科挙の道遠し
一 頬に冷たい雫が当たって、伯図は目を覚ました。 瞬きを何度か繰り返し、自分が俯せに寝ていることに気がつく。 腕で上体を起こし、ここは何処だと周囲に視線を配る。 どうやら、ここはどこかの狭い一室のようだ。とはいっても、目につく物は何もなく、正面に分厚い扉があるだけだった。窓すらないから、ほとんどが闇である。それでも真っ暗でないのは、扉の上方に覗き窓のようなものがあって、そこから漏れる光があるからだった。 状況から判断して、ここが牢屋だと伯図は気がついた。同時に、自分が呂彬たちに気絶させられたことを思い出した。 「捕まったのか」 伯図は身体を捻ってその場に座り込み、腕を組む。 由々しき事態である。 捕まってどうなるかはとりあえずのところわからないが、このまま監禁されるにしても、拷問されるにしても、殺されるにしても、伯図にとって好ましい未来とはいえない。最悪、その全てを受けて鳥葬なんかされて内蔵を食べられたりなんかした日には、目も当てられない。 伯図には、会試を受けて通るという目的がある。こんな所で、鳥葬されるわけにはいかないのだ。 そうなると、どうにかしてここから出なくてはならないわけだが、そこからが問題である。 牢は、人を閉じこめておくためにあるわけで、そう簡単に中から開けられないように出来ている。呂彬たちに伯図を牢から出す意志がない限り、助けを待つか、自力でどうにかするする以外に脱出の道はない。 「助けか」 伯図は呟きながら、清鸞のことを思う。 助けがあるとするならば、清鸞が助けに来てくれる以外にないだろうが、彼女も気絶する直前の状況から推測するに、捕まった可能性が高い。清鸞が伯図と同じように牢に放り込まれているなら、助けが来る確率は限りなく零に近いだろう。案外、呂彬あたりに色々卑猥なことをされているかもしれないが。 「ああいう大男は、幼女趣味がある場合が多いからな」 どちらにしろ、助けは期待できそうになかった。 そうなると、自力で脱出するしかないわけだが。 とりあえず、杖とか荷物は全て盗られたようで、牢内にはない。どちらかがあれば、まだ容易に脱出できたのだが、ないものを嘆いていても仕方がない。伯図は立ち上がり、扉のそばに寄った。 木製の扉は、体当たりぐらいではびくともしないぐらいの分厚さを有していた。ためしに押したり引いたりしてみたが、開く気配はなさそうである。 伯図は屈み込んで、取っ手の形状を凝視する。 どうやら、取っ手の部分が鍵のようで、外から心張り棒で押さえてあったりはしてなかった。 これならどうにかなりそうだと思い、伯図は笑みを浮かべた。 背を伸ばして、覗き窓から外の様子をうかがう。 覗き窓は小さな隙間だったから、視界は激しく制限されるが、それでも人の姿は見受けられなかった。 伯図は、それを確認してから右の靴を脱いだ。そして、靴の底をめくり、細い針金を取り出す。 本来なら、試験場である貢院で使う予定だったものだ。 科挙生は、試験の間中貢院に閉じこめられるので、ちょっと問題に詰まったとき、参考書を見に宿などには帰れない。そんなとき、こっそり見に帰る用に仕込んでいたのだが、ここで使うのは、この際仕方がなかった。 「君子を、いつまでもこんな所に閉じこめていられると思うなよ」 伯図は慣れた手つきで鍵穴に針金を入れた。郷試のときに一度経験済みなので、針金を動かす微妙な力具合も分かっていた。 ややあって、かちり、と小さな音が耳に届く。 伯図は再び背を伸ばしてもう一度覗き窓から外の様子をうかがい、人の姿がないのを確認してから、ゆっくりと取っ手を捻った。 取っ手はわずかな抵抗の後、完全に回った。そのまま、扉を押す。扉はくぐもった音をたてながら、伯図の力加減のまま開いていった。 完全に扉が開く前に、伯図は身体を牢の外に出して、扉を閉じた。 左右を見回す。 左右にのびている廊下に人の姿はない。正面は土壁で、等間隔に松明が取り付けてあった。扉があった並びに、同じような扉が五つ。伯図が閉じこめられていたのは、その真ん中であった。 右の突き当たりに牢とは違う扉があり、左の方には上方に上がる階段が見えた。出口らしき物はなく、恐らくここは地下で、左の階段を上がると出られるのだろう。 伯図は左に歩を進みかけて止めた。 後方を振り返り、突き当たりの扉を注視する。 脱獄の鉄則としては、こういう所で余計なことをするのは駄目である。そんなことは伯図も百も承知であるが、どうもあの扉の向こうが気になるのだ。 「君子の嗅覚が、あの扉を開けと言っている」 伯図は踵を返し、突き当たりの扉へと進んだ。 聴覚に神経を集中する。 物音は聞こえてこない。 伯図は意を決し、扉の取っ手に手をかけた。 扉は鍵がかかっていないようで、簡単に開いた。 部屋の中に光源はないが、扉を開けていれば、廊下の松明の光が入り込んで、牢屋の暗闇に慣れた伯図の目には十分視認できる範囲だった。 人の姿はない。だが、色々な物が溢れんばかりに放り込んであった。伯図は、その中に袋や杖などを見つけて、ここが捕まえた者の持ち物を保管してある場所だということに気がついた。 そうであるなら、自分の持ち物もここにある確率は高い。伯図はそう思い、部屋の中を漁りだした。 伯図の持っていたものは、荷物を入れた袋と、杖である。旅人であれば、大抵は所持するもので、当然ながら、ここにもそれらは山ほどあった。その中から、自分の物を探すのは至難の業である。 杖は、後で適当に取ろうと思ってはいるが、袋だけはそうはいかなかった。袋というより、むしろ中身の方なのであるが。 伯図の袋に入っていた物は、路銀は勿論のこと、替えの袍に、硯、墨、筆、水差し、四書五経やその注釈の書籍などである。路銀以外はどれも靴と同じような特注の品々で、会試通過のためにはどれも必要な物であった。牢のときには、まず脱出を第一に考えて荷物のことは半ば諦めていたが、これを見た以上は、そうもいかないのだ。これなくして、会試の会元(成績第一位)突破はあり得ないのだ。 あれでもない、これでもない、としばらく探していると、やっと目に馴染んだ袋を見つけた。大きさ、色、柄も自分の物と違いがない。 「これか」 伯図はその袋を手にとって開けてみた。 期待に違わず、その袋の中には見覚えのある袍や書籍が入っていた。これだと、伯図は喜んで、中身を点検した。 着替えの袍や書籍類、硯や筆はあったが、路銀だけは消えていた。それに気づいて、伯図は眉をひそめる。 何をするにも金は必要である。それは旅人にとっても同じこと。宿で泊まるにも、食事をするにも、金がいる。 試験日まであと八日。更に詳しくいうと、試験日前日の早朝には貢院に入場しなければならないから、今日を入れてあと七日。その間、野宿だけで過ごしていくのは、さすがに辛いと思われる。そして、それ以上に困るのが、科挙は試巻(答案用紙)を買わねばならないのだ。金はどうしてもいる。 「ちくしょうめ。下等生物の分際で、君子から金を奪うとは。いずれ思い知らせてやるぞ」 苦々しく伯図は呟くが、現状が変わるわけではない。とりあえず、幾つか違う袋の中を確認するが、金は全く入っていなかったし、金目の物も入っていなかった。その辺はきっちり奪い取られているらしい。伯図の持ち物が金以外が無事だったのは、単に大した物ではないと判断されたからだろう。現実に、特注なので金は少しかけてあるが、単価としては大した価値のある物ではなかった。 「いかん、いかんぞ。このままでは絶対にいかん」 伯図は頭をかいて、これからのことを思案しだした。 二 広い部屋だった。 十数人の男が胡座をかいて座ってまだそれなりの余裕があるのだから、かなりの広さなのだろうと、清鸞はなんとなく考えた。 その男たちは、それぞれに酒杯や肴を持ち、宴会のように騒いでいた。たちこめる酒の臭いが鼻について少し不快だった。 清鸞は、部屋の中央に立っている。両手は前で括られていて、自由はない。持っていた剣も、とうの昔に取り上げられていて、無防備である。 清鸞の目の前には、呂彬がいた。呂彬は巨大な椅子に座り、手にはこれまた巨大な酒杯を持っていた。呂彬の横には妖艶な美女がはべり、妖しい瞳で清鸞を眺めている。 「で、お前は何者なんだ?」 呂彬が胡乱な目で清鸞を見る。 「清鸞よ。さっきも言ったじゃない」 「そんなことを聞いてるんじゃない」 「わかってるけど、他に答えようがないもの」 清鸞が肩をすくめた。 その、現状においても恐怖の色を全く見せない清鸞に、呂彬が少し苛ついた様子を見せた。 「誰に頼まれて、ここいらを探ってやがった?」 「誰にも。だいたい、自分で言うのも何だけど、あたしみたいな小娘に山賊の様子を探れって言うような人っておかしいわよ」 「つまり、あなたは自分の意志でこの熊牙塞を調べていたと。そう言いたいわけね」 美女がそう確認する。 そういうことね、と清鸞が頷いた。 「それを信じろと言うのか?」 「信じなくても結構だけど、あたしに聞いても、これ以外の答は出てこないわよ」 「身体に聞いてもいいんだぞ。腕の一本や二本折られれば素直になるか」 呂彬が熊の如き太い手を示しながら、清鸞に脅しをかける。確かに、その腕で捕まれれば清鸞の細い腕など、簡単に折れそうである。 しかし、清鸞は逆に不敵な表情をつくった。 「いいの、あたしを傷つけても?」 「どういうことだ?」 「商品に傷を付けてもいいのかしら、と言っているのよ」 てめえ、と呂彬が唸る。 「何を知っている?」 「そう言うときは、どこまで知っている、と問うべきね」 清鸞の言葉に、呂彬が怒りを露わにして立ち上がった。がしゃん、と持っていた酒杯が音をたてて握り潰される。 「てめえっ!」 呂彬が清鸞の肩を掴み、引き寄せる。 「臭い息を吐きかけないで」 さすがに捕まれた肩の痛みに顔を歪めるが、それでも清鸞の口調は変わらなかった。 「その減らず口をやめろ。でねえと、その小さい身体で予行練習させてやってもいいんだぜ。知ってるんだろ、俺たちがどうするかを」 「下司のすることに興味はないけど、どうやってできるのかしら、あの連中に?」 清鸞は微笑を浮かべる。 「なに?」 呂彬が、視線で周囲を見回すと、その場で眠りこける部下たちの姿が目に入ってきた。 「なっ……! てめえ、一体何をした?」 「あたしは何も」 「なにぃ?」 「お酒がきつかったんじゃないの」 「酒だと?」 何かに気づいたように、呂彬が横の美女を見た。自分や部下たちに酒を用意しついだのは彼女である。 「もしかして、てめえが……?」 「うふふ、どうかしらね。それよりもご自分の心配をしたらいかがかしら? あなたもお飲みになったでしょう」 美女が婉然と笑う。 「て、てめえ、謀りやがったな!」 呂彬が清鸞をうち捨てて、今度は美女の方に手を伸ばす。 だがその手が美女に届く前に、呂彬の巨体はぐらりと揺れた。 「て……てめ……え……」 憤怒の表情を浮かべ、呂彬は前のめりに倒れた。 それを冷ややかに見下ろしてから、美女が清鸞に歩み寄る。 「さすがにこれだけの巨体だと、薬の回りも遅いようですわね」 「どうかしら、体質じゃないかしらね」 清鸞は括られている両腕を差し出し、美女が括られている縄をほどいた。 「しかし、本当にお越しになられるとは。もう少しご自重なさっていただかなくては困ります。捕らえられたと聞いたときには、心臓が止まるかと思いました」 「捕まるのは、あたしにとっても予定外だったわね」 清鸞は苦笑する。 「笑い事ではございません。このようなことは、あたしにお任せになられたらいいのです」 「別に、あなたことを信頼してないわけじゃないわ。ただ、あたしがこいつらのやっていることを許せないだけ」 「お気持ちは分かりますが」 「わかるんなら、見逃してね、月蓉(がつよう)」 清鸞は、片目をつぶって見せた。 まったくもう、と月蓉が溜息をつく。そんな彼女の姿を了解ととった清鸞は、話題を変える。 「ところで、例の物は入手した?」 いえ、と月蓉が表情を改めながら答えた。幾分背筋も伸びる。 「何分、まだここに入って日が短いものですから。呂彬に取り入るのが精一杯でした」 「まあ、それもそうね。それに、あたしが予定外に早く来てしまったものね。それも捕まって。だから、探す暇がなかった。違う?」 「い、いえ、そんなことはございませんが」 月蓉が曖昧に笑う。 「いいのよ。色々あったにせよ、捕まっちゃったのはあたしの落ち度だからね」 「しかし、清鸞さまが捕まるとは、呂彬もなかなかの腕であるみたいですね」 ん、と清鸞は唇を尖らせる。 「膂力は確かにあったけど。まあ、こうなるには色々と経緯があってね」 「お連れの方が、何かあったのですか?」 「そんなところ」 「彼は何者なんです?」 「朱権。字は伯図。科挙生って言っていたわね。会試を受けに行く途中みたい」 「それにしてはお若いですわね」 月蓉が率直な感想を述べる。 「郷試一発合格者と言っていたわね」 「それは、なかなか俊英なお方ですね」 どうかしらね、と清鸞が小首を傾げた。郷試を一回で通ったのだから才幹はあるのかもしれないが、それ以上に余計な自負心が高そうだ。奸佞邪知な男かもしれない。それが、清鸞の伯図評である。 「でも、何故科挙生がこのような山中に?」 「近道しようとして、道に迷ったらしいわよ。ところで、その伯図はどこに捕らわれているかは知ってる?」 「恐らくは、ここの地下牢かと。わたくしめが後で助けておきます」 「いいわ。あたしが行く。ついでにやっておきたいこともあるから。月蓉は例の物、お願い」 「わかりました。ところで、この者たちはいかが致しましょう?」 月蓉が、倒れて寝ている呂彬たちを見下ろしながら尋ねた。 「放っておいて構わないわよ」 「え? このまま、お許しになられるのですか?」 月蓉が、驚いた口調で聞きなおす。 「まさか! あたしが、こんな奴ら許しておくと思う? だったらこんな所に来やしないわよ」 そう言いながら、懐から何枚かの符を取り出してみせる。 「もしや、やっておきたいこととは……」 「そういうこと。派手にやるわよ! あなたも、例の物を見つけたら、すぐに逃げなさいね。でないと巻き込んじゃうから」 清鸞は、茶目っ気をたっぷり含んだ笑顔を見せた。 「承知いたしました」 「じゃあ、あたしは行くから」 「あ、お待ち下さいませ」 月蓉が、扉に向かいかけた清鸞を呼び止める。そして、部屋の奥の方から剣を持ってきた。 なに? と振り返った清鸞に、それを渡す。 「あ、取っておいてくれたんだ」 月蓉が手渡したのは、清鸞が所持していた大剣だった。 「ありがと。これで武器を奪う手間が省けたわね」 「でも、なるべく危険なことはおやめ下さいましね。御身をお大事に」 「わかってるわ。無茶はしない」 心配そうな月蓉に、笑顔で清鸞は答え、それじゃあね、と手を振りながら部屋から出ていった。 三 熊牙塞の大半を占めるのが、呂彬の館である。そこには、館の主呂彬が住む居室は勿論のこと、幾つかの大広間や、警備等で館に詰める者たちの兵舎、厩舎、鍛冶場などといったものが一通り揃っていた。また大きな蔵もあり、そこには略奪品などが入れられていた。そして、伯図が捕らえられていた地下牢もある。 清鸞が伯図と再会したのは、その地下牢ではなかった。企図していることの準備をして回っていて、二階のある大きな部屋を開けたときである。 「あら、自力で脱出したのね」 そう、部屋の棚の辺りをごそごそいらっていた伯図に声をかける。 「う、うわっ!」 伯図はその突然の声に驚愕して、慌てて振り返った。そして、声をかけてきた相手を見て、安堵の溜息をつく。 「お前か。驚かせるな」 「悪かったわね。で、何してるの?」 清鸞が、伯図を冷たい視線で射抜く。 「うむ。盗まれた金を探しているのだ」 「そうなの。それにしては、荷物が会ったときより多いようだけど」 「それはだな。盗まれた金が見つからないので、とりあえず金目の物を集めていたのだ。どうだ、見てみろ。この酒杯なんて、なかなか高価そうだろう。良い金になりそうだ」 伯図はつい先程入手したばかりの、高価そうな酒杯を清鸞に見せつけた。 だがそれに全く興味がないのか、清鸞の視線は伯図に注がれたままである。 「何か、手段と目的が入れ替わっているような気がするけど?」 「そんなことはないぞ。当然、自分の金を見つけたら、それも返してもらうに決まっている」 「そのときは、その盗った物は返すのかしら?」 「どうして?」 「それはあなたの物じゃないでしょう」 「これは、君子を殴って気絶させ、あまつさえあんな所に閉じこめたことによって生じた、精神的苦痛に対する代償だ」 あのねえ、と清鸞が大きな息を吐いた。そして、怒鳴る。 「そんな、ここの山賊と同じような真似、しないでちょうだい!」 「あんな低脳どもと一緒にするな。不愉快だ」 「やってることは一緒じゃない」 「違うぞ。あいつらはただ、金を盗って喜ぶだけの変態だろう。私のこれは、将来を嘱望される若き才人が野垂れ死なないための手段だ。明確に違う」 「そんな阿保みたいな理由で、盗みを正当化する気?」 「正当化ではない。正当なんだ。私をここで失うことは、国家の損失だぞ」 伯図は清鸞の厳しい眼光に怯むことなく、言い返した。 しばし、二人の視線がぶつかり合う。 ややあって、溜息とともに清鸞が視線を外す。 「わかったわ。それだけ言うんなら、仕方がないわね」 「うむ。わかったか――ってお前、何故剣を抜く?」 「あたしは賊を討ちに来た。もし、伯図がそのままそれを盗んでいくのなら、あなたも討つわ。盗った物を返すか、あたしに討たれるか。二者択一よ」 清鸞の眼光は、先ほどよりも厳しいものになっていた。秋霜烈日な瞳から、清鸞が本気だとわかった伯図は、脳内で自分の武技の実力と、清鸞の実力を比べてみた。 思い浮かぶのは、呂彬を追いつめた清鸞の華麗な動きである。 結論が出るのは一瞬だった。 「冗談ではないか。そう本気になるな。君子たるこの私が盗みなど働くわけがなかろう」 はっはっは、と笑いながら、伯図は手に持っていた酒杯を棚に置く。 「良かった。あたしも、見知った人を討つのは、そんなに気分のいいものじゃないから」 そう返しつつも、清鸞の瞳は未だ鋭さを失わない。つまりは、まだ持っているだろう、それを返せ、と言っているのだ。仕方なく、伯図は袋から盗った物を取り出し棚に置いていった。 「呆れた。そんなに盗ってたの?」 次から次へと出てくる盗品に、清鸞が呆れ返る。 「だから、冗談だった言っているじゃないか。捕まって、卑猥なことをされて落ち込んでいるお前を笑わせてやろうという、君子の暖かな心遣いだ」 「さ、されてないわよ、そんなことは!」 「ふむ。山賊の中には、幼女趣味の奴が一人くらいいてもおかしくはないと思っていたが。案外まともな奴が多かったのか」 「そんなの、知らないわよ」 「まあ良かったじゃないか。偏執的な行為で処女を散らすには、まだ早い年齢だろう」 「その妄想から離れなさい! でないと叩き斬るわよ!」 顔を朱に染めた清鸞が、再び大剣の柄に手をかけた。 「冗談じゃないか。捕まって、卑猥な――」 「それ以上言うと、二度と話せない口にしてあげるわよ」 清鸞の瞳が不穏に光る。大剣も、鞘から少し抜かれ刃が見えたりしている。 「う、うむ。お前の無事を素直に喜ぼう」 「そう、それで良いの。で、盗った物はそれで終わり?」 「うむ。あらかた出し終えた」 「あらかたじゃ駄目。全部出しなさい」 「うむ。言葉を間違えた。全部だった。全部出した」 「本当? 確かめるわよ?」 清鸞の言葉は疑問系だったが、手は言葉と同時に伯図から袋を奪っていて、言い終えるのと同じくらいには、袋を開けて中に視線をやっていた。 「これは何?」 清鸞が、金や銀の装飾が煌びやかな細い笄(こうがい)を袋から取り出した。 「笄だ」 基本的に、髪を伸ばす風習が男女ともにあるので、笄や簪などは男女ともに使用する。正式な官吏は勿論のこと、一般人でも正装であれば髪を結うのに必要になってくる。だから、科挙を受けようという伯図が笄を持っているのは、それほどおかしなことではない。 問題なのは、その装飾だった。 「どう見てもこれ、女性用よね」 「う、うむ。女性用だな」 「それをどうして、伯図が持っているのかしら?」 「それはだな。実は私には京師に姪がいるのだ。その姪に贈ろうと思い、故郷で買っておいたのだ」 「ふうん」 清鸞が疑いの眼差しで、伯図を見る。 「本当だぞ。君子の言葉に嘘はない」 伯図は胸を張った。 「確かめてみれば分かるわね」 清鸞が懐から小さな巾着を取り出し、中身を左の掌に載せた。それは粉のような物で、正確に何かは伯図には分からず、思わず凝視してしまう。微かに桃の香りがした。すると清鸞が紅唇をすぼめ、軽く息を吹いた。 粉が舞い、伯図に降りかかる。 「何をする?」 手で粉を払いながら、伯図は非難の声を上げた。 「もう一度聞くわね。これをどうして伯図が持っているのかしら?」 「だから、この前の部屋を漁っていて見つけた物だと言って――、……あれ?」 「顕業に姪御さんは?」 「いるわけないだろう……って、なんだ?」 伯図は首を捻る。思惑とは違う言葉が発せられているのだ。どうしてこうなったのかはわからないが、原因を考えるとしたら心当たりは一つだけだった。というよりも、それしかない。 そう思い伯図が清鸞を見ると、彼女は腰に手を当てて伯図を睨め付けていた。 「やっぱりね」 「お前、私に何をした?」 「それよりも、どうして嘘つくのよ。この盗人!」 「いや、今はそんなことより、お前が私に何をしたかの方が重要だ」 「誤魔化さないで!」 「そ、そんなつもりはないぞ」 「伯図が何かされるような事をするからでしょ! そんなに、あたしに討たれたいの?」 怒気を全身にまとった清鸞が、伯図を問いつめる。 「い、いや、決してそんなことはない」 「じゃあ、これは一体どういうことなの!」 「仕方がないだろう。言わせてもらえば、現状私は金がない。金がなければ、飯も食えないし、舎館に泊まることもできない。それ以上に試巻も買えない。私はこれから会試を受けに行くのだし、金はどうしても必要だ。その金をここに求めてどこが悪い」 剣のような視線に追いつめられた伯図は、誤魔化しきれないことを悟って開き直った。 しかし、それも清鸞に即座に否定される。 「いやしくも進士を目指す人間が、姑息な真似をしどうするの。どんな人よりも清廉でなくてはならないはずよ」 「私は清廉だぞ。だが、金がないのはどうしようもない」 「お金くらい何とか出来るでしょうに。持っている物を売るとか、言えば、あたしだって幾らかは貸してあげられる」 「私の物は、全て特注品なのだ。会試が終わるまで手放すわけにはいかん。それに、お前とは再会できるかどうかはわからなかったのだ」 「心構えの問題よ。伯図はそれがなってない!」 指を差して、清鸞が伯図を非難する。 その想像以上の圧迫感に、伯図は思わず気圧されてしまった。 「う、うむ。こ、心得ておこう」 「次は、問答無用で討つからね」 伯図にそう宣告しながら、清鸞が手にしていた笄を近くの棚に置いた。 「それも心得ておこう」 「こんなの、士大夫を目指す人には当たり前のことよ」 はい、と清鸞が袋を伯図に返す。それを受け取り、伯図は先ほどからは明らかに軽くなったことに憮然としながら、それを杖の先に括りつけた。 「さて。どうする?」 伯図は清鸞に尋ねる。 「あたしの用はあらかた終わったから、基本的にはもう行ってもいいんだけど」 清鸞が、少し言葉を濁した。 「何かあるのか?」 「ん。ちょっとね」 「私としては、用がないなら早くここから出たいんだが」 それでなくても、予定より遅れている旅だ。さっさと旅路について遅れを取り戻したいのは本音だった。 「それに、山賊どもの動向も気にかかる」 ここまでに山賊たちとは奇跡的に会わなかったが、今後遭遇しないとは限らない。 「うん。それもそうなんだけど。月蓉も全員を眠らせたわけじゃないだろうし」 清鸞の最後の言葉は、ほとんど音にならず、伯図には聞こえなかった。 「私の仁徳を以てしても、今後の無事は保証しかねるぞ」 「なにそれ? 今まで山賊と出会わなかったのは、あなたの徳って言いたいわけ?」 「命を知らざれば、以て君子たること無きなり、だ。私の天命は、こんな所で尽きるにあたわず。故に害をなす者とは基本的には遭わない。道理だろう?」 伯図は胸を張って言い切った。 「ま、どう思おうと結構だけどね」 「何だ、その呆れた口調は?」 「呆れてるのよ」 「失敬な奴だな、お前は。だいたい――」 「そろそろ行かないと、いい加減見つかっちゃうわよ」 語りだそうとした伯図に素っ気なく背を向け、清鸞が扉に向かった。 大人に接する態度を滔々と言い聞かせようとした伯図だったが、仕方なく口を噤み、清鸞に続いた。 部屋を出てしばらく歩いていると、不意に清鸞が立ち止まる。彼女の視線が斜め上方に向かい、伯図もそれを追ってみると、そこには小鳥が飛んでいた。 清鸞が、そうするのが当然のように手を伸ばす。小鳥も、当たり前のように清鸞の手にとまった。 「なんだ?」 伯図の疑問に清鸞は答えず、手にのった小鳥を顔に近づけた。 ややあって、清鸞が小鳥に答える。 「ん、そう。わかった。仕方ないわね。それで良いわ」 答え終わると、小鳥は再び羽ばたいて奥の方に飛んでいった。 「お前、鳥と喋れるのか?」 「あの子とはね」 清鸞の変な答え方に、伯図は眉をひそめた。 「それは、つまり逆と言うことか? あの鳥が、人語を解すると言うことなのか?」 「そうとってもらっても構わないわ」 清鸞が頷く。 「異なことだな」 「そう?」 「それはそうだろう。獣如きが人の言葉を解するとは、そうある話ではない。確かに、伝説では稀に聞く話ではあるが。そういう場合でも、鳥と言うよりは、天の使いという側面が強い」 「そうね。あの子も正確に言うと鳥ではないわね」 「なるほど。では何だ?」 「あれはね」 そう清鸞が答えかけたとき、廊下の後方から、足音が聞こえた。二人が振り向くと、男の姿が二人見えた。 「いたぞ!」 「ここだ!」 二人の男がそう声を上げながら、伯図たちに突っ込んできた。手には剣が握られている。 「げっ、見つかった!」 「行くわよ、伯図」 清鸞が、驚愕している伯図の袖を掴みながら、前方へ駆けだした。 階段を下りると、ちょうど階段を上ろうと走ってきた山賊と鉢合わせする。驚く伯図と山賊とは裏腹に、清鸞は即座にそれに反応して、山賊に跳び蹴りを食らわし、突破口を開いた。 廊下を駆けると、出口が見え、二人は迷わず出口から外に出る。 しかし。 「うわっ!」 伯図は反射的に足を止めた。 目前には煌々と焚かれる篝火と、待ちかまえていた巨躯の男。そして、殺気を漲らせ得物を構えている何十人もの山賊たちがいた。 巨躯の男は、見紛うことなく呂彬である。 「よくも出し抜いてくれたなあ、小娘」 怒りで顔を朱に染めつつ、呂彬が手にしている巨大な戦斧を握り直した。 「あなたに、その体格ほどに脳味噌があったなら、こんな簡単にいかなかったでしょうけどね」 こんな状況でも、清鸞が不敵な挑発をする。 「ほざけっ! 貴様らは、この手で引き裂いてやらねえと気がすまねえ。小娘だといって、情けがあると思うなよ」 「悪いけど、あたしもあなたにかける情けはないの。もはや、命乞いは無駄だと心得なさい」 「この状況で、お前に何が出来るか! 引き裂いてやる前に、人?(じんてい)にしてくれる。あの女狐ともども、女に産まれてきたことを後悔するがいい!」 呂彬が、唇の端を下品に歪ませた。 「ふむ。やはり、ああいうのは奇妙な性癖を持っているな。相手するのも、その年齢ではさぞかし大変だろうな」 伯図はしみじみと清鸞に話す。 「そんなことされるつもりはないわよ!」 清鸞が、伯図を睨み付けた。その表情に少し赤みがみえるのは、ちょっとばかり想像したのかもしれない。 「では、何とかしてくれ。このままでは、会試に間に合わない」 「頼まれなくったって何とかするわよ」 「何をしても無駄だ。いくら、お前が武芸に優れていても、この人数相手にどうともいくまい!」 呂彬が一歩踏み出すのと同時に、背後の山賊たちが、伯図と清鸞を囲むように動き始めた。 「来たぞ。一体どうするんだ?」 「こうするのよ」 清鸞が懐から一枚紙を取り出す。それを、自身の前にかざした。 細長いその紙は、表に文字が書いてあった。道士などが使う霊符と呼ばれるものということを、伯図が理解したとき、清鸞の口から言葉が誦せられた。 「九天応元雷声普化天尊 急急如律令!」 刹那、雷霆が轟音を伴い、夜空を切り裂いて地に落ちた。そこは、山賊たちがいた場所で、直撃した山賊は勿論のこと、近くにいた相当数の山賊が、その雷撃によって討たれていた。 「なっ……!」 呂彬が目を剥いて驚心動魄する。 一瞬のうちに大半の人数を失った山賊たちは、周章狼狽して、腰が立たなくなって座り込む者、脱兎の如く逃げ出す者と二種類に分かれた。 「さあ、次はあなたよ。覚悟を決めなさい」 清鸞が霊符を捨て、背中の大剣を抜く。 「くぅっ……」 慌てて呂彬が戦斧を構え直した。 「いくわよ」 清鸞が地を蹴り、呂彬に向かった。 「せいやあっ!」 大剣が唸りを上げて、呂彬に襲いかかる。 呂彬が、戦斧を突きだしてそれを防ぎにかかった。だが大剣の勢いは全く衰えず、逆に戦斧の柄が破砕する。 「今までの悪行の報いよ。泰山にて後悔するが良いわ!」 清鸞が大喝しつつ、更に踏み込んで、熊の皮で覆われている肩口から、袈裟懸けに切り捨てた。 「がぁああっ!」 呂彬が怒号とも悲鳴ともとれる断末魔を上げ、その場に崩れ落ちた。『人面熊』呂彬の最期であった。 「ふう」 清鸞が一つ息をついて、大剣を背中に仕舞った。骸に変わった呂彬を見下ろす清鸞の視線には、同情の光は寸分もない。 「終わったのか?」 伯図は清鸞に声をかけた。 「まだやることが残ってるけどね」 「うむ。早く済まして、私を近くの街まで案内してくれ」 「何か腹が立つ言い方だけど」 「気のせいだろう」 「ま、そういうことにしといてあげる」 あなたの物言いにも慣れてきたし、と清鸞が肩をすくめた。 「それで、やり残したことというのは何だ?」 「見てればわかるわよ」 そう言うと、清鸞が先に歩き始めた。 まだ腰を抜かしている山賊たちがちらほらいたが、もはや清鸞は目もくれず、その間を堂々と進んでいった。 しばらく歩くと振り返り、未だその場で清鸞を視線で追っていた伯図に声をかける。 「伯図、こっちに来なさい。危ないわよ」 「ふむ。何をする気だ?」 伯図は、とりあえず清鸞の言葉に従う。伯図が清鸞の傍まで行くと、彼女はまた霊符を取り出した。 「至聖炳霊王 急急如律令!」 その言葉が誦えられると、後方から轟音が連続してあがる。思わず伯図が振り返ると、呂彬の館から火柱が何本も上がり、猛烈な勢いで館を焼いていた。 「熊牙塞を、残すつもりもないのよ」 清鸞が静かに呟く。 「そんなに、恨みが深かったのか?」 「恨みと言うより、許せなかった、ということかしらね。伯図も気をつけなさいよ。あたしは、やるときは徹底的にやるから」 「私は君子だぞ。君子、義以て上(かみ)と為す。正義は私の第一義だ。故に、お前に誅せられる事などおこすはずもない」 伯図は胸を張った。 清鸞が、呆れた視線で伯図を見返す。 「笄を盗もうとしていたことは、もう忘れたの?」 「結局、盗まなかったではないか。未遂でとやかく言われる筋合いはない」 「ま、あたしもあれはあれで許したし、もう言わないけど。とにかく、科挙を通りたいんであれば、もっと身を慎むべきね」 「うむ。気をつけよう」 雷撃で討たれたらたまらない。伯図はそう思い、そこは素直に頷いておいた。 「ところで、用が済んだのなら、行かないか?」 「もう一つ残ってる。このままだと山火事になって、降りる前に焼け死んじゃうでしょ」 清鸞が視線を館に移す。 館は完全に燃え上がっており、濛々と煙を上げての夜の闇を赤に染めていた。その燃え上がる速度が、普通より速いことに伯図は気づく。 清鸞が何かしたのだろうか。そう思い、伯図が清鸞の方に視線を戻すと、彼女は三度、霊符を取り出す。 「商羊招来!」 すると、夜空から何かが飛来してきた。一本足の巨大な鳥である。巨鳥は、紅蓮の炎を上げる館の上空を旋回する。 ややあって。 伯図の頬を水滴が叩く。それが雨粒だと伯図が気がついたとき、大粒の雨が滝のような勢いで降り出した。 突発的な豪雨。状況だけを判断するとそれだけだが、前後の因果関係を考えると、あの巨鳥が豪雨を降らせしめたと考えざるを得ない。そんなことが出来る生物がいるとして、だが。 原因がどうであれ、豪雨が降り、延焼は止まった。それを見届け、清鸞が伯図を促した。 「終わったわ。行きましょうか」 ずぶ濡れになっているのも構わず、清鸞が歩き始めた。 「このままでは、風邪をひきそうなんだが」 「もうすぐやむわ」 「そう願いたいものだ」 伯図はそう答え、清鸞に続いた。 |