科学やハイテクが進むと逆に懐古主義へと群集心理は傾くのか、ありとあらゆる最先端に鬱屈した人々の噂にそれらが現れてくる。大抵はマスコミによっておどろおどろしい彩りをさまざま施されたお約束の闇の都市伝説というものだ。 闇の深さ、電灯のない時代など思いもつかない若者の間でそれは時折思わぬ流行を見せる。 無人の家、かつて連続殺人のあった場所、落ち武者の呪いや古代の刑場跡地、ありとあらゆる呪いや心霊現象などがまことしやかに囁かれ――そのくせ、そういった情報を集めるのはインターネットだったりお手軽な携帯メールであったりするのだが――本当にあった話だと、これまた良く聞く注釈をつけられて若者達の流行りの一端にしばしば顔を覗かせるのだった。 いわくありげな死には必ず満たされぬ想いがつきものであり、それは心残りを浄化できずに生前の姿をとってさまよう。もはや常道のようなそのパターンは、彼らのいる山間の医療研究所を見下ろす桜の樹についても当てはまる。 10年前。 現世に追われた二人の人間が死の安息をその場に求めた。 しかし、どういう理由かその望みを叶えられたのはひとりだけで、今一人は願い届かず現世に足止めされることになったのである。 ふたり同時に死を計ったのならそれは心中だ。 ならば、現世には決して存在せぬ楽園を共に求めたその相手が、未だ黄泉路をたどらぬ事を死した今一人は裏切りととらえはしないだろうか。 満たされぬ死者の想いが、相手を探してさまよい続けていたとしても何の不思議とも思えない。ましてやその大木はそれ以来花を付けないと言う噂だ。これほど死者の情念が形あるものとなって現れるにふさわしい条件があるだろうか。 最初こそ足音や白い影の目撃談は上層部には一笑に付された。それこそ、最近また流行りだした恐怖の何とやら、の影響を受けすぎた若者達の見間違いだと考えたのだ。左様、此処に勤める人間達は医療関係のエリート中のエリートではあるが、なんと言ってもまだ全体的に若い。 流行りに踊らされてしまうのも致し方ないことだと考えたのだろう。 しかし。 結果から言えば、初老の教授が目撃した「幽霊」というものが噂の信憑性を増すことになった。 その教授も、「幽霊」に騒ぐ若い所員達を、困ったものだ山奥であまり娯楽がないからと苦笑しながらたしなめていた人種であった。自殺者の噂と、成長具合で花が咲かなくなったのかもしれない樹を結びつけて、よくもまあそれだけありもしない話が出来上がるものだと考えていた一人であったので、彼自身が目撃したもののことは、最初どれほど信じがたかったことだろう。 腰を抜かし悲鳴を上げて、駆けつけた警備員に助け起こされた彼は殆ど恐慌状態で「幽霊を見た」と口走っている。 「――らしい、よ」 「うわ。うわ、やだ、じゃホントなんじゃないの」 わざとひそめた声もどこか楽しげに、その周囲は全員ぼそぼそと、けれど熱狂を込めて言い合った。 「え? え、こないだでしょ? あの、ラック倒れて来た日?」 「そーそ、その日の夜。教授、もーアワ食ってたって」 女性の一人が、くいとビールを飲みほしながら言う。 「やーだ、あたしたちに『噂にまどわされるようではいけないよ、君達は将来の日本の医療を背負って立つ人なんだから』なーんていっときながら、だらしなーい!」 「正面玄関の方だって。やだよ、俺、あの辺の資料室、けっこう夜でも行くときあんのにさー」 彼らは、寮生活者の中でも20代の若手ばかりだ。この山間にぽつんとたつ研究所の中で仕事三昧の日々を慰めるべく、半月に一度簡単な飲み会をこの娯楽室で催している。 独身寮の2階に作られた、簡単なロビーラウンジのようなこの場所が娯楽室と呼ばれている。 娯楽室と言っても別に何もない。大型テレビが一台あるだけで、その他、訪れる者を迎えるのはずらりと並んだ自販機のみである。娯楽の部屋と言うより非常に味気ない喫茶室と言うべきか。 しかし広さはそれなりにあるので、簡単な飲み会程度なら此処で敢行してしまうことが多かった。ケース買いしたビールと、売店で手にはいるだけのつまみ、と言ったところだが。本格的な料理となると、食堂の担当者に上部から頼んでもらう以外ないのだ。若手の中には、街の気軽な居酒屋が恋しくなっている者も相当数いることだろうが、これはこれで割り切って楽しむしかない。 ましてこの研究所以外建物のない山間。どんな些細なことにでも楽しみを見つけていかなければ、気晴らしなどない。 今日ここに集まっている20人ほども、わびしい飲み会の中にも何か楽しみを見つけようとしているのだった。最初はまとまって乾杯のさかずきをあげていた者も、いまではあちらで数人、またこちらで5人ほどと、好き勝手に集まってそれぞれ楽しく酒を酌み交わしている。 今此処で幽霊を肴に酒を楽しむ10人ほどの中には、不二とそのルームメイト、そして忍足侑士の姿もある。もっとも、不二にはあまり楽しめる話題ではなかっただろう。 先日の転倒事故でケガを負った不二と危ういところであった大石がいれば、話の方向はどうしても、尋常ならざる力で傾けられたラック、そして噂の幽霊へと向いてしまうのだ。 「不二センセー。ほんとに足、大丈夫ですか?」 「ん。気にしないで」 一人掛けの大きなソファは、今現在不二周助専用の優先座席となっている。先日の転倒事故のさいに左足首を挫いているのだ。椅子やソファを並べて楕円形の車座になった中心には、様々なつまみの袋とビール缶、チューハイ缶が転がっている。 「あれ、大変でしたよね。あーんなモンが倒れてくるなんて」 その傍でロングチェアに座る女性が足をぶらぶらさせながら、チューハイを傾ける。 「うーん……」 「大石センセだってほんと危なかったんでしょ? お怪我なくて良かったですよ」 「ありがとう」 不二からちょうど向かいの椅子に座っている大石秀一郎の、虫も殺さぬ笑顔と応答に忍足がまた少し眉を顰める。襟元からちらりと見える銀色の鎖も相変わらずで、何を考えているのかそれとも何も考えていないのか飄々としている。 そんな大石秀一郎を眺めやる忍足は、さすがと言おうかちゃっかりと言おうか不二のすぐ隣をキープしていて、飲み物はどうだとかつまみはいらないかと甲斐甲斐しく世話を焼いている。 まめですねえ女の子にしてるみたい、とからかわれた忍足はわざとらしく不二に抱きつき、俺達愛し合ってますからと笑った。 「なんか、でもホント怖いよね」 「やだよねー、夜勤やりたくなくなっちゃうじゃん。大石先生も、ひとりでいるのって怖いですよね」 「さあ、どうかな」 大石の傍らにいる女性……先日大石にふられたと言うそのショートヘアの彼女は、元来ポジティブな性格なのかにこにこと、何事も無かったように大石にあれこれ話しかけているし大石もそつなく返す。 幽霊騒ぎのことを恐ろしげに話す割に皆の口調はどこか熱に浮かされていて、これが退屈しのぎのうわさ話の一環なのであろうことは容易に知れた。 しかし聞いている不二にしてみれば、笑顔を保つのがもう精一杯と言う調子だ。忍足もそんな不二の様子に敏感に気づいて、この場から遠ざけようと先刻からタイミングを計っているのだが。 「不二」 「――なに」 周囲に聞こえないように、忍足が囁いた。 「そろそろ部屋帰って休んだらどない?」 「いや……」 「しんどそう」 「……うん、でも」 不二の視線はちらりと大石に向けられる。 先日の食堂でのように、悪意はないが核心をつくような質問が向けられたら、と不二は案じているのだ。大石も自分でなんとかできないわけではないのだろうが、他人はともかく己に対するフォローということを殆どしない彼であるから、不二の心配は募る。 もう殆ど強迫観念のようになってしまっていることに、不二自身気づいているのかいないのか。 小さく舌打ちをして、それでももう一度忍足が促そうとしたとき。 きゃあ、と小さな女性の悲鳴が聞こえた。 「ちょ、ちょっと、やめてくださいっ」 大石の隣にいたあのショートヘアの彼女であった。 座り込んでいた椅子からぐいと後ろに腕を引っ張られて悲鳴をあげている。 「ちょっと高橋チーフ、何するんですか!」 彼女の傍にいた別の女性が抗議の声を上げる。 先日から何かと大石に絡んでこようとしていた2研の主任技師だった。もうそうとう酔っているのか足下がふらふらで、顔は真っ赤だった。どろりとした癖の良くない酒精が、心地よく杯を重ねていたこの場に無遠慮にしみこんでくる。 「やめてください、アヤいやがってるじゃないですか、ちょっと!」 「うるせえなあ」 掴んだ腕を放させようとした女性を、腕を乱暴に振り回して高橋は赤ら顔で睨みつけた。 「こんなとこで女ばっかで固まってねえで、こっちきて酌しろってんだよ」 「ちょっとチーフ、乱暴はやめてください」 止めに入った青年を、今度は明確に敵意をもって突き飛ばす。ただごとではない騒ぎに、あちこちに点々としていた飲み会の輪の人々も、何ごとかと顔を上げてこちらを見ていた。 「ありゃ相当飲んでるよ、ったく」 自分の酒量くらい自分でコントロールしろよと、不二の近くの青年が忌々しげに舌打ちし、立ち上がって相変わらず腕を掴まれたままの彼女の元へ駆け寄った。 「チーフ、やめてください。アヤさん痛がってますよ」 「うるせえってんだろっ」 次に振り上げられた高橋の手は握り拳の形にされていた。 はっと人々が息を飲む中で、その手は青年の顔に振り下ろされる前に掴み取られる。 「ちょっと飲み過ぎじゃないかな、高橋君」 「……大石……」 ゆっくりと立ち上がっていた大石が、ごく自然な様子でその腕を掴み引き留めたのだ。その姿の良い流麗な動作に、こんな時ではあるが見とれた者も多かろう。 大石はいつもとまるで変わりない様子で、変わりないその静かな口調で語りかけた。 「女性に乱暴はいけないよ。それに同じ研究所員相手に酌も何もないだろう。缶飲料なんて、一人で飲めるように工夫してあるじゃないか」 「……るせえよ、こら、離せよ」 「君が、彼女の手を離したらね」 「大石ィ」 だらだらとした舌をなんとか回転させて、酔っぱらい特有のねっとりした物言いと敵意が今度は大石に向けられる。 「大石ィ、てめえ、コラ、前から思ってたけど生意気なんだよ」 「――」 「ちっと飛び級したかなんかしらねえけどよう、エラソーな顔したって、俺は知ってんだぞ、こら」 「もうやめて下さいよ、チーフ。あたし、そっち行きますから、大石先生に迷惑かけないで下さいっ」 腕を掴まれている彼女が訴える。彼女と高橋との、ふったふられたの経緯が高橋をここまで大石に絡ませるのだと察した彼女は、半泣きで大石先生に迷惑をかけないでと繰り返す。 この、どう見ても絡んでくる男に分の悪い展開に周囲も動いた。いいかげんにしろ、とあちこちからよってたかって止められようとするのを高橋はがあと獣のように喚き、力の限り腕を振り回して牽制する。その拍子に大石も振り払われてよろめいた。 「なあ、大石よう、お前、ガッコ青学なんだって? 中学までさ。俺の知り合いも行っててよ、聞いたんだけど」 大石は表情を動かさない。ぴくりとも。自分にはまったく関係ない話題だとでも言うように。 息をのみ、まるで自分が言われたかのように体中で緊張して見せたのは、不二だった。 「お前、そんとき人を殺したらしいじゃねえか」 空気が。 ――ぴいん、と張りつめたようだった。 思わず立ち上がった不二はいつものようには力の入らない左足のせいでよろめいたが、忍足が支えて事なきを得る。 水を打ったように静まりかえる娯楽室の中で、高橋はようやく到来した我が一人舞台だと言わんばかりに両手を――もうそこにいたショートヘアの彼女のこともどうでもよいのか――振り回しながら、喚き続けた。 「知ってんだぜ。お前、中学ンとき心中しそこなって、相手だけ死なせたんだろ? 立派な人殺しじゃねえかよ、おい」 「――」 「なあ、おい、ひょっとして、お前が死に損なったのそこだろ、そこ。その桜の樹。10年前の自殺騒動ってな、お前だったんだろ、え、違うか、おい」 全身が冷えていく。息が詰まる。不二はひゅうひゅうと肺まではとても届いていないように思える浅い呼吸を繰り返した。 支える忍足の存在など、もう不二には見えない。 静まりかえるその空気の中、耳を塞ぎたくなるようなだみ声が我が物顔で暴れ回る。 「しかも何だよ、心中相手って男だったって話じゃねえかよ。気色わりぃ、んじゃ今うろうろしてるユーレイって、てめえを取り殺しに来てんじゃねえかよ」 「高橋チーフ!」 高橋が大石の胸ぐらを掴みあげるのに、ようやく我に返った何人かが抗議の声を上げた。 「いい加減にして下さいよ、高橋チーフ! そんな下らない作り話したって、僕ら騙されませんから!」 「作り話じゃねえよ。こいつ、ホモなんだってよ! ホモの噂たてられて、退学させられて、んでその相手の男と心中してひとり生き残ってやがんだよ! 人殺しだよ、人殺し、なあ、そーでしょ、不二先生」 急に呼ばれて、不二は息をのむ。 周囲が思わず視線を集めてしまった先には、忍足に支えられて哀れなほど真っ青な顔をした不二周助が呆然と立ちすくんでいた。 「不二センセ、大石センセイとおんなじテニス部だったんですってねえ」 ねちこい声がする。 「聞きましたよ、天才不二周助、ってねえ。スゴイじゃないですか、全国レベルのテニスの選手だったんでしょ? なに、死んだ奴ともオトモダチだったんですって? どーゆー友達だったんですかねえ、不二センセイお綺麗だし」 「おい高橋、おまえ、えー加減に」 「おめーにゃ話してねえんだよ、忍足」 げふ、と臭い息を吐き出し、見るに耐えない醜い顔をして高橋は言い募った。 「嘘だって言えてないじゃないスか、不二センセイ。ほんとにあったことなんでしょ、コイツが男と心中事件おこしたっての。ほんとのことだから、そーんな情けない顔してこっち見てんだろ、あはは、ははははは」 狂ったように笑い出した高橋を、止めようとするものはもういなかった。 不二は知らず知らずのうちに支える忍足の腕に体重を預けていたし(そうしなければ倒れていただろうから)、大石は黙って高橋に胸ぐらを掴み上げられるままでいた。 場の空気は完全に、高橋と高橋の繰り出す毒と酒精にまみれた言葉に飲まれてしまっていた。 これだけ酒に酔っていてもそれを敏感に感じ取った酔漢は、己の言葉のもたらす劇的な効果に得意にもなったが、反面、ひとりだけ平然とした表情を動かさない大石に新たな怒りを刺激されたようだった。 「嬉しそうに、こんなもんしやがって」 胸ぐらを掴んだ手が大石の喉元に伸びる。 あっと言う間もなく、繊細で小さな銀鎖は千切り取られて酔漢の手の中に収まっていた。 大石の胸元にしまわれていたロケットペンダントが奪われたのだ、と知るや、不二は忍足を突き飛ばす勢いで高橋の元へ歩き出した。 自身の体の痛みなど不二には届かなかった。癒されぬ傷口がもっとも無惨にえぐられる様を見てしまっては。 世のあらゆる侮辱の中で、最たることをこの男はしようとしている。 自分にとって。 大石にとって。 そして彼のいとしんで止まぬ存在にとってもだ。 ――殺してやる。 確かにそのとき、不二はそう思った。 殺そうとして、歩き始めていた。そう、確たる殺意と共に。 高橋が勝ち誇ったように、おぼつかない手で小さな小さなロケットの蓋を開けたとき。 そこにいた全員が思わず息をのんで何が出てくるのかと見守る中、そこからひらひらと、赤い糸くずのようなものが空を舞って落ちていったとき。 写真でも入れているのかと思っていたらしい高橋が、その物体の意味が分からずきょとんとしてそれを見やったとき。 不二は高橋の元へたどり着き、その胸ぐらに手を伸ばし、そして。 「えーかげんにせえ、お前」 低い声と共に引き戻され、代わりに広い背が自分と高橋との間に入り込んで、何やら大きく動いた。 忍足侑士が高橋を遠慮なく殴りつけたのだと不二が気づくまでに、10秒近くを要したのだった。 「忍足!」 咎めるような声を出したのは大石だった。 「ちょお黙って、大石」 ぱん、と彼を振り払うと、忍足は無様に倒れてもがいている高橋を再度引き起こして、今度は下腹に蹴りを食らわせる。 「忍足! やめろ!」 「おまえもえー加減にしとけ、大石!」 不二がきゅっと身を竦ませるような怒声が響く。さらに殴ろうとした忍足の腕を、大石は再度掴み止める。しかし高橋にしたときとは違う、明らかに本気で力を込めているものだと知れた。 その大石の態度に忍足は爆発した。 「こんなわけわからん奴の、わけわからんいちゃもんにつき合うな! わかっとるんか、お前バカにされたんやぞ! 殴ってでも止めんかい、こんなゲスの酔っぱらい!」 「――別に彼は嘘を言ってるわけじゃない」 大石は初めて眉根を寄せるような表情になり、低いが、その場にいた誰にもはっきり聞こえる声でそう言った。 「だから俺は別に侮辱されたとも思っていないし、彼に怒る必要はない。――君もだ、忍足」 「大石」 「暴力沙汰はやめろ」 忍足は変わらず大石をぎろりとした目で睨みつけてくる。しかし、その腕の力の入りようから、もうこれ以上忍足が暴力行為に及ばないと判断したのか、彼はすぐに腕を離した。 顔を上げると、周囲の面々が凍り付いたように彼らを見つめている。 驚愕。興味。不審。 僅かながら、恐怖の色も。 ち、と誰にも知れぬよう小さく舌打ちした忍足の傍らを行きすぎて、大石はいつもと変わらぬ淡々とした様子で言った。 「悪いけど、誰か、高橋君を医務室まで運ぶの手伝ってもらえるかな」 「――」 「誰か」 「――は、はい」 青年が数人、我に返ったように慌てて大石の傍に駆け寄った。 ぐうの音もでず伸びている男を手ずから介抱してやりながら、大石は点滴の用意などを指示している。 でろりとなった酔漢を抱えて大石とその他数人がその場を去ると、どこか緊張の糸が切れたように、空気がゆるむのが判った。 そこにいた全員が何処か居心地悪そうにお互いの顔を見合わせている。 忍足は、そこに尻餅をついたままだった不二の傍に座り込むと、傍らにいた女性数人を見上げ、わざと明るく声をかける。 「悪いね、ちっと不二センセ部屋まで連れて行って来るわ」 「あ、は、はい」 「あーあ、もう、不二、無茶して歩くから。……ああ、続けたい人は続けとって」 「あ、いえ、もう……」 彼女たちも何やら物言いたげに、目と目を見合わせて口ごもる。周囲の青年達も同様のようだった。 「そ。したら後で片づけ手伝いに来るわ」 ひょいと不二を抱え上げて言う忍足の口調は変わらない。抱き上げられた不二が下ろせと騒がないことに胸が痛む。 忍足が背を向けたその室内でのろのろと片づけを始める人々が、重たい沈黙のうちで何を思っているのか何を考えているのか。 明日から荒れるな、と苦い思いをしながら、忍足はその場を立ち去った。 「不二」 「――」 「不二、悪いけど、エレベータのボタン押してくれる」 「――」 「俺、フジコちゃん抱えてるから、押されへんねんやわ」 「――」 白い指がよろよろとボタンを押した。狭苦しいその箱形の中に入り、もう一度促されるままに、不二は3Fのボタンに触れる。それだけを、ようやくと言った風情で済ませると、不二の手はもう一つの握りしめられた手に震えながら重ねられた。 まるで祈りのようなその手の形。 うつむき、身を竦め固くして、その肩は小刻みに震えている。 エレベータを出てやや早足に忍足は不二の部屋へとたどり着いた。しかし不二の部屋のカードがない。不二に出せと言える雰囲気でもない。 仕方なく自分の部屋へと移動する。やや無理な体勢からもなんとかドアスロットにカードを通して、忍足はようやく自分以外の人目の無い場所へ不二を座らせる事ができた。 「不二」 「――」 「ちょっと、俺、出てくるから――不二?」 「――」 「不二」 とても柔らかくいたわるようにかけられた声のせいで、もう耐えることが出来なかった。 握りしめた両手の中は、あのとき誰の足に踏みにじられることもないようにと拾い上げた銀の小さなロケットと、その中に納められていた赤い、僅かな繊維。 ――指輪。 ――君達の、君達だけの“指輪”。 踏みにじられ死を迎えた友を思うのか。 傷口を抉られなお淡々とした表情を崩さないもうひとりの友人の、見えぬ闇を哀れむのか。せめてもと不二が守ろうとしたその友人が、さらに酷く傷つけられたことに対する慚愧か。10年経とうとも結局は何の力もない己を嘆いているのか。 座ったベッドの上で身を固くし縮まるようにして嗚咽する不二に、忍足は何をするでも言うでもなく背を撫で肩を抱く。 時折天を仰ぎ、また窓の外、件の桜の巨木のシルエットに視線を流しながら、 不二が泣き疲れ、そのまま落ちるように眠ってしまうまでを、彼はとても紳士的に見守った。ある意味据え膳の状態ではあったが、さすがにこの状態の相手に手を出すのは彼の美学に反するらしい。 それよりなにより、しなければならないことがあった。 ベッドの中に不二だけを横たえると忍足は厳しく口元を引き締めて、部屋に備え付けの電話に手を伸ばした。 壁掛け時計にちらりと目やる。21:00だ。まだいるか、と呟きながら、まず事務所への内線番号を押した。 「あ、ども。1研の忍足です、ご苦労さんです……あのお、所長さん、もう引き取られてますかね……ええ、ええ。いや、そうですか、まだいらっしゃいますか。助かります、ちょっと直接ご報告したいことがあって。いえ、じゃ、確認できれば結構なんです、ありがとうございました」 丁寧に例を述べて受話器を置く。不二をちらりと見やるが、深い眠りに落ちていて気づく様子はない。 安心して、もう一度、今度は違う内線番号を押した。 コール音数度のあと、相手が出た。何やら低い、落ち着いた男性の声色だった。 それを聞くと、忍足はとても人の悪い顔でにやりと笑って、こう言ったのだった。 「所長、第1研究室の忍足です」 相手が何か言う。くくっと小さく笑って、忍足は続けた。 「……そおや、侑士やで。此処来て初めてやね、話すんのは。んー? 誰にも言うてないよ」 電話の相手が何か言うのに、忍足は肩をちょっとすくめた。 「いや、そらね。一応、いろいろ黙っといたほうがええかと思うこともあるワケ。縁故で就職した思われたらいややしねえ。まあ苗字違うから黙っとったら気づかんでしょ、誰も」 電話の向こうで、小さな笑い声が漏れたようだった。 「ああ、そう。うん、ちょっとそっち行ってええ? 叔父サン。あんまりやりとうないけど、ちょーっとコネを頼って是非とも所長サンのお耳に入れときたいことがあって。ん、うん、んなら今すぐ。ほいほい」 それから一時間後――。 騒動の元凶たる酔漢、2研の主任技師高橋が目覚めたのは医務室だった。 そこでまた、寝ていてくださいと止めようとする青年達と悶着を起こし、点滴のおかげでだいぶ正気の戻った頭をそれでもふらふらさせながら、彼は寮の自分の部屋へ戻ろうと歩き始めた。 そこに大石秀一郎がいたらまた新たな火種になったろうが、彼の面倒を見ようとする大石は青年達によって寮へ戻るよう説得されてこの場にはいない。確かに、この場合完全に頭が冷えるまで騒動の元凶――大石は一方的に突っかかられただけであったが、とにかく二人ともは引き離しておくに限る。 案の定、自分の面倒を見ていてくれた青年にも当たり散らして、高橋はふらふらと寮へ戻りだした。 エレベータが降りてくるのにも苛々し、その僅かな時間にも腹を立てて階段を上り出す。 実のところ、彼もなにをそれほど苛々するのか怒り狂っているのか、自分でもよく判っていない。ただ以前から恨みに思っていた、小生意気な若い医師……自分より年下のくせに自分より高い地位と学歴を持つ彼に、何か決定的な一言を言ってやったような気だけはしている。 手すりに頼りながらも、存外しっかりした足取りで階段を上っていくうち、踊り場に足をかけた彼は、踊り場に設けられた巨大なガラス窓の向こうに浮かぶ、黒いシルエットを見るともなしに見つめた。 桜の樹。 心中騒動のあった桜の樹。 しかしまだ酒精の勢いが相当に勝っている彼は、いかにも汚らわしげに、そして下卑た眼でそれを見やり、幽霊も心中も下らないとばかりに鼻でせせら笑った。 そのとき。 ――ひたひた、ひたひた。 足音が響いた。 医務室にいた青年たちかと振り返った高橋は、そこに誰もいないことに気づく。 階段は、薄暗い常夜灯にぽうとところどころを浮かび上がらせているけれど、人の気配など無い。 気のせいか、と思い直しながらも、何となく気ぜわしくなり、残る段を上がってしまおうと前を向いた。 その瞬間。 手が。 暗闇からぬっと伸びた手が、前へ進もうとする高橋の視界を覆ったかと思うと、その体を意固地なまでに力を込めて押し返した。 お行儀の良い少女のように揃えられた両手の平の、向かって右側――つまり左手には、なにやら赤い紐のようなものがぐるぐると巻き付いていて。 しかし、高橋に見えたのはそれだけだった。 暗闇に浮かんで高橋を階段のほうへと押し戻した手は。 まさしく、手だけだった。 闇にぽかりと、その白くか細い手だけが浮かんでいたのだった。 悲鳴もなく、恐怖をも感じる前に、鈍い音を幾度も立てながら男の体はひと息に階段の一番下まで転がり落ちていった。 ガラスの向こう。闇の向こうには、ただ桜のシルエットだけが黙して浮かび上がる。 その樹が、ゆっくりと蕾の芽吹きを見せていることは、まだ誰も知る由はない。 |
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