何やら、声がする。
 早口でまくし立てるような。
時折癇癪持ちの子供のように、どんどんと床を踏みならす音も。

 遅めの朝食のあとに軽いトレーニングをして、完全に体と頭を覚醒させてきたこの家の主が聞いたのは、同居人の声だった。
 久々のオフの日だからと、この同居人はベッドから出てきもしないつもりのようで、家主はため息をつきながらもひとりで早朝トレーニングに汗を流してきたのである。
 帰ってきた途端に、この叫び声だ。
 どうやら口論の相手は電話の向こうのようだった。リビングに備え付けられた電話機に向かって、なにやら怒鳴り続けている。
「なんで? なんでアンタさあ、そう次から次へくだんないこと……ああ? わかんないだろう、って、何、それじゃアンタ俺のことそーゆーふうに思ってたわけだ。え? なんだよ、ふざけてんのそっちだろ、第一」
 そこで息を一息つくと、たちまちのうちに英語で早口にまくし立てはじめた彼は、受話器を持つ以外の腕をぶんぶん振り回し、日本語と英語を織り交ぜながらひとしきりわめいていたかと思うと、バカ、と大声で怒鳴って一方的に会話を終わらせた。
 がちゃ、と乱暴に叩きつけられた受話器には何の罪も無いというのに、まだぎらぎらと怒りに染まった目で彼はそれを見下ろしている。
 肩で息までして。
「――越前。朝から騒々しい」
「うるさいなあ」
 不機嫌の頂点だ。
 玄関から入ってきた家主を睨みつけたのは、もう二十歳過ぎているというのにその大きさのせいで幼い印象が勝ってしまう、ふたつの目。
 ベビーだのキュートだのとあまり嬉しくない呼ばれかたをされているけれど、れっきとしたプロテニスプレイヤーの、彼である。
 拗ねるとさらに幼く、子供じみて可愛らしく見える。ワールドランキングの上位に常に位置するようになったふたりの東洋人は、期せずして同じように眉間にしわを寄せた。
「誰からの電話だ」
「――」
「桃城か」
「――」
「……越前」
「知らないっス、あんなヤツ」
 ぷんと顔を逸らす仕草は、本当に幼い子供のそれだ。変わっていないな、と思う。それを口にすれば、アンタは昔も今も見てくれそのまんまだよと逆ギレされるので黙っていることにする。
「好きなときに電話かけてきて、好きなことばっかり言って。もう知らない、あんなヤツ」
「越前」
 手塚は、このきかん気な子供そのままに成長してしまった後輩を宥めるときも、けっして優しい表情など見せなかったが、それでも他人の心の動きにはとても敏感で噛んで含めるような物言いも上手くなった。
 人生のとても早い時期に一生の友人と巡り会い、そしてまたこの上なく理不尽に引き離されてしまったその相手を、折りに触れ思い出しているせいか、彼の言葉は相変わらず少なく固かったが不器用な心遣いに満ちている。
「越前。日本は今、何時だろうか」
「――何時って……」
「時差を考えろ。今、午前九時。日本は夜中だ」
「……」
「お前は、桃城が好き勝手に電話をかけると言ったが、一度だってお前は夜中にあいつの電話で起こされた試しはないだろう。桃城は、お前の試合が終わる日や帰宅時間にあわせてちゃんと電話をくれるが、向こうの時間のことを考えたことがあるか」
「……だって」
「お前のことを考えていないわけではない。勢いでものを言うな。――あとで後悔するぞ」
「だって!」

 だって、と、ちょっとだけ決まり悪い気分になりながらも、彼は口の中で呟く。

 だってあいつが悪い。
 何が、『部長と二人きりで大丈夫か』だよ。

 まだ学生時代の癖が抜けない彼のその一言に、とてもバカにされたような気がして、侮辱された気がして。
――信用されてない気がして。
 冗談だとしても、ほどがあるだろう。それは彼の不器用な気遣い、ぶっきらぼうな心配だったのかも知れないが、言うにしたってそれはないだろう。
 オーストラリアンオープンでこの同居人に見事に負けた屈辱も手伝って、電話の向こうの相手が冗談まじりに言った言葉に爆発した。
 そのままいらいらした気分で、リビングの隣の階段にどかりと座りこむ。電話の向こうの脳天気な声、怒りだした自分にあわてふためく声が耳の底に残っている。
 ああ、いらいらする。
 フザケんなっての。せっかくこのオフには日本へ帰ってやろうと思っていたのに。
 しょうがないから、顔でも見てやろうと思ってたのに。
 どうしてもって頼むんなら、一日くらいつきあってやってもいいって思ってたのに。
 何が、『お前は可愛いから心配で』だ。
このひとがそんなことするわけないだろう。ばかみたいに、今此処にはいないもうひとりの同居人にぞっこんだ。

第一、襲われるくらいなら襲うっつーの、と物騒な一言が手塚に届かなかったのは、幸いであった。
 ぶすったれた越前リョーマに何を言うでもなく、階段に座り込んだ彼が何か言うのを辛抱強く待っていた手塚国光だったが、再びコール音を鳴らした電話に仕方なく受話器を取り上げる。
「Hello?」
「――桃センパイだったら、俺いないって言って!!」
 受話器に聞こえるように言う辺りが、まだ子供だ。やれやれと肩を竦めた手塚の耳に届いたのは、聞き慣れない声だった。

 誰何する手塚の声が聞こえたので、何気なくリョーマもそちらに気を取られた。
「……え? 氷帝……?」
 懐かしい校名だった。
「ああ確かに。ああ、そうだな、よく覚えている。そうか、不二と同じ職場で……え?」
 聞こえない。
 二階に上がろうと立ちあがりかけていた足を止め、様子をうかがう。
 手塚の背はこちらを向いていて、変わった様子はうかがえない。
「――確かに。でも、それがどうか……え?」
 最後の言葉が、やけに大きく響いた気がした。

 階段に腰掛けて、リョーマは手塚を見やる。
 背はこちらを向いていて。
 その表情は伺えない。

「……越前」
 小さく礼を述べた手塚は静かに受話器を置く。
 振り返らずに、呼ぶ声は沈痛だった。
「どうしたの、誰から?」
「……今から日本に行く。おまえも支度しろ」
「……ど、どうしたの、急に」
 ゆっくり振り向くその表情はただ固いばかりだったけど。
 死ぬまでこのときの手塚国光の顔を、忘れ得ないだろう。


「――大石が」



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