――人殺し。

 誰かが罵っている。
 聞いたような声ではあるけれど、別にどうでも良い存在の声だったような気がする。人殺し、人殺しと口汚く罵る声が、上下左右から彼にまつわりついた。
 あからさまな敵意と軽蔑に満ちているその声にも、動じる気配を見せもしない。
 夢の中でも――今ある場所を夢と気づいても、大石秀一郎が何の動揺も見せず感情的になることなどない、と言うのは変わりのないことのようだった。
 そんなものが動く原動力そのものが、彼の中にはもう宿っていない。
 情と名のつくものすべて。
 それは置いてきた――10年前、桜の下に。
 あとはうつろな肉体がそこへ行くのを待つばかりなのだ。

 人殺し、とまだ呼ぶ声に、妙に生真面目に、やりすぎだと思うほど誠実に大石秀一郎は答えた。
「そうじゃないんだ」
 声を出したつもりだが、いかんせん夢の中だ。届いたかどうかは危うい。
 いや、しかし、己を人殺しと嘲り糾弾する声の主を説得したいわけでも無かったのだから、何も問題はないだろう。
 彼は言う。
 人殺しと罵る声に向かい、そうではないと。

「そうじゃないんだ」
 痛みを感じなかったわけではない、彼一人死なせたことに。
 けれど責められるべきはそんなことではない。己の罪は別にある。
「死なせてしまったことを罪だと思っていはしない」
 果てない闇を眺めやり、どこか茫洋と大石秀一郎は呟いた。
「彼をひとりでいかせてしまったことだけが、問われるべき俺の罪。共にゆかなかったことについてこそ、俺は断罪されなければならない」

――しかし、罪だとするならば。
 なんと途方もない。


 なんと惨い、なんと酷い仕打ちを、あの子にしてしまったのだろう。あれほど誓った楽園に、あの子をたったひとり置き去りにして。
 なんと途方もない罪。
 あの子はひとりぼっちであけない夜の中にいる。
 きっとひとりで泣いている。



 気づくと彼の足は、しっとりとした湿気を含む地面を踏みしめている。
 そこは戸外で、大木の根の張る丘の上であった。
 頬にあたる風の冷たさ、匂う僅かな土の気配、そして闇夜に馴染む巨木の幹が目の前にあった。
 人殺しと罵る、あの声はしない。空気の冷たさは夢と現実の境界線の手がかりになるかとも思えるのだが、その位置から見下ろせる筈の人工の建造物は見あたらなかった。
 丘の上も、見渡す景色も、ともすれば踏みしめる足下もただの闇。
 気を緩めれば次の瞬間、つま先から沈んでいきそうな妙な弾力を持った闇の地面だった。
 大石秀一郎には見慣れた光景であったし、時折その地面が彼を飲み込もうとする場面にも遭遇している。花も付けぬ大木のその根元に絡め取られて、失われた恋人が眠っていはしないかといつもその流れに身を任せるのだが、やはりそこには果てない闇しかない。
 現実の雑事からふと気を抜くと、いつも彼は此処に佇んでいるのだった。
 眠りからゆるやかにやってくることもあれば、何かの折にふいと気を抜いたその一瞬であることもある。
 時折たまらない苦痛をもたらす筈の、その夢のその場所へ訪れるたび、大石はなんとも言えない愛しさに満ちた表情で、桜の樹を見上げている。



 さくら、さくら。花を咲かせて。
 
 英二が怒っている。
 悲しんでいる、寂しがっている。
 きっとひとりで泣いている。
 

 心配しなくても此処にいるよ、ずっといるから。
 どうか俺を許して、花を咲かせてみせて。
 俺を君と同じ桜の寝床へ連れて行って。
 互いの腕を縛る紐の色に深紅を選んだときと同じように、君は少女趣味だと笑うだろうか。けれど君と同じところに行きたいんだから、あのときをもう一度やり直したいんだから。
 花を咲かせて、どうか。
 歌を歌ってあげるから。
 あのときと同じ。

 さくら、さくら。
 花を咲かせて。
 彼が俺を許して、俺を呼び寄せてくれるように。俺を呼んでくれるように。
 
 さくら、さくら。俺はここにいるから。春も夏も秋も冬も、これからずっと此処にいるから。
 さくら、さくら。
 やよいのそらは、みわたすかぎり。



 さくら、さくら。
 君無かりせば、なんの春。










 大石先生、と呼ぶ声で我に返る。
「――はい」
「……あの、3室の実験経過ですが予測値とズレが出てます。……その、時々なんですけど、値のブレ方がちょっと大きいんです」
「どれ。……ああ、本当だ、誤差の範囲じゃないね」
 青年からグラフを受け取った大石は、自分の精神と肉体のブレ方に比べたら可愛いものだと内心肩を竦めながら主任技師を捜した。
「……あ、チーフなら休憩に行かれてます。寮に戻ってらっしゃるはずですが」
「寮に? ああ、不二の様子見か」
 今朝も熱が酷かったけど具合どうなのかなとひとりごちた大石を、青年はちらちらと落ち着かなげに見る。大石が何かと尋ねるように視線を戻せば、慌てたように目をそらす。
 別にこの青年に限ったことではなかったし、仕事に支障が出るようなことでもないので大石秀一郎にはまったくそれらに関心がないようだった。

 第2研究室の主任技師だった男が放った一言は確かにあの場にいた者のみならず、じわじわと研究所全体に毒を広げていっているようだった。
 他はともかく、第一研においては誰も仕事中にそんなことを持ち出したりしないのはさすがと言うべきであったが、昨夜のあの出来事は酒の上での不埒で片づけるにはあまりに衝撃的であったのには違いない。
 自殺者。
 心中。
 生き残り。
 そして目撃者を日々増やしていく、“幽霊”。
 本当にそれが皆の噂するようなものなのかも、そうだとして大石秀一郎を取り殺さんと現れているようなものなのかもわかりはしない。
 そもそも幽霊も咲かずの桜も、それが真偽のほどの知れぬものだからこそ、あれほど皆が皆たやすく口にし、かしましく言い立てあえたのだ。しかしそれが真実に近い事実であるなら、誰も、冗談にもそんなことは口に出来ない。
 不可解な倒れ方をした薬品棚のことは皆の記憶に新しい。そうするとそのうちどこからか『開所前に資料室でも同じようなことがあった』などと言うことも聞こえてくるであろうし、その噂話の力を借りずとも、皆が大石を見る目には一夜にしてどこか不安なものになっていった。
 不安――不安定とも言うべきだろうか。
 疑問。畏怖。死に損なった彼への、何とも言い難い視線、勘ぐり。どのような情意をもってそこへ至ったのか、それが本当にあの酔漢の言うように同性の相手との事だったのか、と。
 まだ誰も面と向かって大石にそのことを問いただす勇気を持ち合わせていない。
 しかしいずれ誰かが、そのたまらない緊張の糸を自ら切ろうと意を決することだろう。

 死者がこの世にいくらかの無念の思いを残すのは当然としても、それが生き人の命をも左右することがあるものだろうか。
 呪いなどと。情念に負けて桜の花さえ沈黙するなどと、そんなことがあるのか。
 しかし。
 しかし、彼らは今朝方、もう一つの不可思議な事実を知った。
 昨夜、この若い医師に絡んだ男が階段から転げ落ちた、と言うこと。
 命に別状はないものの複雑骨折の為に、長い間入院生活を余儀なくされること。
 そうして。

 無味乾燥な伝達事項とはまた別に、その階段から落下した男を救助しに行った青年達が聞いた男の言葉が密やかに、噂となって所員達の間を走った。

――手だ。手だけが。

 まだ酒精に支配されていたその男のそんな戯言など、普段なら誰も相手にしなかったが、青年達は例の一件のあとだけに、律儀なまでにその言葉を覚えていたのだった。

――手が。手だけが俺を突き飛ばした。誰もいなかったんだ、本当だ。
――俺が大石にあんなことをしたから、怒っている。
――幽霊が怒っているんだ、ああ、手だ。

――手だけが。

 淡々と、滑稽なまでに皆が皆、昨夜までと同じ様相を保とうとしている。時折ぎこちなく、所員同士の会話が上滑りするのもそのせいだ。
 大石秀一郎だけが変わらない。
 彼は平静を保っているのではなく……そう、保とうという努力すらしていないのだ。
 大石秀一郎は変わらない。
 変わる必要がない。
 彼は以前からその通り、現状通りで、今からも同じだ。何も変わる必要がない。誰が何を言おうと、どんな視線を集めようと、それは彼に何ももたらさない。
 それが羨望憧憬であろうと、誹謗中傷であろうと、大石には同じ事だ。
 嫉妬であっても。恫喝であっても。情愛であっても。
 それが生者からもたらされるものである限りは。

 彼には……そう。
 そんなものなど、“関係ない”のだ。



 さて、その頃。
 第1研究室主任技師忍足侑士は、己の所有する寮のベッドから渾身の力を込めた足に理不尽にも蹴り落とされていた。
「君っ! なに、君っ!!」
「いて……いてててて、な、なにすんねんなーっ」
「それはこっちの台詞だよ、何だよ、何、なんで君が僕の隣にいるんだよっ!」
「――寝ボケたフジコちゃんもかーわいいけど……そのたんびにこれじゃ……」
 床に向かってぶつぶつ呟く彼の延髄に、あわや手刀が入ると言うところで、忍足は驚異の反射神経を見せてそれを避けた。
「不二!」
「だからどうしてなんで! 何で君が僕のベッドに!」
「フジコちゃん、見て! よう見て! ここ俺んとこ、俺の部屋! ちなみにそれは俺のベッド!」
 仕事中のきりりとした彼は何処へやら、三枚目丸出しで床にへばりつきながら忍足はベッドを指さした。
 ほとんど祈るような気持ちが通じたのか、不二周助は20代半ばとは思えぬほど愛くるしい表情できょとんと周囲を見回し、どうもこれは忍足の主張のほうが正しいことに気づいて、たちまち真っ赤になった。
 ほっと安心した忍足の顔面に枕が飛んできたのは、その次の瞬間だったけれど。
「不二っ!」
「それはそれとして、僕さっき目が覚めたら、君が添い寝してたのはどーゆーワケ」
「いや、その、具合どうかなー、って」
「がっちり抱き込まれていたのはなんで?」
「サイズ的にフジコちゃん俺の腕周りにドンピシャ」
「唇がびみょ〜な位置にあったのは?」
「……一応、その、ついふらふらと」
 あ、ふらふらっちゅーよりムラムラかな、と余計な注釈をつけた忍足の運命は推して知るべしであった。

「とりあえず」
 機会が許せばあとでもう一度ケリでもくれてやろう、と決心した不二は、可愛らしい拳固にはーっと息を吹きかけながら、横目で忍足を睨んだ。
「ベッド借りてたのは事実みたいだね」
「だからそー言うとるのに……」
「――ああ、そっか」
 握りしめた自分の掌の中にあるものに気づいて、ようやく記憶が戻ってきはじめたらしい。
「あいつ、殴ってやろうと思ったのに」
「――俺がケリまで入れときました」
「ぼく、仕事……」
「熱が高いって言うといた」
 ちなみに今は俺は休憩中、といつもの軽快な調子で言う忍足に、知らず口元がゆるみながら不二は間もなくその微笑をもうち消して沈痛な面もちになった。
「ねえ。大石、どうしてた」
「……いつもと変わらんよ。ほんと変わりなし」
 まだ多少不二のケリか拳を警戒して内心はらはらものの忍足は、出来るだけ不二を刺激しないようにベッドに腰掛ける。
「まあ……雰囲気が妙になっとんのは致し方ないわ」
「うん」
「それでもまあ、まだみんな仕事優先で動いとるさかいに、その辺りはやりやすい」
「――」
「ちなみに高橋は入院中」
「――え?」
「あいつ夕べ、俺にぶっとばされたあと医務室行って、またひとりでふらふらして階段から足踏み外しよってん。全治5ヶ月」
「……」
 いくら腹立たしい相手でも、ざまあみろなどと思うのは不謹慎だろう。そういう感情がまったくないではないにしろ、なんとも複雑そうな顔をした不二を見やって、少し笑った忍足は続けて言った。
「まあ、もうこの研究所へ戻ってくることはない。二度と顔見んで済むから安心しとき」
 どういうこと、と体を向き直らせた不二に忍足は笑ってみせた。
 けれど答えはなかった。
「――忍足?」
 重ねて問いかけた不二を優しく無視して、忍足はその人の悪いような、けれど何処か悪戯好きの子供のようにも見える笑顔でにこにこと不二を見下ろしていた。
 人を食ったようなその笑顔は既視感があるせいかどうも苦手だったが、時折不二を見下ろす優しい双眸の色は嫌いではなかった。
 レンズを通して見えるその瞳に、自分が誰かの面影を重ね合わせているであろうことは、不二自身が一番よく判っていたけれど。
 だから彼に応じて笑うでもなかったが、そのとき髪を撫でられるところまではついつい許してやってしまったのは一生の不覚であったと後々思うことになる。







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