髪に指を差し入れ、すくい上げるように撫でるのは、そのひとの癖だ。 適当にかき回すのではなく、とても――そう、髪にさえ敬意を払われ、とても注意深く愛しむものだと認識されているようだ。 そうやって髪一筋までも丁寧に扱われるたび、とても嬉しく幸福になる。 余人が見れば病人の付添人としてはあまりの厳しい顔つき、と思うかも知れないが、不二周助をはじめ少しでも彼と共に過ごした者であれば、手塚国光の表情が非常に優しく和らいで、横たわる者に対する慈愛に満ちていることに容易に気づくであろう。 眠る前に、此処にいるからとその人がよくよく言い聞かせてくれたこともあって、傍らに彼がいてもごく当然のように、ゆっくり、とても穏やかに不二周助は覚醒したのであった。 「――起きたか」 「うん」 「起こしてしまったのではないか?」 「ううん、違うよ。――僕どれくらい?」 「少しだ。一時間ほど」 「……君は? 疲れているでしょうに、可哀想に、まさか僕につきあって寝ずじまい?」 「少し仮眠はした」 嘘だな、と不二は思う。 ベッドに横になった不二を、じっと見下ろしていた彼の座った姿勢。少し斜めになったタイピンの位置は、不二が眠る前にぼんやり見ていた位置と少しもずれていなかったからだ。 彼は彼なりの理を以て生き、不正を嫌い、欺瞞を許せない性格だったが、こんなふうに他人を気遣い小さな嘘をつくことはままあった。 それはどうしても彼の性格上なしえないことばかり――たとえばいつ気づくかも判らない不二を放ったまま、彼が一時とは言え寝てしまうことなどあり得ない――なので、ついた嘘などすぐばれるのだが、短いつきあいでない不二は、その嘘を信じた振りをする。 ロサンゼルスから直行でやってきて、少しも眠りはしていないはずだ。 疲れているだろうに。 「……越前くんは? ひとり残してきて、大変なんじゃない? ちゃんとトレーナーさんの言うこと聞いて、ご飯食べてると良いんだけど。彼、目離すとすぐ炭酸飲料に走っちゃうから……」 「来ている」 「え?」 思わず頭を上げた不二を、子供を寝かしつけるようにもう一度枕の上に下ろしながら、手塚はなんということもないように言った。 「他の連中も、来られる者は全員来ている。忍足がいろいろと気遣ってくれてな。遠方の者は此処か、市内のホテルに泊まれるようにしてくれた。一応全員、大石が戻ってくるのを待って忍足の部屋にいさせてもらっている。…お前が落ち着けば後で会おうな」 「……う、うん……」 「彼は此処の所長と懇意なのか?」 「……え? いや、そんなのは……知らないけど」 「何か、ここの所長とずいぶん気安い様子だったぞ。それが為に、皆いろいろと便宜をはかってもらえたようなものでな」 手塚の髪が少し揺れて、なにごとかを思い出しているようだった。 綺麗な指で顎に手を当て、少し考えてからどちらにしろ、と優しく言った。 「どちらにしろ、おまえにはずいぶんよくしてくれたようだな」 「――誰が?」 「忍足」 「……誰がそんなこと言ってたの」 「本人だ」 「……」 いけしゃあしゃあとあの野郎、と不二周助が内心思ったかどうかは知らないが、とりもあえず手塚の前ではそんな物騒な表情を欠片も見せることはない性格だったので、ふうんと口の中で呟くだけに留めた。 「疲れているだろう。もう少し休め」 「ん。んん、いいよ。みんなが来てるなら会いたいしね。少し寝たんで気分も良くなったし。ちょっと身体起こしてみる」 「……そうか」 手塚も無理に止めはしなかった。 しかし気遣わしげな表情で不二を見守っているのは変わりなかったし、もしも不二が眩暈でも起こして身体を揺らしてもすぐさま支えてやれるように、細心の注意を払ってその仕草を注意深く観察している。 「――忍足が君に教えてくれたんだねえ。ぼく、思いつきもしなかったよ、正直」 「何がだ」 ベッドで体を起こした不二の肩に、そっと上着をかけてやりながら手塚は聞いた。 「君に連絡するなんてこと。……いや、たぶんもっと落ち着いたら、そうしなきゃいけないことも判っただろうけど、こんなに早く……」 「不二」 「まだ夢でも見てるみたいだ」 もっと泣くかと内心身構えていた手塚だったが、思いの外不二が落ち着いているので逆に少々面食らったようだった。 しかし、あるいは身も世もなく号泣している姿の方がある意味納得でき、月並みだがそれなりの言葉も慰めでもかけてやれたのだが、不二はそうではない。 ぼんやりと、どこか放心したようにしているのが、かえって痛々しい感じがする。 何か――大切なものを一瞬で壊され、泣くより先に呆然とするかのような。 それを悼む心さえ一緒にたたき壊され――それがしめる割合があまりに多かったものだから、こころにぽかりと巨大なうろが開いてしまったかのような。 「ねえ……手塚」 呼ばれて手塚は、返事のかわりに不二の手をそっと取った。 「はじめから」 「……」 「はじめから、大石が此処にいないことのほうが……『こっち』にいないことのほうが、なんだかとてもしっくりくるんだよ。――ねえ、僕おかしいかな。決して大石がどうこう、言うんじゃないんだよ。僕おかしいかな、おかしいのかな……。あんなに止めてたくせにね、大石のことね」 「おかしくない」 優しく、なるたけ優しく手塚は言った。とった手を、いたわるようにそっとさすりながら。 「ちっともおかしくはない、不二。……お前の言いたいことはよくわかる」 「あの子がねえ」 口元が、うっすらと笑った。 「あの子がね。僕が呼んだら、立ち止まったよ。英二、って呼んだら、あの子止まってくれたんだ。気が付いてくれたのかな、そうだといいな」 「――」 「結局、こうなるんだったんだね」 「――」 「だって離れているのがおかしいくらいだったじゃない? 大石も英二も。……あのとき、中学のとき、一ヶ月ほどだってあのふたりが別々にいるのがおかしく思えたくらいだもの」 「――」 「そうだよ、それなのに10年もだなんて。そうだよね、それこそがおかしかったんだよね。そう……そう、僕がバカみたいに大騒ぎする必要なんてなかった、これで――これで」 「これでよかった、わけではない。不二」 手塚にそう言われても、不二は、俯いた顔をあげなかった。 撫でさする手の動きに、じっと神経を集中させているかのようだった。 「大石は満足だったろう。あるいはそうなのかもしれないが、不二」 「……」 「エゴであることを判っている。大石にそんな気がなかったことも判った上で、あえて言えば――俺は、やはり生きていて欲しかった」 「――」 「不二と同じように思い、同じように考え、同じように行動したと思う。……そのあとで、不二、今のお前と同じことを考えるであろうことがわかっていたとしてもだ」 「――手塚」 「なんだろうかな。……俺も、そうすると思う。たぶん不二がしたみたいに、手を尽くして大石に思いとどまらせようとしたと思う。なぜだかわからないが、そう思う」 不思議と――。 彼がそうやって語ると、凍てついたようなものが、胸の内でゆっくりと溶かされていくようだった。 手塚の言葉はいつも真摯だ。彼は欺瞞や偽善からもっとも遠いところにいる。 口先だけの言葉など意味を為さないことを、彼は無意識で知っているのだと思う。 彼のそのまごころをもってしても、きっと大石秀一郎をこちらに引き留めることは、適わなかっただろうけれど。 「だって」 不二はそこで、やっと顔をあげて少し笑った。 「君、大石のこと、好きだったものね」 「――」 「僕も、彼のこと大好きだった。たぶん、今、来ているみんなもそうだったと思う」 「――ああ」 「英二と比べたら、何か違うのかも知れないけど。僕らは本当に大石が好きだったよね。英二のことも、大石のことも、僕らは本当に大事だった」 手塚は左手で不二の手をとったまま、右手で彼の額にかかる髪をかき上げる。 多くの言葉を返すことはなかったが、手塚はじっと不二の言葉のひとつひとつをとても大事に、愛しく聞いているのだ。 昔からそうだったではないか。 大石があの子の言葉のひとつひとつ、仕草のひとつひとつを、とても幸せそうに見守っていたのと同じように。 「……だから、ひょっとしたらこれは、大石にとっては『ハッピーエンド』なのかもしれないけれど、素直にそう思えないのは、僕らが彼を失って辛いからだね」 「ああ。ああ、そうだな、不二」 「僕らは、彼が好きだから、こんなに辛いんだね」 「そうだ」 「彼が死んだことを悼んでもいいんだよね。――祝福なんか、しないでやってもいいんだよね」 「――」 「なんだよ、一人で勝手に、って……僕らは彼に怒っていいんでしょ?」 「そうだな。怒ってやろう、不二」 「大石のバカ」 「うん」 「大バカ」 「……もっと言ってやれ、不二」 手を伸ばした手塚に、不二は素直に身を預けた。 「英二もバカ。僕の気も知らないで、ほいほい大石ばっか構って、なんだよ友達がいのないヤツ。気分屋のくせにそういうとこだけバカの一つ覚えみたいにさ」 手塚がいったいどれほど優しい顔をして彼を抱きしめているか、不二は知っているのだろうか。バカ、と繰り続ける不二の背を、ぽん、ぽんと、母親のリズムで叩いてやりながら、この上まだ彼に優しく出来ることを、探っているような顔をしている。 やがて言い疲れた不二が、ようやくと言った風に眦に涙の珠を浮かべるのを察したように、ぎゅうと腕の中に囲い込む。 ――愛してやまない人々よ。 彼らの幸福の前に。 一点の曇りもないあの幸福の前に、誰がそれを引き留められたのか。 判っている。 けれど。 ――けれど、愛すべき、愛してやまない人々よ。 振り向きもせず、一心不乱に、ただそれだけの為に生きて逝ってしまった人々よ。 君達が幸せであるのだと、どんな方法でもいい、知り得ることが出来たならどれほどこの苦痛も和らぐことだろう。先に逝かれてしまった人間は、いつもそうして祈るしかないのだ。 辛くはなかったか。 悲しくはなかったか。 もうそれを確かめるすべさえない遠いところで――愛する人々よ、君たちは泣いてはいないのか、と。 ――けれど、きっと。 あの二人は笑っているような気がする。 それは思いこみで、そう思いたいだけで、自分の心の慰めになる結果を探しているだけなのかも知れないけれど。 笑っているはずだ。――きっと、笑っていて欲しいと思う。 ふたり一緒に。 散る花の向こうに。 「大石は勝手だな、不二」 子供の機嫌を取るように言った手塚は言った。思いのほか器用になったキスを不二の白い頬にして、小さく口元だけで笑った。 「けれどお前がいってしまったら、俺だってどうするか判らないぞ、不二」 「……いやだなあ」 不二は、泣きながら小さく笑った。 抱きしめられているのがいかにも心地よい、と言うふうに。 「それじゃ君、大石のこと、言えないね」 「――そうかもな」 手塚は優しく笑んだあと、わずかに力を込めて不二の手を握りしめ目を閉じる。 「おまえが桜に引きずられないでよかった」 「――」 「こちらにいてくれて本当に良かったと……思う」 不二の手を握った手塚の腕は、一瞬震えた。 語尾も。 不二ははっとして、わずかに俯いた手近の顔を覗き込んだが、彼の表情は少しも歪むことなく、氷の美貌と称されさえするその顔だちのままだった。 「いやだな、僕。恥ずかしい」 しばらく嗚咽を続けたせいで、真っ赤になった目もとを拭いながら不二が顔をあげる。 「顔、洗ってから行かなきゃ。……こんな顔、みんなに見せられない」 「洗面所に寄っていこうか。タオルはあるか」 「うん」 不二が、少し疲れたように笑った。 「大石がきっと笑うねえ。……そんなに泣き虫だったのか、って」 起きて皆に会いに行く、と言う不二を気遣いながら、手塚は彼が上着を着直すのを手伝っている。 「無理じゃないか?」 「うん。平気。――あ、手塚、僕、大丈夫? 服、皺になってないかな。髪とか――」 「お前はいつでも可愛いから大丈夫だ」 あの手塚国光がどんな顔をしてこんな台詞を、と思われるのかも知れないが、彼には世辞や甘いささやきのつもりはなく、本気でそう思っているので照れはまったく入らない。 いつも不二が一人で、当の手塚にそうとさとられないように赤面して終わるのだ。 「行くぞ」 「うん」 差し出された手塚の手に、不二は捕まった。 暖かく、すこし骨張った逞しい手だった。 その手の暖かみを確かめるように、不二は手に力を込める。 決してがえんじることなく、ただ桜の花園だけを望んだ「彼」の手は、自分たちが触れたときにはもう冷たく――そう、信じられないほど冷たかったけれど。 桜の寝床で英二と繋がれているであろう大石の手が、彼の為にだけはあたたかく優しいことを願わずにはいられなかった。 愛すべき人々。 振り返りもせず、いってしまった人々よ。 君達に、花を捧げる。 今は、彼らのためだけに散り続けよ。 さくら、さくら。 |
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