この国には時がない。
 朝も夜もない、あるのはただ薄紅色の闇だけ。
 桜のいろをした果てしない闇だけだ。
 鬼の国だ、と大石秀一郎は言う。
 桜の幽世(かくりよ)。
 延々と、この世の終わりまで――世界が滅びても花の降り続ける、桜の鬼の国。



 いつものごとく桜の中をさまよう真田の耳に、細い笛の音が聞こえてくる。
 おや、と思い音源を探すと、いくらもいかないうちに、とある桜の下で座り込んでいる大石秀一郎を発見した。
 その桜は以前に真田が見つけた、ただ一本きりの白い花の大木だ。
 花弁は一枚たりとも散らず、その花の色も頑なな白色で、どこか氷のような印象すらある。
 しかしその下で座り込み、長い足を組んで横笛を奏する青年の姿はなかなか美しいものだった。大石の薄い唇にあてられているのは瀟洒な赤い横笛だ。彼の手には、多少笛が華奢すぎるようにも見えたが、なかなかどうして優美に指先を踊らせている。一面の桜の中で絵になる姿だ。
「真田か」
 ぴたりと止んだ笛の音の代わりに彼は目も上げずに言った。
「どうした、今日は目覚めるのが早いな」
「――そうか?」
 真田にはここの時の経ち具合などわからない。
 今がいつで、いつも自分が起床する時間より早いのか遅いのか、などもわかるはすがない。
 ここはいつでも桜の色の闇の中で、月も、そして太陽もないのだ。
 時の流れなどわからない。
 異界で数年の時を過ごして地上に帰ってみれば数百年も経っていた、などという昔語りをよく聞くものだが、なるほどこのような昼も夜も判らぬ世界に在れば、それも無理からぬことかも知れない。
 美しく――桜の鬼の世はあまりに美しく。
 人の世のなにもかもを忘れそうで。

 大切なことも。
 いとしい者も。

「笛をたしなむのか」
「お遊びだよ」
 大石は苦笑した。
「調べも適当にそれらしく奏でているだけだし。本当の吹手がみれば児戯にも等しいだろう。此処で面白がって聴くのは英二くらいなものだから」
「いや、なかなかだ」
 真田には笛の調べの善し悪しなどは本当のところ分からなかったが、純粋に美しい音色だと思ったのでそのままを口にした。
 大石も真田のその率直な感想に気を悪くはしなかったようで、少し優しげに笑んで礼をのべた。
 さほど口数の多くない二人の会話はそこで途切れた。
 しかし真田は何故か居心地の悪い気がしてしかたない。
 桜がただ散り続けるだけの静寂の中でどうしてこれほど気が急くのだろう。
 散り続ける桜を見ていると何かもどかしくなる。忘れてしまったことを思うようにたぐりよせられず、頭をかきむしりたいような焦燥がじわじわと沸いてくる。
 何を忘れているのか。
 誰を思い出せぬのか。
 うすくれないの闇の向こうにかすんで、未だ見つけられない。
 それさえ見つけだせば――忘れてしまったことさえ思い出せば、己があるべき姿に立ち戻れるような気がするのだがすべて桜色の闇が隠す。
「美しい笛だな」
 真田はなんとなく話題に困ってそんなことを口にした。己の中の、正体の分からぬ焦燥から目を逸らそうとしていたのかも知れないが、見かけはどうあれ実直で朴訥なこの男にしてはなかなかの気の回しようだ。
「さぞかし銘のある名笛だろう」
 そんなことを言ったものの、この桜の国において人の世が好んで据え付けたがる銘など意味があるのだろうか、とふと思い返しもした。
 そのあたりはこの男らしい真面目さだ。
 しかしその笛が美しいのは事実である。
 丹朱に塗られ金の細い唐草飾りが埋め込まれている。真田のような世辞を知らぬ男でも、素直な誉め言葉を口に出来るほどには凝った装飾だった。
 大石に許されて真田はその笛を持ってみた。
 嘘のように軽い。
 美しい細工であるが木の手触りでもないし、焼かれたものでもない。
「大石、これは――」
「骨だよ」
 青年はさらりと言った。
「――骨……」
「俺の骨だ」
 真田は彼の言う意味が分からず、今し方骨だと言われた――なるほどそう言われてみればその軽すぎる不思議な触感にも納得のいく――丹朱の笛を手に言葉を無くした。
「英二の仕事にしてはよく出来てるほうだな。その赤い色合いは、顔料に俺の血を混ぜたそうだ。……不気味だろう、おまえのような人間には?」
「……い、いや……」
「無理しなくていいさ」
 大石はどこか飄々として笑った。
「まったく俺の言っていることが判らぬ、と言う顔つきだ、真田」
 わからずともいい、と呟いて、彼はまた笑う。
 それが人である証拠だと。

 この桜の国には、夜がない。
 朝も昼も、太陽の昇り沈みさえも。
 けれど闇に満たされている。
 桜色をした闇に。

 
 沈黙が居心地悪くて口にした言葉に、さらに難解な謎掛けをされたようなものだ。真田はさらに気まずくなりながら大石の手に彼自身の骨だというそれをかえした。
 ひんやりとした指先が彼の手に触れた。その驚くべき冷たさに真田がわずかにたじろいだのを、大石は面白そうに見やった。
「俺の肌は冷たいだろう、真田」
「――」
「俺には血が通っていないのさ。だからいつでも冷たい」
「――」
「人の身体を持っていた頃もあったが、それが寿命を終えるのをあれがひどく嫌がって。俺から心の臓を取り上げてしまったんだ。このあたりを破いて」
 このあたり、と大石が指先でつついたのは彼自身の左胸だった。
「桜のおかげで人の姿をしていられるし、あれの我が儘にもつきあってやれるんだけどね。――ああ、いけない。またつまらないことを聞かせてしまったな」
「いや」
「無理するな。いったいどんな化け物に手取りにされたものやらと、顔が蒼白だぞ」
 そう言ってこの青年にしては珍しく声をたてて笑った。
 そういう表情をしていると、とても人好きのする優しい印象だった。
 鬼と言ったが、だとしたらずいぶん気品のある優雅な鬼だ。真田の知識にある、醜く歪んだ外見と角と、そうして欲のままに人を食い散らかす、そういう気配は微塵も感じられない。
 ゆったりと立ち上がった大石だったが、ふと何かに気づいたようにその白い桜の枝を見上げる。
 何事かと真田が大石の視線を追い、みあげた白い桜の枝の上にひらりと袖が翻る。上気したような薄紅色の袖は、純白の花の中にあってまさしく巨大な花のひとひらだった。
「おりておいで。そんなところで立ち聞きなんてするんじゃないよ、お行儀が悪い」
 大石が見上げた先でにこにこと笑っているのは、桜色の狂少年である。
「お話なんて聞いてないよ」
 不思議なほど鮮やかな赤い髪が揺れる。
「いま来たとこだもん」
 無邪気な、罪のない少女のような顔で、彼は青年達に笑いかけた。

 これほど美しくなければ誰も魅入られることはなかろうに。
 花にも、人ならざるものにも。





「何のお話していたの?」
 英二はくすくす笑いながら、ふわりと降りてくる。気難しい顔をしながら当たり前のようにその身体を受けとめ、大石は地面にそっと下ろしてやった。
「聞いていたくせに」
「聞いてないってば。ねえねえ、何のお話していたの」
 大石にはとりつく島もないと思ったのか、英二はあどけない足取りで真田に駆け寄り、小柄な身体をせいいっぱい伸ばして彼の顔を見上げた。
 背さえ足りていればくちづけでもしかねない勢いだ。
「いや。別に――」
「うそうそ。何かお話してたんでしょ。ねえ、教えて」
「いや、本当だ、たいした話じゃない。ちょっと笛を……」
 少年の勢いに押されて、ついつい真田はそんなことを口にしてしまった。
「ああ、あれ。あの笛。大石の骨」
 あっさりと英二は言った。
「俺にしちゃ綺麗に出来てるでしょ。昔、大石は貝殻で飾りつくってくれたことがあってね、そのお返し」
「――」
「貝殻をこうつなげて、糸を垂らして、風が吹いたらからから鳴るような。そう言えば、あの飾りどうしたのかな、大石。――作り直してくれたよね、ちっちゃいときに」
「向こうに置いてきただろう」
 騒ぐ子をたしなめる親のように大石は冷たく言った。
「いいから、これ以上真田を困らせるな」
「別に困ってないよ、真田は」
 英二は真田の方を見もせず、ずいぶん勝手なことを言った。
「もっと聞きたいこととかあるのに大石がそっけないから、そっちのが困ってるよ、ねえ真田」
「――……いや、別に」
「俺ならなんだって教えてあげるのにねえ」
 うすくれないの魔物はくすくすと笑った。
 そうして彼の傍らで気難しい顔をした大石のことなどもう忘れてしまったように、英二は真田の袖を引くと、これこれ、と桜の大木を指さした。
 このうすくれないの闇の国においてただ一本きり、純白の花びらを持つ桜である。花嫁の衣装のように白いそれをみあげて、英二は何が楽しいのかまた笑った。
「真田、この桜の樹、好きでしょ」
「――」
「これはねえ――俺は雪桜って呼んでる」
「ゆきざくら……」
「雪みたいに白いからね」
「――」
「本当の名前にも『ゆき』がつく。さあて、この樹のホントの名前は何でしょう?」
 そんなことを問われても知るはずがない、と真田は言おうとしたが、不意に軽いめまいにとらわれて眉根を寄せた。
「ゆき……」
「――うん?」
「ゆ、き」
 何かを思い出しそうになって、真田は目を閉じる。
 眉間に手を添え、唇を噛む。

――ゆき。

 ゆき、と呟き。
 そうして、その後に続く言葉を発しようと、ひとりでに彼の唇が動く。
 それは呼び慣れた名、愛しい名、懐かしい名。
「ゆき――」






「ねえ、真田」
 その物思いを、無邪気な非情さで断ち切ったのは英二だった。
「ね、これ見て」
 しゃらん、と玻璃の鳴る音がした。
 真田の前につきだされたそれは、ぼんやりとした金朱の光を零している。
 正確な六角の円柱のかたちに白木で骨組をつくり、その柱には金箔を施し、透かしの模様の入った和紙でぐるりと取り囲む。上と下に揃いの意匠で大仰な飾りをあつらえて蓋をし、下部からは五彩の絹糸飾りを、上部にはつり下げ持つための鮮やかな組み紐をとりつけた――それは、世にも美しい手提げの花灯籠だった。
 祭りの夜に特別な役割の少女達が捧げ持つ。
 中に入れられた燭火がゆらゆらと揺れて、和紙越しにやわらかな、幻想的な光を零す。
 少女達の手に合わせて普通のものよりも小さく、華奢に造られたそれを英二に突き出されて真田は戸惑った。
「見覚え、ない?」
「――いや」
「ふうん? ほんとに?」
「ああ……」
「へーえ」
 英二は面白そうな、それでもまだ伺うような目で真田を見ていたが、やがてしゃらしゃら音をさせるその花灯籠を真田の鼻先に突き出してきた。
「じゃこれ、あげる」
「え?」
「真田にあげる」
「いや、俺がもらっても――」
 拒むようにあげた手を掴み、無理矢理灯籠を持たせると英二は再び愛らしく狂笑した。
「たぶん必要になると思うよ。ううん、絶対に要るものだ」
「?」
「それ持って、先に館に帰ってて」
「――」
「俺、大石と話があるんだ。ナイショの話ね。あ、聞いててもいいけど」
 英二は可愛らしく踵を帰すと、今の今まで綺麗に無視していた大石の身体にするりとからみついた。
「俺達は別に、かまわないんだけど」
 胸に顔を寄せ、腰に手を回して、奇妙に艶めかしく顔を仰け反らせる。見上げた先の大石が相変わらず難しい顔をしていてもお構いなしだ。そんな顔をしていても、彼は身を寄せてきた英二を当たり前のように片腕で抱き寄せる。
「真田は、ちょっと気まずくなっちゃうかも、ねえ?」
「――館に戻る」
 真田は言うが早いか彼らに背を向けた。
 そんなに嫌わなくてもいいじゃん、と言う英二の面白そうな声は聞かぬふりで、その生真面目な男は、生真面目に花灯籠を手に持ったまま、桜の雨の向こうへたちまち消えていく。
 英二は真田のその様子がおかしくてたまらなかったらしく、目の端に涙まで浮かべて静かに笑い転げている。
「英二。あまり真田を虐めてやるな」
「だって、あいつおかしい。面白い」
 英二は大石の、静かな、どこか冷ややかな眼差しを引き連れたまま、うすくれないの蝶のように桜の幹にまとわりついた。真田をからかうためだけに大石に寄り添ってみせただけのようで、望み通りの反応が彼から引き出せた後はもう大石のことは素知らぬふりだ。
 手の届く枝を無造作に引きちぎり、主の無体に声もなく身を震わせ花を落とす桜を見やり、戦利品の花の小枝で妖しく笑う唇を隠した。
「英二」
「ふふ、大石、気になるんだねえ?」
「――」
「俺が真田にかまうの、気になるんだ」
「――英二」
「真田、素敵だよね。とても凛々しくて、逞しくて」
 桜のうすくれないの隙間から、ちろちろと英二の舌が覗く。
「俺、ちょっと遊んでみたいな。……だめ?」
「英二」
「いいでしょ。ちょっとだけだよ。殺したりしないから、ちょっと遊ぶだけ。ね、お願い、大石。ちょっとだけ遊ばせて、ねえ」
「――」
「ねえ、お願い。俺のお願い」
「……まったくもう」
 大石はしばらく気難しい表情を崩さないまま、その愛くるしいおねだりの言葉を聞いていたが、ややあって嘘のように優しく微笑んだ。
 英二の花枝を持った手ごと包み、ひきよせ、勝ち誇った笑顔の少年を甘く抱き寄せるかのように見えた――が。
しかし、すぐに英二が悲鳴を上げる。
「い、いた……っ、いた、いたいっ」
 ぎり、と捻りきる勢いで大石は英二の手を掴んだ。
「大石、手、手が痛いっ」
「おまえという子は」
「いたいよう……っ」
「どうしようもない。……千年経っても」
 逃れようと身をよじる彼の片手をひどい力で引き上げる。青年の長身を生かしてつり下げるような形にすると、たちまち情けない泣き声があがった。
「忘れたわけじゃないだろうね、英二。俺以外の男に触れさせたら殺すと言ったろう」
「大石……痛い」
「可愛い顔をして」
 大石のその表情だけを見ていると、とてもそんな、見るからにか弱そうな少年に無体を強いている本人とも思えない。
「壊れたければ勝手に壊れてゆくといい。それで俺から逃れられると思うな」
 痛い、痛い、と英二は哀れに泣き続けたが、青年はその様子に全くほだされないまま彼の身体を軽々と抱え、桜の幹に押しつけて喉に吸い付いた。
 胸を撫でる手が襟の合わせに潜り込もうと動き出したのに気づいて、英二の顔から、ゆっくりと苦痛の表情が消えてゆく。
 と言っても、決して大石がその手の力を緩めたわけでも、他の男に心をかける恋人を許したわけでもなかったのだが。
 傲慢な――ひどく驕慢な娘のような顔で、英二は笑った。
 目の前の男がどれほど自分に入れあげているかをよく知り尽くし、男に対して強い立場でいることを確信している女の、したたかな笑みであった。
「つまんない……せっかく遊ぼうと思ってたのに」
 彼は、桜を見上げながら途切れ途切れに呟く。
 それが苦痛によるものか、男の手の動きに気を取られてのことなのかは判らない。
「ね、大石。もっといいこと思いついた」
「――」
「ほら、この桜、とってもいい具合。――憎しみと恨みで、今にも弾けそう」
「――」
「きっと綺麗な赤になるよ」
「英二」
「ほんとに綺麗に、ねえ」
 喉の奥で英二は低く笑い始めた。
 華奢な肩が半ばまで桜の闇に晒されたとき、英二は低く言った。
「頃あいだ。そろそろ戻してあげよう」
「――」
「あの子のところに」





 
back/next
top/novel top/tennisTop