色はホワイトシルバー。
 大きさは、少女の爪ほど。
 真ん中に少し丸みを加え、その周囲のささやかな飾り彫りを含めても、そう、ちょうど桜の花びらほどの大きさのロケットペンダント。
 よく見ればとても小さな蔓草に似た模様が刻んであって、それを目で追うだけでも精巧に繊細に作られたものだと言うことが判る。
 大学の研修で英国に訪れた際、ほんの1時間ほどの自由行動のあいまに、街角のアンティークショップで偶然にも見つけた。
 以前から"それ"をおさめておく場所をいろいろと考えていたので、ちょうど良いとばかりに何の迷いもなくそれを手にした。
 たとえばこれが祖国日本で、必要以上にきらきらとさせたショーウインドーや、派手なガラスケースの中で並んでいたなら、それほど興味を引くものでもなかったと思うのだ。
 静かな街並みの素朴な店先。
 僅かに色あせたエンジ色のビロードと、おそらく手編みのクラシックレースの飾り襟に、まるで眠るように埋もれていた美しいプラチナ細工。
 格子ガラスの向こうからの穏やかな日ざしを浴びながら、何ヶ月も、ひょっとしたら何年もそうしていたのだろう。
 その穏やかで優しいものの中でゆっくり眠る小さな細工物こそが、"それ"にふさわしい寝床かと思われたのだ。
 持っていた全財産をはたくつもりでいたのに、案外安価であったのに驚いた。
 優しげな初老の女性は微笑みながら恋人ヘのプレゼントかと聞いたので、思わず素直にそうですと答えてしまった。
 派手ではないが丁寧に、そして愛しむように大事に包んでくれたそれは遠く海を渡り、そうして。
 今は、大石秀一郎の胸にひっそりしまわれている。
 "それ"を大事に包み守りながら。


 無論その辺りの事情を不二周助が知るはずもない。
 不二の無言の問いかけに、その銀色の細工物を指輪だと応じた大石秀一郎の意図は分からないままだった。
 そのロケットに閉じこめられているのが、言葉通り指輪そのものでないことくらい、不二でなくとも誰の目にも明らかだ。少女達のピンキーリングも、まして生まれたての赤ん坊を祝福して作られるベビーリングですら、あんなささやかなロケットにしまわれる大きさではない。
 何かの比喩か、それとも。
 考えながら歩む間に不二周助は、自分たちの居室のあるフロアの一番端。
 「Y.OSHITARI」のプレートがひとつだけ掲げられた、銀色のドアの前へたどり着いてしまっていた。


「いらっしゃい、お姫様」
 ドアが横滑りに開き、部屋の主が入口まで迎え出た。
 黒のシャツとジーンズという、長身の彼のスレンダーさや黒髪に映える端麗な容姿を際だたせる姿で、それこそ女性を迎えるように手をさしのべてくる。
 その手はきっちり無視して、不二周助はすました顔で入室を果たした。
 自分たちの部屋と比べ、間取りや備品は別段変わるところがない。ただ、あまり物を持たない自分と大石の部屋はどうしても殺風景になりがちであった。
 ひきかえて忍足の部屋は、ぱっと目を引く最新型らしいテレビや、カラフルな表紙の英語のファッション雑誌に加えてゲーム機まで持ち込んである。
 何か飲むかと問いかけながら開けられた冷蔵庫の中には結構な種類のドリンクと簡単なつまみなども詰め込まれていた。
 今は一人でこの部屋を使っているからいいようなものの、二人で共用のはずの冷蔵庫にあれほど詰めこんで、もしこの先誰か別の人間とこの部屋で暮らさなければならなくなったら、どうするつもりなのだろう。などと、よけいな事を不二は考えた。
 自分たちの部屋の冷蔵庫には、ビールが2本ほどとミネラルウォーターが数本転がっているだけだ。大石はアルコールを飲まないわけではないし、自分の棚の中に洋酒をおいているのも知っているが、それでもあまり酒精に捕らわれた姿を見たことはない。
「ビールでええ?」
「あ。うん、ありがと」
 遠慮なく受け取って、プルタブを引いた。
 部屋の主、忍足侑士は机に付属する事務椅子に、不二周助はベッドに腰を下ろして向かいあった。
「俺のほうも別件でフジコちゃんに用はあるんやけど、とりあえずはこっち」
 ひら、と再び、不二の目の前をピンクの封筒が舞った。
「どうぞ」
「……」
 なにがどう、とも言わずに忍足は封筒ごと不二の手に渡す。
 不二も黙って受け取り、飲みかけのビールと封筒とをサイドテーブルに預けて、一枚一枚写真を繰り出した。
 忍足は写真に見入る不二に視線を注いでいる。
 ひとくち、またひとくちと殊更ゆっくりとビールを飲み下すその薄い唇から、ちらり、と舌が覗いたが、無論不二には知る由もない。

 写真には親睦会の様子がいろいろと映し出されている。繰られる写真の後半になるほどだんだん赤ら顔が増えていき、エリート揃いとは言え全体的に若い年代が多い1研と2研の面々が非常に気持ちよく酔っぱらっていく過程が写し出されていた。
 異様なのはその赤い光だけ。
 写真の最初の方は、誰かが悪戯をしてマッチでもすったかというような微かなゆらぎから始まった。
 ピースサインを突き出す青年達の、その端に写って誰かと話をしているであろう大石秀一郎の肩に、ぽうと灯った小さな火のように。
 忍足侑士の差し出すグラスに苦笑している彼の姿を横から撮ったものは、まるで彼の肩から深紅の炎が吹き出しているようだった。
 不二が大石の隣に陣取り、忍足がやってきたところへあの女性が声をかけた。声をかけられそちらを向いた三人の姿が写されている。
 大石の左肩の辺りは、かろうじて向こうが透けてはいるもののべたりとした赤い浮遊物で覆われていた。
 彼女は、三人を撮るのだと言って、壁に並んでくれるように頼んできた。
 後で焼き増しをしてくれと他の女性が口々に言うのに、彼女はまかせてと頷いて、不二と大石と忍足が壁に並ぶ間も幾度かシャッターを切っていた。
 赤い色は濃くなっていく。画面を占拠するほどの事はないが、ただ大石の肩という位置を動くことなく、まがまがしい色合いを増すばかりだ。
 そして。

――『最後の一枚』。

 揺らめき立つ赤い色は、その写真にだけは現れていなかった。
 しかし、どうしようもなく決定的な物が、大石の左肩の部分に写り込んでいる。
「これ……?」
「うん。あんとき、俺ら、壁ぎりぎりに並んだよな。覚えてる?」
「……・そうだったね。部屋の端で、余計な連中が茶々を入れに来ないようにって、部屋の端の壁にもたれるようにして……たよね」
「そ。つまり、俺らの背後には、誰もいなかった。いるようなスペースもなかった」
「――」
「せやけどそんなもんが写っとる」
 写真に向かって、一番左に忍足侑士。右手はジーンズのポケットに、左手はその隣の不二の肩にのせられている。
 真ん中に不二周助。手のやり場に困って、胸の前で両手を組み合わせている。
 向かって一番右に大石秀一郎。腕を軽く組んで、うっすらと微笑んでカメラに視線を合わせている。背後は白い壁。人影は、彼ら三人以外、ない。
 しかし。
 すぐに、異常は発見できた。
 大石秀一郎の左肩、今の今まで赤い光がわだかまっていた場所に、こんどははっきりと。

「……これ」
「なんに見える」
「何って……」
「人間の手、にしか俺には見えんが」
 不二もゆっくりとうなずくしかない。どうやっても見誤りようのないほど、それははっきりと写っている。
「左手……だね」
 大石秀一郎の肩に、背後からまるですがるような手。
 何やら赤いものを指にまとわりつかせて、掴みかかっているような。
 その赤い物は最初血と見えなくもなかったのだが、よくよく見れば何か紐のような物が巻き付いているだけのようだった。
「赤い糸みたいなん、巻きついとるよな」
「……」
「確かにあん時、後ろには誰もおらんかった。それにもし大石の後ろに誰かおってそんな角度で肩に手をかけたら、不二と大石の間に影の一つも写るはずやのに、綺麗なモンや、壁のほかにはなんも見えん」
「……」
「不二?」
 薬指辺りから手首にかけてだらだらと巻き付いている赤い細長いもの。
 その手を……おそらく生き人のものならぬ手を凝視していた不二の顔が何かに思い当たったのか一瞬強ばり、そうして。
 なんとも言えない哀しい、何かを想って愛しんでやまぬような表情になったのは、すぐだった。
 どうかしたのかといぶかしむ忍足のことなど目に映っていないように、不二は呟いた。
「ああ、そうか」

 くらりと、酩酊に似た感覚が襲う。
 嗚呼、と天に向かって嘆きたいような、叫びたいような、そんな感覚が。

――ああ、そうか。
――だから"指輪"か、そういうことか。
――大石。
――大石、君は。

 なんてことだろう、と不二は目を閉じた。何かを嘆くように。

 彼の目に生者は映っていない。
 映ることはないのだ、この10年、そして今からも。
 彼の目に映るもの、耳に聞こえるもの、そしてその心を動かすのは、今も昔もただひとりの死者だけなのだ。

「不二?」
「――」
「何か思いあたることでもあんの、その手」
「……」
「――大石の、中学校ン時の片割れの手、とか思うてない?」
 きゅ、と唇を噛んだ不二の表情をちらりと伺い見て、忍足はもう空にしてしまったビール缶をゴミ箱へと放り投げた。狙いあやまたず放り込まれた缶の跳ねる音を聞きつつ、彼ははあとため息をついて天を仰いだ。
「……・なあ、そいつが死んだん此処やろ。あの、こっから見える桜の樹」
「――なんでそう思うの」
「当てずっぽ。――と、言うのは冗談で……まあ、こないだ街降りたときに、ビール買いに寄った酒屋のオバはんが噂好きみたいで、いろいろと。言うとくけど、俺はなんも聞いてへんで、向こうから喋りよったから」
「――」
「桜の樹の下で心中したんは中学の男の子二人で、片方はまだ息があって病院連れてかれて助かったけど、もう片方は見つかったときもうあかんかった、ってな。……それ以来、あの桜は花をつけん"咲かずの桜"や、言う話も。地元では結構有名みたいやで」
「――花が……咲かない」
「そのへんは噂やろけど。だいたいこの辺りまで桜の時期に来たりする連中がおらんやろ。それについては眉唾モンやと、思うけど、たぶん」
「……」
「フジコちゃん、時々思いつめた顔してあの桜、見とるしな。その話聞いて、ああ、ひょっとしたら、とは思うたよ」
 そこまで言って、忍足は未だ不二の手元にある写真を見やった。
「赤いな。あの女の子が、赤い光はよくないって言うとったけど、ホンマなんかな」
「――僕の姉さんがそう言うのに詳しくてね。赤は……確かに赤い光が映る写真は、よくないって言うのは聞いたことあるよ。物凄い恨み、憎しみ……とか」
「恨み?」
「たとえば生きてる人間に対しての執着。こっちに、自分のいる暗い世界に引っ張りこんでやろうって、手ぐすね引いてる感情の色……」
 そこまで言って、不二は自分で小さく首を振る。
「――あの、ね。忍足」
「はいはい、大石にも、まして他の誰にも言うてない。俺はテニスのことさえ一言たりとも口にしてない。どこから何が漏れるかわからんからな。不二も、あんまり中学校の部活のこととかは言いなや。結構自分ら有名人やってんからね、天才ちゃん」
 不二はぼんやりと、まだ心ここにあらずという状態だったが、忍足のその一言でいくらか気を取り直してみせたようで『ありがとう』『ごめん』と、続けて呟いた。
「フジコちゃんは、此処が、そう、って知っとった?」
「うん。辞令が出たときすぐ判ったよ。僕一度だけ手塚と来たことあるもの、花もって」
 そのとき手に抱えていたのは、色とりどりのスイートピーだったかなとぼんやり思い出す。踏みしだかれて土にまみれた桜の花びらの上に、まるでいたわるように撒かれた優しい色の花。
 忘れようにも忘れられない、胸苦しい追憶に取り込まれていきそうな不二を引き戻したのは、忍足だった。
「不二」
「――」
「不二周助」
「なに」
「事務所に言うて、俺の部屋のほう、来ん?」
「?」
「俺と同室のほうがフジコちゃんにはいいと思う」
「なんだよ、急に」
 睨みつけるような不二を少し頭をかしげさせて見つめた後、忍足はゆっくり彼の元へ歩み寄ってくると、ベッドの隣へ腰掛ける。
 急に彼が身体を寄せてきたので驚いた不二は慌てて身を引こうとしたが、その手をぐいと掴まれ顔を間近に寄せられたので、思うように距離を置けなかった。
 妙に真剣な顔をして、忍足侑士は囁いたのだった。
「大石秀一郎とは一緒におらんほうがええ」




「唐突だね」
 たちまち警戒と敵意に似た色を浮かべた不二は、彼が――忍足が掴む手を緩めればいつでも彼を払いのけられるように、身体のバネに徐々に力を込めだした。
「何。僕が取り殺されるとでも言うの」
「そう言うんやない」
「じゃあ何だよ。君ってもっと現実主義だと思ってたのに、どうかしてるよ」
「俺に言わせりゃ、危険を承知で助けに入った相手に、あーんな睨みきかせるほうがよほどどうかしとる」
「……」
「死にたいんなら人様に迷惑かけんでさっさと一人で死んだらええ」
「――退いて。そのことで君とは話したくない」
「冷たいな。俺はこれでも心配しとるんやで」
「心配?」
「そ」
 間近に顔を合わせてきた相手を睨みながら、それでも不二は一歩も引こうとしない。それでも相手の唇が自分のそれのすぐ近くまで降りてきたときには、さすがに身を引こうとしたが。
 忍足の左手は不二の後頭部をぐいと掴み、不埒なくちづけに持ち込もうとはしないまでもそれ以上下がるのを許さなかった。
「あいつと一緒に暮らしたら、アンタもどうも良くないほうに引きずり込まれるような気がする」
「心霊写真を信じてるわけ? 君はずいぶんなリアリストだと言ってたじゃない。僕もそうだと思ってたんだけど」
「そう言う意味とちがう。大石が抱え込んでる彼奴自身の良くないもの……意味わかる?」
「――」
「もうちょっと大石が動揺してるとか態度がおかしいとか、せめてあの桜のほう見てぼんやりしてる時があるとか、そういう様子があるんなら俺もこんなこと言わん。大石の性格、言うても俺もそんなにつきあい長いわけやないから大したことも言えんけど、不二」
「――近寄らなくても聞こえてる」
「あいつ、平静すぎる。桜の方を見てぼんやりしとることなんかいっぺんもない。朝から晩まで真面目に仕事して、適当にみんなと話し合わせて笑うて、それなりに酒の席にもつきあいして。それだけや。言うてみたら普通すぎる。不二でさえあんな目して桜見てることが何回もあったのに。普通に生活できるような性格か?」
「……」
「相方だけ死なせたような場所で」
 わざわざ不二の気に触れるような言い方をした忍足に、かっと頬が熱くなる。
 ひゅ、と風を切って不二の、掴まれていない方の白い手が閃いた。
 そのまま大人しく撲たれるような忍足でもなかったので、余裕さえ見せてもう一つの手も掴み取る。
「う、わっ」
 両手をとられたことに焦って力ずくで振り払おうとした身体はあえなく押しとどめられ、その長身にのしかかられて柔らかいベッドのクッションに沈んだ。
「……何、するんだよ、退いて」
「大石のヤツ、あいつ、おかしい。絶対どっかイってもうとる。よう考えて、不二」
「――考えるよ。だから退け」
「いいや、不二は考えてない。考えるのが怖いんやろ?」
「失礼だね、君。僕が何を怖がってるって言うの」
「あいつが普通すぎるから怖いんやろ。普通に生活してるふりして、思わせぶりにペンダント持ってたり、あわやの場面で助かる努力をしてみんかったり。……そうやな、俺は前にも不二に言うたな。あいつは“死ぬこと”を諦めてない、言うて」
「――」
「だから俺は、あんまり大石に関わらせたない。大石が目指してるもんがなんとなく判るから、なおさらや。なんでもしてしまいそうやからな、フジコちゃんは」
「なんでも、って」
 頬に押し当てられたものが、この男の唇だと気づくのに少しかかった。
「なんでも、って何」
「そう、たとえば大石を助けるとか、まっとうな道を歩かせるとか、正気に戻してちゃんと“こっち”で生きさせよう、とか」
「――」
「出来もせんようなことを」
「お……!」
「死にたい奴は死なせたったらええ。でもそれにアンタがつき合う義理はない」
「忍足、君……っ!」
「自分から助かろうとせん奴を助けようとしたら、一緒に溺れ死ぬのがオチやと言うてる」
「――」
「おまえには、もう助けられない」
 見下ろしてくる顔は真剣だった。
 彼の顔が近づいてくるのを呆然と見上げていた不二であったが、触れた彼の唇はほんの少しかさついていて、不二の唇を刺激した。
――その僅かな刺激で十分だった。

「……って」
 小さな声を上げて忍足が離れる。鍛えようのない柔らかい皮膚は、いとも簡単に食い破られた。
 彼が身を引くそのタイミングを見計らって、不二は何の呵責もなく下腹を蹴り上げようとしたが、とっさに身を引いた忍足の動作のせいで、決定的な打撃とはならなかった。
 まだ唇の傷の方が効いているくらいだろう。
「どうせ、僕には出来ないよ!!」
 忍足の言葉は、不二の中の何かをいたく刺激したようだった。
 穏やかで、ある意味ここへ来てからの大石と並ぶ笑顔の鉄面皮である彼は、忍足ですら思いも寄らぬ勢いで暴発した。
「そうだよ、どうせ僕は10年前、大石と英二を助けることも出来なかったよ!!」
 忍足は唇に手を当てる。切れて血が滲んでいるようだったが、不二は気にせず続ける。
「あいつらが好き勝手言って騒いでるのを、どうにもできなかったのは僕だよ! あの子たった15だったのに、酷いことされて、酷いこと言われて追いつめられて、英二をあいつらが死なせるまで、確かに僕はどうにもできやしなかったよ! 頑張ってたのに、英二あんなに頑張ってたのに、僕は友達だったのに、何にもできなかったんだよ、僕が一番よくわかってるよ!」
「――不二」
「だからせめて大石だけはって思うことの何がいけないんだよ! 大石がどう思ってるかは知らないけど、英二みたいな目にあわせたくないって僕が思うことの何が……!!」
「不二」
 忍足侑士は立ち上がり、息が切れて続きを口に出来ないでいる不二の肩に手を伸ばした。宥めるように置かれた手に、もう不埒な目的は伺えなかったので不二もそれを払わずに置いた。
 たとえばこれが手塚国光であったなら、不二の訴えにその痛々しい心ばかりを汲んで、彼の言葉に否やを唱えることはなかっただろう。
 しかし手塚の居場所は不二からは遠い。
 遙かに遠い。
 それを不二が思い知らされるのは、忍足の次の言葉だった。
「大石は、もうお前達なんか必要じゃない」
 息をのんだ。
 はっきりと否定された言葉に怒りよりも、別の感情が沸いてきたのは、それがおそらく真実であるからだったのだろう。
「大石には、もう誰も要らない」

 そんなこと、と言いかけて果たせなかったのは、不二にも判っていたことだったからなのだ。
 大石秀一郎は、もう誰も、何も必要としない。
 生者のうちの誰一人、己の心に招き入れたりしない。

 おそらく彼は誰をも怨んですらいない。
 憎しみも何もかも、もう彼には遠い。
 そんな感情などとうの昔にやり過ごしてしまって、彼の望みは単純にしてただひとつだ。

 彼が胸に持つものを“指輪”だと言った、大石の言葉の意味を、ロケットの中身さえ不二はおおよその見当がついてしまっている。
 そうして赤い紐を巻き付かせた生き人のものでないあれが、確かに英二の手だと言うことも。
 棺に横たわった彼の手に、最後までそれが握りしめられていたことを不二は知っている。

 そうして。
 赤い赤いあの光が、誰かの言ったとおりどす黒い感情の現れだというなら。
 確実に、確実に彼は、生きる方向から遠ざかりつつある。

 
「――不二」
「……帰る」
 いつもの彼らしくなく、低くかすれた声で不二は投げ捨てるように言った。
「写真預かっといて」
「わかった」
 忍足ももう引き留めようとはしない。
「いろいろ、いらん事まで聞かせて悪かった」
「――」
「部屋まで送ろか」
「――要らない。ついてこないで」
「そうか」
 気をつけて帰れ、と言う忍足には振り向かず、不二は小さな声で尋ねた。
「君のほうの用って、なんだったの」
「ん? いや、もうええ。また機会があったら」
「……そう」
 どこか危ない足取りで部屋を出ていった不二の背を見ながら、忍足は噛みつかれてまだ血の滲む唇を指先で撫でた。
「あそこまでいっといて決められんとは、俺も“まだまだ”やな。それにしても」
 それにしても、と忍足はずれた眼鏡を中指で押し上げながら、真っ白い天井を仰いだ。

「大石もやけど、ありゃフジコちゃんも相当キとるなあ……」



 間違っている、と言う言葉を聞いた。
 10年前、何度も。
 
 男同士でなんて、間違ってる。

 好きなだけなんだけど間違いなのかな、と呟いた親友の、そのころにはもうずいぶん痩せてやつれて、疲れたような横顔が印象に残っている。
 実際それが、生きている彼を見た最後だったから余計かも知れない。
 次に彼に会ったとき、もう彼は堅苦しい儀式めいた白の色彩の中に押し込められていて、もうすぐ棺の中に納められようと言うときだった。
『この子ね、大石くんと手を繋いで、紐でぐるぐる巻きにしてたみたい』
 それをどうしても離そうとしないの、と菊丸家の長女が泣きはらした目でうっそりと微笑んだ。
 彼の手は形式通り胸の上で組まれていたがそれは何処かいびつな様子だった。手の中に握り込んでいるのはくだんの紐の一部のようで、そのせいで型どおりに両手を組ませることは出来なかったようだ。手の外側に見えていた紐の大部分は父親によって切り落とされてしまったらしいが、それでも紐の端を握りしめた手だけは、何故かどうしても開かせることが出来なかったらしい。
 死んでからまで好きにされたくないという彼の小さな抵抗のようで胸が痛んだ。
 彼らを案内してくれた菊丸家の長女のヒステリックな叫び声が聞こえてきたのは、不二達がその家を辞した直後だった。不二達と入れ替わりに訪れた教師と、そして父親を罵り続ける声。
 終わりのない慟哭は、耳にこびりついている。

 間違っている、と人は言う。
 ではそもそも何に照らし合わせて、間違っていると言う断を下すものなのか。
 常識か。
 社会通念か。
 理論か、正論か、それとも倫理か。

(――あのとき)

 薄暗い廊下を、一歩また一歩と重く歩きながら、のしかかるような己の心に不二は耐えて思考する。

 あのときと同じ、理不尽な正論を振りかざそうとしているのだろうか、自分は。
 優しいばかりの恋ごころを、何の遠慮もなく踏みにじったあのときの彼らのように。
 自分にその力があればきっと八つ裂きにしていたであろう彼らと同じ論理に基づいて、死に向かいたがる大石のことを糾弾するのだろうか。
 
 生きろ。生きて、まっとうに生活をしろ。間違いなど忘れてしまえ、くだらない間違いから死んだ者には気の毒だが、生きてる者は生きてる者で楽しくやろうじゃないか。

――いいや、それとも。

 死なないで。君が死ぬと僕がイタイから。君達を助けられなかった10年前の無力さを未だ悔いている、哀れな僕をこれ以上苦しめないで。僕の罪悪感を、力の無いことで傷つけられた僕のプライドを、これ以上刺激しないで。

――そんなところ、か。

 不二の口元にこれ以上はないほど酷薄な微笑が宿った。
 それは確かに冷酷だったが、己に対するこれ以上は無いほどの嘲笑だった。

 握りしめられた、あのときのあの子の手。
 その手の中だけにようやく守ることの出来た、ちいさな誓い。
 それ以上に小さな、ささやかな銀の細工物に閉じられた大石のその願いを、間違いだと糾弾するのか、この自分が。
 あれほど憎悪した連中と、同じ愚を犯そうというのか、この自分が。
 10年前。
 桜の下で死んでいたのは、自分と手塚だったかもしれないのに。
 そう呟いて泣いたひとを、よく知っているのに。



 さくら さくら
 やよいのそらは


 ふと歌声が耳に届く。
 微かに唄う声。低い、とても優しい男の声。
 いったいどこから聞こえてくるのか、と不二はくるりと周囲を見やる。
 耳を澄ませ、息を潜めなければ聞こえないような、微かな歌声だ。


 みわたすかぎり
 かすみかくもか
 においぞいずる


 何処かで聞いたような声だ、と足を止めて考えるうち、それがルームメイトにして中学時代の同級生の彼であることにふと思い至る。
 そういえば、彼が――大石が唄うところなんて、あまり聞いたことが無かったかも知れない。音楽の授業なんてのもあのころは確かにあったはずだが、クラスが遠すぎて一緒になることはなかったし、部活の皆でカラオケに行っても滅多に人前で唄うことはなかった。
 音楽の授業で彼と一緒になったはずの自分の現在の「相方」を思い出して、そう言えばどんな顔して歌なんて歌っていたのかと考えて、僅かに口元がゆるむ。

 その、とき。

――ひたひた、ひたひた。
――ひたひた。

 足音が不意に響いた。
 人気のない廊下の、このフロアに。
「忍足、ついてこないで良いって」
 懐かしい追想を断ち切られて忌々しげに振り返った不二であったが。
 そこに忍足侑士の、あのどこか飄然とした空気をまとわらせた長身の姿など見えない。
「――え?」
 そこには、同じように立ち並ぶ銀の硬質な扉があるだけだ。プレートが掲げられていない部屋さえいくつか見える。
 廊下を照らす灯火も何故か今日に限って薄暗く思えた。

 ひたひた、ひたひた。

 足音は響く。
 素足を遠慮がちに押し当てて歩いているような、そんな音が響いている。
 いや、近づいてきている。
 不二はもう一度自分が今来た廊下を振り返り、そした再び行こうとしていた道の先を伺い見る。
 寮のフロアはまっすぐなIの字型で、片側に居室、もう片側に娯楽室や浴場と言った部屋に振り分けされている。単純明快なその作りでは、室内ならともかくまっすぐな廊下の何処かに死角など生じようはずもない。
 足音は近づいてくる。
 確かに近づいてくる。
 なのに、不二の目には誰も映らない。
 ぞっとした。

 来る。近づいてくる。
 ひたひた、ひたひたと、まったく調子を変えないで。
 廊下は薄暗く、空調はきいているはずなのに何故かひんやりとしている。
 不二は動けない。薄闇を凝視しても何も見えない。

 ひたひた、ひたひた。
 ひたひた。

 近づいてくる。
 そこまで。
 もうすぐ。
 傍らまで――。

「……っ!!!」
 悲鳴を上げなかったのは、我ながらよく出来たと思う。
 足音は、吹くはずのない風とともに不二の傍を通り抜けたかと思うと、急激に小さくなり聞こえなくなった。
 そこでようやく呪縛からとけたように、不二は再度あたりを見回す。
 なにもない。
 誰も、いない。
 かき消えた足音のその代わりに不二の耳に届いたのは。
 低く歌い続ける、あの声だけだった。





 その、僅か数分後。
 不二周助が立ちつくすフロアから、3つ上の階、でのこと。
「ううう、遅くなったなあああ」
 薄暗い廊下をボヤきながら歩くのは、白衣を着た若い女性ふたりだ。
「あああ、あん時高橋の大バカがいらないことするからよねえ」
「そうそ。みっともないよね、いい年こいてあれ、ヤツあたりなのよ、知ってる?」
「ヤツあたり? 誰に」
「大石センセ。ほらあ、高橋のやつ、アヤにふられたでしょ。アヤって大石センセが好きなんだって」
「ん? うん、でもアヤさんは大石先生には断られたって」
「うん、で、ふられたから今がチャンスだとか思ったんじゃなーい? 高橋のバカ、懲りずにまたアヤに迫って、んで、また」
「ふられたの。バッカでない。いやだなあ、まさかそれでヤツあたり〜、とかやってんの」
 ひとしきり小さなブーイングを漏らして、まだどこか幼い影を漂わせる彼女たちは暗い廊下を、仮の住処へと急いだ。
「だよねえ。まー、大石センセ優しいし、大人だし、アヤみたいな子が惚れるのは判る。……しかし、忍足チーフの大人の魅力がわかんないとはいけないなー」
「大人って、あれはまた大石先生とは違うオトナ系だよね」
「そーそ、なんかさらっとイケナイ遊びとか教えてくれそうで」
「きゃー♪」
 イケナイ遊びって何よ、と言おうとした彼女は、ふと顔を上げる。
「なに、どしたの」
「なんか、聞こえない?」

 ひたひた、ひたひた。

「足音じゃん。誰か帰ってきてるのよ」
 振り返ったが、彼女たちの目には誰も、何も映らなかった。
「――あ、れ?」

 ひたひた、ひたひた。

 自分たちの来た方向と。行こうとしていた、方向と。
 二人が代わる代わる両方を確認するが、何一つ異常は認められなかった。
 誰一人、いるわけでもない。音だけが響き続けている。

 ひたひた。

「ちょ、ちょっと……」
「ねえ、やだよ、ねえ……」
 あろうことかだんだん近寄ってくるその音が、どうも尋常ならざるものだと言うことに気づいて、彼女たちはたちまちのうちに恐怖で声も出なくなってしまった。
 身体を寄せ合う。逃げ出そうにも足ががくがく震えて、彼女たちはその場で怯えたまま固まってしまった。

 ひたひた、ひたひた。
 ひたひた。

 ひた。

 足音が止まる。
 彼女たちの間近で。
 思わず後ろを振り返ってしまった二人の目には、相変わらず何も映らなかったが。
 彼女たちが後ろを振り返った瞬間、そこに何も無いことを確認した瞬間、必死の思いで移動させたその視界の端に。
 白い影がゆらめいた。

 真正面から見たわけではない。
 彼女たちの目の端をかすめただけだったそれは、確かに人のかたちに見えはしたがしっかりと確認することは出来なかった。
 ようやく押し出された彼女たちの恐怖の悲鳴に追われるように、その白い影は一瞬で闇に溶けて失われたのだった。



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