、ラウシェの後背に手を伸ばして肩を掴む。はじかれたように振り向いたラウシェが、少し驚いた表情を作った。だがそんなことにかまってはいられない。強引に引き寄せ、同時に首筋に剣を当てた。
「動くな!」
 ウェリアは、あらん限りの声で怒鳴った。
 その声が乱戦状態にある全員に聞こえたとは思えないが、ラウシェの状況が目についた者から動きを止めていった。
 先ほどの喧噪とはうって変わって、沈黙がこの場に流れた。
 全員の視線がウェリアに集中する。
 ややあって、最初ウェリアと剣を交えた女が、怒りを抑えた口調で問う。
「貴様、何をやっているのかわかっているのか?」
「わかってるよ」
 ウェリアは吐き捨てるように言うと、視線で全員を見渡した。
 ラウシェの護衛たち、黒衣衆と依頼主、騎兵たち。その全てがウェリアの敵である。
 乱戦状態だったためか、ウェリアが見える範囲だけに敵がいるわけではない。後方にも敵がいた。ウェリアは後方の敵を気にしながら、ラウシェを引っ張って、ゆっくりと戦場の端に移動する。その間、何人かの人間が隙を見て動きかけたが、それを視線で制しつつ、全員を前方で見渡せるポジションに着いた。
 動くなよ、とウェリアは今度は静かに言い放つ。沈黙が流れている今は、全員が聞こえたはずだ。
「この小娘、お前らにとっちゃあ、とても大事なものらしいじゃないか。誰か一歩でも動けば、俺は容赦なくこいつの首を切るぜ」
 ともすれば上擦りそうになる声を抑え込む。視界の隅にわずかにうつる人影が今にも飛びかかってくるような気がして、視線を絶えず左右にやる。
「お前らは、さっさと馬から下りろよ」
 ウェリアは、未だ馬から下りない騎兵に命令した。
 騎兵たちはしばらく迷ったが、仕方なしといった感じで、馬から下りる。
 おい、と不意に依頼主がウェリアに声をかけた。
「依頼通りラウシェを渡せ。そうしたら、十五人で分けるはずだった報酬をお前が独り占めできるぞ。それに加えて、追加の金をやってもいい」
「信じられるか」
 ウェリアは、依頼主の申し出を一蹴する。
「お前の依頼を信じた結果が、この有様だ。お前の言うことなんぞ、誰が聞くか」
「ここでラウシェを渡さなければ、お前に待っているのは死のみだぞ」
 依頼主が諦めず脅しをかけた。
 しかし、ウェリアはそれに屈さない。
「渡しても殺すだろうが。絶対渡すか」
 断言して、動きかける依頼主を睨んで制する。依頼主が憎悪のこもった目でウェリアを睨め付けるが、動きはしなかった。
「おい、そこのお前、そうお前だ。その馬をこっちに連れてこい」
 ウェリアは手近な騎兵に声をかけた。
 騎兵は手綱を引いて、近づいてくる。
「ゆっくりだ。そう。――そこでいい。それ以上近づくな。そこに馬を置いて、元の場所に帰れ」
 ウェリアの命令に、騎兵は渋々従った。彼が元の場所に戻るのを待って、ウェリアはラウシェを引っ張りながら馬に近づいた。
 ラウシェがもう少し抵抗するかと思ったが、何の抵抗もなく、彼女はウェリアに従う。一瞬、どんな表情をしているのか興味がわいたが、後背から彼女を抱え込んでいるので、表情は窺えない。覗き込むには、余裕がなさすぎた。
 すぐに馬に乗ろうとして、ウェリアは逡巡した。先に自分が乗ろうが、ラウシェを乗せようが、そこに大きな隙ができる。敵はその隙を見逃すだろうか。そこにラウシェの抵抗が入れば、ウェリアの命は風前の灯火となる。
 いけない、いけない。ウェリアはそう考え、手綱をとり、敵側に注意をやりながら後退していった。
 十分に距離をとる。
 改めて馬を見ると、ロープが用意されているのを見つけた。恐らく、騎兵がラウシェを捕らえた時に使おうと用意したものだろう。ウェリアはもっけの幸いに、ロープを用意された意図に従って使うことに決めた。
 ロープをとり、ラウシェを後ろ手に縛る。余ったロープで更に胴を腕ごと縛った。
 もう一度、敵の方を睨んで牽制してから、ウェリアは馬に飛び乗った。
 刹那、その隙を狙っていたのか、騎兵たちが一斉に馬に飛び乗り、ウェリアの方へ駆けようとする。黒衣衆も弓を取り引き絞っていた。
 距離をとっていなければ、そこで殺されてしまうところである。だが用心してとっておいた距離が役に立った。ウェリアがラウシェを引きずり上げながら、馬を駆けさせる時間があったのである。
 矢はもう届かない。だが騎馬の蹄の音がまだ聞こえていた。
 二人分の重さを背負っている馬よりも、一人だけを背負った馬の方が速いのは道理である。背後に迫る蹄の音は、少しずつ大きくなっていた。
「くそっ」
 ウェリアは、ラウシェをその場に捨てようと思った。そうしたら、彼らはラウシェを捕まえるために、その場に止まるだろう。
 その決意が固まらないうちに、背後から蹄の音に混じって風を切る音を聞いた。振り返ってみると、騎兵の一人がロープを回している。これ以上差が縮まれば、ロープの射程距離に入る。何かをする余裕はなさそうである。
「ええい、くそ!」
 ウェリアは余計なことを考えるのをやめた。逃げのびることだけを念頭に置いて、馬を追う。
 やがて、視界の向こうに吊り橋が見えた。
 あれを渡った直後に切り落とせれば、逃げきれる。反射的にウェリアはそう考えた。
「だが俺にできるか……?」
 自分の実力を全く信用していないウェリアは、ここにいたって逡巡した。
「やるしかないじゃん」
 不意に、前に乗せたラウシェが振り向きもせずに言う。
「やんなきゃ、どうせ捕まるわ。なら、やるしかないでしょ」
 彼女がウェリアの意図を察したのかどうかはわからない。だがその言葉がウェリアを後押ししたのは事実である。
 人質に後押しされるのも妙な話なのだが、余裕のないウェリアには、そこまで頭が回らなかった。
「よし!」
 ウェリアは剣を抜いた。手綱とラウシェを掴む左腕と、騎馬を挟む股に力を込める。
 騎馬が吊り橋にかかり、揺れが激しくなった。
 本来、吊り橋は騎乗して渡るものではない。そのような造りにはなっていないし、何より危険である。
 この吊り橋は、河川上にかかっているもので、それほど高所にあるわけではない。落ちても死にはしないだろう。だがそれで十分である。途中で落ちれば、少なくともすぐには追ってはこれまい。
 ウェリアは橋を渡りきった瞬間に、身を後方に捻り、吊り橋の左右の綱に剣を揮った。彼がこんなアクロバットなことをしたのは、生まれて初めてのことである。
 それも、成功したのは。
 落馬しそうになるのを堪えながら、後方に視線をやると、吊り橋の残骸があるだけで追っ手の姿は見えなかった。河に落ちたようである。
「やればできるじゃない」
 ラウシェが首を巡らせて、ウェリアを見上げた。
「助かったのか……」
「さすがに、もう追ってはこれないでしょ」
 そうか、とウェリアは安堵の溜息をついた。
「そろそろ、馬を歩かせてもいい頃じゃない。さすがに可哀想よ」
「そ、そうだな」
 ウェリアはもう一度後方を振り返り、河川が遠く離れたことを確認してから、馬を常歩に変えた。
 その時、突然、左肩に激痛が走った。
 矢傷が痛みを思い出したらしい。今までの緊張が解けて、神経が正常に痛覚を伝えるようになったようだ。傷口を見ると、血が止まらずに流れっぱなしである。
 どこかで休んで手当をしなければ。ウェリアはそう思った。


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