正面玄関エントランスから右方向へ曲がると、来客受付をかねた事務所がある。警備員室ともすぐとなりだ。 人気の少なくなった研究棟をはじめとしてあちこちを見回り、それを最後の業務として、夜間警備員と宿直担当に引き継ぐ。研究に携わる所員とはまた別に、それ専用の部署と、それに従事する人々がいるのだ。 「んじゃ、あと十分ほどしたら巡回行ってきますから。もう帰ってていいですよ」 最後まで居残っていた事務員の一人が若手の青年に言う。青年は人好きのする顔で笑って、こう言った。 「いや、それならおつきあいして待ってますよ。寮までご一緒しましょ。そのほうがいいよね」 もうひとり居残っていた女性事務員に声をかけると、彼女もこくこくと頷く。 「それでなくても最近、オバケの噂聞いていて怖いんですよう。帰るんなら、みんな一緒に帰りましょ」 「はは。オバケねえ」 「オバケって…あれでしょ、あの桜の下の自殺。…なんか、変な噂聞いたんですけど」 女性の声音が低くなるのに、青年が眉を蹙める。 「ああ、なんか…あれ? 2研の高橋さんと1研の大石先生がなんかモメて」 「モメるって言うより、高橋さん、一方的に酔っぱらって絡んでた、って言ってましたけどね。…本当なんですかね、あの…桜のところで心中したのって」 「…」 「大石先生だ、って話」 「――高橋さんがそう言ってただけなんでしょ? あの人前から大石先生によく絡んでたって言ってたし。酔っぱらいの戯言なんてさ」 「うーん…でも」 女性はまだ諦めきれずに話題を続ける。不在の人間に関する興味本位の話題に多少の罪悪感はあるものの、残りの二人も興味がないわけでもなかったし、また率先してくだらない噂から当人を庇うほど、どちらとも親密ではなかった。 「あのう、大石先生と不二先生、同級生なんでしょ?」 「あ。ああ、俺、此処へ不二先生を案内したとき、大石先生がそういったから、そうなんだろうな」 「なんか、不二先生その話聞いたときものすごく真っ青になっちゃって、動けなかったらしいですよ。そのう…心中して死んだほうの人とも、仲良かったとかなんとか」 「うーん…でも、俺さ、大石先生も不二先生もそんなに嫌いじゃないんだ。凄く俺達みたいな事務員にも丁寧だろ? だからさ、高橋さんのほうがいまいち信用出来なかったりして…」 「あのひといつもウルサイですもんね」 ははは、と三人でひとしきり笑っておいて、青年がそういえば、と切り出した。 「そういや、知ってる? 高橋さん、退院する前にとばされるって話。俺、おエラさんたちが話すのちらっと聞いたんだけど」 「え?」 「異動ですか? …こんな時期に」 「うーん、俺も詳しく知らないけど、なんか所長命令で内示出たらしいよ」 「やっぱアレなんですか、あの、大石先生との一件。でも、なんかそれにしちゃ、早すぎるし…関係ないのかな」 「実際殴り飛ばされたのは高橋さんだし、殴ったのは1研の忍足さんだろ」 あ、それは初耳だ、と女性のほうが無邪気に手を叩いた。 「忍足さんなら、なんかすごくケンカとか場慣れしてそう。カッコよかったでしょうねえ、見てみたかった」 「おいおい」 男性ふたりが思わす苦笑したが、うち一人が壁掛け時計を見上げて、慌てて立ち上がる。 「おっとっと、時間だ。それじゃあ行ってきます。――ほんとに待っててもらえるの?」 「はい」 「はい、待ってまーす」 「ありがとう、それじゃ」 早めに帰るように努力する、と言いかけた青年の視界が、突然真っ暗になった。 「うわ!」 「きゃ…!」 「て…停電?」 青年はさすがに一瞬で気を取り直したらしい。慌てて隣の警備員室へ駆け込む。 「すみません、事務所です。…停電ですか?」 「ああ、はい」 そこには壮年の警備員がてきぱきと、所内各所に取り付けられた防犯カメラのモニター画面前で、コントロールパネルを操作しているところだった。 「停電ですが、研究棟については電気が落ちきる前にセーフモードに入ったみたいですね。機器に影響はないと思いますよ」 「そうですか、よかった」 青年は内心、先刻話題に出た2研の主任技師が入院中で本当によかったと安堵した。 以前、雷による停電があったとき、いの一番に、実験機器になにかあったらどうしてくれるんだと怒鳴り込んできたのだから。1研のドクターや主任技師のように、復旧に走り回る自分たちをお疲れさまとねぎらって会釈しろとまでは言わないが、他人のミスで何かあれば鬼の首をとったように居丈高に構えるのは性分なのだろうか。 「…あれ?」 「どうしました」 「いや、うーん…」 ハイテクビルのモニター管理等も歴任してきたプロフェッショナルと呼ぶに相応しい警備員である。定年退職者を対象にした警備員などとは違って、警備会社で訓練と実績を積み重ねてきた人物だ。 こういうコントロールパネルの操作もお手の物のはずなのだが。 「おかしいな…全部予備電源が入るはずなんですが」 「入らないんですか!?」 「いや、ご心配なく、研究棟のほうは問題ありません。…その、寮のほうが」 「寮?」 「寮のところだけが、予備電源に移行しないんですよ。…あれ、これもダメか」 幾度か再起動の操作を試みているようだが、相変わらず異常を示す赤いランプが点滅したままだ。 「何か、接触が悪いのかな。…どうしたんだろう、こないだの月次定検の時は異常なかったんだけど…」 「まあ、寮のほうだけならねえ…」 とにかく継続中の実験に影響が出ないのなら、それが一番だ。モニター画面に映るいずれの場所も、それほど異常はないようだし。 しばらくして復旧しないようなら、寮に緊急放送を入れよう、と思いながら、青年はふとまた、スイッチを幾つか操る警備員の手元に目を落とした。 青年が目を離したばかりの画面のひとつに、薄く透けた白い影がすうと横切っていったが、そこにいる二人共にそんなことには気づかなかった。 その、十数分前――。 寮の一室で、かつてのチームメイトと向かい合っている不二周助は、かくかくと止まらぬ己の震えに舌を打ちながら、なんとか目前の男の意識をこちらに向けようとしていた。 桜のすがたをした死の夢に捕らわれているかつての友人には、しかしどんな言葉が届くというのだろう。 「大石…」 「やっと咲くんだよ、桜が」 今までの会話となんの変わりもない口調だった。大石秀一郎自身には、それが仕事の伝達事項であろうと己の死に関わることであろうと、さほど大切なことでもないし殊更語尾を強めて見せたりする必要もないようだった。 思えば彼は、ずっとそうだったではないのだろうか。 激高することもなければ意味なく鬱になることもない。躁状態など見たこともなければ、まだ年若い気分に任せて浮かれることもなかった。 穏やかで優しくて人当たりよく。 まるで絵に描いたような品行方正の若い医師。 大石にはそのように――絵に描いたように振る舞うことは、さほど難しくはなかったのだろう。 なぜならその全てには、何の心も気持ちもこもっていないからだ。 あらかじめ緻密にプログラムされた通りに動いているのと同じだからだ。 だから誰に何を言われても怒る必要はないし、心を動かされる必要もない。それを受け取る大石自身のその心に届くのは。 届くものは。 此処に、なにもない。 「俺はずっと此処へ来ていたんだよ、不二。知らなかったろう」 大石が僅かに饒舌なのは酒のせいだろうか。 その言葉は変わらず穏やかで、荒げられることもなく、いったい自分は何を心配しているのだったかと、不二でなければふと考えてしまうところだ。 そして、その表情のあまり穏やかさに、彼の言葉の意味すら時折取り逃がしそうになるだろう。 不二はそんな愚かな真似はしなかったが、それでもその、違和感とも言うべき彼の姿の軋みに目眩がしそうになる。 「自由になってすぐ。成人して、大石の家から籍を抜いて、すぐ」 「――」 「春になるたびに」 「――」 「俺のゆくべき場所に」 「大石!」 大きな声を出さないで、と言いたげに、少し笑って大石は続けた。 「何でかなあ…ずっと待っていたけど、全然桜が咲く気配がなかったんだよ。蕾の姿も見えなかったし。初めて来たときは、そうだなあ、それでも三、四日あそこで頑張ったな。もう此処が本格的に着工してたから、隠れるのが結構大変だったよ」 「――」 「とりあえず街へ降りて聞いてみたら…俺が、俺達が来たとき以来、咲いてないって言うからね。こりゃ大変、ずいぶん拗ねちゃってるんだなあって」 大石、と再度呼びながら、不二は絶望に近い気分になる。 自分の言葉など届いていない。 大石が話しているのは、この世にいないもの。まるでそれが今も己の傍らにあるように、うっとりと、それは夢見るように、あり得ないことを話し続けている。 「次の年も、その次の年も来てみたけど、駄目だったよ。花が咲かないんだ。咲いていないと、困るんだ。だって、ほら、あの子は」 不二が、一歩を踏み出した。 よろめき、だいぶ危なかしい様子だったが、大石は不二のその必死な様子を見ても、もう気遣うことすらしなかった。 「花びらに、埋まっているから」 「――やめてくれ!」 「今年で何度目になるかなあ。ああ、でもおおっぴらに此処へ来られて、ずっといてやれるんだったら、医者になってて正解だったよ、本当に。ずっとひとりで寂しくて、俺が来ていることにも気づかないかも知れないから、俺はここに来てからずっとずっと歌って」 「大石、やめてくれってば!」 叫んだところで、どこか熱に浮かされたような独白を止めそうもない大石であったから、不二は痛む足を引きずり僅かな距離を苦労して大石に詰め寄った。 微笑しているその顔を殴ろうとまでは考えなかったが、なんとか意識を此方に向けさせようとその胸元に手を伸ばす。掴みかかると言うより、すがりつくような姿勢になってしまった自分が滑稽だった。 しかし、そうして必死に掴みかかった不二の手を、大石は実に優雅に丁寧にほどかせ、見た目だけはやんわりと手に握り込む。しかしそうしてみせた大石の手には酷い力が込められていて、不二が悲鳴を上げなかったのは上出来なほどだった。 「不二。そうしようと思えばいつでもどこでもそう出来ることを、俺がしなかったのは何故だと思う」 呼ばれるその言葉に、声の調子に、不二は今までにない明確なものを感じた。 思えば、大石がはっきりそうと意識して不二を見据えたのは、再会したあの日から数えてもこれが初めてだったのではないだろうか。 不二も今初めて、大石とまともに向かい合った気がする。 初めて、名を呼ばれた気がする。 「俺のこの十年間は、あのときの10分間に対する報いなんだ」 「…10分間?」 「俺が先に眠ったら、きっとひとりになって怖がると思って、英二に10分遅れて薬を飲んだんだ。――そうしたらこのざまだ。くだらない倫理と薄っぺらい道徳とやらに同情されて、まだ生かされている。…一緒に飲んでやれば良かった、こんなことになるなら」 待っているからと言ったのに、と大石は呟く。 いつもは不二からのいらえなど気にもしないのに、何か言いたげな不二の方を伺い、まだ沈黙が保たれているのだと知り彼は続けた。 「十年前、英二をあの桜の下へ、その時期に連れていったのは俺だ。俺が連れていった場所で、俺の持ってきた薬を飲んで――健気なほど俺の言うことを聞いて死んだ英二と、どうして違う処で死ぬなんてことができる。同じ場所で、同じようにしないと俺には意味がない」 「――」 「だから俺は桜を待って、おめおめと生きのびてきたんだよ」 奇妙だった。 どこかまだ夢を見ている人のような茫洋としたそれではない。今の大石は、口調こそ狂おしい熱に浮かされているようなものであったけれど、よほど正気の声だ。 死を死と呼び、桜の影に愛しく隠した恋人の名をも口にする。 人は死の間際にふと正気に帰ると言うけれど、と考えた自分が恐ろしくなって、不二は唇をかんだ。 「たとえば桜の下でね、不二」 まだ正気の様子で、決してからかう口調になることなく、大石は真面目に真摯に問いかけた。 「手塚が呼んでいたら、お前は行くだろう」 ――桜の下で、俺がお前を。 先刻まで見ていたうたた寝の夢のことを、大石が知るはずもないのに。 その言葉は偶然だったのだろうが、何故か不二をぞくりとさせる。 「逆に言えば、お前が呼んでいたとしたって手塚は迷いもせずに行くし、英二だって俺が呼んでいたら迷いもなく来るよ」 「――」 「それに、もうようやく、英二も許してくれる気になったんだよ。そう、もう終わりにして良いってさ――だから、不二」 掴んでいた腕を、少し勢いを付けて大石は突き放した。 それは、うるさい邪魔なものを振り払うのとまったく変わらない仕草で、相手がけが人で、しかもまだまともに歩けないことをすっかり忘れているかのようだった。 「俺が俺の悪夢を終わらせるのを、どうか邪魔しないでくれないか」 ――英二のいない悪夢を。 まるで掴んだ不二の腕が、大石をその悪夢に縛り付けている元凶だとでも言うように、僅かな悪意とともに突き放された不二は、そのまま入り口のドアの方へとよろけた。 本当に、結構な勢いで突かれたのだ。 まさか大石がそこまで乱暴な真似をするとも思っていなかった不二には、まったくの不意打ちで、どうにか倒れずに済ませようとするうちにドアにたどり着いてしまった。 手が触れた場所は、電動のドアを正確に横滑りさせる為のスイッチだった。 知らずそれに触れた不二の目の前でドアが開く。 「わ」 ドアの向こうには、長身の人影が驚いたように彼を見下ろしていた。 「どしたん、不二。今、インターフォン鳴らすとこやったのに」 多分、不二の具合を案じて見舞いに来たのであろう彼の顔が、優しい笑顔からさっと強ばる。 不覚にも安堵の表情を見せてしまった不二の、その顔がはっきりと見て取れるほど青ざめていたからだった。 「――不二?」 「あ…」 まだよろけていた彼を受け止めようと差し出された手に思わずすがりながら、口を開こうとした、その矢先。 風が吹いた。 土の匂いがする、戸外の。 振り返る不二の動き、何事かと部屋の奥をすがめ見ようとした忍足の視線の動き、それと全く同時に。 どん、とあり得ぬ音を立てて。 全ての灯りが落ちたのだった。 |
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