いとしいおまえ。
 待ち続ける身の孤独を、どうして思いしらせてくれよう。





 彼の視界は、つねに「闇」に覆われていた。
 闇とは何か。
 一寸先も見えぬ、と誰かは例えるかもしれない。
 ただ暗い空間の只中だと言う者も。
 どちらにせよゆきかたの見えぬ、道の見えぬ、視界の明瞭にならぬ、そういうものを「闇」というのであろうか、ならば。
 ならば。
 此処も「闇」だ。

 ここに夜はなく、朝もない。日がないちにち、ぼんやりとした明るさに満たされていて、いつ陽が昇り、また沈んだものか見当もつかなかった。
 うつうつとすごすうちに眠気がくれば眠り、目覚めれば起きればよいだけのことだと、此処の主は嗤う。花の散るように笑う。
 そこにあるのは桜だ。
 ただ桜だけ。
 一面の桜。天も地も、見渡す限りみな全て桜が覆い尽くしてしまっている。
 地面には花弁が降りつもり、はらはらと落ち続ける花びらが視界を隠して染め、木の幹の黒ずむ色合いすらもときとして隠してしまう。
 色は柔らかくとも、ひとつひとつは愛らしい少女のようであろうとも、視界は常に遮られ、ゆく果ても見えぬ。
 ゆきかたの見えぬ、道の見えぬ、視界の明瞭にならぬ。
 ならばこれも闇だ。
 薄紅色をした闇なのだ。


「散歩か、真田」
 ふいに声をかけられて、青年はふと物思いから立ち返った。
 漂う意識を引き戻しても、此処にあるのはやはり夢のような桜一色だけである。地面はふりつむ花弁で柔らかく、視界すら花びらで隠されて息が詰まりそうだ。
 樹齢数百年を経た桜が、此処に何百本、何千本あるのかは判らないが、迷路のようなこの桜の国で、よくもこの男は自分をあやまたず見つけられるものだ。
 彼に声をかけた男は大石秀一郎と言う。まだ若く、群青の衣のよく似合う、彼と同じ年頃のすずやかな青年であったが、いつもどこからともなく現れては消える。
 彼がさんざんこの桜の闇の中を漂い歩いても、いつの間にか己の背後に立っている。
 怜悧で美しい青年であったが、どうも不思議でつかみどころがない。
「またこの桜の処にいたのか」
 真田の返事を待たず、大石はたった今まで真田が見上げていた巨木の桜を、彼の視線を追って見上げる。
 その桜の大木は、大きさなどは他の桜となんら変わることはなかったが、花の色合いだけは何故か不思議に、光るように白かった。薄い紅の色合いの中で、確かに激烈に鮮やかな色というわけではないにしろ、白い花はわずかに浮いて目立つ。あたりの桜の薄紅に気おされて戸惑う乙女のようであった。
「何故この桜だけこんなに色が白いのだ」
「――……」
「それに、他と比べて、この樹だけ花びらが散っていない」
「まだ眠っているようなものだからな」
 大石は物憂げにそう答え、長いまつげをやや伏せた。
「そんなことより館に戻ってくれ。お前がいないのであれがおかんむりだ」
「――」
「あれの機嫌が悪くなるとほとほと手を焼く。おまえの気が済んだなら帰ろう」
 言い置いてもう大石は彼に背を向けた。
 自分も何も言わないで彼のあとを追う。
 さんざん歩き回ったつもりでいたのだが、やはりたいした距離も歩かないうちに、桜の闇の中にあらわされた瀟洒な御殿にたどりついてしまうのだ。
 磨かれて黒光りする床や、丹朱の柱、欄干、月見台、綺羅の几帳とあわせて、確かに豪奢で美しい楼閣であったが、しだれ桜の巨木を二つ、門柱代わりにしている他は山水の庭も石の飾りもなにもない。その館は桜色の闇の中に唐突に現れるのだ。
 黙々と歩く大石の後ろについてしだれ桜の門をくぐり、彼はこの楼閣を見上げた。
 自分はいつから此処にいたのか――いつ此処へ、やってきたのか。

 いつまで此処にいなければならぬのか。





「おかえり、真田」
 楼閣の上の方から明るくはしゃいだ声が降ってきた。『おかんむり』だと言う彼であった。
「毎日毎日精が出るねえ。で、今日はどお? 逃げ出せそうな道は見っかった?」
「――別に、俺は逃げようとしているわけではない」
 穏やかに反論しようとはするのだが、はしゃぐ声の持ち主は人の話を聞く耳を持っていないようだ。機嫌が悪いというわりには口調は明るく、笑い声は少し調子外れで、美しいがどこかしら狂った旋律のようだ。
「ほーんと往生際悪いよねえ。俺の気が向かないとここから出してやんないって毎日言ってるのにさ、全然わかってないし? ねえ、あのさ、あんまり俺の機嫌損ねないでいなよ。出られるもんも出られなくなるからさ」
 見上げるほど高い位置の欄干にぺったりともたれていたその人影は、ふわりとそれを越えて宙に舞った。最初の頃こそ青年――真田弦一郎はその行為に仰天したが、しょっちゅうであるのでもう慣れた。桜色の水干を好んで着る彼が、まったく桜のひとひらだというようにごくゆるやかに宙を滑り、舞い降りてくることができるのだとよく判ったからだ。
 真田の前にいた大石がすっと一歩を踏み出し、これもまた慣れた様子で両手を差し出した。舞い降りてきた少年は彼の腕に優雅に抱かれると、くすくすと笑いながら真田を見やった。
 猫のような印象のある、きらきらとした双眸である。なにもかもが桜のぼんやりした薄紅にかすむ中で、大石のくっきりとした黒い髪と瞳、そうしてこの英二と呼ばれる少年の鮮やかな赤い髪と目の色は非常に際だち、美しかった。
 抱えられた大石の腕の中で、少年は足をぱたぱたとやりながら、何が楽しいのか時折堪えきれず調子の外れた笑い声をたてる。
「よく似合うね、その翡翠色」
 彼に用意された衣のことを言っているのだろう。真田が絹の寝床から起きあがると、毎朝違う色合いの衣が枕元の塗箱にしずしずと用意されている。
 誰が用意するものか知らない。漆の御膳も綺羅の綾絹も瑠璃の香炉も、いつもいつもその支度になにひとつぬかりないが、この御殿で自分とこの大石という青年と、そうしてこの愛くるしい少年の三人、それ以外の人間を見たことがない。
 正確に言えば――人間と呼べるものは、自分ただひとりなのかもしれなかったが。
「今度は月草の重かな。ね、大石」
「――」
「真田って格好いいから、そういう色目が似合うよね」
 抱きあげられたまま、大石の喉元に唇を寄せて喉の奥で笑う。どこか狂ったようなこの華奢な少年も、それに影のように付き従う大石も、たぶん人間ではないのだろう。
 この桜の闇の中、彼らはぴたりと寄り添って真田の前に現れた。
 しかし、いつから此処にいたのか。
 ――いつ此処へ、やってきたのか。
 真田弦一郎にはその記憶がない。


 この山には桜が咲く。
 毎年毎年桜が咲く。
 桜の花の満開の下、待てと言い残して去っていった。
 それは何年前のことだというのだろう、それから何年が経ったというのだろう。どれほど時を経ても春には変わらず咲く桜のように、おまえはこの心が変わらないと信じているのか。
 何年も待ち続けた心が、けっして疲弊しないとでも言うのか。
 待ち続けて待ち続けて、恋しさのあまりやがて人ならぬものに変化する。そんな昔話を寝物語に聞かせたのは、おまえ自身ではなかったか。

 愛しい。愛しい。

 ――嗚呼、恨めしい。






 真田が目覚めたとき、既にこの館の中にいた。
 柔らかな褥でぽかりと意識を取り戻したとき、身体のあちこちには丁寧に布がまかれて清潔な寝着を着せられていた。なにごとだ、と思考をめぐらせるうち、引き戸が音もなく開いて瑠璃碧の狩衣姿の青年が、不思議な黒い目で真田を見おろして来たのだ。
 青年は何も言わなかった。怜悧に整った顔立ちには何の表情もなく、あまりに静かなので何かの幻かと思うほどだった。
 幻の青年は音もなく部屋の中に滑り込み、深い器を手に持って真田の枕元に座った。小さな注ぎ口のついたその器は、己のように寝たままの人間の唇に液体を含ませる為のものだったようだ。真田の唇に丁寧にそれがあてがわれて、とろりとした甘酸っぱい、少しばかり酒の匂いのするものが口の中を優しく湿した。
 それでよほど楽になり、真田は彼に自分の置かれている状況のことを問おうとしたが、それを待たずに青年の背後から、驚くほど赤い髪の愛くるしい少年が顔を覗かせた。
『あー、目が覚めてる、ほんとだ』
 やや低いその声音を聞くまで少女だと思っていた。目を瞬かせた真田に、にこにこと笑いかけながら枕元にとんと膝をついて覗き込んでくる。
『崖から落ちて死ぬところだったんだよ、おまえ』
 やたら嬉しそうに、そして愛くるしく笑う。ちょっとした仕草のたびに、くるりと巻いた毛先が赤く鮮やかに舞った。
『助けてやったんだから感謝してよね。どうせ足折れてるし、動けないだろうけど、おまえ当分ここにいるんだよ』
『……』
『ね、大石、薬飲ませたんでしょ? もういいじゃん。こいつ起きてもまだ遊べないし、あっちいこ。あっち行ってあそぼ』
 戸の向こう、よく磨かれて黒光りする廊下へ飛び出し、少年はぴょんぴょんとはねて焦れ、青年の手を引いている。
 それに逆らいきれず引っ張られてゆきながら、青年は戸を閉ざそうと手を伸ばすかたわら、
『養生しろよ、真田』
とだけ言い残した。
 それがこの館に来た最初の記憶だ。
 いつ彼らに名乗ったのか覚えはない。
 そもそも、それが自分の名だと言うことも、判らなかったのだ。
 何も覚えていない。
 この桜の国で目覚めるまでの一切合切を、彼はすべて忘れてしまっていたのだった。


「此処はどこだ」
 真田は一度、大石に尋ねてみたことがある。

 あの赤毛の少年ではいつも調子外れで、愛くるしくはあるがいつもどこかしら狂っているので、まともな答えは返るまいと思っていたし、じっさいそうだった。
 真田が居なくなれば怒る、というわりにはいつも機嫌良く何が楽しいのかひとりで笑っているし、大石というこの青年になにやかやと己の世話をやかせているだけだ。
 身体が回復し、いくら記憶がないとしてもこの桜の国は尋常でない。
 自分が生きてきた人の世界とはあまりにもかけ離れている。おぼろげな記憶ながら、それだけは判る。
 ならば此処はどこだ。
 真田がそれを問おうと大石秀一郎を捜して見つけたとき、彼は館のとある一角、満開の桜に向けて開け放しになっている部屋にいた。
 目覚めたばかりなのだろう、夜着が半分はだけて、どこかあだめいて艶めかしい様で、絹の寝床から身体を起こしていたところだった。
「大石」
 呼びかけた真田に答えたのはそのなまめかしい様子の大石ではなく、彼の身体の向こうから身を起こした少年だった。こちらは何も身につけずにいたようで、すらりと伸びた細い手足が無邪気に大石にからみつく。
「なあに、真田」
「――」
「大石に御用? それにしたってもうちょっとあとで来いよね、気が利かない」
 くっくっく、と頑是無く笑う少年を、大石は何事か囁いて宥めているようだった。
「えー……やだよう」
 いやだ、と言いながら少年は、大石がどうやって自分の機嫌をとるつもりにしているのか楽しみで仕方ないようで、愚にも付かないことをあれこれ繰り返して彼を困らせているようだった。
 それでも結局、そんな少年に慣れっこになっている大石の方が優勢だったと見える。つまんないとか何とか言いながら、彼が寝床に潜り込もうとするのを引きとめ、真田が思わず目を背けてしまうような官能的な口づけを数度かわすと、大石は綺麗な仕草で立ち上がる。真田に向けられた大石の背に、四方に広がる焔に似た深紅の刻印が見えた。歪んだ花のようなそれは白い背中に不吉なまでにくっきりとしていたので真田は思わず目を見張ったが、絹の夜着が綺麗に着付けなおされてそれを隠す。
「何か用か」
 大石は情事の後を見られたことなど一切気にもとめていない風で、きざはしから桜の敷きつめられた地面に降り立ち、真田に問うてきた。
 赤い顔でしどろもどろになっている真田に、少しだけ大石の気配が和らいだが、すぐに彼に背を向ける。
「何か聞きたいことでもあるのか」
「――あ、ああ」
 大石に促され此処はどこかと真田は聞いた。大石はしばしの間黙っていたが、やがて「何処と問われてもな」と、小さく言った。
「お前の察する通り、人の世で無いことだけは確かだ――俺達も人じゃない」
「……」
「鬼の国さ」






 愛する心は揺らがない。
 揺らがないと信じて疑わないおまえ。
 その傲慢、その愚かさを、どうして思い知らせてくれよう。
 おまえを愛するこの心。同じ強さで憎んでいると、どうやって。
 愛しい。いとしい。
 怨めしい。






 
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