机にぺたりと伏せ、組んだ腕の上に頬を乗せながら、白い電話機を見やる。
 かけようかかけるまいか。
 ぼんやりとプッシュボタンの並びを、無意識のうちに懐かしい番号通りに視線でなぞりながら、不二周助はそんなことをくり返し思う。
 いや。かけるつもりはない。
 もうすぐ全仏オープンだ。続けて全英、それから全米も。
 今は調整の大事な時期だ。心配をかけるわけにはいかない。
 彼の声を聞いたらなにもかも、そう、張っている自分の虚勢のようなものが崩れていきそうで怖いのだ。耐えきれずに今の状態をぶちまけてしまうかもしれない。
 そうしたら彼はなにもかも放っておいて日本にやってきてしまうだろう。
 まず間違いない。そういう性格の彼だから。
 そんなわけで、不二周助は恋人の声を聞くこともままならない。

 アメリカを発ってからそれほど時間は経っていないのに、何故こんなに遠い感じがするのだろうかと、悩ましいため息を幾度と無く吐き出す。そして、気を抜くと脳裏にふとよみがえってしまう長く綺麗な指の残像を追い払った。
 不二のすぐ側、すく傍らで、彼をいたわる長い指とその持ち主の顔を。
「ああ、もう」
 なんでそんなものを、そっちのほうを思い出さなければならないのか。単に髪を撫でられただけではないか。
 不二はぶんぶんと頭を振る。それで覚醒できたわけでもないのでまたため息だけが残った。
 不二がうつぶせた白い事務机の上には、銀色の小さなロケットがころりと置いてある。
 大石のものだ。
 あの騒動の中でも“中身”を失わずに済んだのは僥倖であった。指先でもつまみづらいほどわずかな繊維の一房、よくなくさなかったものだ。
 まず間違いなく誰もそんなものに注意は払わないだろうし、見つけても誰かの衣服から落ちた糸くずだとばかりに放っておかれるのが関の山だ。
 そうと知らずにそれに意味を見いだせるものはいないだろう。
 手入れのいい白金細工を時折ため息で曇らせる以外は、手持ち無沙汰にそれをつついてみることもせず、不二はただ黙って時間をもてあましている。



 忍足の部屋で目が覚めたのが昨日。
 つまり、娯楽室で高橋と大石のひと悶着があったのが一昨日の夜。
 忍足による「高熱」と言う欠勤理由が決して不二を気遣ってついてくれた、まったくの嘘というわけでもないことは、不二が己の体で思い知った。
 昨日、部屋に戻ってきたときには同室の大石はまだ勤務時間中で、不二は忍足の世話で軽い食事をとって薬を飲むとそのまま眠ってしまったのだ。
 気づけば翌朝。
 起きてみると部屋にはパテーションで区切りが作られていて、枕元には“今日一日休むこと”と大石の文字で書き置きがあった。ご丁寧にゼリー飲料と薬が添えられて。
 それを飲むと睡魔に再度襲われた。しかしその睡眠が良かったらしく、次に目覚めたときはよほど気分がすっきりしていて、汗を流したときにはすぐにも仕事に復帰できそうな気さえしたものだ。
 忍足侑士の言葉を借りれば“妙な雰囲気”になってしまっているであろう職場の空気に腰がひけないでもなかったが、そこで大石は仕事をこなしている。自分が傍についていようといまいと変わらないかも知れなかったし、さらに空気が重くなるのかもしれなかったが、そんなところに大石をひとり置いておくのはどうにも心配だった。忍足はまたそんな不二を困ったように見るのだろうけれど。
 どのみち勤務には戻らねばならない。
 思い切って回復した旨を大石に電話してみれば、今日一日は休めとすげなく切られた。
 フォローのつもりなのかその直後に忍足から電話がかかり、不二の分もシフトで埋めてしまったから今日は出てこなくても大丈夫、と柔らかい口調で言い聞かされた。
そう言われてはのこのこ出ていくわけにも行かない。
 不二は、行きがかり上大石に返しそびれたペンダントを供に、はあとため息をつきながら進まぬ時計の針を睨みつけているのだった。

 まもなく外は夕暮れである。




 電話をかけたい。
 あのひとが自分の名を唇に乗せる、その優しい音の繰りようを聞きたくてたまらない。
 でも声を聞いてしまったら何を喋るか判らないのだ。
 きっと自分でも止めようもなく、うっかり泣いてしまうかもしれない。そんなところに大石でも帰ってきたら。
 忍足の部屋の電話を借りようかと思ったが、外線発信が出来るのはドクターの部屋だけだと彼に言われたのを思い出して、またため息をつく。

――電話。

 国外にも利用できる携帯網が作られてしばらく経つのだが、誰にどうすすめられても、不二が頼んでみても決してあのひとは携帯電話を持たない。
“あれ”以来、そうだ。


「電話、か……」

 きちんと整頓された机の上、繊細な光をはじく銀のロケット。その上品で慎ましやかな意匠は深窓の令嬢のようだ。
 ぼんやりとその輝きを、そしてその背後の無機質な白い電話を見つめながら、不二は再び己の回想の中に落ちる。


――泣かないで。
――手塚、泣かないで。

 薄っぺらい白と黒の、形ばかりしめやかな葬送の色に包まれた菊丸家を辞して後に、ふたりきりになった不二の部屋で初めて彼の涙を見た。

 君のせいじゃない。
 君のせいじゃないよ、手塚、だから泣かないで。

 大石に君の携帯電話を貸してあげたのは、君が大石達を心配していたからでしょう? 携帯を親に取られた英二にお姉さんが新しいのを買ってあげたのと同じ事だよ。
 彼らが最初にそれで取り合った連絡は、交わした約束は、二度と戻らぬ道ゆきであったけれど。
 確かにそうであったけれど。
 君のせいじゃないから、手塚。君が悪いんじゃないから、手塚。
 お願いだから、泣かないで。

 あれはまさしく声なき慟哭だった。
 ひと声も漏らさず、少年の頃から大人びて端正だった顔立ちを歪めもせず、ただはらはらと涙ばかりをこぼす彼はどう言ってもどう宥めても泣くことをやめなかった。
 それからの自分たちは決してそのことに関する話題を避けて通っているわけではなかったが、口には出来なかった。
 それができるようになるまでは、数年を要したのだ。

――あれは、俺達だったかもしれない。

 彼が、かろうじてそれだけを苦しい吐息と共に絞り出すまで、本当に長いことかかった。
 お互いに成人して、共に暮らしはじめて、それからなお時間が必要だった。
 同じ屋根の下にいても――そう、言ってみれば“何もない”状態が長く続いたのは、自分達が受けた打撃が、自分たちが思うより相当酷かったことをふたりとも自覚していなかったせいだった。
 手塚と自分が望んだように、二人で暮らせるようになってすぐ互いの気持ちの中に齟齬が現れ始めた。
 そうしたいわけでもないのに何の進展も後退もない自分たちに、お互いがそれぞれいらついていたのだろうと思う。
 ぎくしゃくした空気がごまかしようもなくなって、ある日ほんの些細なことから、何かずいぶんひどい口論をしたような気がする。

――あれは、俺達だったかも知れない。

 ケンカのきっかけなどはもう忘れてしまった。
 ずいぶん酷い滅茶苦茶な辛い言い争いだった気がする。そんなものは二度と思い出したくない。
 ただそのあと彼がふと呟いた言葉が、その後の自分と手塚の停滞を結果的にうち破ることになったのだ。
 彼は言った。ひどく打ちひしがれて。

――桜の下で、俺がお前を死なせていたのかも知れない。





「不二」
 呼ばれてはっと顔を上げる。
「ダメだよ、そんなところでうたた寝していたら」
 目の前に見えるのは、穏やかで優しい男の顔だ。
 もう部屋着に着替えているところを見ると、勤務を終えたのだろう。
 手塚の夢を見てしまったことに妙な罪悪感を覚えながら、不二はあわててわざとらしく目をこすって見せた。
「ああ……寝てたの、僕」
「うん。確かに顔色は悪くないみたいだけど、治りかけが大事だから気を付けないと」
「――」
「明日も無理なら寝ていて良いよ」
「いや、明日は出るよ」
「そう」
 てきぱきと机の周りを片づけている大石に、不二はふと気づいて自分の机の上を見る。
 あのロケットの位置は変わらず、不二の手元にころりと転がっているままだ。大石は気づいただろうに律儀に不二が起きるまで待っていたようだ。
「大石」
「ん?」
「あの、これ」
「――」
 大石はことさらゆっくりと振り向いて、笑みを――そう、とてもひとあたりの良い笑みを浮かべた。
「拾っておいてくれたんだな」
「うん、あの……中身もなんとか。大丈夫だと思うんだけど」
 銀鎖を持ち、もう片手で包むようにして大石にそれを渡した不二は、相変わらず微笑んでいる大石になんとも言えぬものを感じる。
 うっかりうたた寝していた時に見た夢が、あんなだったから。
――夢のなかに、あのひとがいたから。
「ありがとう……ああ、大丈夫だよ」
 ぱち、と小さな音がした。そしてもう一度。大石の手に返されたロケットの蓋が開かれ、また閉じられた音なのだろう。
「助かったよ。……何せ、これしか手に残っていなかったんだ」
「――え?」
「病院で救急措置取られたとき、みんな切り取られて持っていかれちゃってね。指と指の間に紐の端……端って言うより、本当に糸くずみたいなものしか残っていなくて。英二はちゃんと手に握りしめてくれていたらしいのに」
「……」
「ないと困るんだ」
「――“指輪”だから?」
 一瞬言ってしまったことを後悔したが、大石は別に不二の言葉に思うところはなにもないらしい。張り付いたような微笑のままそのロケットを元通り首にかけて胸元にしまった。
 沈黙がおりる。
 多分、いたたまれない想いをしているのは不二だけだろう。なんとも言えない気持ちのままぼんやりと椅子にこしかけ、大石があれこれと机廻りを整えているのを見やっている。
 いつもきちんと整頓されている彼の机だったが、さらに細々とした整理をしているようだ。
 ふと、甘い香りが不二の鼻腔をくすぐった。
 甘い……甘ったるい、濃い香りだ。
 洋酒の芳香だと気づいて、不二は大石を見やる。特に、酒精が影響を与えているようには見えないが。
「――珍しいね、大石」
「なにが」
「飲んでるの?」
「ああ。……うん、少しね。匂い、気になるかな」
「ううん」
 そこでまた、再び会話がとぎれた。
 しかし、今回はそれほど長い沈黙でもなかった。
「不二」
 ぼんやり見ていた不二に、何かの話のついでだとでも言うように大石が声をかけた。
「俺が預かってるレベルVのエリアへの入室カードは黒いファイルの中だから。このあたりのメモリと一緒にまとめてあるんで見落としやすいから、探すことがあれば留意してくれ。ああ、それから引き出しの二番目に、今の実験の経過と予測の資料がまとめてある」
「……?」
「資料は一応順番通りだから、間違うことはないと思う。また忍足と検証してみてくれないか」
「大石……?」
「それから仕事とは関係ないけど事務所に登録してある俺の家族の連絡先は、章高叔父の病院なんだ。不二は俺の実家の住所と電話番号覚えてるかも知れないけどもう籍抜いてあるから、連絡するなら叔父のほうに頼む」
 大石、と不二は大きい声を出したが、まるで聞こえていない様子で大石は、ああそうだ、などと言いながら淡々と説明を続ける。
「一応、必要事項は全部プリントアウトしてあるから俺のパソコンを立ち上げなくても大丈夫だとは思うけど、引き続き経過をデータ化するんだったら使ってくれていい。実験フォルダの中だ。パスワードは」
「何言ってんの、君」
「パスワードは、1128」
「大石!」

 不二が叫んで、ようやく大石は顔を上げた。
 顔を上げ、不二を見た。
 怒りや慟哭や、そんなものの何一つ感じられない、いつもの穏やかな彼の表情の中に、僅かに違う色合いが混ざる。
 あえて言うならそれは、歓喜に近い色かも知れない。

「君、酔ってるの、大石」
「……」
「僕にそんなこと聞かせて、何のつもりだよ」
「不二こそ」
 くすっと大石は笑った。
「俺が言ってるのは単なる仕事の伝達事項だし、別にボトルの半分程度で酔いはしないよ。……何、そんな悲壮な顔つきしてるんだよ、不二。――ああ、危ない、足だってまだ良くなっていないのに、急に立ち上がらない方がいい」
「――酔ってるよ、君」
「どうして?」
 知らず知らず詰まる息。
 自分の肩が、なんとか元の呼吸のリズムを取り戻そうと、ゆっくり上下するのを不二は気づいていなかった。
「だって、きみ、それじゃ。そんな言い方じゃ」
「――そんな……言い方?」
ふ、と大石は唇の両端をあげてみせた。ひどく――ひどく冷たい印象だった。
「どんなふうに聞こえたの?」
「……っ」
 体ごと向き直った大石に、不二は我知らず身を竦ませる。
 風の音が聞こえた気がして。
「不二?」

 それでも不二は、なんとか気力を奮い起こして言いつのった。
「僕に、そんなこと言う必要ないじゃないか。資料もカードキーも君の管轄だろ。……パスワードだって」
 そのパスワードの数字の謂われにふと思い当たって、不二はちくりと胸を痛めたが、ここで言いよどんでいては大石の無言の圧力に負けそうな気がする。

「不二が知っていてくれないと困るんだ。後からいろいろと手間をかけるのは申し訳ないだろう。不二が覚えていてくれれば支障のでないことばかりだし」
「だって、それにしたって、君の連絡先のことまで関係ないじゃないか。まるで、それじゃ…!」
続けて言おうとしたことに、自分で怯えるように、不二の声は小さくなっていった。
「まるで……まるで、君が」
「俺が?」
「――」
「不二」
「……君が、まるで、すぐ……い、いなくなるみたいな」
「俺がいなくなって、誰が困るの」
 その言い方があまりに優しく、聞き分けのない子供に言い聞かせるようであったので、不二はその言葉の酷薄な意味に気づくのに少しかかった。

「お、大石……」
「ねえ、不二」
 彼はにこりと笑った。
「俺がいなくなって困るとしたら、とりあえず現場の指示をどうするかというくらいだろう。だからそれについては、全部推移を想定してそれぞれの場合の対処を作ってあるし、不二になら十分指導していけるレベルだ」
「……誰がそんな話をしてるんだよ。ねえ」
「俺の案はベースだから、また不二がいいようにしてくれたらそれで良いよ」
「――ねえ、大石。僕の話を聞いて。聞いてよ、お願いだから」
「不二」

 大石が笑う。
 生者の誰をも写さないその双眸が喜びに輝いている。
 隠しきれない狂気を滲ませながら。

「不二。桜が、咲くよ」








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