忘れはしない。
 あの日も桜の雨だった。

 桜の霞にけぶるように、『彼』は消えていった。




 その日――。
 その春にはまだ遠い、冬の日。
 年明けて間もないころ。
 不二周助は、新設されたばかりの研究所へ、辞令に従い到着した。

 都心から少し離れた、東京都下とは思えないほどのんびりした田舎の町であった。その町からも少し奥まった場所に威風堂々とした建物が落成されたのは――わずか数ヶ月前である。医療の最先端をいく設備を誇る新薬研究所だ。
 ありとあらゆる研究室や実験室、なかなか立派な寮なども含めると、ちょっとした街のようでもある。
 その『街』の入り口は電動式の巨大な門扉で、いかめしい顔をした警備員がそれ専属におおせつかって、不動の門番と化している。
 駅前で30分待ってようやく捕まえたタクシーから降りた不二周助は、彼らに今日から配属の旨を告げる。そうすると彼らはこれまた大げさな敬礼でもって歓迎し、ほどなく連絡を受けたのであろう若い所員が中から案内のために走り出てきた。
 学生時代から不動の笑顔でそれに応答しながら。
 嗚呼、と不二周助は今朝から幾度目になるのか――帰国後から通算すれば万を越えるであろう、ため息をあらたに肺腑から押し出した。



 不二周助は、中学卒業以来テニスラケットには一切触れなかった。中学時代こそ天才と呼ばれ褒めそやされても、彼は「才能がある」ということがどういうことかを、真実身に染みて知っていた。特にテニスにおいては、生ける才能の見本が目の前にいたものだから、大人になってまで上を目指そうとは思わなかったのだ。
 高校在学中に、さっさとアメリカに留学した。そのまま向こうで飛び級を果たし、医学者として居着いてしまった。たまに実家に顔見せに戻ることなどを覗けば、彼にとって本格的な帰国は殆ど8年ぶり、と言ったところだ。

 彼が高校に進学したあたりから新設された国の海外留学奨励の制度は、語学にしろ学校の成績にしろよほど優秀な成績をおさめないとその門戸を開かない、非常に難関――付け加えるなら非常に高飛車な制度だったが、不二周助はさっさとその候補に名乗りを上げ、誰もなにひとつ文句のつけようのない素晴らしい成績を収めて、第一期の留学の権利をもぎ取ったのである。
 家族みんなに反対された海外留学に、問答無用でてっとり早くいけるようにと、その新設制度を利用したのがいけなかったな、と不二周助は今更思う。
 しかし、あのころは合理的に日本を離れようと思ったなら、それしか方法が無かったのだ。自主的な留学には自分を溺愛する母が行かせたがらなかった。父も海外赴任、弟も寮暮らしでは、男手のない家が不安だったのだろう。
 間もなく父が帰国し、不二周助が大変名誉あるその留学制度にトップ合格を果たしたと合って、ようやく海外脱出が許された。
 高校2年の半ばのことだった。

 別に留学がしたかったわけではない。
 もっと言うなら、海外脱出そのものが目的だったのかもしれない。
 有り体に言えば、その頃の自分はもう日本にいたくなかったのだ。
 不二周助にとって一生ついて回るであろう中学時代の終焉に起きた事件が、彼に母国を捨てさせる決意をさせた。
 不二に先立ってアメリカへ渡ってしまった人も同じ心境だっただろう。まさしく不二は、その彼の元へ行くために、一生分の努力をしたのだ。
 国籍を米国へと動かしてしまった彼に習って、自分もそうしようとした矢先の、帰国命令だったのである――表向きは協力要請だったけれども。
 国の金を使って留学したんだから、国が立ち上げたプロジェクトに協力するのは当たり前だろうと言わんばかりに、不二はさまざまな圧力に押されるように帰国を余儀なくされてしまった。
 怒り心頭の不二を、『また休暇には帰ってこい。待っているから』と送り出した人のその言葉が無ければ、作り笑顔さえ出なかったことだろう。
 それに、いったん海外に渡りその国に根付いてしまうと、そこはそんなに遠い土地でもなくなる。離れて不安で仕方ないという気持ちは、きっと彼を見送ったそのときより薄い。
 帰ってこい、と言われたことが不二の気を楽にさせていたのかもしれない。
 この国ではなしに、彼の処へこそ還る場所だと、改めて言われたような気がして嬉しかったのを覚えている。







「不二先生」
 所員が呼ぶのに、はいと答えて不二周助は歩き出す。
「すみません、あまり広いので見とれていました」
「はは、広いだけが取り柄です。まだ開設間もないので人が少ないですし、逆にちょっとコワイかも知れませんね」
「新設の研究所にお化けでもでるんでしょうか」
 親しみのある笑顔と言葉に、若い所員も少し気を許したのか、到着直後、不二を迎えた時よりは表情も柔らかくなっている。
「まあ科学の最先端を行く先生方には、お化けもかなわないでしょう。かなり以前にあの向こうの(と、若い所員は窓の向こうの丘を見やって)桜の木の下で自殺騒ぎがあったらしいんで、出るかもと言われればそうかもしれませんが。私が此処に赴任してきて半年になりますけど、それらしいのは見かけませんね」
 研究所は巨大で、なるほどたいした研究機関、設備であると頷ける。清潔で洗練されているが、白と銀を基調にしているのが何とも病院じみている。10数年をかけて建設されたこの研究所はガン新薬開発に向けて国家が立ち上げた新しい研究機関で、主に若手の医師で構成される新薬開発チームの職場兼当面の住居になる。
 本格的な稼働は2月1日からだと言うことで、2週間後のその日に先駆けて到着した不二周助は割合早い時期の入寮のようだった。なるほどこうして歩いている間にすれ違う人間もほとんどなく、研究員の数はまだ少ないようだ。
 若い所員は胸ポケットから小さなカードを出すと、硬質なイメージのある金属の扉の前に立つ。本来ならノブがある位置につけられた小さなカードスロットにそれをくぐらせる。
「こちらが宿舎棟になります。まだあまり人は入っていませんけれど」
「これから増えるんですか?」
「そうですね。なんと言ってもプロジェクトが大がかりなので、妻帯されているドクターはご家族と一緒に、郊外に家を買われていますよ」
「じゃ、ここに入るのは寂しい独り者ばかりというわけですか」
 僕もそうですよ、とその年若い(と言っても不二と似た年代のようだったが)青年は苦笑いして、続けた。
「でも、僕なんかはともかく、不二先生がおひとりとは意外ですね」
「あはは、こう見えても彼女すらいませんよ」
「そうですか。海外が長くていらしたとはお聞きしていますが」
「はい、ずっとロサンゼルスのほうで。友人達がそこにいたものですから、ついつい長居してしまって」
 寮は広く設備も整っている。娯楽室や食堂、売店も完備されているので、所員の世話をするために勤務する人間も相当いることだろう。研究所の入口や中身とさほど印象は変わらない無機質な廊下を歩いていると、間もなく青年はひとつのドアの前で立ち止まる。
 真新しい。
 ここを住まいとするのであろう人間の名を掲示する場所は、まだ空いたままになっている。
「先生のお部屋はこちらです。ここもお渡ししたIDカードでドアが開くようになっています。そのカードは身分証も兼ねておりますので、勤務中は顔写真がついたほうを表に向けてネームプレートとして白衣に付け、必ず携行してください。通行証にもなるカードですので、外出の際にも必要です」
 青年の口調は、柔らかいが事務的になる。このあたりは入寮者全員に必要な伝達事項なのだろう。
「このカードで通用門、正門、寮の入口と寮のご自分の部屋、資料室、薬品室、実験室、それからレベルUまでの研究室への立ち入りが出来ます。レベルV以上のエリアへの入室は許可が要ります。許可申請については、研究チームのリーダーへ前もって行ってください」
「了解しました」
「僕が持っているこのカードは、全室を対象とするマスターキーのようなものですが、僕に携行が許されているのはこのようにみなさんをお迎えしたときのご案内の期間のみです。グランドマスターカードは普段は警備員室の金庫に保管されていて滅多に事では持ち出せないようになっておりますのでご安心下さい」
 そこまでひといきに言うと青年はちょっと笑って、僕みたいな若造がこういうの持ってると先生方の中にはいろいろと勘ぐられる方もおいでなんですよ、と言った。
「ご同室のドクターについては、聞いていらっしゃいますか」
「あ、いえ、それが」
 不二周助は、整った顔に似つかわしい綺麗な笑顔を浮かべて首を振る。
「僕は数日前に帰国したところでして。実家に帰って荷物をまとめて、この場所へたどり着くのがもうやっとだったんです。ここだけの話、資料も何も見もしていませんよ。同室の方はどこの先生なんですか?」
「関西のほうで研修医をなさってらっしゃいました。とても優秀な方で、医大を飛び級なさってて…ああ、そう言えば不二先生と同じ年齢の方です。今日着かれたばかりですよ、もうお部屋の方にいらっしゃいますので」
「そうですか、同年代の方なら助かります。あまり、いかめしい方との共同生活というのも…」
「はは。まあ、個室寮が半年もすれば完成しますので、それまで申し訳在りませんがご辛抱をお願いいたします。優先的にいい場所へ割り振らせていただきますよ」
「是非」
 インターフォンを鳴らして、同室の先生がお着きです、と青年は声をかけた。
 間もなく、青年がカードを使うまでもなく、ドアは横滑りにすっと開く。
「どうぞ」
と、中から声がした。
 低い、落ち着いた、いかにも優しげな男の声だった。
「失礼します、先生」
「はい」
「今日から、ご同室でお入りになる不二周助先生です」
「はい、伺っております。どうぞ」
 荷物の整理の途中だったのか、答えた男は顔を上げ――うっすらと微笑む。
その顔には――見覚えがあった。
「やあ、不二」

 大石秀一郎が、そこにいた。




 若い所員が何か質問する前に、中学時代の同級生ですと、大石秀一郎はそつなく答えた。あとは僕が説明しましょう、と言って所員を部屋から退室させ、あらためて久しぶりだと彼は微笑んだ。
「資料を見たとき、名前があったんでもしかしたらと思ってたんだ」
 そう言いながら、大石はそつなく握手などを求めてくる。それに返す自分の仕草はぎこちなくなかったろうかと、不二は一瞬心配になる。
 しかし大石秀一郎の方は、いつもの…そう、それこそ不二の記憶にあるのと何ら変わらない穏やかな表情をしているだけだ。
「何年ぶり…かな、大石」
「10年」
「…もう、そんなになるのかな」
「そうだな。あのときは、ちゃんと挨拶もできないですまなかった」
「いいよ、そんなこと。こっちこそ」
 あのときは庇いきれなくて、と不二は小さく呟いて、のろのろと鞄を自分の机の上へと置いた。
 部屋は思っていたより広かった。ベッドと机が二つ、部屋の左右に備え付けてあり、小さくはあったがクローゼットも、それから本棚もある。冷蔵庫は小さなものが一台だけだったが、家庭用というわけでもないし、二人で使うならいい大きさだ。
 大石は多分、持ち込んだ本の整理中だったのだろう。分厚い学術書を丁寧に棚に並べながら、不二に説明を始めた。
「バスとトイレは共同だよ。各フロアに2カ所、大浴場とトイレがあるって。ランドリーもその隣。見取り図は資料の中にあったから見ておくといい。簡単な日常品は売店で手にはいるよ、アルコール類以外はね。ビールとかは売店で注文か街におりて買うみたいだ。保管は各部屋の冷蔵庫」
「…」
「パソコンをネットに繋ぎたかったら、机の上にジャックがあるから。それから部屋は二つに区切れる。そこ、その細い扉からパテーションが出てくるようになるから、それで部屋の半分ほどまでは区切れるみたいだね」
 10年前突然の別離を余儀なくされてしまった友人が、その頃と変わらず、何事にも親切で丁寧な性格であることを嬉しく思う反面、不二はどこか痛ましげな目でそれを見ずにはいられなかった。
 彼は何も変わりない。表面的には。
 まさしく不二と不二の友人とを日本から遠ざける原因となった、その事件の後遺症のようなものは感じられもしないが。
「じゃお互いのベッドと机くらいは、パテーションで隠れるんだね」
「最低限のプライバシーってことだろうね、よく考えてある。…あ、そうだ。不二、車は持ってきてるのか」
「車。いや、免許はあるけど、あっちに置いてきた。でも此処は車ないと不便そうだね、街にもおりて行けそうにないし」
「俺、車持ってきてるから、何かあったら言ってくれ。使ってくれても良いし」
「ありがとう。もっと、こう」
 そこで不二周助はいったん、言葉を切った。
「…もっと…建物とかは増えてるのかと思ってた。この10年で」
「――来たことあるのか、不二」
 たいして動揺した様子も見せず、大石はすっかり広くなった背を不二に向けて本を棚に詰め込んでゆく。
「うん。10年前に、一度だけ」
「…」
「花を持ってね。場所を聞き出すのが大変だったんだけれど」
「・・・」
「大石は、どうして此処に」
 こちらに背を向けた大石は、偶然だよ、とだけ小さく答える。。
 機械的、とも見える様子で彼が本を並べていくのを横目で見ながら、不二もゆっくりと荷物を取り出し始める。
「…大石が、医者になってたとは知らなかったな」
「――うん。京都の大学病院で研修やってたんだけど、こないだの学会で発表した論文のできが良かったみたいでね。こっちへ引っ張られた」
「…」
「呼び出しや内線電話に怯えないで済むだけ、気は楽だね。…不二は?」
「僕もあっちで臨床の途中。薬剤のほうで結構研究とかやってたから、それじゃないのかな」
「そうか。手塚は元気か」
「うん」
「一緒に暮らしてるんだろ」
「――」
「何も遠慮することないよ」
「遠慮って」
「俺に気を遣わなくてもいいってことだよ」
 そういうわけではないけれど、と思ったが不二は口にしなかった。

 大石が無言で本を並べ続けるその隣に、大きく開いた窓がある。
 3階になるこの寮からは、まだ冬のさなかで枯れ木ばかりが目立つ山々の光景がよく見える。
 そして研究所にほど近い、小高い丘になったその上に立つ巨木も、冬の空に雄々しく張り出した枝のシルエットを浮かび上がらせている。
 不二周助は、それがなんであるかを知っていた。
 もちろん大石秀一郎も。

 闇に燃え上がる、白い炎のような花びら。
 それは春に咲く冷たき火炎。

 巨大な桜の古木だった。




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