きゃあ、うそ、と言う声が、食堂の一角から挙がった。
 若い女性たち特有の、あの甲高い声だ。
 やだ、とか何だとか、だいたいこういう場合において女性の感嘆詞になってしまっている数々の言葉を一通り網羅した叫び声があがって、その源たるテーブルの占有者たちはまたひそひそと、何やら世界の重大事でも話すような口振りで再びあれこれと秘密めいた会話を交わし始めていた。
 その一時の叫びで自分たちが注目を集めたことなどにも、まったく気づいてない様子だ。
「びっくりした。なんだろうね」
「賑やかですね」
 食事が乗せられたトレイを持って、今まさに席に着こうとしていた不二がそちらを見やった。答えた同じ研究室の青年も、声があがったほうを見ている。
 女性達はなにやらまださざめき続けているが、その内容までは聞こえてこない。
 さして興味を引く内容でもなかろうと席につき直した不二に声がかかる。
「やあ、不二も今から?」
 偶然向かいの席に着こうとしていたのは大石であった。
 両隣の研究員に失礼、と小さく声をかけながら落ち着いた動作で席に着く。
「うん。ちょうど手が空いて」
「珍しいな、夕食の時に一緒になるなんてね」
「そうだね」
 午後8時。
 研究員達の、第二陣の夕食時間である。
 かわるがわる経過を見守らねばならない実験もたくさん抱えている為に、所属の研究員達みながみな同時に食事をとることなどない。今日のように午後8時くらいならまだ早いほうで、責任者とそれに近い立場にある大石や不二はヘタをすれば夕食をとれるかどうかすら危ういときもある。
 ずらりと並んだ縦長のテーブルに適当に座り、各々セルフサービスで好きなものを食べるようになっている。
 クラブハウスサンドとコーンスープをトレイに並べた不二は、まださざめき続ける先刻のテーブルの一群をちらりとみやって苦笑した。
「なかなか話が弾んでるみたいだね」
「なにか楽しい話でもあったのかな」
 ご飯に味噌汁、煮物の小鉢、白身の焼魚、と言う典型的なオーダーをつつきながら大石も少し笑った。
「あー、あれねー、3研の子たちです。なんだか、オバケを見た、っていってましたよ」
 大石の三つほど隣、向かいあってパスタ中心の食事をとっていた若い女性二人組が話に入ってくる。
「オバケ?」
「そうですよ。最近よく見かけるって」
 ねー、と彼女たちはうなずきあった。
「もっぱらの噂です。なんか、誰もいない寮の廊下に、足音だけが聞こえてきたとか言って」
 わざとらしく両手を身体の前に垂らしながら、女性の片方がいかにも怖いという顔を作って言った。
「え? やだ、手から血流してる女の人だったってあの子たち言ってたじゃん」
「えー? そんなことないよ、だって白い影だけがふーっと浮かんでてさ」
「先生達、夜遅くなられるときもあるんですよね。見ませんでした? オバケ」
「さあ……」
 問われた不二は苦笑したふりをして、曖昧にごまかした。
 笑う素振りのまま大石の方を伺い見たが、彼は素知らぬ振りだ。とても綺麗な箸使いで口にご飯を運んでいる。
「なんかアレですよね、あの丘の上で自殺した人のユーレイが出るんだ、って聞きましたよ」
「自殺? うそ、やだ、そんなのあったの」
 女性達が取りとめない会話を始める。不二は何気なく食事に集中するようにしながらも、どうしてもその話題には聞き耳を立ててしまうのだった。
「聞かなかったの? あそこで昔さ〜、心中があって〜、でもかたっぽは生き残っちゃって〜、死んだもうひとりが生き残った相手を引きずり込もうと今でもこのあたりをうろうろと〜」
「ぎゃーっ」
 それを聞くともなしに聞きながら、不二は軽くため息をついた。ちらりと前の大石を再び盗み見るが、彼はそんな女性達の会話など何処吹く風と平然としている。
 いい気なもんだよ、とため息をついた不二は、もうそれで大石と、大石に関する(と、不二と大石本人だけが知っている)うわさ話から耳を遠ざけることを軽く決意して、目の前の食事をやっつけることにした。
 それが半分ほど為されたとき、また別の突風が不二のこころを揺らしたのだが。


 そう言えば、と言ったのは同じ研究室に所属する若い青年だった。何かの話の続きに、ふと思い出したとでもいうように彼は口にした。
「そう言えば事務所の人が言ってましたが、不二先生と大石先生、中学校の同級生なんですってね」
 隣に座る青年が無邪気に問いかけてきた。
「あ」
 不意をつかれ、不二は慌てて笑顔で取り繕った。うん、そうだよ、と応じるのが精一杯であったのだが。
「学校どちらなんですか? 大石先生、関西の方からでしたよね」
 とっさに言葉の出ない不二に気づいているのかいないのか。
 青年に他意はなく悪意もない。自分のその言葉が不二に与える恐怖じみたパニックなど想像すらしなかったのだろう。
 だが大石は、別に大した話題ではないと言いたげにさらりと答えた。
「事情があって俺の高校は京都だったけど、中学までは東京だったよ」
「え、そうだったんですか。僕も東京なんです、どこの学校? ちかくかな」
 黙ってくれ、と不二は言いたくなったが、口元は動かない。
 会話はいとも簡単に進み、速やかに言葉は流れていく。
 不二の恐慌を知ることもなく。
「俺は青春学園……ああ、青学って言えば判るかな」
「あ! はいはい、知ってます、知ってます! あそこテニス強かったですよね、俺クラスのやつがテニス部で、青学とやってコテンパンだったって。不二先生と大石先生は何かスポーツを?」
「テニス部にいたよ」
「へえ、おふたりとも?」
「うん、ふたりともね」
 すっと身体が冷えていく。
 思わず息をのんで答えに窮した不二のほうを、大石は見向きもしない。
 どくどくと急激に鼓動の速度を増した不二の、祈るような、まるですがるような願いにも気づかぬように。

「あれ」
 青年が首を傾げる。
「そういや青学のテニス部って」
 心臓が破裂しそう。
 隣で、何の疑問も持たずぺらぺらと話し続ける若者の首を絞めてやりたくなる。
「確か昔、事件がありましたよね。そうそう、何か」
 息が詰まる。
「誰かが事故かなんかで」
 息が。

「大石センセ。ちょっとよろしいですか」
 不二の頭の方から声がかかった。
「――何、忍足君」
「すみません、ちょっと経過で見ていただきたいところがあるんですけど。お食事中で申し訳ない」
「いや、いいよ。――それじゃちょっと失礼」
 まだ何か聞こうとしていた青年に軽く手を挙げ、大石は席を立った。
 その会話のとぎれを好機に、不二はできるだけさりげないように、その青年にべつの話題をふった。
 それは青年が熱中している模型だったかなんだったか、とにかく不二には縁のない、興味もない世界のことだったがその程度の退屈などなんと言うことはない。
 そのほうが心臓の鼓動はずっと静かで、青年に対して根拠のない――いっそ殺意と言っていいほどの憎しみを抱くことも無かったからだ。
 退屈な、不二には何のことだかさっぱり判らない蘊蓄に、いかにも興味深げに相づちを打ちながらもどこかぼんやりとしていた不二は、このとき己の思考に沈みすぎていたのだろう。
 彼らから僅かに離れた場所で、密かに席を立った人影に気づくことはなかった。


 人影まばら……と言うよりも、無人の廊下を歩きながら大石は忍足に問いかける。
「見なければいけない実験はどれかな」
 ちょうど夕食時で、研究棟の人数がもっとも少ない時間帯でもある。
 低い声が、廊下の静寂にゆるりとさざ波をたてる。
「そんなもんありませんよ。不二の手がけたヤツばっかりやから、どれもこれも完璧です。多分よほどのことがない限り、今のも、こっから先のもそうそう大石センセの世話になることはないでしょ」
「……」
「大石」
 ぴたりと足を止め、ゆっくりと振り返った忍足は眼光鋭く、今ではほぼ同じ身長の大石を睨みつけた。
「お前は迂闊なだけか、それとも」
「――」
「ホンマに、自分のこと以外にはなんにも興味がないんかな」
「なんのこと?」
「先に言う。俺はだいたい10年前のお前らの事は知っとるし、場所が此処やってのも判ってる。それに関してお前が今からどうすんのかには興味ないし、止めはせん。けど、ほかの人間巻き込むんはどうかと思うな」
「他の人間?」
「今、お前、嬉しそうにぺらぺら昔のこと喋りよったけどな。お前の真ん前のフジコちゃんの顔色、見たか? 可哀想に真っ青になって、ありゃヘタしたら隣のヤツ締めあげかねんかったぞ」
「……」
「お前が自己トースイで相方の後追いすんのはお前の勝手。けど、それされたら不二がどうなるかわからん。お前なんかにかまうな言うても、フジコちゃん友達思いやから聞きゃせんし」
「ああ」
 にっこり笑った大石のその表情に、不吉な影を見た気がするのは――きっと忍足侑士の幻想であろう。
 どこからか風の唸るような音がほんの一瞬聞こえたけれども、それも恐らく。
 彼を取り巻く空気の冷ややかさに、思わず背筋がぞくりと揺らいだのも気の迷いに過ぎないはずだ。
――たぶん。
「ずいぶん不二が気に入ってるみたいだね。不二本人がどう思ってるかはともかく。まあ、俺も君みたいなタイプは好きだけれどね」
 大石は笑って言った。
「いろいろと興味深い」
「げ。カンベンしてか。男に好きとは言われたない」
「それは失敬」
 動じず変わらず笑って見せてから、大石は、ああそうかと言った。
「君は男に好きだと言うタイプだったね」
 眉根を寄せた忍足にいかにも楽しげに笑いつつも、大石はそれそれ、と自分の唇のあたりを指でつついて見せた。
「不二だろ?」
「ん?」
「その唇」
 僅かに目元を細くして大石秀一郎が指摘したのは、まだ赤い筋を残す忍足の唇の傷だった。
 くすくすといかにも楽しげに笑いながら、手で口元を押さえたりなどもしながら、大石は何でもないことのように話した。
「昔からそうだったよな。試合の度に不二や英二によくちょっかいかけにきていたし」
「言うたやろ。俺は綺麗な子や可愛いもんは好きなん。あんたの猫さんなんか、ちょうどじゃらすの良かったんやけどな」
「英二は可愛いさ。何でも言うこと聞くし、素直だったよ」
「素直、ね」
「うん、そう、とても素直。――いろいろとね」
 言葉に何か違う意味を含ませた大石の表情を、忍足は目をすがめて胡乱なものでも見るように睨みつけた。
 どうしてこうも、次から次へと違和感を感じさせる奴なのだろう。
 人当たりよく仕事熱心で、その実生きることそのものには無頓着かと思わせながら、時折恐ろしいほど冷酷な顔を垣間見せる。
「さて、英二のことはともかくとして、不二が今はお気に入りなんだろ、君の」
「まあ美人さんやし」
「お盛んで。でもまあ、迫ってみたところで徒労に終わるよ、気の毒だけれどね」
 とても。
 そう、とても。
 ちぐはぐな感じがする。
 完全無欠の良識人間に見えたり――あるいはとても危うい、恐ろしいものに見えたりする。
「不二は昔からああ見えてなかなか頑固でね。いったん言い出したら聞きやしないし、てこでも動かない。あれを翻意させるつもりなら、手塚を連れて来でもしないと無理じゃないかな。どうする、今からロサンゼルスに行ってみる?」
「ロサンゼルス?」
「手塚と不二のねぐらがあるよ。なんだったら不二に電話番号聞いて、手塚を呼びだしてみたら? 不二が壊れる前に、不二に俺のことを諦めさせろって」
 そう言った大石は、それを聞かされていなかったのであろう忍足の反応がよほど面白かったのか、ようやく声を立てて笑うのを堪えたと言う様子で続ける。
「冗談だよ、冗談」
「――冗談て……」
 彼はいかにもからかいすぎたというふうに苦笑して、今度は忍足を宥めにかかった。
「ああ見えても大丈夫。一昔前の感傷に流されて危ない橋なんか渡りやしない。大丈夫だよ、不二は」
「大石」
「ちゃんと今何が一番大事なのか判っている。一昔前の友情とやらなんて、もうお互い過去の遺物だ。不二はみきわめを誤るような人間じゃない。なにしろ俺は、俺の邪魔をするのなら、誰が相手でも一緒なんだからね」
「……」
「せっかく手塚と幸せに暮らせている環境と、一歩間違えれば命に関わるような危ない状況。比べるべくもないだろう。そう、不二はとても利口なんだから」
「おまえ、ようそんなこと」
 低く、鋭い声で忍足が言った。思わず、と言う調子だった。
「不二がどんだけお前のこと心配しとる思う。ようそんなこと言えたもんやな、おい、大石」
 思わず掴みかかろうとして忍足が伸ばした片手をひょいと、いっそ優雅に払いのけて大石はにっこり微笑んだ。
「大丈夫さ、不二のことなら。俺のすることで少々傷ついたところで、よしんば壊れてみたって手塚が彼を見捨てやしないよ」
「――」
「と、言うことで」
 口元が、すう、と笑みの形に歪む。
 そう、まさに、歪むと言う言葉がぴったりだった。
 大石秀一郎と言う人間の端正さ、知的さを損なうことなく、ただ氷の彩りだけを強くのせたその表情で、それでも彼は笑んでいる。
 ごくごく当たり前のように、微笑むことが彼は出来るようだった。
「と、言うことで、不二に関して君の出番はナシ。――残念だったね」
 その笑みを――大石秀一郎という人間の所作の一片なりともを表現するのに、その喩えはあまりにも不適切かと思われるのだが、しかし――生粋の悪意の片鱗すら伺わせるその笑みを見て、ようやく忍足侑士も我に返ったとみえる。
 本来の彼の傲岸不遜さが、そこでゆっくり復調し始めたようだった。
「一番タチ悪いな、お前みたいのが」
「ん?」
「一見無害に見える」
 ぷっと大石は吹き出した。
「それで言うなら、君にとって不二周助みたいなのは別の意味でタチが悪いんじゃないのかな」
「何?」
「不二に対してはずいぶん奥手のようだけれど。俺の印象と記憶にある君からは、ずいぶん遠ざかっている行動のように思えるね。君はもっと、そう――狡猾で、処世術の長けた人間だと思っていたから」
「――」
「誰が死のうと生きようと、自分の欲しいものだけ手に入ればいい主義じゃなかったのかな。対象物が壊れてようとどうしようとかまわないだろ、君みたいな人間は」
「俺がエライ破綻してるみたいに言うなあ」
 忍足のその物言いに大石はまた笑った。ずいぶん人の悪そうな微笑だった。
 それまでとはうってかわった、とまではいかないが酷く酷薄な印象だ。
 そうするとどこか似た印象のある彼らであった。たぶん彼らはお互いにとんでもないと否定するのだろうが。
「さて。用がないなら、俺は帰るよ。せっかく人並みの時間に夕食をとれるんだからね」
「――はいはい」
「忍足は?」
「行かせていただきましょ。……これ以上不二の前でいらんこと言わんように見張っとかな」
「そりゃ大変」
 肩を竦めて、忍足は背を向けた大石に続いて歩き始める。
 どうやらこれは一筋縄でいきそうにない。
 忍足の主義から言えば、確かにこんな奴がどうなろうと知ったことではない。
 そう。死にたいのならさっさと思うとおりにすればいいのだ。逆に、何故大石秀一郎が未だに生きているのかが、本当に忍足には不思議なくらいなのだから。
 しかし、不二周助に泣かれるのだけは。
 まこと恋心とは不思議なものだ。目的のものを手中におさめるのに少々力加減を間違えて傷つけたところで、良心の呵責など感じないのが忍足侑士であったが、どうも不二相手だとそれが出来ない。
 あの綺麗な目に涙でもいっぱい溜めて睨みつけられようものなら、お手上げだ。勝てるはずがない。どうにかしてやりたいし、なんでもしてやりたい。……その他いろんなことをしてみたいのも確かだが。

――君にとって不二周助みたいなのは、別の意味でタチが悪いんじゃないのかな

 なるほど、と忍足はぽりぽりと頭をかいた。
 どうにかしてやりたい、どんなこともしてやりたい。ひとりにはさせたくないし、させられない。
 離れれば今どうしているかが気になって、少しでも曇った顔つきをしていればすぐに笑って欲しくなって、少々の無理でもしたくなる。
 今更、この年になってマジ惚れとは、とため息を付きながら、それでも足早になるのは、食堂にひとり残してきた不二が気になったからだ。
 また答えに窮する質問などされてなければいいが、と。
 
 彼らもこんなだったか。
 そんなふうに今更詮無い思いに捕らわれたりもしたのだが、忍足の前をいく大石の背は何も語らない。


 彼らが帰り着いたとき、食堂は少しずつではあるが夕食を終えた人間が引き上げ始めていて、喧噪が少し静まり始めたときだった。
「お帰り」
「ただいま」
 少し様子を伺うような不二の視線は、忍足に受け止められ大石には無視された。
「さ、俺もメシ食―おう♪」
「いいの? なんかヤバい経過あったんでしょ?」
「いや、俺の勘違い、見間違い。どないっちゅーこともなかったわ」
 忍足は不二の隣に陣取った。
 そこは先ほどまで不二と大石に中学時代のことを質問していた青年が座っていたところで、さほど不二の顔色も悪くなっていないところをみると、あれから彼を動揺させるような質問は無かったらしい。

 そのとき。
 食事さめてますよ、何処へ行ってたんですか、と言う声が聞こえた。
 忍足がそちらを見ると、第2研究室の主任技師である高橋が彼らから少し離れた場所に腰を下ろすのが見えた。
 何処かへ行ってたのかな、と忍足はちらりと考えたが、良い印象のない相手をいつまでも観察するほど暇でも悪趣味でも無かったので、彼は同じ1研どうしの大石と、不二との会話に気を傾けることにしたのだった。



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