可哀想に。 可哀想に、と彼は言う。 可哀想に、英二。 可哀想に。 気まぐれに怒ってみたり、拗ねて知らんぷりしてみせたり、昔のままだね。 変わっていないね。変わるはずがないね。 俺も変わらずにいたよ、出来るだけ変わらずにいてあげたからね。あのときのまま、忘れたりしないでいたからね。 俺を変えようとするものは、全部拒否してきたから。 俺はあのときのまま。 あのとき君を好きなまま、変わらないままだ。君が変わらないのだから、俺も変わる必要はなかった。 だから怖がらなくていいよ。ひとりで寂しかったね。 可哀想に、英二。 もう大丈夫だよ、怖いことないよ、何にもないから。 此処にいる。 ずっといるから。 暗闇が彼らの上に落ち来たとき、とっさに忍足は不二を闇の中で見失うまいとその両腕をきつく掴んだが、闇は彼らの視界を奪っただけでそれ以上の悪意を感じさせなかった。 停電、のようだ。 不二が意図せず開けてしまった電動の扉は、ぽかりと口を開けたまま閉じる動作を忘れ、忍足が急ぎ足で入室するのを拒まなかった。 「…不二?」 灯りが消える前に一瞬垣間見た不二の顔色のあまりの青白さに、ただごとならぬと忍足は気づいたが、気と行動が逸っても不二がけが人だと言うことは念頭にあるらしく、その体を扱うのはあくまで慎重で丁寧だった。 不二を頓着なく突き離した大石の、その冷淡さに今更ながら不二は背筋を寒くする。 彼にはあり得なかった負の感情だった。 「不二、どうしたん。…誰かおるんか、中に」 「――大石が」 「大石?」 忍足は顔を上げ、部屋の奥を伺い見たようだった。 しかし、まだ闇に慣れぬ目に何も映らない。 「大石になんかされたんか」 「――」 「不二」 とっさに、今の状態を言い表す言葉が見つからない。 不二の感じた恐怖、止めようもなく最期の坂道を転がっていくひとへの絶望。 あまりに彼が幸福な様子なので、留める言葉も見つからない。 「ふ…」 忍足が不二を気遣って再度声をかけようとしたとき。 一陣の風が、彼らの周囲を通り抜けた。 それは今まで不二の周囲に時折現れていた、土臭い、少し湿り気のある外の風そのものだった。 違うことと言えばその勢いぐらいだったか。 不意打ちに近い形で、びょうと鋭い音さえたてた突風は、入口近くにいた二人の青年に思わず顔を覆わせ息を詰まらせたほどだ。 次に二人が顔をあげたとき、ばさりと何かがはためく音がした。 いつの間にか窓は全開にされ、それが時ならぬ突風を駆け抜けさせたと気づく。ばさりと言う音の源はひるがえるカーテンだった。 窓を開け放ち、カーテンをはためかせるその様子が二人の目に明瞭に映った。窓が開け放たれることで皓々と照り映える月光をも、室内に招き入れていたのだ。 窓枠に制されて天に輝く光輪を目にすることは出来ないが、きっと満月なのだろう。 月光のおかげで、彼らの視界はわずかに良好となった。 月は照る。 しかしごうごうと時ならぬ風の音は止まない。 それは開け放たれた窓の向こうで吹きすさび、見えぬ渦を巻きながら、戸外の夜の中、じっとこちらを伺っているようだった。 人工の灯火の一切を失った部屋の中に、忍び寄ってくるのはにじむような闇だろうか。 窓枠の形に切り取られた夜を背景に、すらりと長身の人影が佇んでいた。 窓辺に体重を僅かに預け、時折唸る風をまるで従えてでもいるかのように。 大石秀一郎が、まるでその夜を招いた張本人だとでも言うように――この、奇妙に不条理な感じを漂わせる空間を彼自身が呼び寄せたのだとでも言うように。 不二と忍足の感じているぞっとするような違和感を、彼はせせら笑っているのかもしれない。 闇にしっとりと馴染み従える彼の遙か背後に、ぽうと白い灯りが灯っている。 天にかかる月は遠く目にすることは出来ない。 しかし、闇の中でゆらゆらと不思議に揺らめいている白光がある。 忍足と不二からはちょうど大石の肩付近に見えるそれは、実際は屋外、この研究所から遙か遠くに位置しているものだ。ふたりが呆然とそれに目を奪われていることを知ってか、ちらりと大石がそちらを見るように体を動かしたものだから、思わず知らず不二も忍足も、それをさらに凝視した。 ――桜。 ――闇の中の。 ひっ、と不二が小さな悲鳴をあげた。 それは確かに、闇夜に絢爛と咲き誇る桜だった。 遮るものとてなにもない巨大な枝はゆらゆらと風に揺れ、まるでその桜の巨木自体がゆっくりと身を震わせているかのようだった。 それはすすり泣いているようでもあったし、喜びに身を震わせているようでもある。 また、戻れぬ道へゆっくりとさし招く、その様子にも思える。 「…大石?」 忍足がうかがうように声をかける。 不二は、先刻までの正気でもって彼が応答してくれることを期待したが、それは見事に裏切られた。 忍足の問いかけに帰ってきたのは、どこか調子を外した昏い笑い声だった。 英二。可哀相に、英二。 気まぐれに怒ってみたり(棚を倒すような悪さをしてみたり)、拗ねて知らんぷりしてみせたり(花を咲かせてもくれなかったり)、昔のままだね。 寂しかったね、とても寂しかったんだね。 怖いことないから、俺がいるから。 もうなんにも、怖いことはないから。 泣かなくていい。 すぐにそこに。 俺がゆくから。 「さあ。そろそろ行かなきゃ」 場違いに明るい声は――大石だ。 彼はひとしきり楽しそうに笑うと、彼の背後、はるかかなたの桜を眺めやった。 「キレイに咲かせてくれたね。ああ、あのときと同じ桜だ。嬉しいよ、英二」 「大石!?」 「さあ、行かなくちゃね。ちゃんと歩けるうちに」 「大石、おまえ」 忍足は、暗がりで表情も見えぬ大石の、隠しもしない狂いの様子を呆然と見ているようだった。 まだ痛む足で、ともすれば大石のほうへ駆けだしかねない不二を本能的にひきとめながら。 あんな状態の者の側に寄せれば、不二も何をされるか判らない。彼にはもう自分の目的、すぐ近くまで来ている彼のための福音しか目に入らない。 不二がどれほど必死で止めようと聞き入れることはないだろう。それどころか道行きの邪魔になれば、不二に対してもどんな振る舞いに及ぶか解ったものではない。 「大石!」 しかし忍足のそんな気も知らずに、不二は必死に呼びすがった。なんとか彼を思いとどまらせようとして、忍足の腕の中でもがく。 彼を彼の言うように桜のところへ行かせたら、おそらく二度と戻ることはないだろうと、それこそ本能的に分かったからだ。 今の彼には、死の匂いが満ちている。 行かせたら、多分、戻ってこない。 命ある状態で戻ることは、きっとない。 彼の狂気とも言える執念が、そして十年も前に失われた者の妄執が、きっと大石秀一郎の命を絶つ。 あるいはそれを、永遠の恋と呼ぶのかも知れないけれど。 月が何の気まぐれかさらに光を強め、照らし出した人影――大石秀一郎は、やはり笑っていた。それはもう、幸福そうに。 叫んで止めようとする不二をちらりと見やると、すっと指輪でも見せるような仕草で左手をかざす。いつの間にかそこには、大石の胸元から移動されたと思しき、小さな銀の鎖が巻き付いていた。 はっと不二がそれに気を取られた瞬間いっそう強い風が吹き、またふたりの息を詰まらせる。 しかし今度の風は違っていた。 白い、無数の雪が舞い込んできたかと思った。 吹き上げ、舞い狂う風に乗り、窓の向こうの闇から湧いて出る。後から後から、際限もなく。 それがふたりの視界を奪った。 ごうっと言う一際強い風とともに、まるで大石を包むように、そっとまとわりつくように乱舞した白いものの正体が、桜の花びらだと知れるのにさほど時間はかからなかった。 風が吹き上げる度に闇の中から飛来し、ものすごい勢いで不二と忍足の視界を横切っていくものもあれば、途中で風の奔流からこぼれひらひらと床へ落ちてゆくものもある。 月明かり。 風の音。 そして、間断なく吹き込む桜の嵐。 それらに包まれて大石が笑う様子は、異様だった。 異様で、そして美しかった。 生きている者は決して見ることが出来ない世界の、その片鱗を伺わせているようで。 「大石!」 かつ、と音を立てて、彼の足が動いた。 「大石、やめて! 行かないでよ!」 不二が、忍足の腕の中から絶叫した。 彼がとどまる理由もなく、そして不二の言葉も届かないのだと言うことを知っていて。 それでも。 「やめてよ!」 不二には止めるしかない。 引き留め、どうか生きてくれと言う以外なかった。 この上なく愚かな、この先生きたとしても大石には何も残らないことが解っていても、そう言うしかなかったのだ。 自分の罪悪感を拭う為だったのかもしれない。けれどそれ以上に、不幸に生きてきた人が最悪の形で迎える結末を、何もしないで見届けるわけにはいかなかったのだ。 死んで欲しくない。 それが、生きて恋する者と結ばれた自分の、エゴ以外何者でもないことを知っている。 生涯たったいちどの恋を全うする、自分は生きて。 けれど彼は死をもって。 このまま大石にもたらされるであろうその結末が辛いのは、納得できないのは、力及ばず二度も友人を失うという罪悪感以上に、自分も彼が好きだったからだ。失われた親友と同じように、彼の真摯さや誠実さが大好きだったからだ。 桜の下で、もしも自分が同じようにして手塚を失っていれば、確かに大石と同じ行動をとるだろう。 けれどその場合だって、不二の立場に立った大石は友人を引き留めずにはいられないはずなのだから。 「行かないで!」 無理に忍足の腕をふりほどいて大石に駆け寄ろうとした不二を、花びらを含んだ風が思わぬ力で押しとどめた。たたきつける勢いのその風によろめいた不二を、忍足が支える。 「不二!」 「忍足、止めて! 大石を止めてよ!」 「――」 忍足は苦渋の表情で不二を見たが、その必死の訴えに耳を貸さないわけには行かなかったらしく、不二を体の後ろで庇うようにして、ゆっくり近づいてくる大石の方へと歩き出す。 しかし大石を引き留められる決定的な言葉などこの世にあるはずもない。 少々手荒になるが、と、とひそかに忍足が思ったことを見抜いたように、くすっと大石が笑った。 その瞬間、大石の笑みとそしておそらく意志に応えて吹いた風は、大の男さえ押しとどめよろめかせるに十分な、嵐ともよべるものだった。 忍足が転ばなかったのは見事としか言いようがない。 踏みとどまった忍足は、その風の傍若無人ぶりが大石の差し金であることを疑ってもいないようで、怒りをあらわにして少々強引に、狭い部屋の中を自分に向かって(おそらくはあの桜の処へ行くために、戸外に出ようとして)やってくる大石に近寄ろうとした。 途端。 「う、わっ」 次に忍足に浴びせられたのは、風でなく大量の花びらだった。 両手でひとすくい、等というなまやさしいレベルではない。 たとえばバケツほどの大きさの入れ物を丁寧に集めた花弁で満杯にし、水でもかぶせるように躊躇なく浴びせかけたらさもあらん、と言う具合だ。 今度は、冗談ではなく息が出来なかった。 凶暴とも言える花びらの来襲を不二も免れ得ず、思わず目を閉じ顔を覆い。 気づけば。 「忍足…!」 「わっぷ…また、キョーレツなことしてくれるもんやなあっ」 ばさばさと花弁を払い落としながら、ようやく気を取り直した忍足と不二の目の前に大石の姿はなかった。 部屋の中の、どこにも。 傍らを通っていった気配もない。 ただ一瞬、ひゅうと一瞬強く吹く風の音がしただけで。 「大石!?」 「忍足、廊下!!」 よろけながら不二は、叫んだと同時に廊下に飛び出した。 「不二、待て、そんな足で走るな!」 ばさばさと、自分にまつわりついた花びらを払い落としながら、不二の後を追おうとして、忍足はぎくりと足を止めた。 彼の足下に溜まった薄くしっとりとした儚い花弁の一枚一枚が、次々に消えてゆく。 忍足の手に確かに触れ、払い落とされ、あの細やかな薄紅の色合いも確かに現実の桜のそれであった。しかしその失せかたは光の砕けるような、シャボン玉がぱちりとはじけるような、一瞬のそれである。 花びらの消失、美しい幻の死に見入っていた忍足だったが、すぐに我に返って廊下に飛び出した。 「――不二!」 左足を引きずり、壁づたいによろよろしながら歩いている影に追いつけたのはすぐだ。 「不二、大石は!」 「わかんない…消えちゃった」 「そんなアホな。今さっき、出ていったとこやろ」 しかし不二の言うとおりだった。 廊下の左右どちらを見ても、自分たち以外の人気はない。大石がどれほど俊足だったとしても、彼が移動したと思われる一瞬後に廊下に飛び出した不二に、目撃されないはずはないのだが。 やはり、大石の姿はどこにもない。 常夜灯も消えてしまったそこは真っ暗で、非常出口の緑の灯りだけがぼんやりと、どこか奇妙に浮かび上がっている。 「大石!」 「大石、どこや!」 「忍足、出口」 「…ああ」 外へ向かったなら、取りあえず寮の出口へと向かうはずだ。 不二に肩を貸し、歩き出そうとした忍足の耳に足音が聞こえてくる。 思わずそちらを追おうとした忍足を、不二が袖を引いて引き留めた。 「何や、不二!」 「お…忍足…」 「早う追っかけな、あいつマジで死ぬ気やろ――不二?」 「う、うしろ…」 何だ、とばかりに振り返った忍足は、その場で凍り付いた。 忍足のその驚愕を見抜いたように、湿って土の匂いがする風が駆け抜ける。 ――ひたひた、ひたひた。 足音は、彼らの背後から響いていた。 素足を押しあて歩くような、ひそやかな音。 まるですぐそこに人がいるように、はっきりと聞き取れるのだ。 ――ひたひた、ひたひた。 ――ひたひた。 近づいてくる。 すぐそこにいる。 なのに。 なのに、廊下には誰の姿も見えない。 「――マジ?」 忍足の、精一杯の虚勢だった。 おどけてみせようとして失敗した彼は、それでも完全に戦意を喪失したわけでもなく、この状況において自分より弱いものを体の後ろにいれて庇うことは忘れなかった。 ひたひた。 ひたひた。 足音は途切れない。 彼らふたりが立ちつくすすぐ側まで来ても。 「――英二?」 不二は思わず呼んでいた。 「英二なの?」 ひたひた。 ひた。 足音が止まった。 不二と忍足のすぐ側で。 「ねえ、英二。英二でしょ? 僕だよ」 誰もいない。足音も途切れた。 けれどそこで、確かに何かが立ち止まり、何事か考え込むような…迷っているような気配がする。 呼ばれたことが判ったように。 それは、ひょっとしたら不二の思いこみ、またはそうあってほしいと望む願望だったかも知れないけれど。 立ち止まり、小首を傾げ、大きな可愛らしい目をきょろきょろさせて。 容易にその様子が想像できて、こんな状況であるのに、不二はいとけなさに唇がほころんでしまう。 「英二。英二、ねえ」 ひた。 しばらく考え込む様子をみせていた気配は、迷いながらも一歩を踏み出した。 「英二。ねえ、姿を見せて。…僕にも君と会わせてよ」 ――ひた。 ――ひた。 後ろを気にしながら、気を取られながらも、本来の目的の場所へ向かうような、ほんの少しためらいのある足音。 けれどもう立ち止まる気はないようだ。 「英二。お願いだから、僕にも」 ひた。ひた。ひた。 少しずつ、少しずつ、足音が元のリズムを取り戻していく。 「君と会わせて…お願い。――ねえ、ずるいよ、大石ばかり。英二、お願いだから」 「…不二」 ――ひた。ひた。 「英二」 不二は手を伸ばした。 姿なき友人が、確かにそこにいるのだと言うように。 一心に、恋しい人を追ってゆこうとしているかのように。 もう二度と、自分たちを振り返ることはないのだと言うように。 「連れていかないで、英二」 ――ひた。 ――ひたひた、ひたひた。 「大石を連れていかないで」 ひたひた、ひたひた。 もはや足音にためらいはない。 歩き続け、進み続けていく。 不二の懇願も願いもむなしく、もうそこに逡巡は見受けられない。 「英二」 不二が祈るように呼んだが応答はついになかった。 ――その代わりだ、とでも言うように。 ことん、と音がした。 足音が遠ざかり、呆然と立ちつくす不二と忍足の前に、不意にころころと転がってきたものがあった。 今の今まで何もなかった廊下の床に、それまで見えぬ懐にしまわれていたものをこれ見よがしに放り出して見せた、と言う感じで、思いもしないものが転がっていた。 それはガラスの瓶だった。 無骨な形をしたその瓶は、薬剤を保存するためのものであったが、中身はない。 どうぞ確認して下さいと言わんばかりに、薬品名を書いたラベルを上向きに、忍足と不二の目の前、転がる瓶は静止する。 空っぽのその瓶のラベルを読みとり、そして大石秀一郎がわずかに酒精を漂わせていたことを思い返して、忍足は舌打ちをした。 「…不二」 「――」 「桜のとこ、行くぞ。…来るか」 真っ青な顔をした不二は、差し出された手に黙って捕まった。 「不二。でも、もう、多分…」 言いかけ、忍足はやめた。 もう哀れなほど青ざめ、呼吸すらあえかであるのに、不二は決して前へ進むのを止めようとはしなかったからだ。 不二にも判っているのかも知れない。ある程度、この結末は察し得ているはずだ。 なのに行こうとするなら、ひとりには出来ない。 「フジコちゃんまで桜に食われたら、俺、哀しいもんな」 わざとそんなふうに言ってみせたが、不二からは何も答えは返らなかった。 そうしてそれからは黙々と、ただ黙々とふたりとも桜の下を目指した。 月明かりの下、発光する桜を目指して歩く夜の道を、永遠に忘れないだろうと思いながら。 |
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