『わあ、これはなに』 珍しくはしゃいだような、嬉しそうな声がした。 『きれい――そう、花灯籠なの、これが。ふうん。俺は初めて見るけれど、綺麗なものだね。どうしたの、こんな』 声を弾ませて『彼』は、その美しい灯籠を持ったままくるりと回ってみせた。 六角の白木の円柱、凝った透かしの和紙。花を美しくふんだんにあしらい、五彩の房飾りの。 山間にひっそり結ばれた茅屋に置くにはきらびやか過ぎるほどの品であったが、それを贈る相手は何の引けを取らぬほど美しいと真田は考えている。 『そう。神社の巫女様のお役目に――ああ、確かにね。祭事に使われたものは終わりに燃されてしまうものだけど、これはあんまり綺麗だものね。なに、それを俺に見せたくて、わざわざ? ちゃんと神事の方にお願いをしてきたんだろうね、真田? 間違っても俺を攫ってきた時のようなことは――そう、それはよかった。せっかくこれだけ綺麗なのに、邪なことで此処へ来たなら美しいのも半減してしまう』 『彼』は――真田の目の前にいる『彼』は、その美しい花灯籠を目の高さまでかざしてみた。すっかり気に入ったようだ。 白い面輪を、和紙を通した柔らかい燭が照らし出す。――しかしどうしたことかその顔が、明瞭にならない。 ――夢か。 夢だ、と真田は悟った。 これは夢だ。夢の中で過去をたどっているのだ、と。 彼の美しい顔ははっきりとはならぬまま、声だけが愛しい響きをもって届き続ける。 『でも真田。こんなもので俺が機嫌を直すと思ったら大間違いだよ。――灯籠は美しいけれど。確かに俺はこれがとても気に入ったけれども、おまえがずいぶん家を開けると言うのとは話が別なんだから』 『約束どおりに一年(ひととせ)。ちゃんと俺は待っていよう。夏の暑いのも、秋の寂しいのも、冬の凍えるのも一人で堪えよう。桜が咲いて、お前が帰ってくれるのを待とう』 『でも早く帰ってきてくれないと、俺はおまえに焦がれて死ぬよ。俺を死なせたくなかったらちゃんと約束どおりに帰って来るんだよ』 『本当に。きっと、だよ――ほんとうに判らないからね』 ――人の心なんて、そんな強くはないんだから。 その夢を見た朝――。 いつも変わらぬ桜色の闇の中で真田が目覚めた朝。 あたりはいつになく静かであった。 この桜一色の国が静かなのは、いつもと変わらない。果てのない、夜も朝もない、月も陽もないのにただ桜の色をしてぼんやりと明るいこの国には音らしい音はなかった。 だが、微かな衣擦れや、花びら同士がさやさや言う音、大石青年の物悲しい笛の音、狂った旋律に似た英二と言う少年の小さな含み笑い。そういったものは絶えずどこからともなく聞こえてきていたものだ。 それらは不思議に調和し、たしかに其処には人ならぬものとはいえ何かが存在するような気配がして、この静けさが度を越して焦燥や恐怖となるようなことはなかったのだ。 だが。 今朝は――違う。 静か過ぎる。 何が、というわけでもないが、いつも其処此処から感じられていた某かの気配と言う気配が、すべて失われている。 ぴたり、と何かが静止していたのだ。 真田は違和感を覚えて早々に寝床からおきだした。 身支度を整えようと衣装箱に手を伸ばすと、其処にも違和感の片鱗がある。 其処にあるのは何の変哲もないくすんだ草色の着物だった。それだけならば別に異様なものではない。 だが、この国で真田に毎朝用意されてきたものとはあきらかに一線を画す。 漆に蒔絵の衣装箱には毎朝違う趣の、さまざまな綾絹唐衣――重色目も桔梗、月草、花紺青と凝ったものが用意されていた。英二なる少年があれこれと説明してくれもしたが、真田は特に奢侈を好むたちではなかったので興味はわかなかった。それに袖を通さねば、他に着るものがなかったのだ。 今朝は、その金銀綾錦の衣装でないのが残念だ、というのではない。 この、着物。 豪奢な館には違和感があるほど粗末なものだったが、突然にそれを出された意味が真田にはわからない。草色の――ずいぶん年を経たような。高価なものではないが、大事に手入れされて非常に丁寧に着られてきたような。 しかし袖を通して帯を結ぶと今までになく手になじんだ感じがし、ぴたりと身についた。おそらく自分はこういったものを長年愛用したのだ。 と言うよりも、これはもともと自分の持ち物だったのではないのか。この桜の国へ迷い込む前の。 そんなことを考えながら、真田は碧瑠璃細工の衝立から外へ出た。 「お目覚め?」 渡殿から地へ降りる階の下で、英二少年が待っていた。当然のように、背後には大石がぴったりとよりそっている。 真田は、眼前の光景に眉根を寄せた。 ――桜が。 桜が。 あれほど散りふぶいていた桜が。 今は一枚たりとも舞わぬ。 ぴたりとすべてが、静止している。 真田の険しい形相に気づいたのだろう。 英二はうっとりするほど美しいかんばせを微笑みの形にし、こう言った。 「帰してあげようと思って」 その、妙に赤い唇がにいっと笑うと同時に、どこかで涼やかで鋭い音がした。玻璃が砕けるに似たその音は、遥かかなたまで韻々と響きわたり、しばらくの後にようやくにおさまった。 と、同時に。 真田の中で、まさしく、何かが砕けた。 彼の中で長い間籠められていたものが漸くに解かれて放たれ、それはさまざまな記憶となって彼の内に弾けとんだ。 ――不思議な。 不思議だ、と真田が思ったのは――そのよみがえる記憶の中で一番最初に見たものが、眼前の光景とよく似ていたこと。 彼の記憶の中、もっとも美しいと思われるその光景はやはりいちめんの桜であった。 降りしきる桜の花弁のただなかで、花灯籠をかかげて寂しげにこちらを見つめてくる影。 たおやかな黒髪、月の光の中でしか生きられぬか弱い精のよう。けれどもその心根は強く豪胆で、気高かった。――だからあれほど愛した。 嗚呼。 あの愛しい者。 山奥の小さな庵で、真田とその青年はひっそりと暮らしてきた。 月精が化けて現れたような、線の細い青年は名を幸村と言った。 遠い街の鼻持ちならぬ大尽の哀れな囲われものであったが、真田はそのあまりの美しさにひと目見て恋をした。 真田はその大尽に雇われた警護のひとりであり、またその中でも抜けて豪胆でもあったから、彼の暮らす離れに忍び入り攫って逃げるに苦はなかった。 彼はたおやかに見えたが決して従順ではなく、むしろ毅然とした心根であり、真田のことも最初は傍にも寄せぬような具合であったから、ますます真田は彼に焦がれた。 真田の真摯さがようやく受け入れられ、ひっそりと、しかし睦まじく暮らした。 だが、人里は慣れた山の中にふたりきりの暮らしは、心穏やかではあったが決して豊かでない。もともと幸村も蒲柳の性で養生させねばならない。 真田は町へ下りてひと働きし、大金とは言わぬまでもせめて日々の暮らし向きがもう少し上向く程度の金子を得るべきと考えるようになり、それを幸村に話したところ彼はすっかりへそを曲げてしまった。 『まるまる一年も、だなんて』 だが、行くなとは言わなかった。真田の言うことは正しく、いくらつつましく暮らしてゆくとしてもこのままの状態ではあまりに心もとない。 また、幸村は自分を共に連れていけとも言わなかった。今までも真田が自分を連れて街に降りることは決してなかったし、そうできぬ理由があることをよく知っていたからだ。 自分たちは逃げてきた身だ。人の行き交う町の中で、いつどこで自分たちを見知った人間に会うか判らない。真田ひとりであるなら対処も出来ようが、自分という人間を抱えては思うように動けまい。 帰ってくる頃にはまた神社の祭り。もう一度新しい花灯籠を、かえる道すがら貰ってこよう――そう約束して、真田は単身町へ降りた。 彼は一心不乱に働いた。だが思うように金は貯まらず、このままでは約束の時間が過ぎても思うような成果を持ち帰ることが出来ない。 それでも真田は彼なりにあれこれと苦心して働き続けていたが、ある日、どこから聞きつけたのか真田を剣客として雇いたいと言う男がやってきた。貴族が遠国へ旅する為の用心棒が要ると言って、法外な賃金を示して見せた。 目だつことは避けねばならなかったが、その報酬があればすぐにも幸村のもとへ戻れる。真田はそれを引き受けた。 だが不幸な偶然が彼を襲う。 途中の町で真田は、かつて幸村を囲っていた男の手下に見つかり、多勢で襲い掛かられ取り押さえられた。無論、男の屋敷に連れ戻され、幸村はどこかと激しい責め苦に遭ったが、頑として口を割らなかったので投獄されたのだ。 許されて獄から出て――なりふりかまわず彼の元へ急ぐ帰途に。 険しい山道から、足を。 ――滑らせて。 がくりと膝を折った真田に、英二がうふふと笑いながら問いかけた。 「思い出せた?」 「――」 「ふふ。ね? これ」 少女のように上から覗き込む英二は、真田にあるものを掲げ見せる。 「要るでしょ? 約束してたんだったら」 それは件の、美しく細工された花灯籠だ。 「あの子のとこに帰るのに、お土産もなあんにもないんじゃねえ。あの子、きっとずいぶん怒ってるよ。これは俺たちから真田にお土産。あの子にあげて御機嫌とりなよ。――……まあ、機嫌がとれるほど」 ――あの子の心が、壊れてないといいよね。 英二はそう意味深に囁いたが、真田はそれどころではなかった。 「――……俺は」 あれから――あれから、どれだけの時が。 恐ろしくなるような時間が。 彼をひとりあの場所へ残して。あんなうら寂しい、獣しか通わぬような場所へ。 約束さえたがえて幾年。 彼は無事か。ひとりでいて、病などに伏してはいないか。それとももう、自分のことなど帰って来ぬと諦めて山を降りて――。 「大丈夫だよ」 英二はあっさりと言った。 「まだ待ってる。だから帰ってやりなよ」 「――なに?」 まだ頭がぐらぐらする。 唐突に思い出したすべてと、吐き気をもよおす眩暈で、真田は膝をついたまま立ち上がれない。 「真田のお大事のお姫様は、ちゃあんとおまえを待ってくれてるよ。だから、さっさと帰ってあげなって」 「――何故。そんなことが」 「判るのか、って? だって」 英二の唇が、また端を上げて下弦の月の形になった。 「俺、鬼だから」 「鬼なの。もともと、俺は鬼。――大石は人間だったけど、鬼になったの」 「人間が、鬼に?」 なるものなのか、と。 まだ呆然としたままの真田がそれでも問おうとしたが、耳を聾せんばかりの英二の哄笑が、真田の気持ちの悪い酩酊にさらに爪を立てる。 「なるよ。なるよ、人は鬼に」 英二はけらけらと笑った。 「大石だって」 ね、と言いたげに、英二は背後の丈高い青年に眼をやった。 「昔の話だよ、まだうんと昔。俺は人食いの魔物で、人間はそんな俺を怖がって、暴れないでいてくださいって生贄をよこしたりしてたの。大石は俺に捧げられた生贄。だから俺のもんなの。食べずに育てたんだからね、大変だったんだよ」 「――」 「俺が面倒見て俺が大きくしたんだもん。池のほとりの館で俺が育てたんだ、だから俺のなの。ねえ、そうだよね、大石。大石は俺の養われっ子なんだもんね。だから鬼になってくれたの。俺が好きにしていいんだ、俺のなんだもの」 「そうだよ」 大石は笑いもしなかったが、従順に答えた。 「その通りだよ、英二――父上」 「ほおら」 きゃっきゃと声を立て、英二は喜んだ。 「なんたって人間は面白い。ほんとうに面白い。俺たちは生まれたときから魔物で、鬼だけど人間にはなれないし、ならない。だのに人は簡単に鬼になるんだよ。――外面に角がなくたって、油断してちゃいけないよ、真田。人が角を生やすのは、いつだって胸のうちなんだから」 「――」 「ほんっとびっくりするよ。どうして皆、こんなに鬼になりたがるんだろ。人でいないほうがたやすいんだってさ。自分ひとりのためにだけ鬼にはなれないくせに。人が角を生やすのは、口を耳まで裂くのは――鬼になるのは、いつも」 「英二」 大石が少年の背後から、そっと胸に手を回して抱き寄せる。 「もうやめておけ。真田が困っている」 「困る? 困ることなんかないよ、せっかく帰してやるんだから」 無邪気に、そして驕慢に少年は言い放った。 「もう飽きたから帰してあげる。――人間の世に返って、それから俺を楽しませてよ……ああ。でもその前に、ひとつだけ教えてやろうね真田。おまえが此処ですごした時間は、人の世で言えば半月ほどだ」 「――」 「時の巡りを俺たちのせいにされちゃたまらないからね。――いいか、真田。地上でどれほどの時間が経っていようと、それはおまえの咎だよ。鬼は残酷だけど、人間のように小狡い欺き方はしないからね、それだけは誓ってやってもいい」 「……」 「さあ、解きはなってやる。――帰れ」 少年は、にやりと笑った。 そのようなまがまがしい笑みを浮かべてさえ彼は非常に美しくあったが、確かにその目の色、表情も人の持てるものではない。 それを見た瞬間、ずしりと真田の体が重くなった。眩暈はますます酷くなり、膝どころか地面に這い蹲らねばならないほどである。 それを見越したように、少年は最後の言葉を彼に告げた。千年をも経たように低く、しゃがれた声で。 「疾く去ね、人の子」 「――」 「人の世に立ち返り、己が業と向きあうがいい」 それが、真田がこの桜の国で聞いた最後の声であった。 真田が次に気づいたのは、じっとりと湿った地面の上であった。 意識を取り戻した真田の体は、まだどことなくけだるい感じはあったが動くに苦はない。多少の眩暈も感じたがすぐに意識はしっかりして、あたりを見回す余裕も出てきた。 夜の森。 いや、山の中だ。 夜であっても皓々とした月が出ているせいだろう、あたりの様子はよく伺えた。風もなく、どこかで梟がほうと一度鳴いたきりで、あとは静寂に包まれている。春先でまだ肌寒いせいだろう、虫の声すらもなかった。 用心深く真田はあたりを見回したが、木々の様子、岩の重なる具合などになんとなく覚えがある。 此処はよく馴染んだ、あの深山であるということに気づくのに、さほど時間はかからなかった。 獣を追い、町へと行き来するのによく使った道だ。この階段のようになった、ごつごつした岩を登って少し歩くと――。 そうだ、懐かしい場所に帰り着く。 (幸村) 真田は、むろん真っ先に彼のことを思い出した。同時に、足元にちろちろと明かりの瞬く、美しい灯籠の存在にも気がついたのだ。 あの鬼の国。 魔物の棲む桜の国が夢でなかったというあかし。 「……」 真田はしばらく座り込んでその花灯籠を凝視していたが、やがて立ち上がった。 (とにかく) とにかく、結果がどうであろうとあの場所へ。 長く待たせたであろう彼の元へと戻らねば。 そう決意して真田は、立ち上がる。そして多少迷いはしたが、あの花灯籠も持っていくことにした。それで機嫌をとるなどということは考え付きもしなかったが、美しい花灯籠はやはり彼によく似合うだろう。その様子を、見てみたいと思ったに過ぎない。 急がねば、と夜の山を見上げた真田の足下に、月に照らされて何か小さな光のかけらがひらりと落ちてきた。 何処から飛ばされてきたのか――薄紅色の桜の一片であった。 |
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