さくら さくら
 やよいのそらは

 小さく彼が唄う。
まるで誰かに聞かせているかのように。

 彼は僅かなほほえみさえ浮かべて窓を開けたまま、真っ暗な戸外の光景を見やっている。戸外はまだ冬で、夜ともなれば身を切るような冷気が彼を包んだが、彼にはあまり問題でないらしい。

 みわたすかぎり
 かすみかくもか
 においぞいずる

 誰かが、彼の歌を聴いているのだ、と言わんばかりに。
 目を閉じ膝を抱えたなにかとても愛しいものが、彼にひたりと寄り添っているのだとでも言うように、その見えぬ何かに語りかけるように、彼は小さく歌い続ける。

 いざや いざや
 みにゆかん

 彼の――大石秀一郎の視線は、夜の中に暗いシルエットとなって浮かぶ、丘の上の桜の古木を見ていた。










 大石秀一郎の本棚を、不二周助は何度か見たことがある。
 と、言っても10年以上前、学生だった頃の話だ。
 部活仲間とともに彼の部屋に訪れたとき、中学生の手によるものとしては、なかなか立派なアクアリウムが作り上げられていて、内心そのできばえの見事さに舌を巻いた覚えがある。細心の注意を払って作られたに違いないそのアクアリウムの為の本が、本棚にさまざま取り揃えられていた。イルカや海を中心とした写真集がその隣に並び、あわせて参考にされたに違いない。
 かと思うと、ご大層な文学賞受賞作と言っては本屋に平積みにされているようなハードカバーが何冊か並んでいたり、中学生にしてはちょっと高度な、と思うような評論、エッセイ、それに海外の作家のSF、ミステリもきっちりと作者別にまとまっていたりもしていた。泊まりがけの遠征試合などには、必ず文庫本を鞄の中に一冊忍ばせているようなタイプだったので、もともと本は好きだったのだろう。
 綺麗に整理され、ジャンル別に棚で振り分けられ、内容も文字一辺倒の物だけでなく画集、写真集、色彩をテーマにした本まであった。きっちりと並べられた本棚には隙間もなかった。欲しい本があるのだけれど、その前に本棚がいるなと笑っていた彼を思い出す。
 本棚を見るとその持ち主の性格が判る、と言われる。
 確かにその部屋の本棚は、内容もさることながらその並べ方、整理整頓の仕様にいたるまで、なるほど懐深く思慮深い彼にふさわしいものと思われた。
 部屋を飾るアクアリウムと一枚のラッセンの絵に現されているように、流れる水の清涼なるを体現する、まだ年若くとも確かに彼はまれにみる人格者であったのだ。
 だから誰も信じられなかったのだ、彼があんな行動に出た理由が。

 あのとき。
 10年前。

 彼らが起こした事件があれほど騒ぎになったのは、もちろんその全容のショッキングさもあったろうが、なによりその行動をとった片割れが、大石秀一郎だったということ――教師や親にあれほど信頼された真面目な彼であったということだ。
 彼にかかわる大人たちはさまざまな形でその心理を解明しようとし、彼の衝動の謎を解こうとしたが、誰も果たせなかった。
 そうだ、誰にわかるはずもない。
 彼の懊悩、苦痛を知らぬ者には理由など永遠にわかるはずはないのだ。
 大石秀一郎の望みなど、恐ろしいほどに単純で、その上明快であったものを。



「うん…・・・うん、ありがと。着替えね、とりあえずはしばらく大丈夫。んー、思ったより建物とかなくて、あのまんま。・・・…うん、うん」
 電話の向こうで、つい一週間前までともに暮らしていた人の声がする。
「ん。いや、大丈夫、明日には荷物つくから。君こそ、どう。ちゃんと料理――ああ、越前くんがいるか。他人様に作ってもらうぶん、ちゃんと好き嫌い言わないで食べなきゃダメだよ。…・・・え? やだな、なに言ってんの、うん。またこっちから梅干し送ってあげるよ」
 受話器の向こうで少し笑う気配がした。
「それからさ…・・・」
 不二はどうしようかと一瞬迷ったが、この部屋のもうひとりの住人が今は不在であることを思い出した。聞かれることはあるまいが、何故か声をひそめてしまう。
 息を大きくついて、告げた。
「あのさ、ぼく、寮の同室が、大石なんだ」
 電話の向こうに、不意に沈黙がおりる。
「・・・…うん、あの、大石。僕も資料とかちゃんと見てなくて、案内された部屋でバッタリ。うん。うん、そりゃびっくりしたよ。ああ、元気そうなのは元気そう。見た目はね。うん・・・…そりゃ中身がどうかまではね…・・・場所が場所だし」
 ちらりと視線を窓の外に走らせる。
 小高い丘の上の、まだ花の気配もない巨木の桜を見る。
「偶然かな。大石はそう言ったけれど」
 不二の目に、大石側の机の隣、きっちりと本を並べ終えられた本棚が写る。
 学術書と資料以外、なにもない本棚。
 不二でさえ退屈しのぎのペーパーバックの数冊、または写真集の一冊くらい持ち込んでいる。不二に限らず、他の入寮者も多かれ少なかれそうだろう。しかし大石の本棚はいっそ潔いほど何もなかった。
 半分以上ぽかりと空いた棚は妙にうらさびしい。不二のように、机の上に置く写真立ての一つもない。
 パソコンと筆記具と資料。
 それだけだ。
 彼の心の、余人にはどうすることもできない空白を、かいま見たような気がして、不二は我知らず眉を顰めた。

 そしてその空白を埋めることを、きっと彼はもうだれにも許さないつもりでいる。

 そのままとりとめのないことを話し続けていると、インターフォンが鳴る。
 大石ならカードで入室出来るはずだから、他の誰かだろうか。
「ごめん、誰か来た、またかけるよ。じゃね。…・・・わかった、伝えておくよ」
 あわただしく電話を切ると、傍らのインターフォンのスイッチを押す。
「はい」
『お忙しいところに失礼いたします』
 男の声がした。
『私は大石先生と不二先生のチーム担当の工学技士です。先ほど到着しましたので、とりあえずご挨拶に伺いました。少しお時間よろしいでしょうか』
「わかりました、ご丁寧に恐縮です。すぐ開けます」
 若い声だった。その若さに似合わずずいぶん几帳面な人だな、と不二は思いつつドアの開閉スイッチを押し。
 横滑りのドアの開く音を背中で聞きつつ、たぶんに儀礼的、型どおりであろう挨拶を受けるためにゆっくりと振り向いた。
 途端。

「うわっ!」
「ひっさっしっぶっりーっ♪ いや、相変わらず美人サンやねえ、青学のカワイイさんっ♪」
 ぬっと現れた長身の男に、がば、と抱きつかれて不二は面食らった。
 面食らった、と言うより声も出ない。
「いやー、しかしホンマにあんたやったとは思わなんだわ、不二周助! いやいや、しんどい仕事でも来てみるもんやなあ、役得、役得」
 大柄で長身のその男は、ぐいぐいと不二を抱きしめて離さない。
 少々もがいてみたところで、意味はなさそうだった。
「は、離せよ、何だよ、君はっ!」
「俺のこと忘れた? そんなはずないわなあ、天才ちゃん」
 顔を上げ、不二周助を覗き込んできた端正な顔立ち。
 眼鏡と、その関西弁と、人を食ったような不敵な笑顔には、確かに覚えがあった。
「――おっ…・・・お、お、お前! 忍足! 忍足侑士!」
「そ。いやー、久しぶり、マジおひさ! なんやますますキレイになって、フジコちゃん」
 お前がその呼び方はやめろ、と不二はつっこみたかったが、それより先に。
「離せよ、とにかく離せ、苦しい!」
「あー、ごめんごめん。再会のよろこびに、つい」
 忍足は笑って両手をあげ、不二からはなれた。
 にこにことした顔のその男を眺め上げ眺め下ろし、不二は呼吸を整えると改めてしっかりと彼に視線を合わせる。
 飄々とした空気は変わらず、身長もまた伸びている。もとから端整な顔立ちだったが、大人の顔つきになり、どこか危ないような色気さえまとわりつかせている。
 白衣着てるだけのホストじゃないか、と言うのが不二の正直な第一印象だった。
「なんでこんなところに君がいるわけ」
「ゆーたでしょ、俺は、そっちのチームのチーフ技師」
「はあ?」
「これからよろしゅう」
 にまっと笑う男に、まったく屈託はない。逆に不二はどっと疲れてしまったのだが。
「…・・・なんでキミなんだよ、よりにもよって」
 忍足は腕を組んで不二を見下ろし、何が嬉しいのかまたにこにこと笑った。
「いやー、それにしても、こんなところでこれから仲良く出来るとは」
「仲良くって何、仲良く、って」
 不二はじろりとこの厚かましい男を睨むも、相手は全然動じていないようだ。
「昔っから美人サンやったからね、フジコちゃんは」
「だからそのフジコちゃんってのはやめてよ」
「そんなつれない。俺、青学と試合すんの楽しみにしとったもんやで?」
「ふーん」
「ほんまやで? 青学言うたら目の保養やもん。綺麗な天才ちゃんと可愛い猫さん」
 そこまで言って。
 もと氷帝の天才は、口をつぐんだ。
 傍目にもはっきりと判るほど強ばった不二の顔に気づいたせいもあったし、その顔色から、彼の前では口にしない方がいい話題なのだと察したのかも知れない。忍足の様子からして彼にも、口にしないほうがいい話題の、その理由も周知だったのだろう。
 数秒の沈黙の後、口調を変えてやや明るく彼は言った。
「まあ何はともあれよろしゅに、ドクター。もうおひとかたは? 一応挨拶しとこかなと思うんやけど」
「あ。ああ、多分事務所。もう帰ってくると思う」
「ふーん」
 不二は少し迷ったが、続けて口にした。
「…・・・僕のルームメイトにも、見覚え、あると思うけど」
「ああ」
 少し微妙な表情をした忍足侑士は、ぐるりと部屋の中を見回し、今は不在のもうひとりが使用しているであろう空間に目を留めながら言った。
「ひょっとして、本人か」
「――」
「アンタのルームメイト、言うたら」
「…・・・僕らの副部長。僕も来てびっくりして」
 いきなり顔を突き合わさせて、妙なことを口走られるよりはいい、と不二は判断したのだった。
 この男との付き合いは決して長くも深くもないが、それくらいの気の回し方は心得ているだろうと考えたのだ。
「そうか。同姓同名やったし、まさか、とは思うたやけんど」
 そこまで言うと、不二周助を前にしたときとはうってかわった――とまではいかずとも、なんとも言い難い表情をしてみせ、長く綺麗な指で顎のあたりを撫でつつ小さく言った。
「まだ、おったんかいな」
「?」
「まだ生きとるとは思わんかったよ、正直」
「――それ、どういう意味」
 たちまち表情を険しくして不二が言うのに、忍足は動じない。
「ああ言う生真面目な男は、とっくにこの世とおさらばしとるとばっかりな」
「――…・・・忍足」
 忍足のほうを睨みつけた不二は、それこそ泣きそうな顔をしていたのだが、忍足はその不二を痛ましげな目で見やった。
「俺は噂でしか知らんけどね。・・・…ほんまのことやろう? あいつが、大石が、中学ん時の相方と」
「やめろ!」
 考えるより先に体が動いた。
 不二はほとんど夢中で、自分より頭ひとつ以上長身のその青年につかみかかる。
「ここにいる間、大石のことで要らないこと言ったら、殺すよ」
 一気に噴火した怒りのせいで不二の声は激昂さえせず、ただ低く乱れた呼吸とともに稚拙な脅迫を口から押し出した。
「大石にもだ。よけいなこと言ったら、僕が許さない」
「――そないに怒りなや。…・・・悪かった」
 微動だにせず忍足は不二を見下ろして言う。
「うん。俺が悪かった。謝る。ほいほい口に出すことやなかった」
 すぐに忍足が折れた。
「ごめんな、考えなしで」
「――いや…・・・僕も、ごめん。掴んだりして」
 悪かった、と呟いた不二の言葉に、横滑りのドアが開く小さな風のような音が被さった。
 掴みかかった方も掴まれた方も、不意をつかれたようにはっとしてそちらを見やる。
「…・・・大石」



「不二?」
 問いかけるように呼ばれて、不二は自分が忍足に掴みかかったままだったことにようやく思い至り、慌ててその手を離す。
 大石秀一郎は手に大判の封筒を抱えたまま、ルームメイトと、その傍らの長身の青年を見比べた。
「ええと・・・…君は、確か」
「氷帝にいた人だよ、大石。僕と君のチームの主任技師なんだって」
「やっぱりね。珍しい名字だし」
「彼、今日ついたんだって。それで、わざわざ挨拶に」
「そう。ご丁寧にありがとう」
 まったく文句のつけようのない、立派な態度で大石秀一郎は手を差し出した。
 忍足侑士も口元に笑みを浮かべながらそれを受けた。これからどうかよろしく、と、如才のなさを発揮して礼儀正しく、けれどいかにも親しげに挨拶を交わして退室していった。

「ああ、びっくりした」
 不二はぽつんと呟き、どさりとベッドに腰を下ろした。
「大石、知ってた? 忍足が同じチームだって」
「うん。一応、部署とチームの名前は覚えてきたから。珍しい人と一緒になるもんだよね」
「うん」
「ああ、はい、これ。研究所の稼働開始日に、なんだか簡単な式典やるらしいんだ。そのプログラム」
「ありがとう」
「ケンカでもしてたのか」
 封筒を受け取るために差し出された手が、びくりと揺れる。
 自分の動揺を押し殺して、不二はなんとか取り落とすことなく封筒を受け取った。
「・・・…別に、たいしたことじゃないよ」
「ただならぬ雰囲気だったから」
「…・・・」
「俺のことで何か言われたのか」
「…・・・」
「不二」
「・・・…ごめん」
 俯いたまま、顔が上げられない。
 なんと言って良いのか判らない。
「不二」
「ごめん、大石」
 何に謝りたかったのか判らなかった。ただ、すまない気持ちで一杯になり、謝らずにはいられない。
「気を遣わなくていいって言ったじゃないか、不二」
「――」
「別に隠しているわけじゃないから」
 少し微笑む気配がして、大石は不二に背をむけた。自分の机に戻り、封筒の中から資料をとりだして仕分けを始める。その、いかにも真面目な様子が、10年前の彼とだぶって見える。
「ごめん」
 不二は小さく呟く。判っていても言わずにはいられない。
「ごめんね」
 彼は変わらない。
 真摯で、誠実で。
 けれどそれが、変わらない彼こそがひどく痛々しい。
 そして10年ぶりにあった自分は、その心の中を察することも出来なければ、僅かなりとも癒すことさえできはしないのだ。
 向けられた大石の背は、全てを拒んでいるように思える。
「ごめん、大石」
「――不二?」
 嘆くことなど、この10年間、飽きるほど繰り返した。
 後悔も血を吐くほど、した。
 けれどそれは所詮、蚊帳の外の人間のすることでしかなかったのだと、不二は痛感する。
 自分は、結局この国を離れることで癒された。この国を捨て、優しい人の傍で暮らして、傷の痛みは遠のいた。
 けれど結局それは、自分が本当の意味で、彼らの苦しみを判っていなかったからではあるまいか。
 考えてもみるといい。
 自分は傷心のあまりこの国を捨てた。
 ただ捨てたのではない。友人であった彼ごと見捨てたのだ。自分が辛いばかりに、残された彼のその胸中を思いやることもなくただ自分の痛みに耐えるのが精一杯で。
 何もかも判ったつもりになり、なりふり構わず泣き叫び怒り狂っても、結局癒されてしまう痛みなら、同じ事だ。判ったつもりになっただけ、そしていつまでも自分は蚊帳の外でしかない。

 そしてそんな自分には、まだ血を流し続けているに違いない彼を、どれほど救いたくても出来ないのだ。

 がらんとした空虚な本棚を見た途端、どうにも押さえきれないものが両目からあふれる。
「ごめん、助けてあげられなくて」
「…・・・不二、いいよ」
 涙の気配に揺れる声に、大石は静かに言った。
「気にしなくていい、本当に」
「ごめんね、大石」
「もういいから、不二」
「ごめん。助けたかったんだよ、ほんとだよ。なにも出来なくてごめん。ごめんね、許してね、大石」
「――」
「ごめんね」
「…・・・」
「英二」


 あのとき。
 10年前にたったひとりで繰り返したと同じ言葉を、不二周助は呟き続けた。
 言ったところで大石を困らせるだけだと判っていたのだけれど、そうせずにはいられなかった。
 10年前、友人達からもぎ離すようにして遠くへ連れてゆかれた彼を、その時目の前にしていれば。
 やはり謝り続けたに違いないのだ。






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