ざわ、と入口近くで上がった複数の声に、不二周助は顔を上げた。
 研究室の入口近間にいた数人の人間のうち、女性に機器の操作指導をしていた忍足侑士も続いて顔を上げ、しばらく様子をうかがっていたがすぐに入口へと向かう。
 ドアの傍にいたのは、後ろ姿で大石秀一郎であろうと判った。
「なに……どうしたのかな」
 誰言うともなく呟いた不二に、傍らで薬品チェックを手伝っていた薬剤師の青年がすぐに眉間にしわを寄せる。
「第2研の技士の高橋チーフですよ。また来てる」

 研究所が本格稼働を初めてほぼ一ヶ月。
 初期の実験の準備をほぼ終え、しばらくは過程を観察するだけのゆるやかな業務の日々が続いている。最初でこそ実験室や無菌室に入り浸りで、人間よりマウスと過ごした時間の方が長いという状態だった不二も、ようやく事務所で簡単な検証や実験経過による調整などを行えるようになっていた。
 使用した薬品、薬剤に関する在庫の照会に立ち会っていた不二の耳にそのとき聞こえてきたのは、不二にとっては初めて聞く声だったが、研究室の人間にはここしばらくでおなじみになっているらしい。
「また? 最近、よく来るの? 僕あんまり見ないけど」
「そうですね、ほとんど実験室じゃなくて、こっちに顔出して文句言いますし」
「文句?」
 ええ、と青年は嫌な顔をしたまま、入口に顔を向ける。
「下らないことなんです。電話の態度がよくないとか、自分に最初に報告しなかったとか、リストの文字が小さいとか。ここ最近、いつも大石先生を捕まえてねちねち言ってるんですよ」
「おやまあ」
 辛抱強く応対している大石の躯の影から僅かに顔が見える。高橋、と呼ばれた男は自分たちと同じくらいか僅かに年上、と言ったところだろう。注意して聞いてみれば、困るんだよね、前にも言ったと思うけど、第1研は2研と違ってお忙しいんだろうけど等等、それはもう姑根性丸出しの嫌みなお決まりばかりだ。
「なーに、あれ」
「よく聞いてるとあの人の文句、実は仕事あんまり関係ないんですよ。ほとんど大石先生に絡みたいだけじゃないですかね」
 青年はいかにも不快そうにため息をついた。
「大石先生が強い物の言い方をなさるような方じゃないって知ってて、あんなふうに絡んでくるんですよ、まったく」
 大石が中心となる第一研究室は、この研究所の最大の目的である新薬開発の中心となるチームだ。集められているのは若手と言っても、飛び級だの医大首席卒業だの果ては海外で博士号申請中、などと言った、そうそうたる肩書きを持つ顔ぶればかりであった。確かに大石や不二などは年齢的に下の方だが、中心となる大石秀一郎のひととなりはすぐにチームのメンバーに知れるところとなった。もちろん、そうなれば誰も、年齢差ごときを理由に反感を持ったりはしなかった。
 もともとみな若く、年功序列の習慣からは程遠い分、ものの考え方もやわらかいのかもしれない。
 不二の傍らにいるこの青年も30歳間近で大石よりも年上だが、大石が彼に対しても年上に対する礼儀を一切崩すことはなかったので、もうすっかり出来た先生だと心酔している。
 まあなんかジジむさいし貫禄もあるし、と不二は密かに思っていたりするのだが。

「ああ、だから今度から、俺が言いにいけばいいわけやね」
 珍しく、忍足が関西弁で大声を出した。
「つまり、大石が緊急のオーダーを、昼食休憩中でどこにおるかもわからんアンタに直接通さんで、サブに言うたのが気にくわんと言うわけや。責任者の自分やないもんがあつこうて、何か間違いがおこったらどうするんやとそういうわけや。2研は、そういう技士しかおらんのかい」
「何?」
 気色ばんだ男をせせら笑って、忍足が肩をそびやかした。
「だから今度から俺がそっちへ行かせてもらうわ、直接な。おんなじ仕事しとるわけやし、間違いもないわ。あんたがおってもおらんでも、心配せんでもきっちり処理しといたる。伝票も文句言わせんくらいキレイに書いたるから安心しい」
「いや、そういう意味じゃなくてだな」
 まだ何か食い下がろうとする男を、その長身で見下ろしながら忍足は畳みかけるように言った。忍足君、と大石が止めようとするのを手で押しのけて彼は続けた。
「何が違うんや。俺かてアンタと肩書き一緒やで。まさか自分に出来る仕事は俺には無理や、とか言うんちゃうやろな。そらナイよな?」
「俺は大石先生と話をしてるんだ、君は関係ないだろ」
「何が話やねん。さっきから聞いたら根性悪のババアみたいな物の言い方しかしてへんやろ、こっちもヒマと違う。ああ、もちろん、あんたんとこも大忙しやろ。それやったらさっさと取り決めして、はよお互い仕事戻ったほうがええんちゃう?」
「――し、失礼だろ、君、年上に向かって」
「失礼?」
 ぎら、と忍足の目は光っていることだろう。
「お前の物の言い方のがよっぽど失礼じゃ。チームリーダーのドクターに対して、その物の言い様はないんちゃうかな。ここの所長サンそーゆーのにはお堅いで。さ、判ったか。判ったな? ほな、そゆことで、ばいばーいっ」
 男の躯を押し出して、ばん、とドアをとじる。
 と、研究室の中からは(機器から手を離せない者を除いて)期せずして拍手が湧き起こったのだった。
「や、どーもどーもぉ」
 ひらひらと脳天気に手を振る忍足に、傍らで額を押さえている大石が目に入った。
 と、とじられたはずのドアがちゃっと軽く開いて、外からまた青年が――先刻の高橋とやらとは違う青年が顔を出す。
「大石先生、忍足チーフ、申し訳在りません、ご迷惑をおかけして」
 どうやら、大石が緊急のオーダーを渡した「サブ」の役職に就く若者のようだった。
「や、えーよえーよ。あんたのせいと違うから」
「そうだよ、君のせいじゃないよ。俺もちゃんと高橋君に確認しなかったのがいけなかったんだし」
「いや、ホントに、申し訳ありません。僕の報告のしかたも悪かったんです。なんか、高橋チーフ、最近ちょっと」
「あー、そうやな、ちょっと1研を……っつーか大石目の敵やな」
「ごめんなさいっ! 2研はほんとに大石先生や忍足チーフに対してどうこうなんてそんなことありませんからっ」
「判っとるって。いつも悪ぃな、ばたばたさせてもて」
 ぽんぽん、と、青年の肩を叩いた忍足に同調して、大石も笑った。
「そうだな、ほんとにいつもすまない。ねじこみ仕事ばかりやらせてしまって」
「そんなことありませんよ。それは僕らの仕事ですし、無理な事なんて」
 まだ謝り足りなさそうな青年を、今度は違う方向で大石はなだめなければならなかった。
 ようやくドアを閉じ、本来のチームのメンバーだけになると、室内もようやくほっとしたムードが漂い始める。大石は早速あちこちのグループで報告と指示を繰り返し始めた。
 リーダーの真面目な気質を反映してか、メンバーは総体的に作業に熱心で私語も少ない。もちろんある程度の私語は大石も黙認しているところもあるのだが、リーダーである大石の期待に応えて頑張ろうとする雰囲気が、心地よい緊張感と共に第1研究室にはありありと漲っていて、少々不真面目で鳴らしていた人間もなんとなく場の流れに同調するように至極真面目に任務をこなすようになっていた。
 それで言うなら、大石秀一郎は上司としてはまれにみる良い資質であるのだろう。上司の姿勢の真摯さに部下も触発されて、結果的に部署内の雰囲気が良い方向へと向かっている。
 やはり上司、統率する者に、部下や仕事場の空気というものは反映されるのだ。

 ひょっとして、と不二は今更らちもないことを思い返す。
 自分が在学していた頃のテニス部レギュラーがやたら個性主張派ばかりだったのは、ひょっとして、個性と我が儘と唯我独尊のカタマリのようなあの男が部長の座に着いていたからだろうか、と。

「ああ、もお、うるさかったなあ」
「ご苦労様です、チーフ」
 不二の傍らの青年が気の毒そうに笑って、やってきた忍足に頭を下げた。
「あー……自分でいらん仕事を増やしてもーた」
「僕らで出来ることがあればお手伝いしますから」
「そう言うてもらえっと助かるわ。リスト出来た?」
「この在庫でチェック完了です。まず問題ないと思いますが」
「ご苦労さん。んじゃ残りやっとくわ。自分の仕事戻ってもろうてええよ」
「判りました、ではお言葉に甘えて。不二先生、失礼します」
「はい、ご苦労様でした」
 大石が普段そうしているように、部署内の親しい相手といえどもきちんとした挨拶を残していった青年は、きびきびと持ち場に移動していく。
「お疲れだったね。なに、僕初めてあのひと見るけど、最近あんななの?」
「ん。2研の俺とおんなじ技師主任。ここ十日ほどで増えたな、ヤツあたりが」
「どうしたのさ。大石が何かトラブルの原因になるようなことするとは思えないけど」
「ああ、関係ないで、大石には」
「どういうこと?」
 ちらり、と忍足は周囲を見回し、自分たちの会話が誰の注目も引いていないのを確認すると、小さな声で言った。
「あのな、2研の薬剤師の女の子で、茶髪のショートの子……うーんと、ほらほら、こないだの親睦会の時、俺と大石と不二を並べて写真撮った子」
「――?」
「1研のいい男、大集合! 言うてインスタントカメラで撮りまくっとった子」
「あ、ああ。覚えてる。明るくて可愛い子だったよね」
「そーそ。どーやら大石にホレとるらしいねん」
「ふーん」
「2研の高橋……さっきのやーらしい物の言い方するヤツな、その女の子が好きンなってつき合うてくれ言うたらしいけど大石先生が好きなんですー! 言うて、彼女には」
「ふられたわけ」
「そう。ちなみに彼女も大石にはふられとる。"でもいいんです、私、やっぱり大石先生以外には考えられません!!" ゆーて、再度の高橋のアタックもケリ倒した、と言うわけや」
「ああ、それで実らぬ恋の腹いせに……って、ねえ、ちょっと、忍足」
「なに」
「キミなんでそんなに詳しいの」
「そらあもう。忍足君は美人の味方、かわゆい子の味方。女性の悩みは聞いてあげるし、告白のお膳立てはして上げるし、恋愛相談もちゃんと真面目に答えてあげるし」
「そーゆーので女の子に利用されるだけされて、女の子の知り合いは一番多いのに結局彼女は最後まで出来ないんだよね」
「――……」
 何故かひっそりした仕草で、忍足は自分の胸に手を当てる。
「まあ大石には好きな人がいるみたい、って言って断ってあげてよ。いちいち希望を持たせるのは女の子にも可哀想じゃない」
「ああ、例のロケットの人、言うて」
「ロケット……ああ、あのペンダント」
「ぶっちゃけ、アレ、中身なに?」
「知らないよ。僕だってこないだの飲み会の時、大石が開襟シャツ着てたんで気づいたんだもん、あんなのしてる、って。女の子の誰だかに聞かれて初めて判ったんだよ、『大石先生のあれ、小さいけどロケットペンダントですよね、誰かの写真が入ってるんでしょうか』って」
「写真?」
「たぶんそれはないと思うけど」
「なんで」
「――」
 それに対して応答はせず、手早く在庫チェックを進めながら呟く不二に、忍足はふうん、と小さく口の中でだけ唸った。
「――んじゃ形見、ってか」
「忍足」
 鋭く、低く言いながら、不二は最後の薬剤の数を数えてリストに記入する。
「これを戻すのを手伝ってもらっていいですか」
 わざと大きな声で言う不二は、視界の端にその時大石の姿をとらえていたのだった。

 写真なんか、彼の手元にあるはずないじゃないか。
 不二は、心の中でだけ呟いた。
 大石秀一郎は、十年前。
 なにひとつあの街から持ち出すことを許されず、大人達に放逐されたようなものなのだから。
 下らない、それはそれはもう下らない、相手の品性を貶め傷つけるだけの噂に、彼は、彼らはあんなにも必死に耐えていたのに。歯を食いしばって、ただじっと耐え続けていたのに。
 先に耐えられなくなったのは、大人達の方だった。
 それが結果的に、彼らを追いつめることになったなんて、あのときの大人達は未だに誰一人思いもしていないだろう。

 長身の青年をほとんどお供のように従えて、不二は冷暗室に薬剤を並べなおした。
「これで、おーしまいっ、と」
「ん。最近、そっちもそんなに忙しない?」
「もう後は軽い調整だけだからね、しばらくは。君は忙しいだろ、いろいろと」
「機械の調整とかあるからな。忙しないが、気ィ抜けん」
 他愛ない会話を交わしながら冷暗室を後にしようとすると、ほとんど人通りのないそのフロアの端から、小さく女性の声が聞こえる。
「誰?」
「あ、あの、チーフ? 忍足チーフ、ですか?」
「ああ。――あれ、君」
「はい、あの、この間は」
 ぱたぱたと駆け寄ってきた小柄な女性に、不二もなんとなく見覚えがある。
 ああ、そう。
 ついさっき、偶然にも話題に出た、大石に振られた女の子。
 大石が現在、言われなき嫌がらせを受けることの原因となった女の子だ。
 不二達より少し年下なのだろう、女性、と言うより女の子と呼んだ方がしっくりくる容貌で、まだ幼い顔立ちが愛くるしい。
「ああ、残念やったな。まあ、世の中の男は大石だけと違うから、落ち込まんとき。きっとそのうちもっとえー男が出てくるから」
 苦笑した忍足に笑い返して何かを言おうとした女の子は、そこで傍らの不二に気づいてぺこりと頭を下げ、途端に真っ赤になる。
「ああ。不二先生は大丈夫。そういうの口固いし、理解あるから」
 そう言われては仕方ないので、不二も大丈夫だよ、と言うふうににこっと笑って見せた。その神をも騙す笑顔に女の子は他愛なくごまかされた。
 この間の飲み会の時は若い女性らしく気安く彼らとも騒いでいたが、そこはさすがに選抜されたメンバーで、仕事中は上司と部下としての態度を崩さない。不二としても好感が持てる。
「どしたん」
「あ、あの……どうしましょう、チーフ、私、こんなの初めてで。どうしたらいいか」
「どうしたん」
「ご相談……・したかったんです。あの、休憩中とか人が多くて、でもどうしても他の人には知られたくなくて。あの、私の恋愛相談とか人間関係とか、そういうんじゃないんです、そんなことじゃなくて、その……仕事中でお忙しいことを重々承知の上なんですが」
「えーよ、言うてみて。あまり時間がとれんけど、聞くくらいは」
 またうざったい恋愛の悩みとやらか、と内心眉を顰めていた不二は、そうではない、と言う彼女の言葉にふと興味を引かれる。
「僕は知らなかったことにするから。なんなら、先に帰っていようか、忍足」
「いや、かまわんよ。――ええやろ? 恋愛相談でないなら不二先生のほうがいい解答をくれる場合もあるし……それで?」
「はい。――はい、あの、これなんです」

 そう言って彼女は、ピンクの花模様の着いた封筒を差し出した。
 その手は僅かに震えていたのだった。








 写真が出来ましたよ、と売店の女性から手渡された袋はずしりと厚みがあって、彼女は思わず嬉しくなった。
 中身は、この間の親睦会で撮った写真。
 第1研究室と第2研究室の、合同の親睦会だ。若手はほとんどが入寮者なので、寮の娯楽室を即席の宴会場にして騒いだ。
 彼女はそこで、やたら酒癖が悪い主任技師に絡まれ体中をべたべたされて半泣きになりかけたのだが、1研のリーダーである医師にそれはそれはスマートに助けてもらった。
 結局彼には告白してふられる、と言う残念な結果に終わったのだけれど、それでも彼への想いが消せない。
 見ているだけでもいいじゃないか、と言う控えめではあるがポジティブな思考に、彼女はさっさと切り替えた。
 あのうっとおしい、酒癖の悪い主任技師が何を勘違いしたのかつき合ってくれと言うのもあっさり断った。第一印象が最悪な男と言うのは、なかなかその認識が消せるものではない。
 昼食休憩中だった彼女は、さっそく自室に帰ってベッドの上にその写真を並べ始める。ルームメイトはまだ帰っていなかったので、ひとりであーだこーだと言いながら。
 インスタントカメラだけど、よく取れているほうだ。
 肩を組んでグラスを突き出す青年達や、カメラ目線を忘れない女の子たち。彼女のお目当てのドクターは椅子に腰掛けて、同じ1研の不二先生と静かに話している。
 開襟シャツの胸元にきらりと光るのは、シルバーの小さなロケットペンダントだ。何かと聞いても、彼は少し笑うだけで教えてはくれなかった。プラチナの凝った細工の美しさに、思わず手を出しかけた女性をやんわりかわして触らせてもくれなかった。
「彼女の写真、とかかなー。やっぱ」
 これだけ人間の出来ている、とても優しくて真摯な青年医師だ。エリートコースまっしぐら、彼女のひとりもいないはずがない。
 仕事中まで大事に写真を持ち歩いてもらえるなんていいなあ、と思いながら彼女は次々写真を繰ってゆく。
「……あれ?」
 彼女は、思わず呟いていた。
 次にめくった写真は、そのお目当ての医師がソファに腰掛けているところへ1研主任技師忍足侑士がグラスを持ってやってきたところだ。
 多分もう酒はいいとかなんとか断っているのだろう、見上げて笑っている彼の左肩に――ぼんやりと赤いものが写っている。
「うわ、なんか、へんな光、入ったかな」
 次も。
 その次も。
 撮った順番に重ねてある写真の中に写る、赤い、ゆらゆら揺れる炎の襞に似たもの。
「あーん、こんなことならあたし、奮発してデジカメ買うんだったーあ」
 せっかくお目当ての彼のことをおおっぴらに撮影する良い機会だったのに、と憮然としながら彼女は座り込んだベッドの上で体をゆらゆら揺らした。
 しかし、彼女は間もなく気づいた。
 赤い光。撮影をするごとに、時間が経つにつれて、赤く、どんどん赤く濃くなっていくそれ。
 それは必ず、ある人物が撮影されている写真に限って現れている。
「――大石先生……?」
 ゆっくりと写真をめくる。前の分も確認しなおす。
 やはりそうだ。
 彼女が想うあの若い医師の左肩。揺らめき経つその赤は血の色をした炎のようだ。
 写真は最後のほうになる。
 最後、忍足侑士と、不二周助と、そして大石秀一郎を並べて撮った写真。笑いながら壁に並んでくれようとする三人。立ち位置はこれで良いかと軽く確認する三人の姿が、次々映し出され、そして、最後。

 つづけて三枚撮った、その写真の最後の一枚。
 大石秀一郎の左肩だけに、それは現れていた。

 とてもキレイに撮れている、会心の一枚。たとえばフォトフレームに入れて実らぬ恋を忍ぶのには一番いいアングルだ。カメラに少し笑んで視線をくれる青年たちは三者三様とても魅力的で、じっと見つめていると誰に恋してもおかしくない気がする。
 そんな写真なのに。
 彼女はそれに気づいた瞬間、ひっと悲鳴を上げてそれを放り出しさえした。



 思いあまって、その赤い光の現れた写真の数々をピンクの花模様の封筒に入れ、なるべく人通りのないところで忍足侑士に話しかけるチャンスを、彼女が待っていたのは、今日で三日めになる。




「これ……」
「こないだの親睦会のときの写真です。あの、それインスタントカメラで撮ったヤツで、それにあたしその、こういう画像処理とか苦手で」
 その三人の写真に悪意ある修正を加えたわけではない、と言いたいのだろう。
 忍足は渋面をつくるとすぐにその写真を封筒に、元通り納め直す。
「これは……ちょっと」
「私、あの、占いとかはちょっと見ますけど。でも幽霊とか心霊写真とか、そういうの撮ったことないし、霊感とかってないし」
「……」
「あの……あの、ごめんなさい。先生方にはバカバカしいって笑われるかも知れませんけど、でも、でも、他はともかくもその最後の一枚……」
「――うん」
 不二にはその写真は見えなかった。赤い炎が画面に揺らめくような写真は、不二の位置からも目に入ったが、その『最後の一枚』についてはすぐ忍足が封筒へ……とてもよくないものを見たように入れ直してしまったので、異様なものを確認するには至らなかった。
 彼女が問題にし、忍足に見せた『最後の一枚』は気にかかったが、見せてくれと忍足の手から封筒を取り上げられるような雰囲気でもない。
 忍足は難しい顔をしているし、彼女はおろおろと拙い言葉を繰り返すばかりだ。
「あの、なんかテレビで見たことあるんです。心霊写真特集とかで、赤い光が写るのはよくないんだって。なんか、この近くオバケが出るって噂も聞いたことあるし、もし、その、大石先生に何かあったら、もうどうしようかって」
「他の写真は?」
「まだ誰にも見せてません。あの日、カメラ持ってたのあたしだけで、撮ったのもあたしだけです。指かぶせて撮っちゃった、ってみんなには言ってますから誰も見てません」
「そうか。よおそれだけ気ィ使うてくれたわ。助かった、ありがとうな」
 おろおろする女の子の肩をぽんぽんと――そう、さっきの2研の青年にしたように軽くなだめるように叩くと忍足はにこりと笑った。
「あのな。ここだけの話、そっちの高橋が最近やたらと大石に突っかかってきよるねん。多分あんたにふられた腹いせに大石に当たりよると思うんやけど」
「ええっ!」
 初めて聞いたのだろう、彼女はみるみる青ざめ、両手で口を塞いでしまった。
「そんな。そんな、どうしよう。大石先生にご迷惑かけてるんですね、あたし。どうしよう」
「あんたのせいやないよ、迷惑かけてるのは高橋やから。原因は高橋のそのひん曲がった根性であって、それを見抜いてキレイに振ったあんたは誉められていいと思うで?」
「――で、でも」
「まあ、高橋のことは気にせんでいい。少々何か言われようと大石も全然痛くもかゆくもないっつー性格しとるし。ただ、この写真、高橋が見たらまた何かいらーんこと言いそうな気がせん?」
「あ! しますします、もう、重箱の隅っこルーペで拡大してつついてるよーな男ですからっ!」
「ぶ。――いや、まあルーペはともかく、頼みがあるんやけど」
「写真のことですか」
「悪いけど、大石の為にと思うて内密にしといてもらえんもんやろうか。……ああいう性格やから、顔には出さんけど色々気苦労が多いヤツでな」
 "少々何か言われようと痛くもかゆくもない性格"と大石を評した舌の根も乾かぬうちに、と不二が忍足を睨みつけたが、忍足はどこ吹く風だ。
 女の子もすっかり言いくるめられて素直にうんうんと頷いている。
「この写真、預からせてもろうてええかな」
「あ、はい。あの、もしもと思ってフィルムも持ってきてます」
「さすが」
 忍足は満面の笑みで、僅かに腰をかがめ女の子に視線を合わせる。
「そのかわり、大石のことで何かいい情報きたら横流しするさかいに」
 真正面で忍足の端正な顔立ちに覗き込まれて赤面していた彼女は、大石の名前が出た途端、ぱっと顔を上げる。
 目を見開き――たとえば猫が顔を上げるようなその仕草が、不二の胸を少し刺した。

 誰かを思い出すような気が、して。



 彼女が口外法度の約束を固く交わしてその場から去った後、不二は傍らの忍足を睨みつける。
「どうして、あーゆーこと言えるかな」
「ん?」
「彼女にだよ」
「何が」
「とぼけないで」
 不二が軽く向こうずねを蹴ってやると、忍足がいてて、と大げさに飛び跳ねた。
「なにが"大石のロケットの中身が判ったら教える"だよ。よくまあ、君って人はそう言うことを」
「こーゆー場合は、それくらいの秘密と約束で縛っといたほうがいいの。特に女相手にはな」
 眼鏡を押し上げ、彼はくすっと笑う。とても酷薄な笑みを垣間見た気がして、不二はぎくりと身を竦めた。
「心配せんでもな。どうせ大石は俺に悟られるような無様な真似はせん。俺かて知っても彼女に教えるつもりはない。――まあせいぜい、大石の秘密っつー俺らとの一時の連帯感で、彼女がシアワセ〜に黙っててくれたら儲けモンやろ? あの子はそういうのに弱いタイプやからな。ヘタしたら墓場の中までも持っていってくれるて」
「……」
「何や」
「君って最低」
「そりゃどうも」
 こたえていない忍足を無視するように歩きだそうとした不二を、彼はそのすらりと高い体躯で阻む。
「今夜9時には、俺、部屋帰ってるから」
「なに」
「落ち着いたら俺の部屋おいで。――『最後の一枚』。見たいんやろ」
「別に」
「冷たいこと言いなや。おたくの大事なご友人にかかわることやで。俺はリアリストのつもりでおったけど、こーゆーのはひとりでは正直手に終えんからな。まあ不二がどうしてもいややっつうんなら別にアンタ以外の誰かに相談してみてもいいんやけど」
「……誰かって、誰だよ」
「フジコちゃんの答え次第」
 覗き込んで意地悪く笑う忍足の顔と不二の顔の間に、ひらひらと揺らされるピンクの封筒が舞った。思わずその動きを目で追ってしまった不二を忍足は小さく笑った。
「ねえ、なんか遠回しに強請ってない?」
「気のせいやろ」
 自信ありげな顔で見下ろしてくる相手を睨んでみても、効き目はないのは当然だろう。不二の胸の内にわいた興味を、相手にはとうに見透かされてしまっている。
 内心舌打ちしつつ、つまらなさげに不二は聞いた。
「君のルームメイトは?」
「俺はハンパもん。一人で二人部屋使わしてもろうとるから」
「……」
「お気がねなく、フジコちゃん」


『桜ってね、俺、好きだな』

 滅多に花などに興味を示さないあの子が、ふと漏らしたのを覚えている。
 桜の開花から始まる春の、その嬉しくなるような季節がとても好きなのだと、あの子は言った。
 だから選んだのは満開の桜の樹の下だったのだ、あの子の望むその通りに。
 たとえ誰からの手向けがなくとも、桜だけは毎年春を忘れない。
 だからきっと、死者への手向けも忘れないでいてくれるだろう。花びらに埋もれて眠りについた者を、時の流れとともに忘却の彼方へ押しやったりすることも無いはずだ。
 誰に忘れ去られても、誰に見向きもされなくなっても、明けぬ闇の中に棲まおうと。
 春という季節にただ一度、桜がその花弁を手向けてくれるなら。

 あの子の寂しさも、慰められるのではないかと思っただけなのだ。

『10分だけなら、俺、待てるよ。ちゃんと待ってるから』
 笑う顔が、忘れられない。僅かの間にやつれてしまい、桜より白くなったその貌で、微笑んだあの子のことが。
『でも遅れないで。寂しいから』
 ちょっとこわいかも、そう言って笑ったあの子の手がかすかに震えていたのも。
『手、にぎってくれる?』

――俺がいくから、もうすぐ行くから。

 泣かないで。
 君よ泣かないで。

 春の中で、ひとりぼっちで泣かないで。




「――大石?」
 呼ばれてはっと顔を上げる。
 いつの間にか、ぼんやりしていたらしい。
 机に座ったまま、白い無機質な壁を見るともなしに見ていた大石は、慌てて背後の不二を振り返った。
「ああ、不二。すまん、ぼんやりしていたかな」
「いいよ。疲れてるんなら早くベッド入って寝たほうがいいんじゃない? 明日、大石は休みでしょ?」
 ラフな部屋着に着替えた不二は、ちょうど浴場から帰ってきたところらしい。髪が僅かに湿っている。
「ああ。ただ現場は動いてるし、立ち上がりの時だけちょっと様子は見てくるよ。不二は?」
「僕も珍しくお休み」
「そう。不二こそゆっくりしろよ。……どこか行くのか?」
「うん。忍足にちょっと呼ばれてる。遅くなるかも知れないから先に寝てて」
「判った……なんだ不二」
「え……え? なに?」
「何か聞きたいことでもあるのかと思って」
 そう言うと不二周助は驚いたように目を薄く見開くと、適わないなあ、と小さく笑った。
「大石は昔から、言いたいけど言えない人の気持ちのこと、気づくの上手だよね」
「――そうかな」
「そうだよ、だからみんなあれだけ君のこと慕ってたんだろ。気持ちを察するのもうまければフォローも上手だった」
「それはどうも。――で、なに?」
「ごまかされてもくれないしね」
 肩を竦めて笑った不二は、下らないことだよ、と手をひらひらさせた。
「何だよ、気になるじゃないか」
「女性の間で噂だよ。君のそのペンダント」
「――ああ。気づいたのか」
「こないだの飲み会のときにね」
「似合わないかな」
「そういうわけじゃないよ。――別に興味もないし、言わなくて良いから」
 不二がそこまで言って背を向けたのは、ペンダントに興味を引かれている自分自身のことを恥じたからだろう、と大石は察した。
 左様、彼は人の、言葉にしない気持ちを察するのは得意なのだ。
 アクセサリーなどに興味を持つ性格でもなかった自分が、何故こんな、いわくありげなペンダントなど身につけているのか。しかも、その中身に興味を抱くなと他人に言う方が難しいロケット仕様のペンダントだ。
 不二はその中身が由来する人物を即座に思い描いたのだろう。そして、彼にも少なくない傷を与えたあの10年前のことを。
「不二」
「――あの、僕、そろそろ行かなきゃ。忍足、拗ねるとうるさそうだから」
「不二」
「ごめん、余計なこと言って。忘れて。……それじゃ」
「不二、これはね」
 はっと振り返る。
 不二の、気配。
 少女の爪程度の小さな小さな銀のロケットを、我知らず慰撫しながら、大石は呟いた。
「"指輪"だよ」


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