科挙の道遠し
最終回 伯図 貢院にて会試を受ける 貢院の入場時間に辛うじて間に合った伯図は、あてがわれた号舎で、一息ついていた。 あの時、考えなしに廬轍の寝室を出たが、兵で固められていた廬家を出るのはなかなか至難の業であった。 何とか出られたのは、騒ぎが寝室から出た頃。つまり、廬徹と朱静が討たれたことが、邸内に知れ渡り、混乱し始めたときであった。恐らく、清鸞が寝室から出たときの騒ぎであろう。相変わらず、派手な小娘だと思う。 外から官憲が来る前に屋敷から脱出できたのは、僥倖であった。考えるまでもなく、官憲は関係者を外に出すことを許しはしないであろうから。 清鸞はどうしただろうかとふと考えるが、あいつのことだから何とかしているだろうと納得することにした。捕まっても、あの冊子があるから、何とかなるであろう。その辺は他人事なので、深く考えないことにした。 深く考えるべきは、これから始まる会試のことであるべきであろう。 実際に会試が始まるのは、明日九日早朝からである。 初日の出題は、四書題三、詩題一。期限は翌十日まで。第二回は、十一日入場、十二日に試験で十三日までである。出題は五経題五。第三回は十四日入場、十五日が試験、十六日までである。出題は策論五題。 博学多才な自分においては、よもや落第はないと思われるが、万が一ということもある。そのために、色々用意をしてきたのだ。 伯図は、自らの持ち物を点検する。 硯、墨、筆数本、水差し、土鍋、食料品、蒲団、天幕。 書籍類は持ち込み禁止なので宿に置いてきてあり、土鍋や蒲団などは顕業で買い揃えた物だ。 全部に目をやってから、伯図は後方に目をやる。号舎は戸がないから、通路が丸見えであった。そこに人がいないことを確かめてから、まず筆を一つ持った。 筆を捻る。 すると、筆が二つに別れ、それぞれの中には紙片が丸め込まれていた。紙片には、細かな文字がびっしりと書き込まれている。 それを確かめて、伯図は一人にやりと笑った。 書き込まれているのは、四書五経とその注釈である。袍の裏地に書かれている物も、それである。硯を割っても同じ物が出てきたりする。 だいたい、四書五経だけで四十三万余字ある。注釈を足すと、更に数倍する。本文は一応一通り諳誦(あんしょう)できる伯図であったが、さすがに、注釈を含めてこれら全てを常に記憶し続けるのは難しかった。どうしても、抜け落ちてしまう部分はあるし、度忘れというものもある。そのときのための保険であった。 「一時はどうなるかと思ったが、これで一安心だ」 伯図は、そう呟いた。 これで会試を会元で通り、殿試も抜け、富と栄誉に満ちた伯図の未来が始まる。そのはずであった。 四月十五日。 伯図は、茫然と礼部衙門の綵亭(さいてい)と呼ばれる台の前に立ち尽くしていた。立ち尽くしすぎて日が暮れかけていた。 綵亭の上には榜(ぼう)が立っていて、そこには会試合格者の姓名が列挙されていた。そして、その中のどこを探しても朱権という名はなかった。。何十回何百回と見直してみても、存在しなかった。 「…………」 自信満々であった。会試を通ることが、ではない。会元で通ることがであった。 しかし、榜の最初に伯図の名はない。それどころか、最後尾にもない。真ん中にもない。 「どうしてだ?」 伯図は、本日無数に繰り返した自問自答をする。 試験は、全て上手くいった。袍や筆に仕込んだ紙片を駆使して、われながら名文だと思う文章で全て提出できた。落ちる要素は、どんなに過去を回想しても見当たらなかった。 「お前さん、いつまで見てるんだい。もう日が暮れるぞ。ないものはないんだ。諦めて、次を目指しな」 衙門の兵士に肩を叩かれ、伯図はよろめく。 「お、おい、大丈夫か?」 兵士の言葉も右から左に流れていき、伯図は自失のままよろめくに任せてその場から歩去っていった。 ふらふらと、伯図は顕業内を歩いた。どこを目指して歩いているか、自分でも分からなかった。 気づくと、日は既にどっぷりと暮れ、辺りは闇に包まれていた。 見上げると、皇宮がある。 「…………」 ここで栄華をほしいままにするはずであった。 それを考えたとき、伯図の胸に怒りが込み上げてきた。伯図は怒りの命ずるまま、袋の中身をその場にぶちまけた。 「この私の経歴に傷をつけやがって。こんな大才を見抜けず、世に落ちぶらすとは、世間が許しても天とこの私が許さん!」 伯図は、ぶちまけた荷物の中から火打ち石を取り出した。 「こんな皇宮、燃やしてくれるわ!」 宣言するや、火をつけようとする。 刹那。 「何やってるのよ、この阿保ーっ!」 後背からの声と同時に、伯図は跳び蹴りを喰らった。 「うおっ!」 「ったく、さぞや落ち込んでいるだろうと様子を見に行こうとしたら、放火しようとは。何考えてるのよ?」 「む、清鸞か」 よろめきながらも振り向くと、清鸞が腰に手を当てて立っていた。少し後方には、月蓉もいる。 「うむ。私の才を見抜けないような皇宮など、あっても意味がないではないか」 「自分が落ちたことを、皇宮のせいにしないでもらいたいわね」 「皇宮の中に巣くう、凡人どもの見る目がなかったということだろう」 「因果応報ってやつよ。あんな不正な手段で科挙を通ろうとした罰に決まってるじゃない」 「私が不正したことなど、大した問題ではない」 「大問題に決まってるでしょ。本来なら、刑罰ものなのよ。それを、廬徹一党を誅伐した功績に免じて、不問にしてあげてるんじゃない。むしろ、感謝してほしいものだわ」 「ちょっと待て。不問って何だ? 別にお前が会試を採点したわけではあるまい?」 「採点はしてないけど、あなたを通すなとは、正孝官には言った。もう一度言うけど、感謝しなさいよね。不正のことは言わなかったんだから」 「もう一度待て。何故、お前如き小娘が、正孝官の採点に口出しできるのだ?」 「清鸞さまは、白武公主殿下であらせられます」 月蓉が口を挟んだ。 「白武……公主?」 伯図は眉根を寄せた。そして、月蓉の言った意味に気づき愕然とする。 白武は号であろう。そして、公主は皇室の女子を意味する。つまり、清鸞は皇室の人間であるということだ。 更に重大な言葉を月蓉が口にする。 「父君は、恐れ多くも聖上であらせられます」 「…………」 伯図は言葉なく、清鸞を注視した。 ややあって、言葉を絞り出す。 「……嘘だろう?」 「そんな嘘、あたしがつくと思うの?」 「い、いや……」 それなりの期間清鸞と過ごしていた伯図は、目の前の少女が、自分を誇大に見せようとする人間ではないことを理解していた。 「な、何で、公主のお前がうろうろと外に出るんだ?」 「廬徹一党が許せなかったって言ったじゃない。官憲は丞相だった廬轍に握られてたから、あたし独自で動くしかなかったのよ」 「い、いや、そうではなくてだな……。普通、皇族はそんな事しないだろ」 「その辺は、清鸞さまのご性格にありますわね」 くすくすと、月蓉が笑う。 「なるほど。なんとなく納得した」 何かむかつくけど。そう反応してから、清鸞が一度大きく頷いた。 「決めた! 最初は、伯図が反省していたら、許して、殿試に行かせてあげようと思ったけど、やっぱりやめにするわ」 「え、ええー! こ、公主殿下! な、何卒、何卒お憐れみを! 何卒ーっ!」 伯図はその場に土下座する。とりあえず、殿試に行ってしまえば、こちらのものである。殿試は天子が行う試験であるから、落第はないのだ。 「そういう所が信用できないのよ。熊牙塞だって、鬼の家でだって、あたしを見捨てていこうとしたし。今だって、放火しようとしてたし。だいたい自分勝手なのよ、伯図は。才幹だけはあるから、余計厄介だわ。あなたみたいなのを世に放っておくと、ろくな事がない。伯図なんか一生、あたしが監視して、その根性を叩き直してあげるわ!」 え、と伯図が清鸞の言葉の意味を掴み損ね、聞き返そうとしたときには、清鸞の腕が伸び伯図の帯を掴んでいた。 「士大夫には一生なれないけど、あたしの側仕えだから、ある意味出世よね」 にこりと笑いながら、清鸞が伯図を引きずって歩き出した。 「な……、ちょ、ちょっと、え……、い、嫌だーっ!」 伯図の叫び声が、空しく夜空に響いた。 〈了〉 |