教師や親、というものを「話のわからぬ大人」とひとくくりにするのは少々乱暴であったかも知れないが、彼らは皆全てあのときの大石に「良識ある大人」として、滑稽なまでに画一化された行動をとったことではあるし、カテゴライズに問題はないだろう。 その、いわゆる「大人」なる連中の信頼(彼らの一方的なものではあったが)を裏切って、人の死にかかわる事件を起こした大石秀一郎に対する処遇は苛烈を極めた。 彼は自分が引き起こした事件のためにそれまで通っていた学園からの転校を余儀なくされた。 彼自身が病院から動けなかったその間に全ての準備は進められ滞り無く終えられ、彼は文字通り身一つでこの町から去らねばならなかった。 彼の大事にしていたもの、好きだった本、愛用の品物、家具に至るまで、それら全てはまるで彼の存在そのものを否定するかのように、両親の手で大石家から放逐されたのだった。 彼は諾々と従い、沈黙のうちに日々を過ごした。 美しい写真集も水の中の小世界も、僅かな音楽すらも傍らに寄せようとしなかった。まるで失ったもの以外に愛情を傾けるのは罪悪だと言わんばかりに。 彼が生まれた街を文字通り追われ、預けられた親戚宅で住まいとしていたその部屋は、ベッドと机と僅かな着替え以外、一切存在しない殺風景な――いや、空虚なものだった。 心のうろが、そのまま部屋のうつろとなったかのようだった。 彼を預かった叔父母は、たとえ形式的なものにせよ最低限の援助と彼の世話をしてくれたし、またあしざまに罵ることもしなかったのだが、やはり彼らも大石秀一郎に押された「心中の生き残り」と言う見えぬ烙印をひそかに忌み恐れた。 それを背負いながら嘆くことも怒ることもしなければ、精神的な不安定におちいることもなく、ただ淡々と学業の日々を送り過ごす甥に恐怖にちかいものをも抱いたのかもしれない。ゆえに、奨学金制度の援助を得て大学に進むにあたって、一人暮らしをと希望した彼の望みはあっさり叶えられた。 彼は医療の道へ進む旨を簡単に記した葉書を両親に送ると、叔父母に丁寧に感謝を述べて仮住まいを後にした。 住所に変更があるときと、自分の身辺に大きな変化があるときだけは、彼は両親にその旨だけを簡単に書き添えて葉書を送ることにしている。返事は期待していないし、事実、新しい住所や電話番号を知らせても一度たりとも両親から返信がきたことはないし、声もあれから一度も聞いていない。同じ医師である叔父が時折、彼の顔を見にやってくるくらいだ。 両親は彼を見捨てているのだろう。 ありとあらゆる種類の大人に期待され、その期待通りに立派な道を歩んでいくはずだった長男が思春期の気の迷いのような恋に殉じようとしたことを、両親は自分たちに対する背信行為ととらえているのだ。 しかし大石秀一郎は、それより以前にある意味両親を見限っている。 生んでもらったこと、育ててもらったことに対する感謝の念は消えるものではない。が、それはそれだけのものであって永遠にその場に停滞し続ける。それ以上のなにものにも発展する想いではない。 まして彼のように、生涯の伴侶とも言うべき存在を見つけてしまった後では。 彼以上の何も存在しない。 彼の他は考えられない。 確かにあのころ自分たちは幼かったけれど、まだ『子供』に括られる年齢であったけれど。 誰も知らない。 10代の始めに、一生の相手と巡り会ったその幸運。 大石秀一郎にだけ与えられたその福音を、あのとき大人達は誰も知る由もなかった。だからこそ彼らを踏みにじるのに誰一人躊躇しなかったではないか。 たぶんもう、そんなことなど忘れてしまって、今もどこかで良識ある大人の範疇を出ることなく、まっとうな生活とやらを続けているのだ。 けれどもう、彼らに対する恨みなど大石秀一郎にはありはしない。 憎悪など繰り返すうちに擦り切れてしまって、今更その感情をもう一度なぞる気などない。そんなもので己の思考を使うよりもっといとしいものがある。 彼にとって至高の瞬間は確かに近づいてきているのだから、これ以上誰をも怨むこともない。 誰に何を望むこともない。 彼の苦悩は遠くに押しやられ、近づく幸福な瞬間を確かに見据えている。 さくら、さくら 子守歌のように唄いながら、彼は待つ。 小高い丘から見下ろす先には、白と銀の角張った巨大な建物があった。 冬枯れの木々ばかりが立ち並ぶ山間に据えられた、人工のその滑稽さを笑うのか。さらにその中で蠢くちいさな人々を嘲るのか。 それでもそんなことはもう彼にはどうでもいいのか。 座り込んだ姿勢から空を見上げればそこには巨木。 厳然たるたたずまいを見せる幹も、何の障害もなく空に張られた枝も、冬のさなかの冷気に未だ沈黙を保ったままで大石の問いかけに答えるはずもない。表皮は頑なで芽の生まれる気配すら伺えない。 けれどそこには。 ――もうすぐ、そこには花が咲く。 大石は小さく歌い続ける。 幹に背をもたれさせ、空に張った枝をいとしげに眺めながら。 手を伸ばす。 誰かがその手を取ってくれることを、確信しているように。 さくら さくら やよいのそらは 生きている誰の耳に届くこともない、そんなことを期待もしていない、かぼそい歌声だった。 昼さがり。 世間一般ではいわゆるおやつの時間に遅い昼食をとった不二は、食堂のある寮から研究棟へ続く渡り廊下を渡りきったところでぴたりと足を止めた。 セイガク、と言う言葉が聞こえた気がしたのだ。 言葉はぼそぼそとして、何か秘密ごとを喋っているかのようだ。 出所が判らない。 不審に思いながらも、ついつい足音をたてないようにして周囲を伺う。 不二が一番遅い昼食だったので、無論他のメンバーは殆ど研究室の定位置で仕事をしているはずだ。 こんなところに、誰だろう。 「……てくれよ……」 ぼそぼそと早口の声。男の声だ。 「――ないと思うから。……いし、だよ、テニスして……」 きれぎれに聞こえてくる声の主は判らなかったが、どうやら会話の相手がそこに存在しているわけではなさそうだ。 そう言えばここには、公衆電話が備え付けられている。 誰だろう、とそろりと伺おうと顔を覗かせようとした、そのとき。 「……っ!」 「しっ」 後ろから口を押さえられ、何か大きな体躯に抱え込まれる。 ばたばたともがくも押さえ込まれて動けない。 そのうち、がしゃと受話器を置く音がして、足早にその場を離れていく気配がする。 それが完全に遠ざかってしまってから、不二を抱き込んだ相手はぱっと、口元を覆っていた手だけを離した。 むせこみながら睨みつけた相手は、誰あろう忍足侑士である。 「な……なっ、な、なに……」 「あれ以上前に出たら、横のガラスに人影が映んの。相手から丸見えやで」 ちっちっち、とわざとらしく振る指を不二に見せつけながら、忍足は不二を覗き込んだ。 「いかんなあ、不二よ。もうちとうまいこと聞き耳立てなアカンよ」 「る、るっさいな、僕べつに盗み聞きしようなんて」 「いや、足音忍ばせてた時点で何を言うても遅いて」 声の主が去っていった方を睨みつけながら、忍足は小さく言う。 「離せ、もう離せ! いつまでくっついてるんだよ、僕の傍に寄るなよっ」 「ありゃ」 両腕でがっしりホールドされていた不二はばたばたと手を振り回して暴れた。 「残念」 ぱっと両腕を広げた相手から、慌てて飛び退く。 寄らば切るぞと睨みをきかせた不二に、忍足は苦笑を隠しきれない。 「警戒せんでもなんもせんがな、こんなとこで」 「う、う、うるさいっ」 「あーはいはい。手塚サンがいるもんな、フジコちゃんにはな。ダンナさんおいて単身赴任とは気の毒に」 「……っ」 「なんや、そないに睨まんでも」 「……なんで」 「あのなあ、どっからでも知れるの。隠しとるわけやないんやったら別にいいでしょが……ああ、はいはい、睨まへん睨まへん。誰にも言うてないってば、信用ないなあっ」 ぱたぱたと両手を振って見せる忍足を暫し不二は見やっていたが、やがて聞かん気な可愛い娘のようにぷいとそっぽを向いた。 「もお、帰る」 「あ、そ。――ところで大石知らん?」 「あ? 彼、今日、オフじゃない。部屋にいないの」 「んー、そない思うて探しにきたんやけど、不在でな。車あるし、町に降りたわけでもなさそうやし。急ぎはせんけど、ちょっと経過で判断に困るところがあってな、出来たら見て欲しかったから」 「僕でも大丈夫そう? 見てみようか」 「休憩は?」 「終わってるよ」 「じゃちと頼もっかな。あわただしいて悪いな」 「別にいいよ」 さりげなく忍足が不二の肩に置こうとした手をぱしんと叩きながら、不二は先に立って歩き出した。 「フジコちゃ〜ん」 泣きを入れつつ後を追ってきた忍足は、不二の足がぴたりと止まるのに気づく。 廊下の壁にくぼみのように出来ている外線用の電話を睨みつける。 「……どしたん」 「なんか、セイガク、って聞こえた気がしたんだよね」 「あ? ああ、さっきのか。うん」 「――」 「不二?」 「……いや、邪推のしすぎだよね、いくらなんでも」 まさかね、と自分に言い聞かせるように首を振る不二に、相変わらずちゃかしたようにフジコちゃんだのなんだのと呼びかけながら、忍足は足音の主が去っていったであろう方向を、再度睨みつけた。 その鋭い眼光にとらえられたのは、「第2研究室棟」と書かれた、壁の案内書きだった。 白衣の裾をひらめかせながら、ふたりは足早に研究室に戻る。 「で、どれを見るの」 「第3実験室のマウスです。先ほど発症が確認されましたので、薬品投与のタイミングを」 仕事用の口調になりながらきりりと口元を引き締めると、忍足侑士はこれでもかと言うほど『いい男』になる。 「あれ、ずいぶん早いね。もう二日ほど後かと思ってたんだけど」 「そうですね、思っていたよりは。あと多少個体差もありますので、前回分を参考にして作った数値リストがあります。それを見比べて頂いてOKでしたらその通りに」 「判りました」 「これで予定を少し前倒しに出来たなら、4月の頭くらいには少し余裕が出来ますね。全員では無理でも、下っ端で花見くらいは大丈夫では無いでしょうか」 「忍足君」 「はい、不謹慎でした」 あまり怒ったような様子ではない不二の咎めに、これまたあまり反省した様子もなく忍足が微笑する。 ああ、仕事中はこんなにも打てば響くような応答が出来るのに、その上とても有能なのに、と不二は密かに嘆息した。こうして歩いている間でも、すれ違う女性達の眼差しを集めているではないか。何割かは自分に向けられているものなのだろうが、女性に対するセックスアピールと言う点ではこの男は群を抜く。 不二の容姿に女性は感嘆し、密かに嫉妬はしてもおつきあいの対象ではないようだ。まあ、直接的な言いかたをすれば、寝てみたいとは思わないらしい。 忍足侑士に向ける女性達の視線は、不二に対するよりもっと明らかに……そう、生々しい視線だ。あれこれと女性の相談事にもまめにつき合っているようだし、もう一押しすれば一夜の火遊びに名乗りをあげる女性など結構いるだろうに。 何故にプライベートではこうも自分にちょっかいをかけたがるのか、不二には疑問だった。 なにはともあれ算出した数値の確認を、と忍足が案内してきたのは、実験室の隣の部屋である。 簡単な薬品の調合が行える他、実験経過を見守る為の機材が並べられていて、四六時中複雑な波形を紙の上やモニターに映し出したり、めまぐるしくかわる数字を画面に踊らせたりしていた。半分機材と半分パソコンだ。 研究所が稼働してひと月ほどだが、もうそこは機材と資料とであふれかえっている。もちろん朝な夕なに整頓し掃除もするのだが、勤務中はやはり書類とフロッピーが飛び交う戦場となるのは何処も同じのようだった。 「失礼します」 声をかけながら不二がドアを開けると、その機材と薬品棚と、そして忙しく立ち働く人々の間にいた大石がひょいと手をあげて見せた。 「あれ、どこにいたの大石」 「ちょっと軽く散歩。すまないな、探してくれてたんだって?」 「ああ、はい。すれ違いになりましたね」 忍足も完全に鉄面皮で、仕事用の微笑を顔に張り付かせる。 「申し訳ありません、休日ですのにお疲れ様です」 「いや。このリストは君が?」 「はい。何か問題がありますでしょうか」 「いいえ、完璧です。この通りにいくことにしますので」 そこで少し顔を上げ、大石はそこにいた全員に聞こえるように言った。 「第3室の実験を前倒しにして一時間後にスタートさせます。作業が重複して大変な人は遠慮なく申し出てください。まあ、ちょっと頑張れば」 ここでにこりと大石は笑ってみせた。 「4月の頭に、皆で花見くらいは出来るんじゃないかな」 部屋の中の研究員がどっと笑うのと、不二の後ろで忍足が吹き出したのは同時だったので、誰も忍足の笑い方だけが違うのに気づかなかった。なんとも言い表しがたい表情で肩越しに睨んでくる不二を、可愛いなと言いたげにもう一度笑ってみせたくらいだ。 「不二、申し訳ないがちょっとこれ、頼まれてくれるかな」 来るべき花見のために張り切る所員の間を抜けて、大石がやってくる。書類を受け取りながら不二は小声で言った。 「いいよ、僕がやっとくよ。君、オフでしょ? 休めるときには休みなよ」 「――そのうちにね」 とても低いものの言い方にぎくりとして、不二は大石を伺い見たが、そこにはいつものあの紳士然とした穏やかな表情の男がいるだけだった。 何か釈然としない思いを胸中に抱えながら、それでも仕事に集中しようと不二が手元の紙に目を落としたとき。 ひゅう、と不二の耳元を風が横切った。 空調のものではない。 あきらかに戸外の、土の匂いすら含んだ生暖かい風。 それはほんの一瞬で、けれど確かに不二の注意を引いた。 何故、そのときそっちを見たのか判らない。 天井近くまで高さのあるスチールの薬品棚が、何の前触れもなくぐらりと傾ぐ。誰かが後ろから、そろりと押したように。 どうしてあんなものがあんなふうに動くのか、と不二は考えた。 壁にぴたりとつけられて重さも相当あるし、中にはいろいろとややこしい薬品が入っているから足下もしっかりと固定されているのに。 地震でもないのに。 ぼんやりと不二はそれを見守っていた。まるで他人事のように。 どうして自分と大石のいる場所をめがけて、そんなふうに倒れ始めているのだろう、と。 |
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