科挙の道遠し
一 王貴が、その伝令を受け取ったのは三月三日の夜である。夕食を楽しんでいたとき、早馬が入り、その報せを伝えたのだ。 それを聞いたとき、王貴は思わず手にしていた酒杯を取りこぼした。 「なんと! 熊牙塞が壊滅したとな!」 「はっ」 「呂彬は? 呂彬はいかが致した?」 「討たれたようです」 「なんと……!」 王貴は言葉を失った。破滅への道に、突然立たされたような薄ら寒い気分になる。 しばしの茫然自失の後、王貴ははっと我に返った。 「いかん、いかんぞ。すぐに、人を集めよ。ああ、人数に道士を入れよ。楊秦、楊秦がいい。あいつなら、あの小娘をなんとか出来るだろう。すぐに、揃えて出立させよ。必ずしとめよ!」 「はっ」 頷いて、伝令は部屋を出ていった。 それを見届ける前に、王貴も怒鳴りながら部屋を出る。 「誰か! 誰かおらぬか! 馬をひけ、出立の容易だ! 私は出るぞ!」 騒々しく屋敷内を歩きながら、王貴は服を着替えるために自室へと向かった。 「おのれ、あの小娘め! 子供だと思って放っておけば、いい気になりおって……!」 屋敷を出立し、王貴が向かったのは廬徹の屋敷であった。 廬徹の屋敷は、王貴の屋敷の数倍もの広さである。そのせいではないだろうが、危急の用と伝えても、なかなか屋敷へ通されなかった。自分が来て、危急だと伝えているのに、どうして早く会わないんだと、王貴が焦慮に耐えきれなくなったとき、屋敷の者が出てきて、やっと邸内に案内された。 「これはこれは、王中丞殿。こんな時間に何か御用ですかな?」 広く贅の凝らした部屋に、でっぷりと太った男が椅子に深く腰掛けていた。その両横には、大きな団扇を持った女が侍り、緩やかな風を主人に送っていた。 その男こそ、廬徹である。 「お人払いを」 王貴は、緊張感のない廬徹に少し苛つきながら、そう口にした。 「構わぬ」 王貴の真剣さを嘲笑うかのように、廬徹が鷹揚に拒否する。 須臾、廬徹の翻意をまっていた王貴だったが、幾ら待っても侍女達を下がらす気配のない廬徹に、仕方なく小声で話し始めた。勿論、小声で話したからといって、侍女達に聞かれないということはない。気分の問題であった。 「大変なことに相成りました。熊牙塞が壊滅したとの報せがたった今、入ったのです」 「知っている。朔日のことであろう」 「こちらにも、報せが入っておりましたか」 「それなりに、というところであるが」 くく、と廬徹が笑った。 「その熊牙塞ですが、雷が直撃したそうです。呂彬の館も、原因不明の火災で焼失したそうです。また、その後不可思議な生き物が飛来して、雨を降らせたようです」 「不思議な事じゃのう。くくく」 「これは、あの小娘の仕業に相違在りません」 「雷に火災、不可思議な生物とくれば、もうそれしか考えられないであろうな。そもそも、あの小娘は、ここで、あれだけのことをぬかして行ったわけだから、間違えようがあるまい」 「すぐに、あなたの悪事を暴いて誅してあげるわ。あたしは、この件に関わる者を許すつもりはないの。あなたもよ。覚悟しておくことね」 小娘は、ここでそう廬徹に宣言したのだ。 「いかが致しましょうや?」 「いかが致す? 大堯に仇なす山賊どもが一つ減ったのは、喜ばしいことではないか。聖上もお喜びになられるであろう」 「そんなことより、例の物が熊牙塞にあります。小娘の目的は恐らくそれでしょう。それを取られれば、危険なことになりますぞ!」 全く緊張感の見えない廬徹に、王貴は抑えがたい怒りを感じていた。 「儂も中丞殿も、仲良く首が飛ぶであろうな」 「ええ! ですから、いかが致しましょうかと問うておるのです!」 「いかが致すも何も、卿は既に手を打ったのであろう?」 廬徹の視線が王貴に絡みつく。 いつの間に知ったのか。王貴はそんな疑問が恐怖とともに胸中に沸いて出た。もしかすると、我が家にも密偵がいるのではないか。そんな疑念が抑えられない。 「そ、それは、そうですが……」 「では問題あるまい? 小娘如きに後れをとる卿ではないであろう。そんな男を、その地位に就けた覚えはないはずであるがな」 「も、勿論です」 「では、良いではないか」 「そ、そうですな……」 先程まで持っていた怒りが、少しずつ滲み出てきた恐怖に、いつの間にか取って代わられていた。その癖、焦慮だけは増える一方である。 「誰ぞある。王中丞がお帰りだ。玄関までご案内しろ」 廬徹が手を叩いて、侍従を呼び、王貴を退出させた。 「凌静、聞いていたか?」 王貴がいなくなってから、廬徹は首を横に向けた。そこには、いつの間にか、長身で眉目秀麗な青年が立っていた。王貴が退出させられるのと同時に、この部屋に入ったらしい。 はい、と凌静が頷く。 「なかなか愉快であったな。王貴風情が、儂を動かそうとしておったわ」 くくくく、と腹を揺すって廬徹は笑った。 「王中丞も不安なのでしょう。あの方が、直接呂彬と交渉を持っていただけに」 「肝っ玉の小さい奴め。それで、王貴の刺客は小娘を仕留められると思うか?」 「恐らく、楊秦が出ることになると思いますが」 凌静は最後まで口にしなかった。 後を続けたのは、廬徹である。 「楊秦程度では駄目と言うことか」 「恐らくは」 「くく、楊秦はお前の弟弟子ではないか。もう少し評価してやったらどうだ」 「弟弟子だからこそ、彼の実力が分かるのです」 「なるほど。であれば、いずれ小娘はここに来ると思うが、お前ならどうだ?」 廬徹は試すように凌静を見る。 凌静が爽やかとは言えない微笑を返し、恭しく拱手した。 「閣下のお望みのままに出来るでありましょう」 二 伯図と清鸞は、下山したその日こそ、二日間の徹夜明けで、さすがにへたっていたから、すぐに舎館に入り休養を取って一日を潰してしまったが、翌日からは、予定通り顕業に向かって進み始めた。 旅は、それまでの出来事が嘘のように、順調に進んだ。おかけで、休んで潰した一日分の行程を取り戻して、なんとか期日内に顕業に着けそうであった。 「やれやれ。一時はどうなることかと思ったぞ。これも私の仁徳のおかげか」 街を前にして、伯図はふうと息を付いた。 現在、三月六日の午後である。この街で泊まり、明日の午後には顕業に着く。そういう予定だった。 「何言ってるんだか。あたしが近道を知っていたからじゃない。そうじゃなかったら、まだ一日分行程は遅れてるわ」 傾いた日差しで長くなる影を引き連れて、清鸞が先に『前城』と扁額に掲げられた街へと入っていった。 京師が近いためだろうか。前城はさほど規模の大きくない街であるが、それでも人でごった返していた。 「そう言えば、郷試前もそうだった」 「なるほど、科挙生が多いのね」 そうだ、と伯図は頷く。 「つまりは、こいつらは私の敵だ」 「伯図のことだから、夜中に舎館に火をかけて燃やして、何人か京師に着かせないようにしそうだわ」 くれぐれもしないでね、と清鸞が釘を差す。 「そんなことはしないぞ」 珍しく、本心から伯図は答えた。 へえ、と驚いた瞳で、清鸞が伯図を見上げる。 「何故、私より才の劣る者たちの足を引っ張らねばならないのだ。それで見つかったら、洒落にもならん。やるんならもっと意味のある奴にやるぞ」 「ちょっと感心したのが間違いだったわ」 伯図の返答に、清鸞がやれやれといった風に肩をすくめた。 清鸞の足は街の西の方へと向かう。そちらの方に舎館が多く並んでいるからだ。 途中、小鳥が飛んで来るのに伯図は気がついた。その小鳥に見覚えがあり、どこで見たかと考えていると、清鸞が腕を伸べ、その小鳥を手首にとまらせた。 「うん。そう、わかった。そこに行くって伝えて頂戴」 小鳥に囀られた後、そう小鳥に返答し、清鸞が再び腕を伸べると、小鳥は来た方向に飛んでいった。 「あれは、呂彬の館のときの鳥か?」 小鳥が飛び去っていくのを眺めながら、伯図は前を歩く清鸞に問いかける。 「よく覚えていたわね」 「うむ。鳥と話すのは、普通では考えられないからな」 もっとも、それ以上に驚嘆することばかりこの少女は見せつけてくれたおかげで、伯図の中の印象は薄くなっていたが。 「あれは伝書鳩みたいなものなのか?」 「そんなところかな」 「誰か、思い人でもいるのか?」 「何で、そうなるの?」 「いや、そこに行くとか言っていたからな。逢い引きするのかと思って。お前、顕業生まれなのだろう? この辺りに恋人がいてもおかしくあるまい」 違うわよ、と清鸞が苦笑する。 「空いている舎館を教えてくれたのよ。さっき伯図が言った通り、ここは科挙生とかで一杯でしょう。舎館もほとんど埋まっているから、空いている舎館を教えてくれたの」 「ほう。何て良い小鳥だ。今度来たら、毛虫でもやろう」 「変なもの食べさせないでよ」 「どうして。鳥の食事ではないか」 「それはそうだけど」 「まあ、次来たらの話だ。そもそも手近に毛虫がいなければ、やろうと思っていても無理な話だ。あまり拘ることでもなかろう」 「まあね」 清鸞がそう答え、こっちよ、と伯図をある舎館に案内する。 驚いたことに、清鸞が舎館の主人に一言二言告げただけで、二人は部屋に案内された。既に部屋も取ってあるらしい。二人はそれぞれの部屋に入っていった。 清鸞が、部屋に入ってすぐ戸を叩く音がする。 「誰?」 「わたしです」 その声を聞き、清鸞は戸を開ける。 「月蓉。久しぶりね」 「清鸞さまも、ご無事で何よりです」 「部屋、ありがとうね。助かったわ」 「いえ、そのようなことは」 月蓉が頭を振った。 「ところで、どうかしてたの?」 清鸞が、月蓉に椅子を勧めつつ尋ねる。 本来なら、もっと早くに合流するはずであったのだ。それが、ここまで伸びたのは、何か理由があるからなのだろう。 はい、と月蓉が頷く。 「熊牙塞を出た後、清鸞さまと連絡を取ろうと思いましたが、どこにもおられなかったようで」 ああ、と清鸞が苦笑した。 「悪い鬼に、捕まっててね」 「大丈夫でしたか?」 「うん。なんとかね。それで? それだけが、連絡が遅れた理由じゃないんでしょう?」 「はい。その間に、顕業に熊牙塞陥落の報せが行きました」 「当然ね」 「それで、王中丞が、刺客を放ったようです。その確認を取りに顕業にとって返しましたので、連絡が遅れました」 「なるほどね」 「刺客の数は十人。既にこの街に入っています。刺客の中には、楊秦もいるようです」 「よっぽど、あたしが憎いらしいわね」 不敵に清鸞が笑う。 「追いつめられて、本気を出してきたというところね。凌静の奴は?」 「凌静は、動いていないようです」 「ということは、王貴の独断か」 まったく、と呟いて清鸞が足を伸ばした。 「犯人が分かっているのに、討てないなんて、まどろっこしいったらありゃしないわ」 「仕方在りますまい。王中丞も政権の中枢におられる以上、討つのに証拠は必要です」 「わかっているわよ。証拠がないとただの反乱として、あたしの方が討たれちゃうわ」 「聖上にも、どうにもなりますまい」 気の毒そうに月蓉が言う。 「そうね。そして、それが正しいのよ。容疑だけで人を討ってちゃ、いけないもの」 足をおろし、表情を改めて、清鸞が答える。 ええ、と月蓉も頷いた。 「で、その証拠だけど、どう?」 「すみません。未だ解けずです」 本当に済まなさそうに月蓉が項垂れながらも、懐から冊子を取り出し、清鸞に渡す。 「しょうがないわよ。あなたのせいじゃないわ。捕まったあたしの失策だもの。また一からやるわ」 清鸞は明るい調子で声をかけてから、冊子を読む。 冊子には、幾つかの文章が書いてあった。 「これは……」 少し眺めてみて、清鸞が眉根を寄せた。 「どうやら、こっちは解き方のようね」 「ええ。もう一つの方に、名簿が載っているかと」 この冊子の解き方を用いて、もう一つの取り損ねた方の冊子に当てはめると、名簿が出てくる寸法のようだ。 清鸞は口をへの字に曲げる。 「こうなってくると、やっぱりあたしが捕まったのが、大きな痛手よね」 清鸞が捕まらなければ、月蓉はじっくり呂彬たちを籠絡し、両方の冊子を入手していただろう。 「そ、そのような事は……」 「いいのよ。本当にあたしの失策だもの。焦り過ぎちゃったかな。でも、焦りたくもなるのよね。のんびりしている間に、何人もの女の人が捕まって売られちゃう。そんなこと許せる訳無いじゃない」 「はい……」 ふう、と清鸞は心を落ち着けるために、一息ついた。 「やっぱり、顕業に帰って、王貴らの館を探るしかないわね」 「行きましょうか?」 月蓉が尋ねる。自分が探ろうか、と言っているのだ。 清鸞はしばらく思案する。 しばしの沈黙の後。 「もうちょっと待って」 そう笑顔で言った。 三 舎館では、基本的に食事は出さない。厨房が開放されるので、自炊するか、外食するかの二択になる。伯図は、自炊する気がなかったので、外食に行っていた。ちなみに、金は清鸞から借りていた。 外食を終え、舎館に帰ろうとしていた伯図は、不意に足を止めた。 「気のせいか?」 何かつけられているような気がしたのだ。 今度は背後を気にして歩く。 「ふむ」 どうやら、気のせいではないらしい。 「私の成績を恐れた他の科挙生が、私を会試に行けなくするつもりだな」 伯図は、顎に拳をやりながら、そう推論する。 「低脳どもめ。そんな事をしている暇があるなら、勉学に勤しめ。こんなことをしているから、七十になるまで進士に及第せず、五十年前二十三とか嘲笑われるのだ」 基本的に進士に及第することは、至難中の至難であると言われ、「五十少進士」という諺まであった。五十代で進士になるのはまだ若い方ということである。 そんなだから、殿試を終えた新進士の中には、老人も少なくない。ある時、白髪の老人が新進士の中にいた。それが天子の目にとまり、呼び寄せて年齢を聞くと七十三歳であった。子供の数を問うと、未だ独身だという。天子はいたく同情して、宮中から美人を賜って娶らせた。それをはやしたてた諺が「五十年前二十三」というものである。新妻に歳を幾つと問われたら、五十年前二十三と答えなさい、ということだ。 もっとも、伯図をつけている者たちは、七十過ぎの老人ではなく、科挙生でもなかった。王貴の命を受けた刺客達であった。伯図の存在も、伝えられていたのだ。 その数、三人。 他の七人は、清鸞の方に当たっていた。清鸞の実力を考えると、妥当な人数の割り振りであろう。倒せるかどうかは別としても。 刺客達は、人影が少なくなった路地を見計らって、さっと行動を開始する。二人が先に回り込み、もう一人が背後を押さえる。 「低脳ども。郷試解元(一位)合格者のこの私の実力を恐れたか」 伯図は、未だ勘違いから醒めていない。他の科挙生が自分を襲っていると考えているから、それほど用心していなかった。 刺客達は答えず、さっさと始末しようと、伯図に躍りかかってきた。得物は匕首。それが、三方から伯図めがけて襲いかかる。 「そんな訳ないでしょう」 そんな声がしたと思うと、一陣の風とともに、少女が現れた。そして、一瞬のうちに三人を蹴散らす。刺客達は、実力差を見せつけられて、慌てて逃げ去っていった。 少女は、勿論清鸞である。 「どういうことだ?」 「刺客よ」 「刺客? 狙われる理由に心当たりはないのだが」 科挙生の線を明快に否定された以上、伯図にとって思い当たる節はない。 「熊牙塞を壊滅させたとき、伯図もいたでしょう」 「ふむ。あのときの山賊どもか?」 「そうじゃないけど、似たようなものね」 「面倒なことだな。それで、刺客はあれで終わるのか?」 「あたしの所にも六人ほど来たけど、一人足らないわね」 「足らない?」 「刺客は十人よ。もう一人いるのよ」 「ふむ。それで、どうするんだ?」 「今から討ちに行くつもり」 あっさりと清鸞が答える。 「相変わらず明快だな、お前は」 「褒めてるの? 貶してるの?」 「褒めているに決まっているではないか」 「そうしておきましょ」 「うむ。素直なのは良いことだ。それでいつになったら片がつく?」 伯図はそう尋ねた。もし時間がかかるようなら、先に顕業に向かうつもりだった。 「そんなにはかからないと思うわ。楊秦の居場所は、月蓉が探っているからもうすぐ分かるはず」 「ふむ。お前の言葉だと、楊秦というのが刺客の残り一人で、月蓉というのが味方だな。恐らく、小鳥で伝言していたのは、そいつだろう」 そういうこと、と清鸞が頷いた。 「今、逃がした刺客の後を月蓉がつけているから、ここで待ちましょう」 「私もか?」 伯図は思わず聞き返す。 「当たり前でしょう。伯図も狙われているのよ。逃げた刺客が、再びあなたを襲おうとしたらどうするのよ。他に刺客がいるかもしれないし」 「困るな」 「今だって、月蓉があなたをつけていて、あたしに居場所を報せてくれたから、事なきを得たのよ。あなた一人じゃ、危なっかしいったりゃありゃしないわ」 清鸞が嘆息した。 「ということは、楊秦とやらの隠れ家に、私も行かねばならないと言うことか?」 「勿論よ」 そうか、と伯図も嘆息した。 「何よ、守ってあげるって言ってるのに。文句あるの?」 「いや、ない」 そう答えるが、あまり納得のいっていない伯図であった。 四 月蓉が、清鸞達の前に姿を現したのは、それからしばらく後であった。 「こんな美人の知り合いがいたのか」 月蓉を見た伯図は、清鸞にそう声をかけた。 ほほ、と月蓉は微笑む。 「お初にお目にかかります。月蓉と申します」 「うむ。朱伯図だ。ところで、お前も道士なのか?」 「いえ、違いますが」 「そうか、残念だ」 「どういうこと?」 清鸞が伯図に尋ねる。 「うむ。どうせ房中術を施してもらうなら、おまえより、こっちが良いなと思ってだな」 「あ、あなたねえ!」 「くすくす、生憎とわたしは房中の秘技に詳しくありませんわ。清鸞さまの方がお詳しいはず。清鸞さまはいずれ相当な美人になられます故、伯図様は、清鸞さまにお頼みしたらいかがです?」 「が、月蓉も!」 「ふむ。どれだけ身体が成長するか次第だな」 「し、失礼ね! 成長するわよ! ちゃんと月蓉みたいに、佳い女になるんだから!」 真っ赤になって清鸞が怒鳴った。 「それなら、頼もうか」 「嫌だって言ったでしょう! 同じことを何度も言わせないで頂戴!」 「別に、お前の身体を楽しもうというわけではないんだが。ただ長生がほしいだけだ」 「それなら、あたしが成長しようとしまいと関係ないじゃない」 「いや、どうせ抱くのなら、良い身体をした美人の方が張りあいがあるではないか」 「それが肉欲って言うのよ! そんな状態で、漏らさずなんて、出来る訳無いでしょう」 「今のお前相手なら、出来そうな気がする」 「だから、あたしだって成長――て、もう! 堂々巡りじゃない!」 くすくすと、笑いながら、月蓉が助け船を出した。 「伯図様、そろそろお止めになられませ」 「ふむ。そうするか」 伯図も了解した。 「もう! 二人してあたしをからかったのね!」 ぷんぷんと清鸞がむくれた。 「すみません。清鸞さまがあまりにも可愛かったもので」 月蓉が頭を下げる。 「も、もう、良いわよ」 「すまんな。お前があまりにも面白かったからな」 はっはっはっ、と笑いながら、伯図も謝った。 「あなたは黙ってて!」 からかわれた恨みを込めて伯図を怒鳴りつけた清鸞が、再び月蓉の方を向いた。 「それで、楊秦の居場所はわかったの?」 「はい。こちらです」 月蓉が二人を案内する。 そこは、伯図達が泊まっていた舎館から、それほど離れていない小さな舎館であった。 「奴らは、ここに逃げ込みました。そして、楊秦がいるのはあそこ」 月蓉が視線で二階の一室を示した。 「燭の炎がついているな」 「恐らく、刺客達が逃げ帰ってきて、どうしようかと対策を練っているところなんじゃないかしら」 「どういたします?」 月蓉が清鸞に指示を伺う。 どうもこうもないわ。清鸞がそう肩をすくめた。 「ここまで来た以上、迷うことなどないわ。どうせ向こうも待ちかまえているでしょうよ。このまま行って、楊秦を討つわよ」 「そんなの作戦とはいわん」 伯図は呟いたが、どうやら清鸞の耳には入らなかったようである。清鸞は、既に舎館に向かい始めていた。 戸を蹴破って入ったとき、部屋には机についた男が一人だけいた。 「お待ちしておりました、清鸞様」 豊かな髭を蓄えた道士服の男が、そう口にした。 「久しぶりね、楊秦。廬徹の屋敷であったとき以来かしら」 「そうなりますかな」 くん、と清鸞が臭いをかいだ。 「血の臭いがする」 ああ、とわざとらしく楊秦が思い出したかのように語る。 「始末いたしました。使命に失敗した挙げ句、その追跡を許すとは、死罪を以てせねばあがなえませぬからな」 「仲間を殺すなんて」 「仲間?」 楊秦の口調に嘲弄が混じる。 「あのような者達が仲間だとは、私も見くびられたものですな」 「そんなに見下してても良いのかしら」 「と、言いますと?」 「あなたが刺客達を見下しているように、あなたも王貴からは見下されているということよ。王貴にとってみれば、あなたも刺客達も一緒なの。わかってる? 王貴もそうね。廬徹から見れば、王貴あなたも、刺客と同程度ってことだわ」 ほほう、と楊秦が答える。 「なるほど。上に立つ者の意見は貴重ですな」 口調は変わっていないが、楊秦の眉がぴくりと動いたのを伯図は見逃さなかった。どうやら、そういう自覚は持っているようだ。 そして、伯図は楊秦に注いでいた視線を少し下げた。すると、机の上に、人型に切ってある紙が何枚も置いてあるのに気がついた。 なんだあれは、と伯図が思うのと同時に、楊秦が唇の端を歪める。 「それは、後学の参考にさせていただきましょう。とりあえず今は、私の使命を果たさねばなりません」 そう言うや否や、楊秦が手で印を結ぶ。 すると、机の上に置いてあった人型の紙が床に散らばったかと思うと、むくむくと大きくなり、剣を持った兵士の姿になった。 「剪紙成兵術(せんしせいへいじゅつ)、あなたの得意な術法だったわね」 驚いた様子もなく、清鸞が言った。 「命を受けてから、しばらくこれに勤しんでおりました。腕によりをかけた紙人たちです。そう簡単にはやられませぬぞ」 「どうかしらね」 清鸞が不敵な笑みをつくって、大剣を抜いた。 紙人の兵士達は、無表情にわらわらと清鸞に襲いかかってくる。 「月蓉、伯図、下がってて」 そう言われるまでもなく、伯図は下がっていた。四体もの兵士と戦えと言われても困るのだ。 「せいやあーっ!」 襲いかかってきた一体に、清鸞の大剣が撃ちかかった。 刹那、甲高い金属音がして、清鸞が大剣を引き戻す。どうやら、一撃を防がれたようだ。 「なるほどね。確かに、一筋縄ではいきそうもないわね」 「そこら辺の武芸者よりは使えますぞ」 くくく、と楊秦が笑う。 「あたしを、そこら辺の武芸者と一緒にされても困るわね」 「勿論、そんな気はございません。比喩ですよ」 「そう。なら良いわ」 そう言い終わるや否や、清鸞が再び紙人に一撃を加える。 紙人は先ほどと同じように防御態勢に入った。だが、清鸞の一撃は紙人の剣ごと叩き割っていた。 胴を剣ごと斬られた紙人は、紙に戻って地に落ちる。 「な、なに!」 驚いたように楊秦が腰を浮かせた。 「あら、そこら辺の武芸者とあたしを一緒にしたわけじゃないのなら、驚くことではないじゃない。道術だけがあたしの技術じゃないわよ。むしろ、こっちの方が得意かしら」 清鸞が、冷たく笑う。 「くっ!」 慌てて楊秦が印を結ぶ。 「させませんよ」 月蓉が短剣を放った。それは見事に、楊秦の手に当たる。 「うっ……!」 「術を強化しようとしたのでしょうけど、そうはいかないですわよ」 月蓉が更に短剣を構えた。 「ちぃっ!」 先ほどの余裕はどこへ行ったのか、焦慮にまみれた顔で、楊秦が後ずさる。 いつの間にやら部屋に紙人の姿はなく、床に四枚の紙切れが散らばっていた。 「終わりよ、楊秦」 清鸞がゆっくりと、楊秦に近づいていく。 「く、くそう……」 楊秦が懐から、巻物を取り出した。 「逃がすわけはないでしょう」 清鸞が大剣を一閃させ、その巻物を斬って捨てた。 「凌静辺りにもらった移動術の巻物でしょうけど、出すのが少し遅かったわね」 「う、うう……」 楊秦が壁に背をつけた。もう下がれない。 進退窮まった楊秦は、突然土下座をした。 「ゆ、許して下さい! 命令で仕方なくやったことなのです。私の力では王貴に逆らえないのです。ど、どうか、命ばかりはお助けを!」 床に頭を擦り付けて、清鸞にひたすら詫びた。 清鸞が冷たく見下ろす。 「刺客達だって、あなたにそう命乞いをしたんじゃないのかしら。それをあなた、助けた?」 「そ、それは……」 「それに、あなたも廬徹の人身売買の利益で、相当甘い汁を吸ってたんじゃないの」 「うう……。もう二度と致しません。故郷に帰ります故、今回ばかりは、どうかお目こぼしを!」 再び、楊秦が頭を床に擦り付けた。 「…………」 それを冷たい瞳で見下ろしていた清鸞だったが、何も言わずに背を向ける。 足音で清鸞が背を向けたことに気づいた楊秦が、がばっと上体を上げ、清鸞の後背に襲いかかった。手には懐に忍び込ませていた短刀が握られている。 刹那。 清鸞と楊秦の間に、床から出現した兵士が現れ、楊秦の攻撃を防ぐ。 「剪紙成兵術、あたしも使えるのよ。あなたの紙人との戦闘中に落としておいたの、気づかなかったみたいね」 「た、試したな!」 「あんな手に引っかかる方が悪いわよ。言ったでしょう。あたしは、この件に関わっている者達を許すつもりはないって」 「う、うわあああ!」 紙人の一撃を受けて、楊秦が断末魔を上げた。 清鸞は紙人に楊秦の死体を川に捨てるように命じると、月蓉の方を向いた。 「さて月蓉、悪いんだけど」 そう言うと、懐から一枚の霊符と一粒の丸薬を取り出した。 「いえ、とんでもございません」 「本当にごめんね」 「大丈夫です。清鸞さまもわたしも顔がわれています故、これが一番でありましょう」 答えて、月蓉が霊符と丸薬を受け取った。 まず丸薬を飲み、それから霊符を額に張る。 すると。 「あっ……!」 伯図は息を飲む。月蓉の身体が着ていた服ごと変化していったからだ。 しばらくすると、そこには、妙齢の美人であった月蓉ではなく、中年で髭を蓄えた楊秦が立っていた。 「それでは、清鸞さま、行って参ります」 楊秦の姿をした月蓉が、恭しく拱手した。 「無理をしないでね。凌静にはくれぐれも気をつけるのよ」 「はい」 頷くと、月蓉は部屋から出ていった。 |