01
酒場のドアを開けた瞬間、ココの姿が目に飛び込んできた。 くすんだ色合いの、場末の酒場。店も主人も、客の男たちも、みんなくすんで見えている。そんな中で、ココの姿だけが目を惹く。 ココの出で立ちは、ノースリーブのミニのワンピースに、膝上まであるサイ・ブーツと肘までの長い手袋。頭には小さめの三角帽子を被っている。色が黒で統一されているのにも関わらず、ココの風貌がそうさせるものか、彼女だけが華やいで見えた。客寄せのウェイトレスですら、彼女には完全に負けている。 もっとも、彼女の髪の毛は派手な赤でそれを長く伸ばしているものだから、服の黒とのコントラストで目立っているということはあるかもしれない。 カウンターで酒を飲んでいるココ。あの娘のことだから、隣の男たちともおそらくすぐに打ち解けたのだろう。主人を交えて談笑しているようだった。 荒くれ者が集うこの店ではさすがに体格で負けているが、かといってテーブルで固まっている駆け出しの男たちのように雰囲気に呑まれているようなことは決してなかった。むしろはつらつとした彼女の空気は、酒場の中で輝いてさえ見えた。 いつだって、あの娘はそうだった。 そう、ココという娘は、わたしに言わせれば真夏の海辺の熱い砂だ。照りつける太陽よりもずっと致命的に熱く、裸足でいたならそこから逃げる術などない。そして、まったく捉えどころというものがない。さらさらと形を変え、どんな荒波も貪欲に吸い尽くしてしまう。あの娘は、そういう存在なのだ。 久しぶりに見た彼女は、やっぱりあの当時そのままで、わたしをいたく憂鬱にさせた。 そうなのだ。わたしたちのようなものは時間から切り抜かれていて、彼女のように一見、酒場の客たちに紛れているようで、でもやはり存在としての違和感は拭い去ることはできない。 そしてわたしは、そういう自分自身にすっかり嫌気がさしてしまっているのだった。 「元気そうね」 わたしの声が、酒場の喧噪に紛れて、彼女の耳に届く。 振り返った彼女は、声の主がわたしと知って驚いたのか、一瞬、動きを止めた。 「……せ、せんぱい?」 思わず漏れたに違いない、せんぱい。 彼女の顔を見るのも久しぶりだが、そう呼ばれていた頃はさらにときを遡らなければならない。懐かしかった。この再会で、唯一心の慰みになったことだった。 「どうしちゃったのよ」 手にした杯を宙に止め、スツールから腰を浮かべかけて、彼女が呟く。 再会は、まったくわたしの予想どおりだった。 酒場をあとにして、わたしたちは町はずれまで無言で歩いた。 背丈のないわたしから見れば、ココは大人の女性に見える。歩幅も違うため、彼女が遠慮してわたしに歩調を合わせている。これもまた、とても懐かしく感じられた。 あの頃はいつもそうだった。 わたしたちはあの学舎にいた頃、いつもこうやって並んで歩いていたものだった。昼も夜も、街に出かけるときも、旅をするときだって、そうだった。 こんな夜だって、どれだけいっしょに過ごしたか知れない。 「で、いったいどういう風の吹き回しなわけ?」 調子を取り戻したのか、ココは外壁沿いの裏通りまで来ると、口を開いた。いつもどおりのぞんざいな口調。でも不思議と不快感は覚えない口調。この娘の特技。 「わたし、決めたの」 わたしは単刀直入に切り出した。 「決めたって、なにを?」 「わたしはもう、ザフェスと関わりあうのは嫌なの」 「……え?」 ココが、言葉を詰まらせた。 「だってそりゃ……そうだろうけどさ。なにを、今さら言ってるの?」 「今さら?」 わたしが言い咎めると、ココは明るく笑い声をあげた。 「えっ。あはははは。なによ、怒んないでよ」 「あなたにとっては関わりあいのなくなったことかもしれないけど、今さらなのかもしれないけど、わたしにとっては、永遠に逃れることのできないことなのよ」 「うん。そうだね……えへへへ。ごめん」 ココは、そう言いながらぽりぽりと人差し指でこめかみをかいた。 「だから、わたしはもうあいつとは永遠に関わりを持たないことに決めたの」 「え? でもそれって……」 そう。その方法なんて、ひとつしかない。彼女にはそれが分かっている。 「だから、あなたに会いに来たのよ」 「うん……。そっか」 ココは、言いよどんでからこくんと頷いた。 「わたしの、最初で最後のお願い……」 ココのそれと違い、わたしの言葉に間違いはない。これが最初であり、そして本当に最後のお願いなのだ。 ミュージック・ボックス――魔王への永遠の讃歌を奏でる祭壇に、そう名づけたのはラーヴェンだった。 だが、ミュージック・ボックスをこの世に繋ぎ止めたのは、他ならぬゼプタイアだった。ラーヴェンは、ほかの多くのこと以上に、ただそれだけでゼプタイアを尊敬してやまなかった。その畏敬の念は今にいたるも変わることはなく、これからも変わらないだろう。 ミュージック・ボックスという名の由来――それは、魔王に捧げる闇の聖歌が、ここで奏でられていることによる。墓石の下に眠る乙女たちが歌い、墓石と屍樹たちが砦の中を吹き続ける風にのせて奏でている祝祭の讃美歌。 その曲は不協和音とノイズとリズムのない平坦な音の、でたらめな同時演奏だった。それがここではオートマティックに続いているのだ。言うなれば、複雑で多重構造の、盛大な楽器装置。 それを知り、この讃美歌に心打たれた彼は、ミュージック・ボックスと名づけたのである。その名前は今でも彼のお気に入りで、ゼプタイアもそうだった。 ラーヴェンは、ゼプタイアを見送るべく、ミュージック・ボックスの門扉で深く腰を折っていた。 それだけで一財産となり得るほどのシルクのスーツにいつもの丸いサングラスをかけて、いたるところをアクセサリーで飾っているラーヴェンに対し、ゼプタイアは質素なスータン姿だった。もちろん、宝飾品などで着飾ることはないが、左手に抱えられた分厚い聖書と、胸から下げたロザリオが目に止まる。 「じゃあラーヴェン、これから君もいろいろ大変でしょうけど、あのふたりのことは任せましたよ」 目にかかる前髪を風にそよがせながら、ゼプタイアが言った。 「ええ。任せてくださいよ」 顔をあげたラーヴェンは、自分よりも長身の男に向かって、自信ありげに笑ってみせた。 「あの二人のきれいなお嬢さんたちは、俺が自信を持ってお預かりしますとも。……喜んでね」 ゼプタイアは彼の言葉に頬を緩める。いやらしくもあるほど色気を含むラーヴェンの笑顔と対照的に、彼の笑顔はあくまでも爽やかだ。 「そうですね。君以上の適任者がいるとも思えないし、まさに適材でしょう。彼女たちにとってすら、それがやはり望ましいことと思います」 そして彼は、 「マリもそう思うでしょう?」 と、傍らに立つ少女に問いかけた。 「はい、ゼプタイアさま」 彼とおなじくスータンに身を包むマリは、にっこりとラーヴェンに笑顔を向けながら頷いた。濃い金髪の巻き毛が華やかな、肌の濃い混血の娘。 「ラーヴェンさまがここをずっとお守りして下さっていて、ほんとうによかったと、マリも思います」 マリに見つめられて、ラーヴェンは、照れくさそうに頭の後ろをかいてみせた。 「ま。俺はロマンチストなんですよ。ただ単に。……だから、いもしない女主人のために、ここを守り続けていたってだけで」 「んふふふ。でもその想いもついに叶ったってわけですね〜。なんだかステキです」 ラーヴェンは、力強く頷いた。 「愛がこの僥倖を齎したってことですよね〜」 おかしそうに首をすくめながら、マリがくすくすと笑う。 「そう。それこそ、主の思し召しですね」 マリの言葉を承けて、ゼプタイアが言う。 「魔王のじゃなくて?」 ラーヴェンが口の端をつり上げながら、それに切り返した。 ゼプタイアは、得たりとばかりに目を細めた。 「君にとっては、それでいい。しかし、あの二人にとっては間違いなく主の思し召しなのですよ」 「……そうなんだよなぁ。そこがまた、やっかいなところなんだ」 マリは、いつまでもくすくすと笑い続けていた。 だんっと大きな音がした。机かなにかを思いきり叩いたような音。 あたしは気になって、なにも考えずにドアを開けた。もちろん、あたしのことだから、なにか考えていてもやはりいきなりドアを開けていたと思う。その頃から、ノックくらいしろとみんなに怒られていたから。 部屋の中には、この部屋の主たるザフェスが椅子についていた。その姿が正面に臨める。 そして、部屋の真ん中あたりにヴィス=テイルが立っていた――ただし、全裸で。 彼女は驚いた風で、振り返り、あたしのことをにらみつけた。でも驚いたのはあたしの方。紅と翠の、ヘテロの瞳には迫力があって、彼女ににらみつけられるのがあたしは苦手だった。それもあって、あたしは声も出なかった。彼女が唇を噛みしめながらあたしの横を通り過ぎ、部屋を出て行ってしまうまで、身動きも取れなかったほど。 その間、微動だにしていなかったザフェスがなにを考えていたのかは分からない。なぜヴィスが裸だったのか、そういうことも分からない。そもそも、ザフェスという男のことを、あたしが理解できたことなんて一度もなかったのだからこれは当然のことかもしれないけど。 ヴィスがいなくなってから、部屋の中の様子に改めて目がいった。一面に据えつけられていた書架がまるまる倒されていた。さっきの音は、この音だったのだと分かる。机を叩くなんてかわいいものじゃなかったようだ。 「なんの用だ」 唐突に、彼が言った。まるであたしがたった今、このドアを開けて入ってきたかのように。 「なんのって……」 「用がないなら出て行け」 その言い方に、あたしは心底はらわたを煮えたぎらせた。 「あったまきた。そんなこと言う?」 あたしは、ドアを閉めて立ち去った。ばーん、とまたひとつ大きな音を立てて。 お風呂上がりに一杯やって、せっかくのいい気分が台無しだった。それはともかく、ヴィスを放ってはおけないと、そう思った。 彼女があたしとの同室を嫌がっていたこと。まして一緒にお風呂なんて論外だったこと。海で泳ぐとか夏に薄着するとか、そういうこともしようとしなかったこと。それらすべてが、一度に解決を見てしまっていた。ひどく、感じが悪い。まるであたしがなにか悪いことでもしてしまったかのような後味の悪さ。 そう、あたしは見てしまったのだ。それは彼女にとって悪いことだろう。ということはつまり、あたしは悪いことをしてしまった、とも言える。 でも、どうしたらいい? それがあたしには、さっぱり見当もつかなかった。 ココは、市場で目を醒ました。 「うぅ〜ん。どこよここ〜」 眩しそうに目をパチパチさせながら、誰ともなしに毒づく。 「どこってなんだい」 嗄れた声が意外にも自分の問いかけに答えてきたので、ココは無理矢理目をこじ開けながらきょろきょろと見渡した。 どうやら、そこは露天の屋台らしかった。しかも、長椅子に座っているとか寝ているとかでなく、もろに屋台の脇で地面に転がっていた。 「うぅ〜。なに、あたし、こんなとこで寝てたの〜?」 不満たっぷりに、ココが言う。 もちろん、言う先はこの屋台の主人だ。ひげ面で、油まみれのエプロンをして、くたびれたブーツを履いた、絵に描いたような屋台のオヤジだった。 ――どうしてこんなとこに寝かしたままにしておいたのよっ! とは言わずとも、ココの言いたいことは伝わっていた。 「おいおい、それが朝まで軒を貸してやった親切な主人に向かって言う言葉かよ」 自分の体臭が酒臭いのに辟易しながら、ココは立ち上がった。 ついで服や顔についた土埃をたたき落とす。漆黒のワンピースは埃まみれになって、かなりみすぼらしく見えた。 「むぅ〜」 ココは、子供みたいに不満のうなり声をあげながら、自慢の赤い長髪を指先に絡ませた。髪の毛も埃を含んでじゃりじゃりいっていた。 このままだと、両手をばたばたさせながら地団駄でも踏まれかねない雰囲気に、オヤジは折れた。屋台の中でなにやらごそごそすると、たらいに張った水とタオル、それにコップ1杯の水を長テーブルに置いた。 「ほら、これ使ってさっぱりしな」 「わぁ、ありがと〜」 ココは現金に喜ぶと、一息でコップの水を飲み干した。 「ぷは〜っ」 生き返る〜などと言いながら、彼女はざぶざぶと顔に水を浴びせかけてタオルで拭った。 「そりゃよかったな」 苦笑混じりのオヤジの声ににっこり笑顔で頷いてみせていたところへ、 「――ココじゃないですか」 不意に声がかけられた。 ココは慌てて振り返る。眠気やさっぱりした気分など、その一瞬ですべて吹き飛んでいた。その声には間違いなく聞き覚えがあったが、果たして本当に本物なのか、という驚きが彼女をそうさせていた。 そこには、なにひとつ変わらない、清潔な身なりと雰囲気の美丈夫がいた。 「……ゼプタイア」 彼の微笑みは、ちょっと衝撃だった。 声をかけられたときに、どきんと高鳴った心臓が、どきどきと大きく鼓動を繰り返す。 「元気でしたか?」 彼は、懐かしむような視線を向けながら、優しい声をかけてきた。 ココには、この世に苦手とする男が数人いたが、彼もそのひとりだった。しかも、その筆頭株。つまり、大の苦手。 その脇で、笑顔で会釈するマリもまた、女の方の代表格だった。 「な、なによう。なんの用っ?」 身を強ばらせながら訝しむココをおかしそうにゼプタイアが頷いた。 「いいえ。たまたまですよ」 「そんなこと言って、あんたなんか信用できないわっ」 ココは口をとんがらせた。 「ほんとですよ〜、ココさん」 いつものくすくす笑いをしながら、マリが言う。 「ミュージック・ボックスに寄っていたのです」 「…………」 ――ミュージック・ボックス? そう言われても、ココにはなんのことだか分からなかった。なにか引っかかるものはあるが、いまいちピンとこない。 「ココさん、お忘れみたいですね〜」 マリに指摘され、ココはむっとした。 「そうみたいですね」 なにより、平然とこういうことを言ってのける彼が、ココはやっぱり大嫌いだった。 「もう、あたしのことばかにしにきたわけ? だったら帰って! ほらっ、しっしっ!」 「違いますよ」 ゼプタイアはそう言って、軽く頷いた。 それでココは、なんとなく納得させられてしまう。それも、苦手とする理由のひとつ。どうしても、彼のことは嫌いになりきれないのだった。大嫌いなのに。 「ラーヴェンを覚えていますか?」 「ラーヴェン?」 その名前には、聞き覚えがあった。 「ラーヴェン・クリシャス。死霊騎士のラーヴェン。覚えていませんか?」 「――ああっ、あの!」 思い出した。ラーヴェンのことも、ミュージック・ボックスのことも。 「そんな嫌な顔をすることはないでしょう」 あそこのことを、そして彼のことを思いだして渋い顔をしているココに、ゼプタイアが寂しそうに言った。 「いやらしい男はきらいよ!」 「ミュージック・ボックスほどの奇蹟は、そうはないのですよ? ここ、魔神都市にも劣らない素晴らしいところです」 「あんたにとってはそうでしょうけど」 ココは、ふんっとそっぽを向きながら言った。 「どーせ、あたしには神さまも魔王さまも関係ないわよ。ほっといて!」 しかし。 「んふふふふ。ココさんったら、拗ねちゃってかわいいですね」 マリが、肩を竦めてくすくす笑いをしながら、そんなことを言った。 もちろんそうなれば、 「ええ、まったくですね」 ゼプタイアがこう言い放つのは当然だった。 「もう! だからあんたたち嫌いなのよっ!」 ココは立ち去ろうとする。 「これからどこへ?」 彼女の背中に、なにごともなかったかのようにゼプタイアが問いかけた。 「ん――」 どうして彼に話す気になったのか、彼女にも分からなかった。思わず足を止め、答える気になっていた。 「ルゥのね、お墓参りにでも行こうかなって」 ココは振り返った。 「さっき気づいたのよ」 ゼプタイアは、やや驚いた面もちだった。 「今日ってね、あの子の月命日なの。覚えてる?」 「命日? そうでしたか」 「うん。なんかね〜。思いついたら、急に懐かしくなっちゃって」 ココは一瞬、視線を緩めた。 「あの子には、ほんとにかわいそうなことしちゃったから」 ゼプタイアは、ココの言葉に頷きながら、マリの方に顔を向けた。 「言われてみれば、今日は確かに……そうですね」 「ですね〜」 その話で思い出したかのように、ゼプタイアはココに言った。 「また、時代が動き始めました。ミュージック・ボックスに行って来たのもそのためです」 「うん……」 ココが、彼の顔を見上げながら頷いた。彼の言わんとしていることくらい、了解していた。 「そうね。それは……分かる」 ココにも、胸に期するものがった。 「いよいよ、新しい時代が幕を開けるみたいね」 「ええ」 「いい時代になるといいんだけど……」 その言葉には、自分たちの手で成し遂げられなかったことへの苦い思いが込められていた。 それにはゼプタイアも、マリも、なにも答えなかった。 |