すべての花を君に捧げる。 すべての春を君のために。 桜よ。 逝きて還らぬもののために。 桜よ。 幸福な終焉から、連れ戻された者の悲劇。 楽園にたどり着けずに、悪夢の中に目覚めた者の。 その悲嘆を、届かぬ嘆きを。 どうか。 ――桜よ。 白い天井を見上げ気づいたとき、彼の名を呼び涙を流したのは父でも母でも、まして愛する人でもない、幼い頃から良く可愛がってくれた叔父ただひとりだった。 両手は痺れたように動かず、足先も冷たく感覚がなく、ずいぶん嫌で、リアルで、……そしてサイアクな夢だと朦朧とした頭で考えた。 ――秀一郎、どこか辛いところはないか。 叔父は、彼の甥の両手両足が冷え固まっているのを周知しているのか、あちこちをさすり、暖かみを与えようとして丁寧にマッサージを繰り返した。命あることを喜び、愛しむように幾度も。 ――もう少し寝なさい。よく助かってくれたよ。 時間と、日にちと、白い部屋と。 いや、そんなことはどうでもよかった。 自分が今何故こんなところで横たわっていなければならないのか。気持ち悪い消毒液の匂いが充満した、あきれるほど安っぽいせせこましい人工物の中などに。 優しい柔らかい花びらの褥、土と草の香りと、風の音、闇の夜。 繋いだ左手。 ――秀一郎。今日は、4月の12日だよ。 4月12日。 4月。 どうして? 自分たちがいたのは3月の終わり。暖かい年で、早い桜が咲き始めた弥生の終わり。 山間の、誰もいない場所の、あの夜の楽園。 あの幸福な場所にいたはずなのに、なんの悪夢だ、これは。 誰の悪意だ。 よろよろと左手をかざしてみせる甥の姿に、紐の跡がまだ微か細長い鬱血となって残るその左手を凝視する甥の姿に、彼が何を言わずとも問いたいことは、賢明な叔父に伝わったようだった。 多分、叔父は見せたことのない悲痛な顔つきをしていたのではあるまいかと思う。 ――お友だちが何度もお見舞いに来てくれたよ、その……お前のお父さんとお母さんが追い返してしまったけど。それから……英二君のお葬式は済んだ。 英二。 手を握っていてと桜の花園で笑った。 ただその寂しげな笑顔だけが、全てに勝った。 そのあとのことは良く覚えていない。 何かを喚き回っていたような気もするし。 とにかくあの桜の木の下へ行かなければとそれだけで暴れまわっていたような気も。 血縁者の中では唯一自分のことを――英二とのことを、祝福するわけでこそなかったが、それでも認めようとしてくれていた、感謝せねばならない相手だと言うことも忘れて、とにかく桜の元へ、未だそこで眠っているはずの恋人のもとへ行こうとする自分を引き留める行為に殺意すら覚えた。 長い間昏睡状態にあって、萎えた筋肉ではたいしたことが出来るはずもなかったが。 あのとき確かに、二度と離れるまいとくくりつけた紐。らしくないほどの少女趣味だと二人で笑った赤い色の紐を、その意味を知ることもない誰かが無情に切り落としたのだろう。 震えながら開かれた左手には、指と指の隙間にわずかにその紐の名残と思われる赤い繊維がからみついていた。 叫んでいたのか――呼んでいたのか。 覚えていない。 誰が連れ戻した、誰が、誰が、誰が。 自分一人を、あの桜の花園から誰が。 誰がこんな場所へ連れ戻してくれといった、こんな吐きそうな臭気の、おぞましい人間ばかりの蠢く場所へなど、誰が。 誰があの楽園から、英二の傍から自分を引き離して、誰が。 こんな薄汚れた場所へ自分たちを引き戻すなどという侮辱を、いったい誰が、どんな厚顔無恥な人間がやってのけたのだ。 薄紅の褥に土足で踏み込んだのか。楽園の静寂をどんな罵声で汚したのか。 どれほど自分たちを貶めれば気が済むのだ、手を握っていてと言うあの子の最後の願いすら踏みにじって、握りしめていた手を、その指を、一つ一つ外させ断ち切って、こんなところへ連れてきたのか。 何という屈辱、何という侮辱だろう。 何という。 それほど世界も人々も自分たちが憎いのか。 あれほど自分たちの存在意義を拒んだくせに、いざ失われようとすると安っぽい道徳観や倫理を振りかざして、おざなりに生命を救おうとするのか。 何という屈辱。そんなものに身を委ねた己の何という無様さ。 何という。 血を吐くような彼の嘆きを聞き取る者は、その世界にはいなかった。 死の闇は彼の恋人だけを薄紅の花に包み、そっと抱いて連れ去ったのだった。 そして。 大石秀一郎の10年にわたる苦悩――荒涼として険峻たる岩山をひとりさまようような、彼の悪夢はここより始まる。 幸福な終焉から、連れ戻された者の悲劇。 楽園にたどり着けずに、悪夢の中に目覚めた者。 その悲嘆を、届かぬ嘆きを。 どうか。 ――桜よ。 |
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