科挙の道遠し
一 ほどなく豪雨はやみ、山は再び静寂を取り戻す。 木々の間からのぞく夜空は、白み始め、朝の訪れが近いことを二人に告げていた。 「ところで、ここから街までは遠いのか?」 伯図は前を歩く清鸞に尋ねた。 「一日くらいはかかるんじゃないかな」 清鸞が、振り向かずに答える。 「何? 会ったときは半日だと言っていたではないか」 「あれは、あの野営地からよ。熊牙塞はあそこからもっと奥地にあるんだから、行程がのびるのは自明の理でしょう」 「それはそうだが」 そうすると、顕業までにかかる日数が増えるということで、伯図にとってはあまり好ましくない現実といえた。 陽和山付近の街から顕業までは、だいたい五日の距離がある。三月八日の早朝には貢院に入場しなければならないから、最低でも七日のうちには顕業に着かなければならない。現在、三月二日の朝が始まろうとしている。時間的な余裕は、もはやない。 「急がねばならんな」 伯図は、焦る気持ちのまま足を早めた。 「そこで焦って、あたしを追い抜いてどうするのよ。道わかるの?」 清鸞が呆れた口調で指摘する。 「ふむ。それもそうだな。だが急ぎたいのも事実だ。歩く速度を速めてもらいたい」 「それは構わないけどね。大丈夫なの?」 「何が?」 「結局、徹夜でしょう。無理して身体は持つの?」 「貢院での試験に比べれば、ただの徹夜など大したことではない」 伯図は言い切った。 確かに、と清鸞も眉をひそめる。 「貢院での酷い話は、あたしも聞いたことがあるわ。発狂する人が後を絶たないとか、病気になる人が多いとか。それに、亡霊が出るとか。それって本当の話なの?」 「亡霊はともかく、発狂する奴とか、病気になる奴が多いのは事実だ。私のときも、結構いたぞ」 「そんなに酷いの?」 「そもそも、貢院というものが、三年に一度しか使われないものだからな。手入れが全くなってないのだ」 屋根には雑草が生え、軒は崩れかけ、壁は湿気が滲んでかび臭い。伯図はそう続けながら、記憶をたぐった。 一人だけ入れる独房のような部屋が、無数に連なっているのが貢院の基本的な構造である。その部屋というのも、部屋というのがおこがましいようなもので、戸も家具もなく、ただ三方を仕切られ屋根をいただく空間に過ぎない。地面は勿論土間である。あるのは三枚の板で、これが荷物置きと机と腰掛けになるのだ。 試験前日に貢院に入場し、それ以降、試験終了までの数日間貢院の出入りは厳しく禁止されるから、科挙生は貢院での宿泊を余儀なくされる。 戸がないので、夜は夜風が遠慮なく入り込み、固い板の上で持参の布団では、完全に寒さをしのげない。更に、三尺に満たない部屋幅では足を伸ばして寝ることなど不可能で、窮屈な体勢を強いられるのだ。 その上、初日は試験前だからまだいいが、二日目ともなると試験中なので、疲れて眠ろうとしても、隣の号舎に蝋燭がまだ灯っていれば、自分だけが遅れるという気分に苛まれておちおちと寝てはいられず、再び起きあがって試験に向かうことになる。科挙生の中には、家族や郷里の期待を背負ってきている者も多く、そんな焦燥感もひとしおである。 このような環境だから、実力を発揮できない者も多く、疲労と興奮が重なって、発狂したり病気になったりする者も出てくるのだ。 「私のときはな、二日目に更に雨が降ってきたのだ」 伯図はしみじみ述懐する。 「戸がないから雨が入って来るんだ。試巻を守るために、皆身体を盾にして試巻が濡れるのを防いでいた」 「交換は出来ないの?」 「出来るなら、身体を犠牲にはしない」 「それもそうだけど」 「そういえば、夜に蝋燭を倒して、試巻を焼いてしまった奴もいたな。泣き叫んで、狂ってしまった。あいつは哀れだったな。はっはっは」 「そこは笑うところじゃないと思うけど」 清鸞が、厳しく指摘する。 「いいんだ。因果応報だからな」 伯図は明快に否定した。 「ん?」 「お前も言っただろう。君子は清廉たれ、と。そうでない者が、発狂したりするのだ。あいつも、過去に姦淫などしていたのだろう。その報いが起きただけだ」 善行を積めば良いことが、悪行をすれば報いが起きる。科挙生においては、それは試験場で起きるのだ。天帝は必ず見ておられる。そう思われていたから、伯図の言葉もそう無下な言葉でもなかった。 なるほどね、と清鸞が伯図を白い目で見る。 「じゃあ、次に報いがあるのは伯図かもね」 「それはどういう意味だ?」 「言葉通りの意味よ」 「私は清廉だぞ」 「はいはい。会試を通れば、そう信じてあげわ」 清鸞が、手をひらひらさせて伯図を軽くあしらう。伯図は、そんな清鸞に文句を言いかけたが、構ってもらえそうもないので止めておいた。 仕方なく、話題を変える。 「ところで、お前、見かけに寄らず強いんだな」 「どうかしらね。まあ、山賊たちよりは強いとは思ってたけど」 「うむ。相当強いぞ。たった一人で山賊を壊滅させるなんて、並大抵の者ではない」 「褒めたって何も出ないわよ」 「いや、事実を述べているだけだ。護衛として申し分ない」 あなたねえ、と清鸞が盛大に溜息をついた。 「誰があなたの護衛なのよ!」 「似たようなものだろう。危険があれば、お前が排除する。私は見てる」 「わかった。あたしの用は終わったから、次からは何かあっても、自分の身だけ守ることにするわ」 「それはいかん。私は頭と天運には自信があるが、腕の方はからっきしだぞ」 「じゃあ、もうちょっとあたしに好かれる努力をすることよね。今のままじゃ、見捨てていっちゃうわよ」 「うむ。努力しよう」 伯図は大仰に頷いた。 「本当に、わかっているのかしら」 疑わしそうな視線で、清鸞が伯図を見上げる。 「わかっているぞ。当然、私が大官に就いた暁には、私の屋敷で専属の道士として雇ってやることを約束する。高給優遇だぞ。どうだ、この太っ腹。好感が持てるだろう?」 そう伯図は自信満々に提案した。 清鸞がしばらく伯図を見上げる。しかし、その視線は伯図が期待したような、感謝と好意に満ち溢れた視線ではなかった。むしろ、冷たさと呆れしか瞳には映っていなかった。 「そんな空手形、いらない。それに、あなたに雇われる気もない」 清鸞が冷たく言い放つ。 「ふむ。では何が望みなのだ? ああ、私専属の道士という価値がまだよくわからないのだな? 進士が就く官は胥吏(小役人)とは訳が違うぞ」 「知ってるわよ、それくらい。進士出身者がどれくらい偉そうにしてるかも」 「ふむ。価値がわかっていてなおかつ、嫌だというのは、一体どういうことだ?」 伯図は頭を捻る。 「皆が皆、伯図と同じ思考じゃないのよ」 「道士とは、わからない者たちだな」 「思考を道士だからで、一括りにされてもねえ」 「おお、道士と言えば、お前は結構色々な術を使うな」 「まあね」 「それでは、房中術なんかもできるのか?」 「はあ?」 清鸞が盛大に口を開いた。心なしか、少し頬が染まっている。 「男女のまぐわいによる長生方だが」 「それくらい知ってるわよ」 「知っているなら話は早い。今度やってくれ」 「あ、あなたねえ」 「何か問題でもあるのか?」 「さっき、郷試を一緒に受けた人が姦淫で気がおかしくなったって言ったばかりで、何を言い出すのよ!」 「姦淫と房中術は違うものだろう?」 「その通りよ」 「なら、問題あるまい」 「大ありよ。伯図の場合は、肉欲の方が優先されているじゃない」 「心外だな。君子に三戒あり。少(わか)き時は血気未だ定まらず、これを戒むること色に在り。其の壮なるに及んでんは血気方(まさ)に剛(ごう)なり、これを戒むること闘(とう)に在り。其の老いたるに及んでは血気既に衰う、これを戒むること得(とく)に在り。弱冠の私は、普段から女色を戒めているぞ」 「信じられない」 「君子の言を信じられないと言うか。私は長生を望むのであって、女体を望んでいるわけではない。その証拠に、胸も腰もない、ちんちくりんなお前に頼むんじゃないか」 伯図は、清鸞を上から下まで眺めながら語った。 「し、失礼ね! まだまだ成長するわよ!」 胸を抱きながら、清鸞が真っ赤になって反論する。 「なるほど。成長した暁には、房中術以外でもお世話になりたいものだ」 「ぜ、絶対に嫌よ! そもそも、あたしは房中術を修得なんかしてないの!」 「ふむ。それは残念だ」 「誰が覚えてたって、伯図とやるもんですか」 清鸞がぶつくさ言いながら、歩を早めた。未だ、彼女の頬は染まったままだ。 山賊を一夜で壊滅させるような道士が、こんなにうぶなのは、伯図にとって妙におかしかった。 もしかしたら、と伯図は思う。呂彬の館で笄を盗もうとしたときになんとなく感じたのであるが、清鸞は、少女特有の潔癖さ以上の潔癖な感性をしているのかもしれない。大人顔負けの力と行動力を持ち合わし、大人の事情もそれなりに知っている。しかし、それで大人の持つ汚さを許容するわけではないようだ。呂彬を討った理由は、その辺りなのかもしれない。 「しかし、そうなると厄介だな」 伯図は、そう呟いた。少し前を行く清鸞が、声が聞こえたのか伯図を仰ぎ見るが、独り言だとわかって、再び前に向き直る。まだ、ぶつくさ言っているようだ。 清鸞の許容できる一線から落ちると、彼女に討たれてしまうのだ。彼女の実力は、『熊牙塞』でしっかりと発揮されている。あんな道士を敵に回して、生きていく自信は伯図にも勿論なかった。さすがの天運も、尽きる可能性が大だ。 「ふむ。行動には気をつけないとな」 特に清鸞の前では。伯図はうむうむと、何度も頷きながら、そう結論づけた。 「なに一人で頷いてるのよ。気持ち悪いわよ」 伯図の方を見ずに、清鸞が言った。言葉に拗ねている感じがあるのは、多分気のせいではないだろう。 「うむ。これからの事を少し考えていた」 「何か結論が出たの? 頷いていたんだから、そうなんでしょ?」 「うむ。とにかく早く京師に着きたいな、と」 そうすれば、清鸞とも別れられる。伯図は、そう心中で付け加える。 「まだ二日よ。心配しなくても、会試には間に合うわ」 さすがに伯図の心中までは読めなかった清鸞が、言葉通りの意味にとって、そう答えた。しかし、そうだな、と伯図が頷いた後、不敵な表情を作って、言葉を続ける。 「このまま、何もなければね」 「なんだ。何かあるような言い種だな」 「世の中は因果応報って言ったわよね。それなら、伯図の場合はどうかしら?」 「なんだと?」 「伯図が、自分で言う通りの君子さまなら、このまま何も起こらずに京師に着くんじゃない? 胸に手を当てて、よーく考えるのね」 清鸞の挑発するような視線が、伯図に突き刺さる。 その視線に、なら大丈夫だ、と応じながら、早く京師に着いてしまいたいと、伯図は先ほど以上に思うのであった。 二 不意に清鸞が足を止めた。しばし、辺りをきょろきょろと見回す。 太陽は既に西の方へ傾き始めており、そろそろ夕刻に入った頃である。 「どうした? 迷ったのか?」 伯図も足を止めて、清鸞に声をかけた。 「そうみたいね」 あっさりと清鸞が認める。 「なんだと! どういうことだ? 下山する道を知っているんじゃなかったのか?」 「知ってるわよ」 「じゃあ、どうして迷うんだ?」 「どうしてかしらね。とにかく、気をつけてね」 清鸞が事も無げに言ってから、再び歩き始めた。 「ちょっと待て。一体どういうことだ? 何に気をつけろと言うのだ?」 慌てて清鸞の後に伯図はついていきながら、その背に尋ねた。 さあね、と清鸞が歩きながら答える。 「ただ、道が変わってて、山から下りられないようになっているってだけは言えるわね」 「なんだと! そいつは困るじゃないか。なんとかならないのか?」 「少なくとも、その原因がわからないとどうしようもないわね」 「原因? お前が迷ったわけではないのか?」 伯図は眉根を寄せた。 「そういうことね」 「それはつまり、道がわかるところまで引き返して済む問題ではないということか?」 「それなら戻ってるわよ。別に伯図に意地悪したいわけじゃないんだから」 肩をすくめて、清鸞が振り返った。 「しかし、道を変えて、山から下りられなくするなんてこと、可能なのか?」 「可能不可能の話じゃ、もはやないと思わない?」 実際に迷わされているのだ。確かに、今その段階の話をしていてもしょうがない。 「ふむ。では、これからどうするんだ?」 「このまま下りられなければ、今夜はここで野営ってことになると思うけど」 語尾を濁すように、清鸞が答えた。 伯図は、先を促す。 「けど、何だ?」 「多分、そうはならないと思うわ」 「どうして?」 伯図の問いに清鸞は答えず、足を止める。そして、前方を指さす。 そこには、一軒の山家があった。 近づいてみると、思った以上に手入れの行き届いた一軒屋であった。 だがしかし、こんな山中にぽつねんと建っているのが、何とも怪しい雰囲気を醸し出していた。 家屋の窓からは明かりが漏れ出ており、中に人がいるらしいことがわかった。ついでに、明かりが漏れ出ているのが分かるような時間になっていた事実も気づかされた。 「これこそ天の助けだ。一晩、泊めてもらおう」 伯図は玄関の方へと足を早めた。貢院宿泊経験者故に野営を苦とは思わないが、床(とこ)で眠れるのならそれに越したことはないのだ。 「下山の道も、ついでに聞こう」 須臾、清鸞は口を噤んで家屋を見ていたが、すぐに伯図の後に続いた。 「おい、誰かいるか?」 伯図は、戸をどんどんと叩く。 ややあって。 戸がゆっくりと開かれた。 出てきたのは、妙齢の女性だった。 服装こそ粗末なもので、山中の一軒家に相応しいものだったが、明眸皓歯な容貌は、後宮の美女とか仙女とか言っても差し支えがないように思われる。 「どうか致しましたか?」 女性が、伯図と清鸞に視線をやりながら尋ねる。 「うむ。下山の道に迷っているのだ。夜も近くなってきたことであるし、一晩泊めてもらえれば助かるのだが」 「まあ。それは大変でしたでしょうに。何もない所ですが、夕餉と床くらいはお出しできますから、ご安心なさって下さいませ」 「うむ。助かる」 「では、こちらへどうぞ」 女性が、二人を家の中に誘(いざな)う。 居間らしきところに通されると、そこには老夫婦がいた。二人とも今にも干からびそうな老人で、愛想の欠片もなく、伯図と清鸞を値踏みするように眺めていた。 伯図は礼儀上、二人に挨拶をする。 「今晩世話になる。よろしく頼む」 すると、老婆が突然笑顔を作った。目が飛び出るくらいに開かれ、幾つか欠けている上に並びの悪い歯を剥き出しにしたので、これがものすごく不気味だった。 「うひひひひひ、なあんにもない所だけど、ごゆっくりしていきなされ。ひひひひひ」 「う、うむ」 「うひひ、雛(すう)、お客人をお部屋にご案内いたせ」 「はい、お婆さま。こちらです」 雛と呼ばれた女性が、二人を奥へ先導した。 家は思ったよりも広いらしく、伯図と清鸞はそれぞれ部屋をあてがわれた。 「すぐに夕餉の支度を致します故、こちらでお待ちになって下さいまし」 その言葉通り夕食はすぐに出来たらしく、すぐに雛が二人を呼びに来た。 夕食は山菜を主にした質素なものであったが、味の方はなかなかいけた。もっとも、昨夜の騒動とその後の下山で、疲労が溜まっており、食欲があったことも美味しく食べられた要素の一つであろう。その上、二人の昼食は、清鸞が用意していた饅頭一つずつだけだったこともある。 ただし、食事時の雰囲気は微妙であった。 全く話さない老人、突然気味の悪い笑い声を出す老婆、ほとんど話さない清鸞と、何故だかひどく緊張感のある食事だった。 「ふう」 食事が終わり、伯図は一息つく。満腹の満足感ではない。やっと食事が終わり、この雰囲気の終わりを感じたためだ。 「それでは失礼する」 伯図は椅子から立ち上がり、あてがわれた部屋に向かおうとする。それを見て、清鸞も伯図の後に続いた。 途中、清鸞が伯図の袖を引っ張った。 「なんだ?」 伯図は足を止め、振り返る。 「気をつけてね」 清鸞が、妙に真面目な顔で伯図の顔をのぞき込んだ。 その真意を測りかね、伯図は清鸞を見返すが、すぐに清鸞は伯図から視線をどけると、自分にあてがわれた部屋へと入っていった。 「ふむ」 伯図は、腕を組んで思案する。 「とりあえず、あの老婆は色んな意味で危険そうだ」 そう思い至り、うむ、と納得して、伯図も自分の部屋に入った。 三 伯図は、寝台の上に胡座をかき、自分の荷物を再点検する。 取り戻したときに一応点検してみたが、押し迫った状況だっただけに、見落としがあるかもしれない。何しろ、一度盗まれたものだ。中身がそのままとはとても思えない。現に路銀の類は盗まれていた。それ以上に何か盗まれていたら大変だった。 替えの袍、硯、墨、筆、水差し、書籍類を袋から取り出し、寝台に並べる。一通り並べてみて、旅の最初に入れた物が揃っていることが確認できた。 「うむ。盗られた物はないな」 路銀以外は。 「しかし、金を盗られたのは痛いな」 何をどうするにも金は必要である。清鸞は、頼めば貸してくれるとは言っていたが、そうそう当てには出来ないだろう。 そう考えると、熊牙塞で物色した数々の物品が惜しく感じるのだった。あれがあれば、売却して路銀の足しになったであろう。 「やはり、何か売るしかないか」 伯図は溜息をついた。 現在所有している物品は、書籍類を除いて会試のための特注品である。これを手放すわけにはいかない。 そうなると、自ずと売り払う物は限定されてくる。伯図は、視線を積んだ書籍類にやった。 持ってきた書籍は、基本的には、全て何度も読み返して、半ば諳んじられるものである。それでも、儒者としてはこれを売り払うのは抵抗があった。それ以上に、この中から会試の試験が出されるのだから、売ってしまえば試験前に復習出来なくなる。現状の能力で会試に落ちるとは思わないが、会元で通るためには、それなりの努力が必要だろう。ど忘れは往々にしてあるものだから。 そんなことを考えながら、ふと一冊を手に取ると、中に何か挟まっていることに気がついた。 「何だこれは?」 伯図は、それを取り出してみた。 それは薄い紙の束だった。端が糸で括りつけてあり冊子状になっており、表裏には何も書いてなかった。 「そういえば、なんとなく袋に詰めた気がするな」 伯図は、熊牙塞で物品を物色していたときのことを思い出す。 どこかの部屋で、机を物色していたら笄を見つけ、それを取ろうとしたとき、引き出しの底が外れることに気がついたのだ。二重構造になっていたらしい。その状況からして、何か良い物が隠されているかもしれないと思い、底を外してみると、この冊子があったのだ。 このような物に価値を認めたわけではないのだが、それをその場に捨てようとしたとき、物音がして慌てて机の下に隠れたのだ。隠れるときに、とりあえず袋に強引に突っ込んだので、他の書籍に挟まる形になったのだろう。 結果的に物音はただの物音で、警邏ではなかったから、安堵して次の部屋に向かったのだ。そして、そのときにはもう冊子のことなど頭から消えていた。ちなみに、清鸞と再会したのは、その次の部屋であった。 「ただの冊子だし、他の本に挟まっていたから、清鸞も見落としたのだろう」 なんとなくそう想像しながら、伯図は冊子を開いてみた。 中は、表裏と違い文字で埋まっていた。 ただし、読めなかった。 決して、難解なわけではない。ただの字の羅列だからだ。 「暗号か何かかな?」 縦に読んでみる。意味が通らない。 横に読んでみる。意味が通らない。 斜めに読んでみる。意味が通らない。 一文字とばしで読んでみる。意味が通らない。 「む。なかなかやるではないか」 儒者としての矜持を刺激された気分になった伯図は、燭台を近づけ、本気になって読み解こうと目を凝らした。 しばらくそうしていると、不意に戸が叩かれた。控え目な叩き方だったので、最初は気のせいだと思ったが、もう一度叩かれるに及んで、誰か戸の前にいるのだと悟った。 「誰だ?」 「起きていらっしゃいますか?」 戸の向こうから聞こえてきた声は、女性の声だった。夜を意識してなのか、吹けば消えて無くなりそうな小さな声だった。 「うむ。起きているぞ」 「少し、よろしいでしょうか?」 「構わんが」 伯図がそう答えると、静かに戸が開く。そして、女性がたおやかに身体を部屋の中に滑り込ませてきた。雛であった。 「夜分遅くに申し訳ありません」 「うむ。まだ起きていたから、問題はない」 答えながら伯図は、冊子やそのまま置いていた所有物をを袋に仕舞う。 「で、私に何か用なのか?」 伯図のその問に、雛は頷きもせず、寝台の側に歩んできた。だがその凌波(りょうは)に、伯図は雛の意図を半ば察した。 雛は伯図の側に来ると、膝をつく。 「旅のお方。わたくしの願いを聞いていただけないでしょうか?」 「願い?」 「はい」 「ふむ。一宿一飯の義理もある。私に出来ることであれば、聞いてやらんこともないぞ」 伯図は鷹揚に頷いた。 ありがとうございます、と雛が深く頭を垂れる。 「実は、願いというのは、わたくしの両親を殺して欲しいのです」 む、と伯図は眉根を寄せた。 「尋常な話ではないな」 「はい」 「まず断っておくが、私は君子だ。故に孝を尊ぶ」 「ご立派なお心がけです」 雛の表情に変化はなかった。儒者に親殺しを説くのは、漁師に魚を釣るなと言っているようなものである。全くもって論外であった。それでも、人選を間違えたというような感じは、深く胸に隠しているのか、そもそもないのか、雛の顔には出ていなかった。 それを見て、よっぽどの訳ありなのだろうと伯図は悟った。 「ふむ。とりあえず、詳しい話を聞こうか」 ありがとうございます、と雛は再び深く頭を垂れた。 「ここは見ての通りの一軒家、周囲に他に人家などございません。あなた様方も迷われた通り、よく旅のお方が迷われ、ここに一夜の宿を求められます。わたくしの両親は、あなた様も会った通りあの老夫婦ですが、実は夜な夜な旅の者を殺して、食べてしまっているのです」 「なんだと?」 「殺して欲しいというのは、実は語弊があります。両親は既に鬼(き)になってしまっているのです。人を喰らう悪鬼です。ですから、その悪鬼を退治して欲しいのです」 「むう……」 伯図は、唇を歪める。 「わたくしめは、その悪鬼に命令され、その手引きをしてきましたが、もう限界なのです。こんなことは終わりにしたいのです」 そう雛が袖を口に当て、よよと泣き出した。 「俄には信じ難い話ではあるが……」 伯図は、先程会った老夫婦を思い浮かべてみる。 気味の悪い笑いを飛ばす老婆に、全く喋らない老人。確かに不気味で変わってはいるが、悪鬼と言われて、そうなんだと納得するほどには至らない。そもそも、伯図は悪鬼なる者を見たことがなかったから、どういうものかは知識でしか知らなかった。 鬼というものは、死者の霊のことである。 人は、死ねば誰しも鬼になる。しかし、鬼は死者という性質上冥界に属するため、人界に関与することは出来ない。幽明境を異にするとは、このことである。ただし、強い恨みを持っていたり、悲惨な死に方をした者、死後祭られなかった者は現世に留まり、厄災を為すという。 雛が言うには、彼女の両親である不気味な老夫婦は鬼であるらしい。つまり、死者の霊である。 そうは言われても、現実に見えて、一緒に食事をしたのだから、あれが実は死者でしたと言われても、そうそう信じられるものではなかった。 「信じてられませんか?」 伯図の胸中を察したのか、雛が尋ねる。そして、伯図の返答も待たずに、袖口から何かを取り出して見せた。 「む……!」 伯図は息を飲む。 雛の掌の上に載っているのは、髑髏であった。 「これは三月ほど前に泊まられた方の、成れの果てです。このような物が、我が家にはたくさんございます。これでも信じられませんでしょうか?」 それは、頼みを聞いてくれないとあなた様もそうなりますよ、と暗に言っているようでもあった。 「う、うむ……。信じはしよう」 「それでは、鬼を討って下さるでしょうか?」 「む」 「無料(ただ)で、とは言いません。もしよろしければ――」 雛はそう言いながら立ち上がり、襟に手をかけた。その仕草で、彼女が部屋に入って来たときに察した意図が当たっていたことを、伯図は確認した。 思った通り、雛は襟を持ったまま手を開き、着ていた服を地面に落とした。中からは、見事に整った裸身が姿を現し、蝋燭の炎に照り返り白く輝いていた。 「わたくしには、このようなことぐらいしかできませんので」 雛が、腕を伯図の首に絡めてくる。 「ふむ」 「旅のお方、どうかこのわたくしを憐れんで、願いを聞いて下さいまし」 雛の顔が伯図に近づくと、その香が伯図の鼻孔をくすぐった。 こんな態勢になって、逡巡するような伯図ではない。雛の肩に手をかけ、強引に押し倒した。 そのときである。 「お取り込み中の所、悪いんだけど」 そう冷たい声が、戸の所から聞こえてきた。 驚いた伯図は、慌てて戸の方に首を向ける。 そこには、戸を開けたままの状態で、寝台の二人に目をやっている清鸞がいた。何故だか、彼女の背景が澱んでいる気がする。 「お、お前、いつの間に?」 「ついさっき。二人とも話しに夢中で、あたしが来たことに、気づかなかったみたいだけど」 「そ、そうか。そいつは済まなかったな」 伯図は上体を上げ、咳払いなんかしつつ袍の襟元を大袈裟に直した。 「で、何か私に用なのか?」 伯図の問に清鸞は答えず、ちらりと視線を寝台の雛にやる。 雛は、清鸞の視線を受けながらも慌てた様子もなく、ゆっくりと服を拾い、羽織った。 そして、何事もなかったかのように、清鸞の横を歩いて抜けていった。途中、ちらりと伯図の方を向き、頼みますよ、という風に微笑して頭を下げた。 清鸞が、雛が出ていったのを見てから戸を閉める。 「何やってるのよ、まったく」 清鸞が大仰に息をついた。 「何ってナニを……」 「あなたねえ。科挙生に姦淫は御法度じゃない」 「姦淫ではない。向こうが誘ってきたのだ」 「何が女色を戒めてるよ。全然、戒めてないじゃない!」 「据え膳喰わぬは君子の恥と言うだろう」 「言わないわよ!」 「実際、まだ喰ってないのに、怒られる筋合いはないぞ」 「怒ってなんかないわよ! 何であたしが怒らなきゃならないのよ!」 清鸞が、腰に手をやりつつ怒鳴った。 それのどこが怒ってないんだ。そう伯図は言いたかったが、火に油を注ぐことが分かっていたので、それは胸中に仕舞う。 「で、何か用なのか?」 「用事は終わったわ」 「へ?」 「伯図がだらしないから、あたしがこんなに苦労するのよ」 清鸞が唇を尖らせた。 「意味が分からないのだが」 「鬼を抱いたら、精気を吸い取られて、死ぬわよ」 伯図は、瞬きを繰り返した。 「だから、気をつけろと言ったのに、全く聞いてないんだから」 「あの女も鬼?」 そうよ、と清鸞が頷く。 「迷わされたあげくの一軒家。夜伽に来る女性。怪しいとは思わなかったの?」 「思わないでもなかったが」 「じゃあ、もう少し気をつけて頂戴」 「そんなこと言われてもだな。私はただの科挙生で、相手が鬼かどうかなんてわかるわけないじゃないか。気づいていたのなら、そういうことは早くに言うべきだ」 「気をつけろと言ったじゃない」 「そんなのでわかるか」 「伯図が科挙生として身を律して、誘惑に乗らなければ済む話じゃない」 「む。私の科挙生としての、心構えを疑うか?」 「現実にあたしが来なきゃ、あの女を抱いていたでしょ。汚らわしい」 再び清鸞に怒気が漲る。 そういえば、と伯図は思い出す。清鸞は、そういうことに関してはものすごく潔癖性で、うぶなのだ。 清鸞の気質を思い出した伯図は、再び怒りが表面化する前に謝ることにした。 「それは済まなかったな。助かった。礼を言おう」 「これからは、気をつけて頂戴ね」 「うむ。心しよう」 「本当に、心してくれるのかしら」 鼻で息をつきつつ清鸞が愚痴る。それから、ゆっくりと伯図の側にやってきて、その前に立った。 「で、どうする気なの?」 「何を?」 「彼女の依頼。受けるの?」 「聞いていたのか?」 「密談はもう少し小声ですることよね。あたしの部屋と伯図の部屋は、薄壁一枚なんだから」 「む」 「彼女が言っていたことは、とりあえず事実だわ。あの老夫婦も鬼よ」 清鸞は道士である。それも、相当な実力を持つ。その彼女がそう言うならば、そうなんだろう。 「討てるのか?」 「それは、あたしに聞いているのかしら?」 「うむ」 「依頼されたのは伯図でしょ」 「しかし、お前は道士じゃないか。鬼を討つのは専門だろう」 「専門とはちょっと違うけど。それを言うなら、伯図は儒者でしょう。そもそも儒教というのは、鬼が現世に出て暴れないようにするための葬儀や祭礼を体系化したものが始まりじゃない。伯図も専門家の筈よ」 清鸞が、挑発するように伯図の顔をのぞき込んだ。 「むむ」 「ま、とにかく、ちゃんとすることね。あたしは、他にやることがあるから」 清鸞が、ぽんと伯図の背中を叩く。 やることってなんだ? そう伯図は聞き返そうとしたが、既に清鸞は伯図に背を向けて戸に向かっていた。 「じゃあね」 振り向きもせずに、手だけを上げて出ていった。 四 清鸞が出ていってから、伯図はしばらく思案する。 老婆も鬼。 老人も鬼。 女性も鬼。 鬼ばかりの館である。考える必要がないほどに危険な状況であると言えた。その上、老夫婦は伯図達を喰おうとしているらしいし、雛の方は、意識してか知らずか、伯図の精気を吸い取ろうとした。伯図は、命の危険をひしひしと感じる。 当然であるが、命は大事である。これから士大夫となり国家の中枢に入り、富と名誉をがっぼり得てすごす人生が待っている。こんな所で死ぬ訳にはいかないのだ。 伯図は決断をした。 立ち上がって袋を取り、杖に括り付け、肩に背負う。 戸に向かいかけたが、少し考えて止める。今度は窓に向かい、窓枠に手をかけた。 「うひひひ、こんな夜中にどこへ行くおつもりですかなあ?」 突然目の前に、あの不気味な面に微笑を張り付けた老婆の顔が現れた。 「う、うわっ!」 いきなりとんでもない物を見せられた伯図は、驚愕して体勢を崩し、後方に腰を落とした。 「旅のお方は、旅の疲れをしっかりとるものでさあね、うひひひひ」 老婆は笑いながら、窓枠を越えて部屋に入ってこようとする。 「こ、こら、どこから入って来るんだ! 勝手に人の部屋に入るな!」 「ここは婆の家だから、どこから入ろうと文句はないじゃろうて」 「そういう問題ではない」 「どういう問題ですかなあ、うひひひひ」 老婆が窓枠から部屋に降り立った。欠けている歯から空気が漏れ出ている様は、もうそれだけで人外のモノに思えた。 「私に何か用なのか? 窓から入ってくるほど大事な用事なのか? 生憎、夜伽なら間に合っているが」 「娘が来たろう。何か言っていたかなあ?」 「抱いてくれとは、言っていたぞ」 「ほほう! で、旅のお方は、娘を抱きなすったのか?」 ずいと老婆が、顔を寄せてくる。思わず、伯図は腰を落としたまま後ずさり、距離を取った。心なしか、老婆が怒っているように見える。 「だから、さきほど夜伽は間に合っていると言っただろう」 「なんと! 抱きなすったか!」 更に老婆が詰め寄る。 伯図も更に後ずさる。 「抱いてない。私は君子だ。女色は控えているのだ。間に合っているとは、そういう意味だ」 そう伯図が否定すると、老婆が狂ったように嗤いだした。一見理解しにくいが、どうやら喜んでいるらしい。 「あの娘ばっかりに、良い所はやらん! 今回は婆が頂くぞう! うひひひひひひ!」 何を頂かれてしまうのかと言えば、肉を頂かれてしまうのだろう。それも、自分の骨にくっついている大事なやつを。 「冗談じゃないぞ」 伯図は立ち上がろうとする。 それと同時に、老婆が伯図に掴みかかってきた。その速度は老婆とも思えない速さで、伯図が立ち上がる前に、伯図の両肩に手をかけた。 刹那。 両肩から火花が飛んだと思うと、老婆が慌てて手を引っ込めた。 「ううっ……、お、おのれえぇぇい!」 老婆が憤怒の表情で、伯図を睨み付ける。 理由はよく分からないが、老婆は伯図に触れると痛がるらしい。それを知って、伯図に大分余裕が生まれた。 「どうやら、鬼の分際では、君子の気高き身体には触れられないらしいな」 そう言いながら立ち上がる。 「諦めろ。私には、これから国家百年の大計を謀り、民草を安寧に過ごさせる使命がある。こんな所でお前に喰われるわけにはいかんのだ」 「久方ぶりの若い男の肉、そう簡単に諦めてなるものかぁ!」 腹の底から呻くように語った老婆が、腕を背中に回し、鎌を取り出した。 「ちょ、お前……!」 三日月型の刃に柄をつけた物騒な物に、伯図は驚愕する。基本的に鎌は農具である。ただし今回の場合、その刃で刈ろうとしているのは、草ではなく伯図であろうことは明白だった。 先程生まれた余裕が、一瞬で萎んでいくのを伯図は自覚した。さすがに、鎌の一撃を受けて無事でいられる保証はどこにもない。 清鸞は一体何をやっているのだ。伯図はそう思う。先程はきっちり出てきた癖に、何故今回は出てこないのだ。薄壁一枚だから、こっちの状況がすぐに分かると言っていたではないか。こんな騒ぎになっているのに、気づかないのは怠慢ではないか。伯図は、じりじりと迫ってくる老婆から距離を取りつつ、現実逃避気味にそう思った。 勿論、清鸞も現況を拱手傍観していたわけではなかった。 清鸞の部屋には老人が入っていた。 老人は、寝台で布団を頭まですっぽりとかぶって眠っている清鸞に、ゆっくりと近づく。 そして、手を伸ばせば清鸞に届く位置まで迫ったとき。 「女性の寝込みを襲うなんて、無粋じゃないかしら?」 後背から、そんな声が響く。 老人が振り返ると、清鸞が壁にもたれて立っていた。 「それとも、鬼に飽きて天へ帰りたいのかしら?」 清鸞は、ぴんと二本の指を目の前に立てた。指の間には一枚の霊符が挟まれている。 老人は、それを見ても臆することなく、清鸞に近づいていく。顔に一切の表情がなく、窓から漏れる月明かりに照らされる老人は、とても不気味な生き物に見えた。 ある程度近づくと、老人は足を止める。それは、清鸞を襲うのを諦めたわけではなく、次の行動に移るための予備動作だった。清鸞は、老人の膝が緩やかに曲げられたのを見逃さなかった。 刹那。 声もなく、老人が清鸞に飛びかかる。 しかし、清鸞は全く動じず、指を翻し霊符を老人に向けると、襲いかかってくる老人の顔にその符を貼り付けた。 その瞬間、老人の全ての動きが停止する。今まで一切の表情がなかった老人の顔に、初めて驚愕の表情が生まれた。 「制鬼術と言ってね。その名の通り、鬼を制御する術なの」 両手を広げたままの状態で停止させられた老人に、清鸞は語りかける。その語り口は淡々としていたが、その端々に隠しようのない怒りが溢れている。 「普通の道士なら、ここから使鬼術に移って、あなたを使役するんだけど。あたしはそうじゃない」 清鸞がもたれかかった壁から背を離し、背負っていた大剣をゆっくりと抜いた。 「この家には、ひどく邪気が渦巻いてる。相当な数の旅人を、こうやって襲ってたみたいね。誰かしら、この周囲に結界を張って旅人を迷わせたのは?」 「…………」 老人は答えず、ただ清鸞を睨み付けるだけである。 「答えたくないんなら良いわ。他の鬼に聞くだけだから」 あっさりと清鸞は言い放って、大剣を横に薙いだ。 「さて。そろそろ行ってあげないと、泣きが入るかな」 清鸞は、崩れた老人に一度だけ視線をやってから大剣を鞘に戻し、悲鳴と怒号とで騒々しい隣の部屋の方を向いて、少し微笑した。 清鸞が隣の部屋に行くと、丁度、壁を背にした伯図が、老婆の振り下ろそうとしている鎌を、懸命に両手で支えて防いでいるところだった。 「お、遅いぞ清鸞!」 伯図は清鸞の姿を見つけて、思わず叫んだ。 「あなたに遅いと言われる筋合いはないと思うけど」 「何故だ?」 「知ってるのよ。伯図、あたしを見捨てて逃げようとしてたでしょう」 「そ、そんなことはないぞ」 「窓から逃げようとしてたじゃない。あたしの部屋と薄壁一枚って言ったじゃない。伯図が窓から逃げようとしてたの、わかるのよ」 「い、いや、あれは、外からお前を呼ぼうとしてたのだ。その前に、このハバアに襲われたのだ。仕方あるまい」 「どうだか」 つん、と清鸞がそっぽを向く。 「そのような議論は、今はいいではないか。とりあえず、助けろ」 全力で鎌を支えている伯図は、そろそろ力が尽きてきていた。 「うひひひひ、諦めてわたしに喰われるのじゃあ!」 老婆が更に力を込める。その細腕にどこにそんな力があるのか、鎌はもう少しで伯図に届くところまで来ていた。 「まったく」 清鸞が溜息一つ、大剣を薙いだ。 「ぎゃあああっ!」 老婆が断末魔を上げつつ、崩れ落ちた。 「ふう」 伯図は、崩れ落ちた老婆を呆然と見ながら息をつく。 「どうして、こう器用に、鬼に触れないように襲われてるのかしら」 清鸞が呆れた様子で伯図の背中に手をやる。戻したその手には、一枚の霊符が持たれていた。 「何だそれは?」 「鬼が触れられないようにする符。前来たときに、伯図に貼っておいたの」 「そうか。そんな訳があったのか」 老婆が最初自分に触れられなかったのを、伯図は思い出した。 「これがあるから、鬼は伯図に触れられない筈なんだけど。さっきも、鎌の柄の部分じゃなくて、老婆に触っていれば、あんな風にはなってなかった筈よ」 「君子が鬼に触れるか。汚れるではないか」 「若い女性なら、触るどころか抱こうとしていた癖に」 「あれは、あいつが鬼だとは知らなかったからだ」 「本当にそうかしら」 「本当だとも」 「今回は、そういうことにしておいてあげる」 清鸞が肩をすくめる。 「まだやることがあるからね。ここで言い争っていても仕方がないわ」 「やることって何だ? 鬼は退治したじゃないか」 「もう一人残っているじゃない」 「ああ、あの女か」 伯図は、抱かれに来た雛の姿を思い出す。 「多分、あれを倒さないと、山から下りられないわよ」 「どういうことだ?」 「ここの鬼の中の誰かが結界を張って、あたし達を迷わせていたの。二人討って、まだ結界は解けてない」 「つまり、あの女が主犯ってことか」 「鬼の中の家族関係までは知らないけれど、結界を張っているのはあの女性に間違いはないみたいね」 なるほど、と伯図は頷く。 「では、早くあの女を討ってくれ」 「そのつもりだけど、何かすごくむかつく言い方よね」 「気のせいだ」 「やっぱり、やめにするわ。あたしはここから自力で出られるから。出たけりゃ伯図が何とかすればいいんじゃない?」 「なんだと! それは困るではないか。そもそも、君子は争うところなし、という。荒事は君子のするところではない」 伯図は胸を張った。 「そんなの、あたしの知ったことではないわよ。君子なら、君子のやり方で何とかすればいいんじゃないかしら?」 清鸞が、白い目で伯図を見返す。 「君子、多ならんや、多ならざるなり。君子は色々なことをしないものだ。こういうことは、君子のするところではない」 「ようするに出来ないんじゃない」 「そ、そんなことはないぞ」 「じゃあ何とかすればいいじゃない」 「……すまん。出来ない。お願いする。早くあの女を討って、下山させてくれ」 「最初から、素直にそう言えばいいのよ。矜持が高くて、いつもいつも理屈っぽいんだから」 腰に手を当てて清鸞が、伯図に説教する。 下山したい伯図は、とにかく清鸞に鬼を討って結界を解いてもらわないといけないので、反論して清鸞にへそを曲げられないように黙って聞いていた。 だいたい伯図は、と清鸞が更に説教を続けようとしていると、戸の方から人の気配を感じた。 二人してそちらを見ると、例の女性が立っていた。 「ああ、ついに悪鬼どもを討ち果たしてくれたのですね」 嬉しそうに雛が笑う。 「あなたのためじゃないけれどね」 清鸞が、伯図に向けていた冷たい口調とは違う、真の意味での冷たい口調で答えた。 「これで、わたくしも自由に出来ます」 「あなたが、あの二人を使役していたわけではなさそうね」 「まさか! あの二人ときたら、わたくしが何日もかけて、ゆっくりと味わって殿方の精気を吸い取っているのに、横から殺して食べてしまうのですよ。それでは、味も素っ気もないではありませんか。わたくしは、殿方がわたくしに溺れていきながら干からびていく様が楽しみでありますのに。でもこれで、もうあの二人に気がねなく、殿方を頂けるんですわね」 雛が婉然と語った。 「そうしたいがために、この辺りに、人を迷わす結界を張ったのね?」 「わたくしは、あの悪鬼どもと違い、この家から出られませんもので」 「なるほど。あなたはここに地縛された鬼ってわけ」 清鸞のその言葉に雛は答えず、視線を伯図の方にやった。 「うふふふ。旅の疲れも、わたくしめが癒して差し上げます故、こちらにお出でなされませ」 雛のその笑みは強烈で、男性ならふらふらと行ってしまいそうな、妖しくも淫らな笑みだった。 伯図も男性だったから、無意識に足を踏み出しかけたが、意志力で押さえ込む。隣に清鸞が立っているというのも、押さえ込めた一つの一因である。 「お出でなさらないのですか?」 「ここで美人を取って、将来を棒に振るわけにはいかんのだ」 「あらあら、やせ我慢しなくていいんですのよ。そんな子供では、あなた様はご満足出来ないでありましょう?」 うふふふ、と袖口で口許を押さえながら、雛が笑った。 「満足するしない以前の問題だが」 伯図は、清鸞を一瞥しつつ答える。 「どういう意味よ? どうせあたしはまだ子供よ。でも、ちゃんと成長するんだから」 清鸞が、不機嫌そうに伯図を睨んだ。どうもこの手の話題になると、彼女は子供じみてくる。否、年相応の反応になる。そこはやはり、女性としての劣等感を、目の前の雛から感じるからなのだろうか。何にしても、ここで清鸞にへそを曲げられたら堪らない伯図は、台詞の説明をしなければならなかった。 「そうではなくてだな。私とお前は、そういう関係ではないだろう」 「あ……、そ、そうね。そういうことね。そうだわ。べ、別にそんな関係じゃないわよ」 真っ赤になって清鸞が、うんうんと頷く。 「うふふふ。それなら、なおのことですわ」 「だから、私はここで朽ち果てるわけにはいかんのだ。清鸞、そろそろいいだろう」 「そうね」 答えて、清鸞が大剣を抜いた。 「どうあっても、わたくしの所に来ては下されないみたいですわね」 「そうやって、何人の旅人を誑かしたのかしら。でもそれも、もう終わり。土に帰してあげるわ」 「うふふふ。残念ですわ」 雛が手を伸ばした。すると空間が歪んで、衝撃波が二人を襲う。 「はっ!」 清鸞が伯図の前に立ち、大剣を打ち下ろした。大剣は見事に衝撃波を防ぐ。 「な……!」 雛が驚愕する。 「旅人の無念を思い知りなさい!」 清鸞が叫び、雛に突き進んだ。 「ひっ!」 雛が悲鳴を上げ、後ずさる。だが、清鸞が彼女を間合いに捕らえる方が圧倒的に早かった。 大剣が空気を切り裂き、唸りを上げる。 「ひぃぃぃぃっ!」 それが雛の最期の声になった。 清鸞が、崩れ落ちた雛を見下ろしながら、大剣を鞘に仕舞う。 「結界はどうなった?」 伯図は、一番の懸念を口にする。 「消えたわよ」 「そうか。なら、行こうではないか。出来れば、こんな所に留まっていたくない」 ん、と清鸞が、すぐには答えない。 「もうちょっと待って。まだやることが残ってる」 「まだあるのか」 「大事なことよ。どちらにしろ、まだ夜が明けてないのに、山道を歩くのは危険だわ」 「お前がいれば大丈夫な気がするが」 ここまで強い清鸞である。山中の危険など、大したことがないように思えた。 「あたしは、別に旅に万能な訳じゃないんだけど。こんな夜だもの。道に迷えば遭難するわよ」 「ふむ。使えないな」 「何か言った?」 「いや、別に。で、やることってなんだ?」 「それはね――」 五 「あった」 清鸞が、木々の間から小さな祠を見つけた。家からそう離れていない場所である。ただ、月明かりだけなのと、木々が生い茂る中だったので、見つけるのにそれなりに時間がかかった。 「つまり、これが壊されていたから、あんな鬼どもが跳梁したと言う訳だな」 その祠は、この辺りの土地神を祭る祠であった。 人は死ぬと、冥界に行く前に、まずその土地神の所へ行く。そこで生前の下調べを受けるのだ。その調べをもとに冥界の閻羅王に裁かれる。 しかし、今回の場合、土地神の祠が壊されていて、土地神がその責務を果たせなかった訳である。死人は冥界に行けず、ここで溜まることになる。 「どこかの旅人が壊したんでしょうね」 清鸞が祠を手直しし始める。 「どういう経緯であの女性や老夫婦が鬼になったのかはわからないけど、これが原因の一つであることは確かよ。結界も、ここに溜まっていた死気を使ってたものだもの」 「女は、あの家から出られないとか言っていたから、昔、あの家で殺されたかなんかしたんだろうな」 「そんなところでしょうね。老夫婦の方は、この辺りの死気に誘われて来たのかもしれない」 「ま、想像以上のことは出来ないわけだ」 「そうね。――うん、こんなところかな」 清鸞が、手をぱんぱんと払いながら立ち上がる。 「これを直さないと、また同じ事が起きるからね」 土地神が機能しないと、死者は冥界に行けないままである。特に、この辺はあの鬼達が喰った死者がいるのだから、鬼が出やすくなっていた。 清鸞が、すっと目を閉じた。 呼吸を整える。 目を開き、左足を半歩前に出す。それから、右足をその前に出し左足を右足に揃える。その後、右足を先に出し、左足を前にやってから右足を揃えた。 そんな奇妙な歩行を清鸞が始めた。 何をやってるのだと伯図は尋ねかけたが、話しかけづらい雰囲気だったので、止めておいた。仕方なくしばらく見ていると、清鸞が禹歩を踏んでいるのだと気が付いた。 ややあって。 清鸞が立ち止まる。禹歩が終わったらしい。 すると、その場に清浄な空気が流れ込んでくるのが伯図にも分かった。 場が清められたのだ。 「こんなものね。後は、ここを通る旅人がこれを壊したりしなければ、いずれここも元に戻るでしょう」 清鸞が、微笑する。 「なるほど。それで、やることというのは全て終了か?」 「うん」 「では、下山しよう」 「そうね。夜も明けてきたし」 清鸞が言うように、朝の光が木々の間から射し込み始めていた。 |