「結局、俺が…いや、私がそのとき大石先生の処に伺ったのは、薬品庫の中の在庫が不足していると言う連絡を受けたからです。レベルVエリア…ああ、機密や劇薬中の劇薬を保管してある薬品庫のある、研究棟のことをそう言っているんですが。我々第1研究室のメンバーのなかでは、大石先生しか立ち入りを許可されていなかったものですから」 「――」 「足りない薬品というのは、結局大石先生がご自分にお使いになったわけですけれど」 薬剤の名を告げると、ああ、と初老の医師は、何かを思い出すかのように首をゆるく振った。 「それはあの子が、十年前私の勤めていた病院から持ち出したものと同じ類の薬剤です。あのときのは、多分今回のものとは比べものにならないくらいレベルの弱いものだったわけですが」 いやそれでも十分死に至ることが出来るのですけれどね、と男は言った。 彼らが立っているのは、研究所の正面玄関から右に折れたところ、事務所や来客用の応接室などで構成されている場所だ。 所員や事務員達が慌ただしく行き交う中、眼鏡をかけた長身の青年と、初老の医師が応接室の前で、なにやら話し込んでいる。 ちらりと応接室の扉を見やりながら、青年は聞いた。 「彼とは、お知り合いだったんですか」 「ええ。駅で、偶然一緒になりましてね、目的地は同じだったものですから」 医師は、青年のような若者にも礼節を崩すことはなく、丁寧にものを言う。 「彼が中学生の時、左腕を痛めましてね。俗に言うテニス肘と言う奴ですが。秀一郎がおじさんならきっと治してくれるから、って彼を連れてきたんですよ。私は彼がアメリカに渡るまで、彼の主治医だったんです」 「…」 「不二君はどうしていますか」 「そうですね…事情聴取が長引いて随分参っている様子です。今日はこのまま彼と面会させて、休ませてやりたいと思うんですが」 「ああ勿論かまいません、もちろんですとも。…明日、彼の気分がいいようなら、少し話を聞かせてもらっても大丈夫ですね」 「ええ。たぶん」 そういうと医師は少し顔をほころばせ、そしてまた何処か疲れたような顔で話し始めた。 「あの子は、私の妹の子でしてね」 「…」 「私どもには子がなかったものですから、よく可愛がっていたものです。私に息子が授けられたなら、秀一郎のような子がよかった。素直で、人の言うことはよく聞いて、とても一途でね」 そこまで言うと、医師はふと顔を上げ、自分より頭二つほど長身の青年を見上げる。 「君は…十年前のことを…?」 「私は大石先生とは別の学校でしたがやはりテニス部員でして」 長身の青年は眼鏡の向こうの目を不思議に揺らして、おとなしく答えた。 「私の通っていた学校も同じ都内でした。大石先生とはよくテニスコートで、ネットを挟んでお会いしたものです――おっしゃりたいことは判っているつもりですし、多分正確な形で知っています」 「そうですか」 頷いた医師は、ふと懐かしい思い出話をするように、目を細めた。 「あの子は強かったでしょう」 「はい」 「英二くんもね」 「…はい」 「あの子もいい子だった」 「――」 「無邪気で可愛らしい少年だった。元気で思いやりのある子だった。私のような頭の固い者には、どうにも、その、男が男に対してそういう感情が持てるということは、結局判らずじまいだったが…秀一郎と英二くんは――まあ、こんな言い方はおかしいかもしれませんが、とても似合いだった気がしますよ。世間で取りざたされたような嫌らしい意味でなく、とても自然で、似合いの一対だったと思っています」 「――」 「…いや、失敬」 医師は目頭を押さえ、それだけでは足りず懐からハンカチを出して慌ただしく目元を拭った。 「十年前も、そして今も、あの子の力になれなかった者が、今更何を言ってもどうしようもない。…失礼、お客様がお待ちだったんでしたね」 「はい」 「私は所長さんと少しお話をしてくるとしましょう。彼に会うのも久しぶりだしね。…ああ、すみませんが、秀一郎は、いつ頃此処へ帰ってくるのでしょうか」 「先程、警察のほうから連絡がありましたので」 ちらりと青年は自分の腕時計に目を走らせる。 「もう間もなく、戻られると思います…司法解剖も終わったようですから」 「…そうですか」 「ご遺体は、研究棟の地下に臨時の霊安室をお作りしてますので、そちらに」 「申し訳ありませんでしたね。――忍足君でしたか、あの子のことでいろいろと迷惑をおかけした」 「いえ、とんでもない」 相手が一礼するのに、青年も――忍足侑士もまた心から頭を下げた。 「大石先生はとても立派な方でした。こんなことになって、残念です」 「ありがとうございます。…結局あの子は、あの子の思い通りになったのですから、とても満足していると思いますよ」 医師はぽつりと言うと、忍足に頭を幾度か下げ、肩を落として去っていった。 それを眺めながら、忍足は苦い心持ちで天井を仰ぐ。 大石秀一郎が息を引き取ったのは、数日前のことだ。 忘れもしない。 その日は、その夜は、その場所は、狂ったような桜の雨で。 足の痛みに耐え続けた不二と、そして忍足を迎えたのは、桜と夜で彩られた異界だった。 楽園だ、と。 一瞬、妙な錯覚さえ起こした。 そこは櫻の園、失われる者の為の楽園。 花に満ち、幸福に満ち、そして他の全てを拒む。命と代えてそれを求める者たちにだけ与えられる場所。 降り続け、散り続ける花びらが、現世とこの場所を隔てている。 果てもなく降る花が土を全て覆い尽くしたその上で、彼が横たわっていた。 心臓が鼓動を止めて、間もないようだった。 不二と、そしてこうなっていることを何処かで予想していた忍足も、思わず彼の体に駆け寄った。 仰向けで、何の苦悶も苦痛もなく、頬を叩けば起きあがりそうな表情の友人を、不二は無我夢中で抱き起こそうとした。しかしそれが上手く成せない。 何かがひっかかっているのか、と、大石の躯を眺めやっていた二人は、次の瞬間硬直した。 "それ"は、横たわり投げ出された大石の左手首に絡みついている。 あのとき無理矢理引き離され切り落とされた、二人の手をつなぐ赤い紐の代わりだとでも言うように。 紐よりも野太く、ごつごつして土臭いそれは、桜の根だった。 確かに土から生えて現れたそれが、あり得ないほどきつく、彼の手首をからめ取っていたのだった。 大石が左手に巻き付けた、銀の鎖ごと。 その間も花は降り続けた。ただ降り続けていた。 一晩中、やむこともなく。 あれは、妄執だ。 死者に愛され、死者を愛した者の、当然の行く末だったと、忍足は思う。 どこか奇妙な活気に満ちたこの場所で、行き交う人々の波に乗ることもなく忍足侑士は、まだぼんやりとする自分を少し嗤う。 桜の毒気に、少し当てられたようだ、と。 咲いて間もないはずの桜は、たった一晩ですべてその花を落としてしまった。そして葉を茂らせることもなく、再び、枯れた沈黙を守っている。 チーフ、と呼ばれる。 顔を上げると、同じ研究チームの技師の青年がいつの間にかやってきていて、彼に付き添われた不二周助が立っていた。 「チーフ、不二先生、やっぱりお疲れみたいなんですが…」 「ああ、うん」 「面会時間、少なくしてもらってくださいね」 若い医師の急死に、研究所は上を下への大騒ぎだ。 ただごとでないその死に立ち合ってしまい、警察の事情聴取や、上司からの質問責めで不二周助はほとんど休むこともままならない。その憔悴ぶりを案じて、青年はくれぐれも手短にと来客に伝えてくれるよう念を押す。 「不二先生。僕、ピッチ持ってますから、何かあったら呼んで下さいね」 「――うん」 「本当に無理しちゃいけませんよ、迎えに来ますから」 「ごめんね、ありがとう」 無理に笑った不二を痛ましげに見ながら、青年はもと来た道を振り返り振り返り帰っていった。 「不二」 「――」 「大丈夫か」 「――うん。…僕に、面会って、誰」 「…ん」 「忍足? 会ったんじゃないの」 微妙な顔をして、忍足は言葉を濁した。 「うん。――ああ、それとは別に、大石のおじさん、言うドクターが来はって、また不二が落ち着いたらちょっと話させてくれ、やって」 「…ああ」 「大石、ホンマに両親とは縁切れてるんやな。…葬式とか、全部あのおじさんが手配しはるみたいやし」 「…」 「まあ、あのおじさんはしばらくおるみたいやし、また会うたったらいいやん。さ、入ろ」 不二の返事を待たず、忍足は軽くノックをすると、中からの答えが返る前に扉を開けた。 そうして、不二をくいと自分の躯の前に押し出す。 応接室の中で、待っていたらしい人影が立ち上がる。 忍足に負けず長身で、すらりとした姿はとても見栄えがする。 不二、と低い声音が、優しくその名を呼んだ。 応接室の中に押し込まれた不二が、息をのむ気配が伝わる。 忍足は何も言わず、不二がその人物に駆け寄る後ろ姿を未練がましく見送ることもせず、立派な態度でそっとドアを閉じた。 「あれ、応接室のかた、忍足チーフのお客様じゃなかったんですか」 ぱたぱたと忙しくかけ回っている事務員が、応接室のドアを閉じる彼の姿を見とがめて声をかけた。 「ああ。いや、不二の。しばらくそっとしといたってくれる?」 「わかりました。でも、へえ、あの人、不二先生のお知り合いだったんですか」 「うん。一応、俺とも」 「凄いですねえ。あの人、ほら、テニスの選手でしょ。日本人初の、ひとケタランキング、って、僕ニュースで見ましたよ。不二先生のお知り合いだったんですか、へええ」 「正確に言うたら、不二と、大石とも仲良かったんやけど」 「あ。へーっ、そうだったんですか! あ…じゃあ」 素直に驚いた青年は、その知り合いが此処まで来た理由を察し、次の瞬間ばつの悪そうな顔をした。 「…不二先生、大丈夫でしょうか」 「うん…まあ、あいつ来たし、ちっとは気が晴れるとええよな」 「不二先生が呼ばれたんですかね、あのお客様」 「いや、俺が連絡した。不二、それどころやなかったみたいやし、あっちもロサンゼルスに家あるから、早う言うといたほうがええかなと思って」 そこまで言って、忍足はため息をついた。 「だいたい俺も、わざわざあいつ呼んだるとは、ほんま人がええ」 「――チーフ?」 何か言ったかと覗き込む青年には、何でもないと笑ってやった。 ――不二については俺の出番なし、か。 ムカつくけど、マジその通りや。 大石。 ふと見えた窓の向こうの桜に向かって、忍足は小さく悪態をついた。 彼のため息は、ひっきりなしにざわめく人々の喧噪の中に紛れて消えていった。 あれは、妄執だ。 生者と死者の。 この世に存在しない楽園を求めた者の、その顛末を見たのだ。 大石秀一郎は死者を望み、死者は大石秀一郎を望んだ。果たせなかった道行きの完遂を彼岸と此岸に在る者が同時にこいねがったのだ。死者が生者に変わることはないが、生者が死者となるのはたやすい。 誰の言葉を聞くことも受け入れることもなく、十年間ただそれを望み続けてついに叶えられた。 全てに拒まれ、また拒んで共に在ろうとした、魂のあがく様だったのだ。 けれどそれを、人は永遠の恋と呼ぶ。 二度と失われることのない花の園にたどり着く、この上なく幸福な恋の行く末。 死をもってたどりつく、究極の楽園だと。 永遠に終わらぬ恋だと、人は呼ぶ。 |
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