月の明かりを花びらがはじいて、美しく発光している。 それは枝を離れ地に落ちても、綺麗にたおやかに光を灯すことをやめず、それで覆われてゆく地面は美しい光の絨毯のようだった。 ――英二。 彼が笑った。たまらぬように。 風のひと吹き、触れる花弁の一枚一枚が、恋人からの口づけだとでも言うように。 愛しくて嬉しくて、どうしようもないというふうに。 ――英二、英二、英二。 ――英二。 両手を差し出す。 桜は、彼の手に光とともに点る。 そろりと踏んだ花弁の褥は柔らかく、細かな光を放って彼を誘った。 そこに身を横たえる誘惑には、勝てそうもない。 身に敷く花びらに口づけ、床の中で体を寄せるようにそろりと横たわる。 雨のように勢いと量を増し降る花びらが、うたた寝を気遣ってかけられる布のように彼の体を覆っていく。 ――英二。 彼の中で、闇を叩くような勢いで叫び上げる名を、もう彼は、実際の音として唇から漏らすことは出来なかった。狂奔し猛り狂わんばかりの歓喜とは裏腹に、桜の褥で大石秀一郎に訪れた眠りは実に静かで穏やかであった。 眠りに落ちる彼は、自分の名を呼ぶ懐かしい声さえ聞いた。 その声の主を思い浮かべたとき、彼のために慣れ親しんだ歌を歌ってやろうとして僅かに唇が動く。 けれどそれは何の音もつむがぬまま、まるでまどろみに落ちるように動かなくなった。 桜は降る。 ただ雨のように降る。 大石秀一郎は、やがて息をするのも飽きたのか。 あるいはその光景の美しさを少しでも乱すまいとしたのか。 ゆっくりと小さくか細くなってゆく己の呼吸さえ、この櫻の花園を乱すものだと恥じ入るように、身を横たえてわずかの後にそれを止めた。 それが完全に停止する瞬間、彼は待ち望んだ恋人が、己の手を取り固く握りしめるのを見る。 その手には確かに、赤い、赤い紐が巻き付いている。 二度と離すまいとする恋人の手の、その意固地ないじらしい力の込めようは、彼にはとても愛しく思えた。 10年前と、なにひとつ変わることなく。 ――英二。 彼が、笑う。 |
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