ひたひた、と密やかな足音がひびく。 深夜、誰もいない廊下に。 裸足で歩いたならちょうどそんな音が出る、と言うように、ひたひた、ひたひた、と。 何かを探すように止まっては歩き、歩いてはまたふと立ち止まる。 そんな仕草を繰り返しているような足音の主は、焦れたようにひたひたひた、と僅か歩調を早めたようだった。 しかし、いくらも行かずに立ち止まる。 さくら さくら やよいのそらは 遠くから、忍ぶような歌声が届いた。 低い、耳に優しい男性の声で、まるで何かをいつくしむような調子で、優しく唄っている。 みわたすかぎり かすみかくもか 足音の主にも届いたのだろう。 しばらく足音が再開されることはなかった。ぴたりとその場で止まったまま動き出そうともしない。 さくらさくらと幾度か繰り返して歌い続けるその声に耳を傾けているようだった。 「誰か、いますか?」 不意に、真っ暗闇の廊下に懐中電灯の細長い光がきらめいた。 「どなたかおいでですか? 申し訳ありませんが、そろそろ通用口の閉鎖ですので…」 当直の見回りに当てられているのは、不二周助が到着した日に、彼を案内した青年だった。懐中電灯で人の気配がしたとおぼしき寮への通路を照らし出す。 「――……あれ?」 確かに足音がしたんだが、と思いつつも懐中電灯であちこちを照らす。ガラス張りの天井に異常はなく、中庭に抜けるドアも施錠されたままだ。 おかしいなと首を傾げた彼が、ぐるりと首を巡らせたとき、寮のある位置から少し遠くにある小高い丘とその上にそびえる巨木のシルエットが目に入る。 10年ほど前に自殺騒動があった桜の樹、と青年は思い返す。実際一週間ほど前に到着した医師にそんな話もした。 しかし青年自身、詳しい話を知っているわけではない。 伝え聞いた噂は人々の間を巡り巡って風化したものだった。 どうやら心中だったと言うその自殺騒ぎ。 一人はギリギリの処で発見され生き残ったが、今ひとりは手当の甲斐なく息を引き取った、と言う事ぐらいだ。 そう、あと「10分も遅ければ」もう一人も命はなかっただろう、と言うことぐらい。 死に損なった心中の連れ合いを探して死んだはずのその人間が今もこのあたりをさまよっている、と言う、ありがちな怪談話も付け加えられていたが、一笑に付せるような内容だったではないか。 第一ここに来て半年間、青年はそんなオバケのようなものになど遭遇したことはない。 ばかばかしい、と青年は思い直して、手元の時計を見る。 ――間もなく、深夜0時。 その時間の持つ、なんとも言えない深さ。そして闇の深くなるその時間に今更気づいたように、青年は突然体を強ばらせて慌てたように周囲を見回した。 もちろんそこには何の異常もなく、己の自意識過剰ぶりを内心嗤いながらも、どこかせかされるように青年はその場を離れた。 懐中電灯の明かりが遠ざかり、再び静けさが辺りを支配した頃。 ――ひたひた。 ――ひたひた。 遠慮がちな足音が、また、響き始めたのだった。 人影も何もなく、ただ足音だけが。 「しっかしまたご立派な機材……使いこなせるんかいな、俺」 言葉とは裏腹にどこかにこにこした調子で、忍足侑士は研究室に備えられた機器を点検していく。 「なーんや張り切ってまうなあ」 「……元気だよね、君」 その後ろで、開設式の後に早速使用する薬品や機器の段取りを再確認していた不二周助は、あきれたように言った。 本格的な研究所の稼働を一週間後に控えて、準備もそろそろ佳境に入る。 「おお、そらもう。今日から女性陣の入寮やさかいなーっ」 「ああ、そお。そりゃお盛んで」 「そんでもさすが国家の名を背負う研究機関やな。女子寮への立ち入りに許可がいるとは思わなんだわ」 オマエみたいなのがいるからだろうが、と不二周助はお行儀の悪い悪態をついた。……一応心の中でだけ。 「今日入ってくる女性はほとんど助手の人だからね。それに、助手の人待たなくてもアレじゃない、隣のチームに女先生いたでしょ」 「オバハンやないか。俺はもっとこお、若あい可愛らし子がいいの」 開設式が終わったらそんな元気がなくなるくらいにこき使ってやろう、と心密かに不二は決心した。 「不二先生、大石先生がお見えです」 若い医師が不二を呼ぶ。 不二たち若手中心のチームは、主として大石秀一郎を中心として研究開発を進めるように指導されている。 担当の古参医師はいるものの実際の業務には殆ど関わらないために、現場でのリーダーは大石と言うことになっていて、彼は何かと雑用をこなしていることが多かった。 そう、まるで彼の記憶にある、少年時代の大石秀一郎のように。 ――大石ってね、なんか10年後もあんなことしてそうだよね。 ――なんかもくもくとね、細かい作業をさ。 ――でもって結構、地味なのに頼りにされちゃうんだよ。 そんなふうに言った古い友人の言葉と、その時の彼のちょっと悪戯じみた愛くるしい顔が思い浮かんできて……また、どうにもいたたまれないほど哀しい気分に捕らわれそうになるのを、ようやく不二は振り切った。 「不二。もし手が空いてたら資料室の方、一緒に頼めるかな」 「了解。ここはもうこれで終わるから一緒に行くよ。資料の整頓なら人手あったほうがいいよね? ほかに誰か……」 「はい」 こちらも見ずに手を挙げたのは、機材の点検をひと通り終えてぱちんとスイッチを落としたばかりの忍足だった。 「こっちもこれで終了です。よろしければおつきあいさせてください」 「忍足君は背が高いから助かるよ。じゃ一緒に頼みます」 頷いた忍足は、近場にいた技士達数人に簡単な指示を出す。そして用があれば連絡を、と彼個人に貸与された研究所内専用のPHSを指し示して見せた。 一応パブリックでは標準語を使用している忍足であったが、関西弁によって作られる飄然とした雰囲気が消え、仕事に打ち込む真面目な男の顔になってしまうと、これはちょっと、と思うような変貌ぶりを見せるのだ。 容貌はもともと端正であったし、身長は高く口元は凛としている。長めの髪は烏の濡れ羽色で、色抜きだのカラーリングだのに凝っている若者ばかりの昨今、かえってなまめかしく見える。考えてみれば黒髪の映える顔立ちと言うものは本当に美しいものだ。 これは女性のほうが放っておかないだろうな、と不二はぼんやり思う。 けれどもやがて共に仕事をこなす中で、女性の中には大石秀一郎に恋する者もたぶん続出するはずだろう。 ひいき目に見なくても、大石は穏やかで優しげで顔立ちも整っている。地味に見えるだろうが、そのそつない心配りや気遣い、真面目に物事をとらえ運ぼうとする一方で、時折はっとするような頼もしい一面を見せることもある。それは、つきあい始めて間もない頃には決して気づけないことばかりだ。 女性の言葉を借りれば、真面目で優しい、夫として理想のタイプ、と言うところだろう。 ――でもねえ。 ちょっと甘えたような、舌ったらずな声が聞こえる。幻聴ではあったが、振り払うにはあまりに愛しすぎる。 ――でもねえ、ああ見えて実はすっごく情熱的なの、大石はね。 ――ちょっと意地悪だったりもするんだけどね。 わずかに頬を染めてとても大事な内緒ごとのように自分に耳打ちしたあの子。 15歳のあの子。 まだ、たった、15歳だったあの子。 とん、と背中をこづかれる。 はっと気づくと、隣に並ぶ忍足が不二を覗き込む。 「泣きそうなカオ」 そう不二に小さく耳打ちすると、何事もなかったかのように彼は前を行く大石に続いて歩く。 白衣に包まれた背を追いかけながら、不二はぎゅっと唇を噛み締めた。 一週間前に大石の前で感情を露わにしてしまった一件以来、どうも精神が不安定だ。 痛みは遠のき、ある程度癒されもした、と思っていたのに。 それを不二自身がどうしても罪悪と思うせいか、未だ痛みを忘れられずにいる人を見たせいか、感情はひょんなことでゆらゆらと揺れ動いた。 しかし不二は、大石の前で己の悲しみにかまけてしまい自制できなかったことを、恥じてもいる。 あのとき、泣き続ける不二を前にして、大石はどこまでも冷静だった。恐ろしいほどに。 気遣ってくれてありがとう、と感謝の言葉さえ口にした。空虚な匂いのする言葉であったが、それでもそれが口にできるようになるまでに、彼がどれほどの懊悩に苦しめられたのか想像も出来ない。 それを考えると、どうにかして彼を救えないかと思う一方、自分と彼はもうどうすることもできない巨大なものによって隔てられているのだ、とさえ感じられる。 大石はきっと、もう何者にも己の中に踏み込むことを許さない。 不二は、廊下の窓から外を見上げる。 不二の大切な、愛してやまない彼のもとに続いている空を見つめる。 彼がすぐ傍らにいてくれたなら、どんなにか楽だろうか、と。とにもかくにも来てくれと電話口で騒いだら、彼ならきっと渋面を作りながらでも駆けつけてくれるだろう。 そうできればどんなに、楽になるだろう。 しかし。 しかし、とも思い至る。 大石秀一郎には、二度とその機会はないのだ。 「うわ」 大石秀一郎に続いて資料室に足を踏みいれた不二周助と忍足侑士は、思わず知らず声を上げていた。 「なーに、これ」 「こらまた……」 高い天井は誇らしげに銀色にきらめき、部屋の一方はガラス張りで戸外の燦々とした日光が差し込んでいる。冬の小春日和の陽光は、なんとも言えず暖かく部屋全体を包んでいる。 その見上げるほど高い天井板ギリギリまでに、銀色に輝く本棚がびっしりと取り付けられている。だだっ広い部屋の中程には、今まさに川の字型に同種の本棚が業者によって据え付けられている最中で、大石に聞けば資料が収まりきらず追加の本棚を発注した、と言うことだった。その本棚も、天井に届く、とまではいかなくとも普通の本棚よりは背が高い。安定させるためにやや台形になっていて、床に下ろした位置にボルトで固定されるようだった。 まだ業者が数人忙しく作業を進める中で、白衣の三人はそれぞれ異なった表情でこの巨大な資料室を見上げる。 「デカ。つーか、天井高い」 「2階分あるからね」 「ねえ、大石。忍足君がいくら身長高いからって、あんなてっぺんまで手が届くもんかな」 「届くわけないやろフジコちゃんっ、見てわからんかっ!」 ナイスボケや、とひとりで呟く忍足侑士はともかく。 その天井までぎっしり張り付けられた本棚は、上の段になるほど空間が目立っている。高い位置の資料の閲覧には、それぞれに取り付けてある移動式の梯子を利用するようなのだが。 「ま、そりゃ。閲覧者が目当ての資料を棚から取り出せるようにするためには、まず本を全部並べなきゃダメだよね、きちんと」 「最先端なんかアナログなんだか」 穏やかに微笑んだ大石は、二人に、まだ机の上に山となって積まれている資料、研究書などを指し示した。 「また別部署に応援を頼んであるんだ。三十分もすればまた何人か来てくれるよ。それまで悪いけど三人だけでがんばろう。作業の人に邪魔にならないように気をつけてくれ」 そう言うと大石は率先して手近の資料を棚に並べ始めた。途中で作業員に、ご苦労様ですと頭を下げるのも忘れなかった。 「うう、しゃーない、やろか」 「うん」 「やっぱ、あのいちばん上の棚って、梯子で上り下りすんの? 本、持って?」 片手で持つには2冊が限度だろうと思われる分厚さの洋書を横目で見つつ、忍足は作業の前から辟易したように言った。 「じゃ僕が運ぼう。君、梯子の上にいて受け取って並べてよ」 「ああ、そおしよっか。それがいい」 「重い本は下の方に集めてくれ。高い位置で取ることになると危険だからね」 「確かに。了解しました」 大石のその声と忍足の返事を最後に、しばらく彼らは黙々と作業を続ける。 応援の人間が数人入ってきたときには作業開始から四十分近くが経過していた。 「大石先生、すみません、遅くなりまして」 「ああ、助かります。ご苦労様」 検査技士とおぼしき数人の、これも若い青年達が入室してきた。大石は一礼してからぐるりと壁側の本棚を見渡し、もう八割方埋まっているのを確認して作業員に尋ねる。 「すみません、その一番左の棚は本を詰めても大丈夫ですか?」 「ああ、はい、どうぞ。こちらは固定し終わっています。その隣があと五分もすれば終わりますので」 「ありがとうございます。――それじゃその本棚に、この机の上のぶんをお願いします。こちらは同じテーマの本ばかりだから……そうですね、作者別に並べていってください」 「はい」 「判りました」 大石が頼みます、と会釈して、部屋の端にいた不二と忍足の方へ行きかけたとき、作業を始めた青年の一人が思いだしたように顔を上げる。 「あ、そうだ、すみません、大石先生」 手を止め、その場から離れる。何か焦っていたのかわずか小走りになって。 まだ固定作業の途中で、ボルトやナットが転がる床へ。 副所長がお呼びでしたよ、と言おうとした青年は足の裏で巨大なナットを踏んづけ、前のめりに倒れる形になった。ちょうどそこにあった巨大な本棚へ結構な勢いで体当たりするように。 運の悪いことに、本来なら人が当たったくらいではびくともしないその本棚は僅かに傾いていた。作業員達が定位置に最後の一つを乗せるために、数人がかりでその本棚を浮かせ、片側をゆっくりと床に下ろしたところだったのだ。 巨大な本棚はぐらりと傾き、明日には閲覧用の机が並べられるはずのがらんとした広い床の上へと倒れていった。 まるで、そこにいた大石秀一郎をめがけたように。 その狭い部屋では、本当にそれは轟音だった。 大石、と叫んだ不二の声も、不二自身で聞き取れなかったくらいだ。 埃がもうもうとあがる、と言うことはなかった。しかしその分、巨大な本棚がべたりと床を覆う様子がすぐに不二の目に入ってぞっとした。 こんなものに倒れかかられて無事でいるはずが。 「大石!」 「――無事」 かすれた声が本棚の向こうからする。気がつけば隣にいたはずの、梯子からおりたばかりだった忍足の姿がない。 「忍足!?」 「あー……間一髪」 本棚の向こうからのろのろと手があげられる。むっくりと長身の体を起こした忍足のその足下から、大石秀一郎がわずかによろめきながらも身を起こすのが見えた。 「大石先生!」 「先生方、すみません、無事ですか!」 「ごめんなさい! 先生、ごめんなさい、俺、俺のせいです、すみません足もと、よく見ずにっ……!」 作業員や先ほどの青年が蒼白になって駆け寄るのに、大石は大丈夫というように手を振ってみせる。 「それより、君こそだいぶ良い勢いで転んだろう。痛みはありませんか」 「いや、そんな、僕なんか」 本棚に突進してしまった青年は、真っ青になりながら先生こそお怪我はと、もうパニックだ。 「僕は大丈夫です。作業員の方もお怪我は」 「あ……ああ、我々もなんともありません。し、しかし、先生は」 「この通りです。ご心配なく」 すっと立ち上がった横で、忍足が遅れて立ち上がる。 「大丈夫だったか」 「あー、俺は基本的に丈夫やさかいに」 「危ないところをありがとう。助かったよ」 「いや、別に。怪我がないならそんで」 そう言いながら、忍足侑士の目が僅か険しくなる。 視線を合わせていない大石は気づかなかったろうが、まだ呆然としている不二にはその様子が見えてしまった。 幸い本棚には亀裂も入らず、床にも少しこすり傷が付いた程度で騒ぐほどの事でもない、と言う大石の判断でこの一件は落着した。本棚にダイビングした青年が平謝りに謝りながら副所長がお呼びでしたと大石に告げると、大石は頷いて資料室を出ていった。 その後ろ姿を見やる忍足の表情の堅さに、不二は思わず声をのむ。 「……なに、フジコちゃん」 「あの……怪我、ない?」 「ああ、俺は、別に……」 そういうと、不意に忍足は体を反転させる。 不二を、詰められたばかりの本棚に追いつめると顔の両側にどん、と手をついた。 ちょうど本棚の影になり、二人の姿は作業員からも青年達からも見えない。 覆い被さってくる長身に、不二はびくりと身を竦めた。 「な……なに、忍足……」 「あいつな。避けようとせんかった」 「避けようと……なに?」 不二を覗き込むように、ぐいと間近に迫った端正なその顔は、まだ厳しい色を浮かべている。 「本棚が倒れてくる前に、あいつ気づいとったはずや。本棚がぐらっとすんの、確かに見とったからな」 「そ、そんなの……」 「別にあいつやのうても、あれだけ前に気がついたら、誰でも飛び退くくらいは出来たはずやで」 「――」 「見せたりたかったな、不二。あいつ俺が助けに入ったとき、どんな顔して一瞬睨みつけた思う? 時間的な余裕があったら俺逃げとるよ、あんな睨まれ方されたらな」 何も答えられずにいる不二の耳元、忍足は唇を寄せて囁いた。 「気の毒やけど、あいつまだ諦めてないみたいやで」 「諦める、って何を……」 不二の震える声を受けたのは、息がかかるほど間近に迫った忍足侑士の唇から出た、こんな言葉だった。 ――死んでしまう、こと。 |
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