科挙の道遠し

第四回 清鸞 密かに廬家に侵入し
伯図 燦然と廬家に参上す

   一

 そびえ立つ城壁が、遙か彼方まで続いているように思える。威圧感すら漂うその都市こそ、大堯の都、顕業であった。
「これが、顕業か」
 感慨深く、伯図は呟いた。
 遂に着いた。そう思った。ここまでの道のりは平坦ではなかった。山賊に捕らわれ、鬼に襲われ、刺客に襲われ。なかなか大変であったが、それももう終わる。
「何、感傷に浸っているのよ。あなたは、これからでしょう」
 清鸞が言う。
 清鸞の言は最もであった。伯図は、これから会試を受けるのだ。
 しかし、伯図はいけしゃあしゃあと言ってのける。
「いやもう、終わったも同然だ。会試など、何番で受かるかだけの話でしかない」
「その自信はどこから来るのかしら」
「それは勿論、国家の中枢にて、その才幹を発揮せよという天命を知るからに他ならない。君子は小知すべからずして、大受すべし。君子は大きい仕事を任せられるものなのだ」
「はいはい」
 聞き飽きたように、清鸞が手のひらをひらひらと振った。
「それで、こんな所にずっと突っ立ているのが君子の役目なの。違うでしょう。早く入らないと、門が閉まるわよ」
「それもそうだな。折角ここまで来て、京師に入城できなければ話にならん」
 伯図は、先を歩き始めた清鸞に続いた。
 顕業の中は、ものすごい人であった。前城も多いと感じたが、それ以上の人の数である。会試の時期と言うのもあるだろうが、それだけでは説明できない人の多さであった。
「華やかだな」
「そう? いつもこんなものよ」
「なるほど。さすがに大堯の栄華は素晴らしい」
「そうでもないわよ」
 清鸞が、唇を歪ませた。
「どれだけ栄えていようと、中身が空虚であれば、それは滅びる運命にあるのよ」
「変に悟っているな、お前は」
「そういう性分だもの」
「ふむ。ところで、お前はここの出だと言っていたな。いい舎館を知らないか?」
「勿論、知っているわよ。案内してあげる」
 伯図は先導する清鸞の後に続いた。
 案内された舎館の前で、さてと、と清鸞が改めて伯図を見た。
「何だ?」
「ここでお別れね」
「ふむ。確かに、ここが終着だったな」
 感慨もなく伯図は頷いた。
「もう少し寂しい顔をしたらどうなのよ。日数は短かったけど、たくさんの時間一緒にいたんだから」
「お前だって、寂しそうな顔をしていないじゃないか」
「そりゃあ、寂しくないもの」
 清鸞がころころと笑った。
「自分が寂しくないのに、人に寂しくしろと言うのは、理不尽ではないか」
「だって、あたしは何度も伯図の危機を救ってあげたのよ。感謝の念はあたしよりも伯図が持つべきではないかしら?」
「うむ。感謝しているぞ。ああ、それで思い出したが、もう刺客は来ないんだろうな?」
「うん。大丈夫。もう伯図には来ないと思うわ」
 伯図は清鸞とは無関係の旅人であり、熊牙塞に捕らわれていた所を、たまたま清鸞が助けた。前城の街では既に清鸞と別れていた。そう楊秦に化けた月蓉が、向こうで言ってくれるはずだ。たいした嘘ではないが、伯図のことよりも清鸞のことの方が懸念であるはず。十中八九信じると思われた。
 その手の打ち合わせを聞いていない伯図は、ただ清鸞の言葉を信頼するしかなかった。
「なるほど。では安心だ」
「うん」
「では、月蓉にもよろしくと。そういえば、月蓉は、どこかに忍び込んでいるのだろう。大変だな」
 そうね、と清鸞が頷く。
「呂彬の館で、大事な冊子を一つ取り損ねちゃったからね。証拠を掴むのには、仕方がないのよ」
「証拠というのは、あそこで語っていた人身売買のか」
 清鸞にとっては、人身売買などというものは、一般人が許し難いと思う以上に許せないものなのだろう。その思いが駆り立てたとしても、彼女の行動力には驚かされるのだが。
 そこで、ふと伯図は思い出す。
「そういえば、冊子と言っていたな。実は私も拾ったのだ」
 袋から伯図は、呂彬の館で取ってきた冊子を取り出して、清鸞に見せる。
「こ、これは!」
 清鸞の目が驚愕で開かれた。
「これを、どこで見つけたのよ!」
「呂彬の館でだ」
 あなたねえ。そう清鸞が大きな息をつきながら、伯図を睨んだ。その表情には怒りや喜び、安堵とか、色々な感情がないまぜになっていた。
 そのきつい清鸞の視線に、伯図は怯む。
「い、いや、盗んだ訳ではないぞ。たまたま袋の中に入っていたのだ。本当にたまたまだ。本の間に挟まっていたから、分からなかったのだ」
「どうして、早く言わないのよ! これがあったら、月蓉にあんな真似させずに済んだのに!」
「そんなこと言われても困るぞ。だいたい、お前がこれを探していたなどと言うのは、たった今知ったのだ。どうしようもあるまい」
「それはそうだけど」
 悔しそうに、清鸞が俯いた。彼女も、今回ばかりは伯図の方が正しいことを認めていたから、それ以上伯図を責めることは出来なかった。伯図は、彼女が探している物を知らなかったのだ。それは、清鸞の方が話さなかったことであり、知らない伯図に罪はない。むしろ、これがここにある僥倖を喜ぶべきであろう。
「ごめん」
 清鸞が顔を上げる。
「む?」
「でかしたわ、って言うべきだったのよね」
「そうなのか?」
 これの価値を全く理解していない伯図には、いまいち感覚がつかめない。もっとも、これに価値を認めるのは、人身売買に関わる者達か、それを討とうとしている者達ぐらいだろうが。
「ありがと。これで、一網打尽に出来るわ」
「ふむ」
「月蓉も、すぐに呼び戻せば大丈夫よね」
「ま、役に立つのなら何よりだ」
 伯図にとっては、旅の間の暇潰しにしかならなかったものである。
「うん」
「では」
「じゃあね。さようなら。また会う日まで」

   二

 月蓉は、王家の邸内を捜索していた。
 こちらに着いたのが、昨日の朝。清鸞を取り逃がしたことについては、さんざん説教を受けたが、それも想定内で、軽く聞き流しておいた。
 他の刺客は討たれたこと、伯図は関係がないことを王貴に告げ、信じさせた。恐らく、近いうちに、再び清鸞を消せとの命令を受けるだろう。そのときまでに、何か証拠を掴んでおきたかった。
「やはり、廬家に行かなくては駄目かしら」
 内心でそう呟く。王貴の私室にも執務室にも入ったが、証拠になるような物は、全く見つからなかった。
 廬家に行くのは、大変である。そもそも王家の道士である楊秦が、廬家へ行く用などそうあるわけではない。用もないのに行けば怪しまれるし、危険であった。
 いや、一つある。
 確か、楊秦と、廬家の道士である凌静は同門である。清鸞を討つための何か知恵を貸してくれと行けば、それほど怪しまれないのではないか。現に、楊秦も凌静から貰ったらしき移動術の巻物を持っていたはず。
 問題は、この姿で凌静に会うことだった。
 凌静は、並の道士ではない。それは清鸞が並の道士ではないのと同様だ。その上、清鸞と同じように、武術の方も嗜んでいる。怖い物知らずの清鸞でさえ、凌静には一目置いているのだ。
 危険な賭ではある。
 月蓉は、しばし思案する。
「…………」
 清鸞は、冊子の一つを取れなかったのを自分の失策だと言っている。確かに、それも一因かもしれない。だが、もっと大きな要因がある。それは、月蓉がもっと早くに冊子を取っておけば良かったということだ。少なくとも、月蓉自身はそう考えている。
 場所さえ掴んでおけば、眠り薬で呂彬らを眠らせた後、すぐに取れたはずなのだ。それもせずに、呂彬に取り入ることを優先させてしまった。密偵としては、明らかな失敗である。
 その後悔が月蓉の決断を後押しした。

 廬家に向かう途中、肩に小鳥がとまる。
「何、見つけたの!」
 小鳥の伝言を聞いて、月蓉は驚いた。どうやってか、清鸞が冊子のもう一つを入手したらしいのだ。それで、月蓉にもう帰れと言っていた。
「そうね。でももう廬家に先触れも出したし、行かないと怪しまれるわ。そう清鸞さまに伝えて」
 そう言うと、小鳥が更に囀る。
「え、今夜? そう。上手く連携できれば良いんだけど」
 どうやら、今夜、清鸞が廬家に誅伐にいくらしい。相変わらず、単身で。
 証拠が揃った今くらい、官憲を使って欲しいと思うが、そうもいかないのも分かっていた。廬家の影響力はなかなか侮り難く、そうそう権力に頼れないのだ。だから、為人もあるが、清鸞は単身で動かざるを得ないのだ。
 廬家に着くと、思ったより早くに通された。主人の廬徹に会うわけではなく、凌静に会いに来たわけだからだろうか。そんなことを考えていたら、凌静の執務室の前まで案内されていた。
 戸は、案内した侍女によって開けられており、中に凌静がいるのが見えた。
 ここで佇んでいるのも変なので、月蓉は意を決して執務室に入る。
「これは、楊秦。先日は災難だったな」
 凌静は棚の前に立ち、一冊の書籍を読んでいたのだが、月蓉が入ると顔を上げた。
「はい。私ではあの小娘の相手は、荷が重すぎたようです」
 月蓉は答える。
 凌静が、月蓉の正体に気づいている様子はない。だが、その視線に全て見透かされているような気分に月蓉はなっていた。
「なるほど。それで、私に知恵を借りに来たというわけだな」
「はい。近いうちに、再び命を受けそうですので」
「そうか。では今度はこれやろう」
 凌静が書籍を棚に戻して、机の上に置いてある霊符を手に取った。
「なかなか強力な霊符だ。これがあれば、お前でも何とかなるだろう」
「これは?」
 尋ねながら、月蓉は手を伸ばす。
「術の効果を打ち消す霊符だ」
 その言葉を聞いて、月蓉の手が止まる。
「どうした? 何故取らない?」
 凌静がにやりと笑う。
「お前に何か術でもかかっているわけではあるまい。でなければ、取るのに問題はないであろう」
 凌静が、月蓉の伸ばした手を掴む。そして、それに霊符を持たせた。
「あっ……!」
 術が弾け飛び、月蓉の姿が露わになる。
「なかなか手の込んだ真似をするではないか」
 掴んだ手に力を込めながら、凌静が話しかける。
「うっ……」
「しかし、その程度の術で、私の目を誤魔化そうなどとは、私も舐められたものだ」
 凌静がぐいっと腕をひき、月蓉を引き寄せた。
「くっ……!」
 月蓉は短剣を取り出し、凌静に突き刺す。
「甘いな」
 冷たく言い放ち、凌静が短剣を持った手も掴む。そして捻り上げ、短剣を取りこぼさせた。
「は、放せ!」
 月蓉が暴れるが、凌静の身体はびくともしない。逆に、両腕を上に伸ばさせられ、そのまま壁に押しつけられた。
 凌静は、左手で月蓉の両手首を掴み、右手の人差し指で、月蓉のおとがいを上げた。
「主従ともに、気の強そうなことだ」
 睨み付ける月蓉の瞳を、嘲笑いながら指を頬に動かす。
「だが、嫌いではない」
 そう言うや、凌静は月蓉の唇を、自分の唇で塞いだ。
 顔をよけて避けようとする月蓉だが、凌静の右手がしっかりと顔を固定しており、避ける術は月蓉にはなかった。
 凌静の唇は、すぐに離れる。
「噛まれては、たまらないからな」
 意図を見透かされて、月蓉は唇を噛んだ。
「この身体で何人の男を誑かしてきたかは知らぬが、これからは、誑かし無しで、男を喜ばせる女になってもらう。その前に閣下が味見なさるかもしれんがな」
「ごめん被るわ」
「おっと」
 凌静は素早く月蓉の首筋に手刀を叩き込んだ。月蓉が自分の舌を噛もうとしたからだ。それも果たせず、月蓉の意識は闇に落ちていった。
「ちょっと遊びすぎたか」
 自分の手に支えられているだけの月蓉をその場に落とし、凌静は乱れた髪を撫でつけた。
 その後、月蓉を抱え上げ、廬徹の部屋に向かった。

「ほう。そう言うことがあったのか」
 廬徹は凌静の報告を受けて、愉快そうに笑った。
「その術が解けて驚いた様を見たかったな」
 そう言いつつ、目の前の机の上に寝転ばされている月蓉の身体を舐めるように見た。
 月蓉の意識は戻っておらず、気絶したままであった。両手両足はそれぞれ上下に縛られ、口には猿ぐつわがされていた。その上、着ていた服も全て剥ぎ取られていた。
「密偵とは思えぬ身体をしておるな」
 くくく、といやらしい笑みを浮かべながら、好色そうな目で廬徹は月蓉の裸身を眺めていく。
 燭台の炎に照らされるその裸身は、自ら輝いて見えるほど白皙であった。均整のとれた身体は、今は廬徹の目を楽しませるためだけに存在していた。
「呂彬の館にも、潜入していたようです」
「『人面熊』めの手つきか。これほどであれば、簡単に籠絡できたであろうな」
「恐らく、例の冊子を狙っていたものと思われます」
「あんなもの、幾らでも握り潰せるのだがな。王貴がまた血相を変えてやって来るかな」
 既に王貴邸には、楊秦死すの報せをやっていた。
「王中丞だけではありますまい」
 そう凌静が言う。
 それだけで、廬徹は凌静の言わんとするところを理解した。
「ほう。遂に小娘もやって来るか!」
 嬉しそうに、廬徹は太った身体を揺する。
「恐らく、彼女は清鸞の命で動いているのでしょう。そして、既にこちらへ忍び込んだという報告は行っているはず。彼女の性格から言って、長期間私がいる所に彼女を一人で置きたくはないはずです。二つの冊子が彼女の元にあるとするのなら尚のこと」
「手筈は整えているのであろうな」
「ぬかりなく」
 凌静が頷く。
「くくく。では、今夜はあの小娘も頂けるという訳か。楽しみであるな。では、待つとしようか。清鸞様がやって来るのを」
 廬徹は、手を月蓉の身体にやりながら、愉快でたまらないように身体を揺すって笑った。

   三

 廬家に進入した清鸞は、多少不安感を持った。
 廬家ともあろう屋敷にしては、警備が少なすぎるのだ。そのため、清鸞は簡単に侵入できたのであるが、簡単すぎて逆に警戒心が高まった。一応、隠形術で姿を消し、見つからないようにはしているが、朱静を向こうに回して、感づかれていないのも、違和感を感じるのだ。
「罠かな」
 そう胸中で呟く。
 それでも、清鸞は行くのを止めるつもりはなかった。ここで討たなければ、人身売買によって更に多くの犠牲者が出るであろうし、ここに入った月蓉の身も心配だった。
「上等よ。罠なら、罠ごと叩き斬ってやるわ」
 清鸞は、そう自分を鼓舞するように口にして、廬徹の部屋を目指した。
 廬家の屋敷はとてつもなく広かった。呂彬の館の比ではない。だが清鸞はここには一度来ていたから、迷わず目指す部屋に向かった。
 そして、廬徹の部屋の側まで来た。
「…………」
 廊下の角から、扉の方を覗く。
 扉の前には、さすがに数人の衛兵が見張っていた。
 ここをやり過ごすわけにはいかない。清鸞は息を整えてから隠形術を解き、一足飛びに衛兵に飛びかかった。一瞬のうちに兵士を斬って捨てる。
 そして、扉を蹴破った。
「これはこれは、清鸞様。こんな夜中に、何か御用ですかな?」
 わざとらしく、廬徹が言う。その横には凌静が控え、また王貴もいた。更に奥には十数人の衛兵が待ちかまえている。それらがいてなお、空いている空間の方が広いという、巨大な部屋であった。
 しかし、清鸞の目を釘付けにしたのは、それらではない。廬徹がついている机の上に、仰向きになっている女性の姿が清鸞の目を捕らえていたのだ。
「が、月蓉!」
 月蓉は眠らされているのか、清鸞の声に反応しない。
「清鸞様には良い贈り物を頂きました。このような美しい女性はそう手には入る物ではございませんからなあ」
 くくく、と廬徹が身体を揺すった。
「黙りなさい、この悪党!」
 清鸞の怒号が響き渡る。
「あなたの罪は明白よ! 呂彬と組んで、女性達を売りさばいていたこと。絶対に許さないわ!」
「勝手な罪を捏造されても困りますな、清鸞様。呂彬が女性をさらっていたらしいことは私めも存じ上げておりますが、私もそれに加わっていたなどと言うのは、侮辱に値しますぞ」
「証拠ならあるわ」
 清鸞は、懐から二つの冊子を取り出した。
「あ、あれは……!」
 王貴が動揺するが、廬徹は微塵も余裕を崩さず、清鸞が続きを語るのを待っていた。
「知っているわよね、これ。人身売買に関わっている奴らの名簿よ。暗号になっているけど、両方あるから問題ないわ。これに、廬徹、あなたの名前が載っている。王貴、あなたもよ!」
 ほほう、と全く悪びれず廬徹が答える。
「それが本物か否か、私めが、私の権限を使って調べさせましょう。それをお貸し下さい」
「誰があなたに渡すもんですか」
 清鸞は、言下に拒否する。
「これは異な事を。本物かどうか調べなければ、罪に問えますまいに」
「そうやって握り潰すつもりでしょう。丞相のあなたなら、簡単なことよね。でも、そうはいかないわ。これは、あなたを討った後の証拠になるの。反乱などと騒がれたら、困るからね」
 そう言いながら、清鸞が冊子を懐に仕舞った。
「そうですなあ。例え清覧様であらせられても、聖上に正式に任命された丞相たる私を狙えば、立派に反乱ですな。反乱であるなら、お討ち申し上げても、文句は言われますまい。死体も残らず、可哀想なことですなあ」
 くくく、と廬徹が嘲笑する。
「あたしも商品にする気でしょうけど、そうはいかないわ。月蓉も返して貰うわよ」
 清覧は、大剣を抜いた。
「いいんですかな、その月蓉に傷がついても」
 廬徹が、手を伸ばし見せつけるように月蓉の裸身を撫でる。
「その手をどかしなさい!」
 清覧は大喝しつつ、地を蹴った。
 衛兵の何人かが、すっと動き、廬徹を守るように前に立った。
 だが清鸞の実力の前には、壁の役にも立たない。清鸞は一瞬で前方の衛兵を蹴散らし、廬徹の直前に立った。大剣を翻して、廬徹に打ち下ろす。
 甲高い金属音が響いた。いつの間にやら、凌静が前に立ち、得物の双剣を交差して、清鸞の攻撃を防いでいた。
 にやりと清鸞が笑う。
 凌静が眉を潜めた。
 刹那、清鸞は柄を握っていた片手を放し、柄に潜ませて置いた粉を凌静に放った。
「ちっ」
 舌打ちして、凌静が一歩離れる。
 その隙を逃さず、清鸞は印を結び手を振ると袖口から紙が二枚落ちる。人型の紙は、床に落ちると同時に兵士化し、清鸞の左右に立つ。
「月蓉は返して貰うわよ」
 左右を紙人に防がせ、清鸞は月蓉を抱きかかえると、瞬時の出来事で茫然としている廬徹にそう言い放ち、後方へ下がった。
 紙人達も、前方を警戒しながら後方に下がり、衛兵達との距離を取る。衛兵達は紙人に防がれ、追撃ができない。
「月蓉、無事?」
 清鸞は、月蓉を縛る縄を切った。
「あ……」
 月蓉が目を開ける。
 良かった、と清鸞が安堵の息をついた。
「ご無事でしたか、清鸞さま」
 清鸞の腕の中で、月蓉も清鸞の無事を喜んだ。
「あたしが、負ける訳無いじゃない」
 そう清鸞は微笑んでみせるが、くんと鼻孔が、微かな香を月蓉から感じた。
「これは――?」
 その香が何か、清鸞の脳裏で判明したとき、月蓉の腕が伸びていた。
「催眠香! しまっ――!」
 咄嗟に身を月蓉から放すが、半瞬遅かった。月蓉の両腕は、しっかりと清鸞の両肩を掴んでいた。
 相手を催眠状態に落とす香。それが月蓉にかけられていたようだ。
「紙人!」
 紙人を呼ぼうと顔を上げたとき、紙人は、凌静の双剣で斬られていた。
「月蓉! 月蓉! 正気に返って!」
「無駄だと言うことは、ご存じでしょう」
 そう上から声が振ってきた。紙人を倒した、凌静がすぐ近くまで来ていたのだ。
「その香をかけられた者は、同じ香でないと解除されない。あなたならご存じのはず」
 勿論知っていた。だが、知っていても尚、声をかけずにはいられなかった。
 すると、月蓉が手をずらし、叫んでいた清鸞の口に指を入れた。
「うっ!」
「くくく、万事休すですな、清鸞様」
 重い身体をゆっくりと動かしながら、廬徹もやって来る。
「…………!」
 清鸞は憎々しげに、廬徹を睨み上げた。
 がっちりと月蓉に捕まれ、側には凌静が立っている。
 辱めを受けるぐらいなら、死んでやるつもりであったが、それもままならなかった。舌を噛もうにも、月蓉の指が口に入っているのだ。舌を噛み切るには、月蓉の指を噛み切らなければならない。そして、それは自害より難しいことであった。
「なに、殺しはしませんよ。たっぷりと楽しまなければいけませんからなあ」
 好色そうな視線で、廬徹が清鸞を見下ろした。
 凌静が清鸞の横にしゃがむと、月蓉がすっと指を外す。と同時に猿ぐつわを噛まされた。そして、両手両足を縛られる。そこで初めて、月蓉が身体を離した。
 月蓉は、何の感情も見せない瞳で清鸞を見下ろしていた。
 ごめん。清鸞は心中でそう月蓉に詫びた。
「連れて行け。いや、持って行けか。くくくく」
 廬徹が、笑いながら凌静に命令する声が聞こえた。

   四

 清鸞が凌静に抱え上げられて連れてこられたのは、廬徹の寝室らしき部屋であった。
 先ほどの部屋よりはさすがに小さいが、それでも広い部屋だった。その部屋の半分を占めるのが、大人が何人も眠れそうなほどの大きな天蓋つきの寝台であった。薄い絹の帷幕があり、その奥の方に清鸞は寝かされていた。
 凌静は、清鸞をここに寝かせて、腕を縛る紐で更に寝台にくくりつけて逃げられないようにすると、早々に部屋から退出していた。
 その後しばらく一人であったが、ややあって、何人もの女性に囲まれて、廬徹がやって来た。先程、一度清鸞の着ているものを全て脱がして、新しい夜着を着せた女性達だ。清鸞の持つ霊符や大剣を奪う意味もあるとは思うが、どうやら、廬徹には、自分で脱がしたいという趣向があるようだ。幸か不幸か、その趣向のため清鸞は、裸でこんな所で犯されるのを待つという屈辱だけは免れた。勿論、それは全体の屈辱感が軽減できるものではない。
 女性達は、廬徹を取り囲むと、その衣服を丁寧に脱がせていった。全てを終えると、女性達は一礼し、一人を残して退出していく。
 廬徹と残った女性は、帷幕を開け寝台に入ってくる。
 女性は月蓉であった。
 そして。
 横からは、聞きたくもない呻きと嬌声が聞こえてくる。大きくて安定感があるはずの寝台は、何故かぎしぎしとひどく揺れた。
 両手を縛られている清鸞は、手で耳を塞ぐことが出来ないから、ぎゅっと目を瞑り、反対方向に身体を背けていた。
 月蓉が密偵に入るとき、時と場合によっては、そういう行為をすることは知っていた。だが、それは少なくとも月蓉の意志が働いている。現在のように、意志を強奪され、ただ男を喜ばせるためだけの物に成り下がることとは、意味が違う。それだけに、清鸞の悔恨は深かった。
 永遠と続くと思われたその行為も、一際大きな嬌声の後やがて静まる。寝台の揺れもおさまり、終わったのかと清鸞は悟った。それが何を意味するかも。
「くくくくく」
 好色そうな笑い声が近づいてくる。
 来るな。そう強く念じた瞬間、肩を掴まれ仰向きにさせられた。
 視界に廬徹の汗ばんだ顔が入り、嫌悪感が更に増す。それでも弱みを見せまいと、きっと廬徹を睨み付けた。
「おやおや、怖いですかな。泣いておられますなあ」
 そう言われて、清鸞は初めて涙を流していることに気がついた。
「初めては誰でもそうです。すぐに慣れますぞ」
 廬徹が、清鸞の両肩を掴んで笑いかけた。汗ばんだその顔は、いつにも増して醜悪である。そして、そのまま清鸞の上に馬乗りになった。
「……っ!」
 清鸞は暴れようとするが、がっしりと肩を掴まれていて動けない。それ以上に、廬轍の脂ぎった巨体がとてつもなく重く、身体が悲鳴を上げていた。
 自分はこんなにも非力だったんだ。そう清鸞は自覚させられる。その自覚とともに、身体中から力が抜けていって、その状態に精神が萎えていきそうになる。
 おや、と廬轍の笑みが醜悪さを増した。
「抵抗は終わりですかな。もっと抵抗していただかないと、困りますなあ。あの気のお強い清鸞様を私の物にする、その達成感を味わうために、催眠香を使わなかったのですから。くくくく」
「!」
 どうして、自分に催眠香を使わなかったのか、清鸞は分かった。暴れる自分を犯して、屈服させたいのだ。
 そして、それはもう目前まで来ている。
「まあ、でもいいでしょう。私の方もそれほど我慢が出来ませんからな」
 廬轍の手が、肩から夜着の襟元に伸びた。
 清鸞は、それをただ目を見開いてみることしかできなかった。
 怖い。清鸞は、初めてそう感じた。怖い。怖い。怖い。がたがたと身体が震える。それすらも廬徹を楽しませると分かってはいたが、どうしようもなかった。
「くく、それでは、あまりお待たせしては、お気の毒ですからな」
 廬轍が夜着の襟元を左右に開く。瞬間、清鸞は耐えきれず目を閉じてしまった。
 刹那、大きな音がする。しかし、それが何かと推測する余裕は清鸞にはなかった。瞳を閉じた闇の中、重い物が上半身に乗ってきたからだ。
 嫌! 嫌! 嫌!
 清鸞は声にならない叫びを上げる。
 そして。
「おい、生きてるか?」
 そんな声が耳に入ってくる。
 聞き覚えのある声。今までさんざん聞いていた声だ。
 まさか、と思って清鸞が目を開いてみると、視界に何も映らなかった。視界の全てを占めていたのは廬轍の身体であった。汗ばんでいて気持ち悪かったが、廬轍が動く様子がない。
「重いな、この豚。何を食ったらこんなになるんだ」
 不意に視界が開ける。慌てて清鸞が視線を巡らせると、青年が廬徹を、脇へよけているところだった。
 伯図である。
「うわあ、気持ち悪い。変な物触った気がするぞ」
 嫌悪感を隠さない声をだしながら、伯図が手を帷幕で拭いていた。
「――――」
 清鸞は声を出した。猿ぐつわのために言葉にはならないが、伯図は気づいたようで、清鸞の方に視線を向ける。
「やっぱり捕まっていたか。良いところで助けに来たろう。感謝しろ」
 伯図が言いつつ、清鸞を見下ろした。
「やっぱり、ちんちくりんだな。こんなの、どこがいいんだか。変態の考えることは全く持って理解しがたい」
「むー!」
 清鸞は、真っ赤になって暴れた。
 伯図が、清鸞の猿ぐつわを外す。
 ぷはあっ、と清鸞が大きく息をついた。
「何見てるのよ! さっさと縄を解いてよ!」
「心配するな。お前の裸なんか見ても、欲情なんてしないぞ」
「し、失礼ね! とにかく早く、縄を解きなさい!」
「わかった、わかった」
 伯図が、清鸞を縛っている縄を解いていく。
 清鸞は腕を解かれた時点で、すぐに夜着の襟元を閉めた。
「まったく、失礼な奴なんだから」
 そう、ぶつぶつと文句を言う。そして、はっと気づいた。伯図は、清鸞を助けてくれたのだ。その礼を言っていない。そっと伯図の方を見ると、彼は表情を全く変えずに清鸞を見ていた。
「ごめんなさい。助けてくれたのに」
「珍しくしおらしいな。人知らずして慍(うら)みず、亦(ま)た君子ならずや、だ。気にしてないぞ」
 そう伯図が口にしたかと思うと、ふわっとした感触とともに、清鸞は伯図の胸の中にいた。
「涙の跡がついている。直情径行はお前の悪い癖だ。泣くほど怖いのなら、もう少し熟慮しろ」
 頭の上でそんな声がする。
「……うん……」
 頷いて、清鸞は身体の力を抜いた。安堵感が、全身にゆったりと染み入ってくる。
「いつもこんな風に女を籠絡していたのかしら。科挙生の癖に、変なとこだけ上手いのね」
 そう言うと、伯図が何か言い返そうとするのが分かった。それを遮るかのように、清鸞は言葉を続けた。
「でも、感謝してる。本当に。助かったわ。ありがとう」
 伯図は言いかけた言葉を飲み込んだようだった。その変わり、一回だけ清鸞の頭を撫でた。
 本当はもっと撫でて欲しかったが、伯図は清鸞から身体を外した。少し不満げに伯図を見ると、彼は柄でもないことをしたという風に、唇をへの字に曲げていた。
「ところで、伯図はどうしてここに?」
 伯図は、清鸞が廬徹邸に侵入したことは知らないはずだ。
「うむ。実はだな。いずれ顕業に家を買うとして、どのような物が良いか物色していたのだ。そうしていると、ここに来てだな。中が騒がしかったんだ」
「それで、どうしてあたしと繋がったの?」
「廬徹の屋敷だろ、ここは。それで、あの冊子に廬徹という名があったのを思い出したのだ。廬轍といえば、丞相だろう。お前が行くとしたら、一番偉そうな奴の所だと考えたのだ。で、中の騒ぎだ。お前の性格から言って、直に行動に移したんだなと合点がいったぞ」
「冊子に名前があったって、あれ、読めたの?」
 清鸞は驚いて、伯図を見返した。
「あんなもの、私の才を持ってすれば、解けない訳がないではないか。まあ、字を分解されて、なおかつ五行に当てはめなければならなかったから、さすがに解くのに数日かかったがな。夜の暇潰しにはもってこいだった」
 伯図は胸を張る。
 へえ、と清鸞が目を丸くしていた。
「あたしは、初めて伯図がすごいと思った」
「なんだと。当代一の才を前にして失敬な」
「その自惚れがなければねえ。その才に助けられたんだから、あまり強くも言えないけれど」
「その通りだ。深く深く感謝しろ」
 はいはい、と清鸞が手をひらひらさせる。
「でも、どうやってここまで忍び込めたの?」
「うむ。邸内に入るときは壁をよじ登ったのだが、屋敷の中では、見つかっても何も言われなかったぞ。恐らく、お前に夢中で私なんかは眼中になかったようだな。下働きの一人ぐらいにしか思われなかったようだ」
 伯図は、少し不機嫌になりながら回想した。見咎められず来られたのは良かったのだが、無視されるというのは、伯図の矜持を多少傷つけていた。
「なるほどね」
「それで、これからどうするんだ?」
「うん。それだけど」
 答えて、清鸞が横の月蓉に視線をやる。
 月蓉は、先ほどから変わらず仰向けに横たわっており、焦点の合わない目を上方へ向けていた。
「そういえば、どうしたんだ、月蓉は? 動く気配がないのだが」
 伯図は、まじまじと月蓉を見た。
「実は、催眠香というのを受けてて、意志を封じられているの」
「ふむ」
「それで、治すには、同じ香が必要なんだけど」
「ふむ」
「凌静というのがかなりの使い手で、多分、困難が伴うと思うの」
「ふむ」
「……伯図?」
「ふむ」
「話聞いてるの? どこをまじまじと見てるのよ! この変態!」
 月蓉の身体をじっと見つめている伯図に、清鸞が身体を割り込ませて視界を遮りながら怒鳴った。
「いいではないか。減るものでなし」
「減るわよ! そんな目で月蓉を見ないで頂戴」
「これほどの身体だ。見られた方が月蓉も嬉しいと思うのだが」
「勝手な理屈をつけて、自分の好色さを正当化しないでよ。向こうを向いていて!」
「わかったわかった」
 今にも噛みつきそうな清鸞に呆れながら、伯図は視線を月蓉から避けた。
「もういいわよ」
 未だふてくされた声の清鸞が、伯図に声をかけたのはそのしばらく後。振り返ってみると、月蓉の身体は毛布でくるまれていた。もう少し鑑賞していたかった伯図としては残念だったが、清鸞に噛みつかれるのも困るので口にしないでおいた。
「で、どうするんだ?」
 伯図は視線を清鸞から、倒れている廬轍に移しながら聞いた。
「斬るのか?」
「斬る物がないわ」
 清鸞が肩をすくめた。斬りたいのはやまやまだけど。そう表情が語っている。
「身ぐるみ剥がれちゃったからね。あ、そうだ。悪いんだけど、替えの服を貸してくれないかしら?」
「ん。どうしてだ?」
「この格好じゃ、動きづらいじゃない」
 清鸞が自分の着ている夜着を見下ろした。
「単衣の夜着だし動き易いんじゃないか?」
「こんなので戦闘できる訳ないでしょ! 恥じらいぐらい、あたしにもあるのよ!」
 夜着の下に何も身につけていないのである。そういわれると確かに、そうであった。裾が割れると、なかなか艶やかな格好になるだろう。
 しかし。
「私は気にしないぞ」
「あたしが気にするのよ! さっさとよこしなさい!」
 清鸞が伯図から、袋を奪い取った。
「あ、こら」
「あっちを向く」
「いや、だからだな、困るのだ」
「いいから、あっちを向け!」
 抵抗を試みる伯図の首を、清鸞が無理矢理曲げる。
「うおっ!」
 伯図は首を押さえてうずくまった。その隙に清鸞が、伯図の袋を開け、替えの服を取り出して、着替え始める。
 だが、夜着を床に落としたとき、影が清鸞を覆う。
「この糞餓鬼がー!」
 廬轍が、いつの間にか起きあがっており、清鸞の背後から襲いかかろうとしていたのだ。
 刹那。
 清鸞が振り向きざまに、廬轍の顎下に掌底を叩き込んだ。廬轍の襲撃を予期していたかのような、惑いのない流れるような動きであった。
「があっ!」
 廬轍の重い身体が浮き上がったように見えた。廬轍はそのまま、背中から崩れ落ちて、再び気を失う。
「しつこい男は嫌われるものよ」
 清鸞が手をはたきながら、廬徹を見下ろした。
「生きてるのか、こいつ?」
 伯図は眉をひそめる。それくらい清鸞の一撃は強烈に見えた。伯図も、先ほど杖で後頭部を殴りつけたのだが、それ以上の痛撃がいったよう。廬轍は、泡を吹いていた。
「生きてるんじゃない。悪運強そうだし」
 廬轍の生死など興味なさそうに、清鸞が答える。
「しかし、それはそれとして。戦えるじゃないか。その格好でも。着替え返せ」
「――って? きゃあ! ど、どこ見てるのよ!」
 まだ裸でいることに思いいたった清鸞が、慌てて身体を隠しながら叫んだ。
「お前のちんちくりんな身体なんか見ても、欲情なんかしないから安心しろ」
「そんな問題じゃないわ!」
「では、どういう問題なんだ?」
「とにかく、あっちを向け!」
 清鸞の足が垂直に上がり、伯図を蹴り飛ばす。
 うおお、と呻きながら伯図は顎を押さえ、渋々清鸞に背中を向けた。
 まったく、と背後で清鸞が呟く声が聞こえる。
「もう、いいわよ」
 清鸞がそう声をかけてきたのは、そのすぐ後。伯図が振り返ってみると、すっかり着替え終えた清鸞が帯を締めているところであった。さすがに伯図の服は大きいのか、裾や袖口を何重かに折ってあった。
「首と顎が痛い」
「自業自得だわ」
 つん、と清鸞がそっぽを向く。
 その横顔に伯図が何か言い返そうとしたとき、再び清鸞の視線が伯図に戻る。
「さあ、ぐずぐずしてないで行くわよ。さっさと月蓉を抱えて」
「何? 私がか?」
「当たり前よ。なんなら、あなたが戦ってくれるの?」
「ごめん被る」
「なら決まりでしょ」
「放っていくという選択肢は……」
「そういう冗談は好きじゃない」
「いや。うむ。私が持とう」
 伯図は、清鸞の厳しい睥睨に、慌てて月蓉を抱え上げた。
「で、どうするんだ?」
 伯図は何度目かの質問をする。
「とにかく、あの冊子を探さないと。廬徹を討つにしても、あれがなければただの反乱殺人になるから」
「丞相だもんな」
「それから、催眠香。月蓉をこのままにしておくことは出来ない」
「これはこれで、そそるものがあるが」
「あのねえ」
「冗談に決まっておろう。それで、物はどこにあるかわかっているのか?」
「正確なところは分からないけど、恐らく両方とも凌静が持っていると思うの」
「ふむ。凌静というのは、お前と同じ道士だったな。直接乗り込んで、丸腰のお前に勝ち目はあるのか?」
「ないでしょうね」
 清鸞が肩をすくめた。
「なら、最初に武器じゃないか。一度出るという選択はないんだろう?」
「当たり前よ。そんな猶予は最早ないわ」
 だから、と清鸞が言葉を続ける。
「伯図の言う通りね。武器を探さないと。行くわよ」
「うむ」
 頷いて伯図は、扉に向かう清鸞に続いた。

   五

 朱静の寝所に、伝令が来たのは、彼が寝入る直前であった。伝令の報告を聞くと、朱静はすぐに身支度を整えながら、指示を飛ばす。
「すぐに屋敷内を固めよ。誰一人として屋敷から出すな」
「はっ」
「丞相閣下はどうしておられる?」
「寝所にて典医がご様子を見ておられます」
「ふむ。意識は?」
「戻られたご様子」
「よし、向かおう」
 頷いて、朱静は廬轍の寝所に向かった。
 廬轍の寝所では、伝令の報告したとおりに、廬轍が寝所で寝かされていて、典医が付き添っていた。
「遅いぞ、朱静!」
 廬轍は冷やした布を顎に当てながら、身を起こした。その顔は怒りのためか朱に染まっていた。当初の余裕は、既に吹き飛んでいた。
「すみませぬ。して、お具合はいかがでしょうか?」
「そんなことはどうでもいい! あの小娘をさっさと捕まえろ!」
「清鸞が、あの状況から逃れることなど出来はしますまい。どうやって逃げたか、わかりますか?」
「知らぬ! あの小娘を抱こうとしたら、いきなり後頭部を殴られたのだ」
 廬轍が、痛みを思い出したかのように、自分の後頭部をさすった。
「そうなりますと、誰か彼女の仲間が救出に来たと考えられますが」
「そういえば、誰か男がおったような気もする」
「なるほど。では、そいつが清鸞の仲間でしょうな」
「何をそんなに落ち着いているのだ! あやつは私を打ちよって、逃げだのだぞ! もうここにはいないかもしれないではないか!」
「ご心配には及びませんよ」
 朱静が薄く笑う。
「冊子がここにある以上、清鸞はそれが握りつぶされる前にそれを奪おうとするでしょう。それなら、今晩中です。それに、月蓉の件もあります。彼女は、月蓉をあのままにしておくような為人ではありますまい」
「なるほどな」
 廬轍が落ち着きを取り戻す。
「では、冊子と催眠香は無事なのであろうな?」
「はい。ここにあります故」
 朱静が、懐から冊子と香袋を取り出してみせる。
「やっぱりな」
 不意に、そんな声がする。窓にかけられた天幕の方からであった。
「誰だ?」
 朱静が厳しい声を飛ばす。
 声は、そんなことに構わずに続けられた。
「な、私の言った通りだろう。私の才能に恐れ入ったか」
「大事な物だから、ここで待っていれば、朱静が絶対にここに持ってくる――。確かに当たりだけれども、それを口に出したら、隠れてることがばれちゃうじゃないの」
「どうせ、躍りかかる気だったんだろう。今ばれても一緒ではないか」
「不意をうった方が勝率が上がるじゃない」
「そんな気あったか?」
「なかったけど」
「出てこい!」
 状況にそぐわない呑気な会話にしびれを切らして、朱静が双剣を払う。すると天幕の半分から下が切り落とされた。
 そこには三人の人影がいた。清鸞と伯図と月蓉である。月蓉は伯図に抱えられたままであった。
「いつの間に?」
 朱静が問う。
「最初からよ。武器を奪って、すぐに戻って隠れてた」
 清鸞が、持っていた剣を鞘から抜いた。
 伯図らは、部屋を出て、すぐに出会った衛兵の武器を奪い、また寝所に戻ってきたのだ。
「まだ廬轍も気絶していたし、これだけ歪んだ気がある場所ですもの。隠れるのは容易かったわ。あなたも気づかなかったでしょ?」
 連夜の廬轍の行為で、ここには清浄ではない気が溢れていた。故に、清鸞の気を朱静が察知できなかったのだ。
「ま、私の策だがな。君子は人の美を成す。人の悪を成さず。まさしく、私は君子なるかな」
 伯図が胸を反らした。
「武器は入手したようだが、霊符も無しに、私に勝てるつもりか?」
 伯図を無視して、朱静が清鸞に言葉をかける。
「そのつもりよ」
「私も舐められたものだな」
「ここでは衛兵も呼べないし、あなたさえ倒せば話は終わるわ」
 寝室は広いが、大きな寝台があり、たくさんの人数が戦闘できる場所ではない。
「お前を倒すのに、衛兵の手を借りる必要などない」
「あたしも、あなたに集中したいからね」
「笑止」
 朱静が清鸞へと詰め寄る。同時に清鸞も朱静へと向かった。
 そして。
 甲高い金属音が響いた。二人は鍔迫り合いの後、呼吸を同じくして打ち合いに入った。
 十合、二十合と打ち合いが続く。二人の剣技は同等らしく、互角の様相を呈している。それでも、清鸞が攻め、朱静が守るといった色合いは出ていた。
 清鸞は霊符がなく、即興で術を使えない。朱静はその身に持った霊符を使えば術を発動でき、即座に形勢をものにできる。故に、清鸞は攻めきり朱静に術を使う暇を与えないというのが基本戦略で、反対に、清鸞の隙を誘い、術を発動させようというのが朱静の考えで、それがそのまま戦闘の色合いに出ているのだ。
「朱静、さっさとその小娘を討ち取れい!」
 廬轍が、何十合と続く打ち合いにしびれを切らして叫んだ。
「清鸞、さっさと終わらせてくれ」
 伯図も、しびれを切らして声をかけた。
「このままでは会試に間に合わない」
 夜が明ければ、貢院のへの入場が始まるのである。出来れば、早く終わって欲しいというのが伯図の本音であった。
「だったら、手伝ったらどうなの!」
 打ち合いを続けながら、叫ぶように清鸞が答えた。
「手伝えか。ふむ」
 伯図はしばし思案してから、おもむろに歩き出した。横の方で激しく戦闘をしている二人を通り抜けて、寝台の方に向かう。
 寝台の端に月蓉を寝かせると、邪魔になるからと帯で腰にくくりつけていた杖を握る。
「とりあえず、お前を殺れば、話は早く済むな」
 あっさりと言うと、茫然と見ていた廬徹に狙いを定めて杖を振りかぶった。
 我に返った廬轍がうろたえ、典医が慌てて間に割って入る。
「邪魔だ」
 伯図は杖を振り下ろし、典医の肩を打ち付けた。
 渾身の一撃である。医術の嗜みはあっても武術の嗜みはない典医は、気絶こそしなかったがよろめいて、後ろへ下がった。
 完全に戦意を喪失した典医と杖に視線をやりつつ、伯図はしきりに頷く。
「ふむ。私の力では、肩口で昏倒まではいかないか。やはり狙うのは頭だな」
 伯図の視線が廬轍に移る。正確に言うと、廬轍の頭に注がれた。そこから下は眼中になかった。
 伯図の本気とも冗談ともつかない視線と口調に、廬轍が顔をひきつらせる。
「ちょ、ちょっと待て! 朱――」
「朱静とやらを呼んでもいいが、今は手を放せないと思うぞ。無理にでも来ようとしたら、清鸞に斬られるな」
「だ、誰か――」
「誰かを呼んでも、私がお前を人質にとるだけのことで、状況はそれほど好転しないと思うが?」
「くぅぅ……」
 伯図の言の正しさを認めたのか、悔しそうに廬轍が唇を噛んだ。
「諦めて、もう一度気絶しろ。その方がお前のためだ。起きて殺されるよりも、気を失っているうちに殺された方がましだろう」
 勿論、そんな無茶苦茶な理屈を廬轍がのめるわけがない。だが有効な打開策もなく、憎悪と恐怖が半々といった表情で、伯図に視線を送り続けた。
 廬轍の状況を朱静も理解していた。だが、伯図の言の通り、清鸞を相手にしていて動けない。
「あらあら、王手かしらね」
 打ち合いを続けながら、清鸞が微笑する。
 しかし、どうかな、と朱静は唇の端を歪ませた。
「月蓉!」
 朱静の声に反応して、寝台に寝かされていた月蓉の目が開き、上体を起こす。
「逆転の一手は、常にとっておくものだ。月蓉、そこの男を押さえろ!」
 朱静の命令に月蓉が頷いた。
「伯図!」
 舌打ち一つ、清鸞が伯図に注意を促す。
 む、と伯図は、月蓉の方に視線を向けた。
 月蓉は、その場で立ち上がろうと、くるまれている毛布を払おうとして、失敗した。思うように毛布が払えなかったのだ。
「結構きつく縛ったから、なかなか取れないと思うぞ」
 伯図は、月蓉に声をかける。してやったりという表情である。
「なんか、ごそごそやっていると思ったら、そんなことをやっていたのね」
 呆れたような口調で清鸞が言う。
「そこは、褒めるところだろう」
「でかしたって言って欲しいの?」
「いや、何かむかつくからいい」
「さて、どうする、朱静?」
 清鸞が、朱静に問う。
 朱静は苦々しい表情をしつつ、守勢から攻勢に打ってでた。
「とりあえず」
 伯図は、月蓉を手で押す。両手も毛布でくるまれている月蓉は、抵抗出来ずに後方へ転がった。
 そして、伯図は廬轍に向き直る。
「ま、待て! そ、そうだ、こちらにつかぬか? その才幹、埋もれさすには惜しい!」
 廬轍が、狼狽えながら声をかけてきた。
「む」
 才幹という言葉に反応して、伯図の動きが止まる。
「わ、儂につけば、御史台につけよう。そ、そうだ、王貴を廃して、貴君を御史中丞にしてやろう」
「むむ」
「ゆくゆくは、門下侍郎にして、儂の後を継がす。ど、どうだ?」
 脈ありとみたのか、廬轍が必死に言葉を継いだ。
「ちょ、ちょっと伯図! そんな巧言に乗らないでよね!」
 清鸞が慌てた口調なのは、伯図が巧言に乗りそうだと直感したからだろう。現実に伯図は、廬徹を打つはずの手を止めている。
「ほ、本棒は月三百千、米栗百石。春と冬には綾二十匹、絹三十匹、綿百両だ。茶、酒、薪、炭、塩の現物支給もつく!」
「むむむ」
「か、官職だけではないぞ。世に様々な女がいるであろう。それもほしいままだ。そ、そうだ。そこの月蓉も、貴君にやろう。貴君が欲しければ、清鸞もやるぞ!」
「むむむむ」
 伯図は視線を月蓉にやってから、清鸞に移す。
「は、伯図!」
 伯図の表情に思い切り危機感を持った清鸞が叫んだ。そのせいで、朱静の攻勢を一瞬防ぎ損ね、肩口を斬られた。
「くっ!」
「余所見をしている場合ではなかろう」
「誰のせいだと思ってるのよ!」
「わかっていないな、お前は。君子に九思あり。視(み)るには明を思い、聴くには聡(そう)を思い、色には温を思い、貌(かたち)には恭を思い、言には忠を思い、事には敬を思い、疑わしきには問いを思い、忿(いか)りには難を思い、得(う)るを見ては義を思う、だ」
 伯図は答えて、廬轍に向き直る。
「お前の話に九思した私が、答えてやろう。君子は徳を懐(おも)い、小人は土(ど)を懐う。君子は刑を懐い、小人は恵(けい)を懐う、だ。意馬心猿なお前の巧言令色に乗る私だと思ったか」
「うっ……」
「そもそもだ。私の目指すのは、同中書門下平章事(どうちゅうしょもんかへいしょうじ)、つまり、お前の地位だ。お前に使われたいのではない。そこの所を勘違いされても困る」
 それにだ、と伯図は更に言葉を続ける。
「月蓉はともかく、あんな跳ねっ返りはいらん」
 廬轍が何か言おうと口を開いた。だが伯図は既に杖を振りかぶっていた。
 事を終え、伯図が振り向くと、未だ清鸞と朱静は戦っていた。
「向こうは終わったみたいよ。まだやるの?」
 清鸞が声をかける。
「く……」
 朱静が双剣を左右に払い、清鸞から距離をとった。
「降伏なさい。もうあなたに勝ち目はないわ」
「そのようだ」
 あっさりと朱静が認める。
「だが、降伏はしない。まだ首をやる気にはならないのでな」
 降伏しても、してきたことがしてきたことである。いずれ処刑されることは、朱静も分かっていた。
「これ以上は無駄な抵抗になるわよ」
「なら、ここを出るのみだ」
 言うや否や、朱静が懐から巻物を取り出した。それは、楊秦が最後に使おうとした物と酷似していた。
 それを朱静が開く。
「逃がさないわ!」
 清鸞が朱静に飛びかかった。
「遅い」
 朱静が薄く笑う。
 刹那。
 朱静の後頭部に、杖が打ち据えられた。
「伯図!」
「どうして、この手の奴は、自分より格下だと思った相手を無視するのだろう」
 思わぬ一撃で昏倒した朱静を見下ろしながら、伯図は唇を曲げた。格下と思われているのが不満だったのだ。
「たかだか道士の分際で、君子を無視するとは、不逞も甚だしい」
「伯図、でかしたわ!」
 清鸞が喜色一杯に、伯図に飛びついてきた。
「私にぬかりなどあるか」
「今回は、伯図に助けられてばっかりね」
「うむ。大層恩に着ろ」
「そういう傲岸なとこがなければ、あたしも素直に礼を言えるのに」
 清鸞が伯図から離れ、倒れている朱静の懐を漁りだした。
 途中、身体が一瞬止まり、視線が肩口に移る。朱静に斬られた場所だ。だがすぐに、行動を再開し、目的の冊子と香袋を見つけだした。
「ふむ。それで、一件落着だな」
「この件に関してはね」
 奥歯に物がはさまったような口振りで清鸞が、そう答えた。
「ん? どういうことだ?」
 伯図は眉根を寄せる。
「伯図」
「ん?」
「色々助けて貰って何なんだけど、これは何かしら?」
 清鸞が、自らの肩口を指差した。
「……袍だろう?」
 既に清鸞が何が言いたいか悟っていた伯図は、なるだけ誤魔化そうと、気づいていないふりをする。
 清鸞が指差した部分は、斬られていて、中の布地が見えていた。そこには、小さな文字が書かれている。
 それを、清鸞が口に出して読んだ。
「子の曰わく、学びて時にこれを習う、亦た説ばしからずや――。論語かしら?」
「は、博学だな」
 そうじゃないでしょ、と吐き捨てながら、清鸞が破れた部分を掴み、そこから剥いでいった。
 びりびりと勢いよく表地が剥がれていき、裏地が露わになる。そして、そこには、びっしりと細かな文字が書いてあった。
「何なのよこれ! あなた、これ着て会試を受けようとしてたのね! 不正じゃない!」
 科挙は、書物は言うに及ばず、文字を書き込んだ紙片ですら持ち込みが厳禁である。だが独房で試験は行われるから、どうにかして持ち込めれば、その効力は甚大である。
「道理で、この袍、あたしに貸すのを嫌がってたわけよね。もしかして、他にもあるんじゃないの? その袋貸しなさい!」
 清鸞が、杖に括りつけてあった伯図の袋に手を伸ばす。
「な、ないに決まっているだろう、そんなもの」
 慌てて伯図は後退し、難を避ける。そして、じりじりと下がりながら、猛犬のような視線を送ってくる清鸞に向かって言う。
「う、うむ、そろそろ私は行かないと、会試に遅れる。というわけで、さらばだ清鸞。もう会うこともないだろうが、達者でな」
 そう言うと同時に伯図は身を翻して、走って寝室を出ていった。


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