全国農業協同組合中央会(JA全中)の山野徹会長は13日、定例記者会見で「備蓄米の効果が出始めた」との認識を示したうえで、現在の価格について「決して高いとは思っておりません」と話した。
大阪府の吉村知事はその発言に「いや、さすがに1年で2倍は高いでしょ」と言ったが、万人が高いと思う物を「決して高いとは思っていません」との感覚は異常と言うしかない。
そういう発言をするのは、値段を上げている張本人は自分たちであると白状したも同然である。国民の100%が高いと思っているのが当たり前なのに、高いと思わない人がいるとは信じられない現象で、まさに値段を吊り上げている張本人だから自ら行った行為の正当性をアピールするために言っているとしか思えない。
政府も、国民の主食であるコメを簡単に2倍以上に引き上げたJA農協に対して何の対策もせず無能の極まりとしかいえない。ここまで好き勝手にしても何の咎めも受けないのは、献金の効果かも知れない。
アメリカのトランプ大統領は決して信頼できる人物ではないが、それでもタマゴが異常に高いと国民が不満を抱いている事を知ると、韓国、その他の国からすぐさま莫大なタマゴの輸入を図って価格が下がるように努力した。それに対して日本は備蓄米を放出しても、コメ高騰を画策したJA農協にほとんどを落札され、米価は下がるどころか備蓄米放出を尻目に高値を更新するばかりである。まるで幼稚園児にも等しい政府の無策ぶりである。私が総理ならトランプ大統領ではないが、たった一日で米価は大幅に下げてみせる。
まず備蓄米を落札して倉庫に隠匿して市中に出回らないようにしているJA農協の落札を禁止してその他の卸売り業者に落札させれば済むことである。その他、備蓄米を隠匿して市中に出回らないようにしているJA農協の罪を問うべきである。
山野会長は内閣府で、赤沢亮正経済再生担当相と会談し、農産品の輸入拡大などで米国に対し一方的な譲歩をしないように要請したという。備蓄米を買い占め多くの国民を苦しめている張本人がいとも簡単に大臣と会談しているのである。よほど自民党は全国農業共同組合中央会から多額の献金を得ているのではないかと疑わざるを得ない。
山野会長は大豆やトウモロコシの他「コメの輸入拡大などさまざまな報道がなされ生産現場には不安と混乱が広がっている」と強調した。しかし、コメの輸入拡大の話が進んだのはJA農協が備蓄米のほとんどを落札して独占したのが原因である。それなのによくもぬけぬけと言えたものである。
私は何の宗教にも入っていないが神は存在しているのである。全ての人間は神の一分霊で永遠に死ぬことも消滅することもないのである。この宇宙は自分のしたことは全て自分に返るという神の因果律で統治されているのである。神の摂理はシンプルで、親切、寛容、同情、奉仕の四つだけである。この四つの行為に人間としての人格が形成される全ての素養が籠められているのである。インチキ宗教のようなこまごました縛りもなければ矛盾した教義や集金システムもない。誰が見ても本物の神の摂理であることが理解できるはずである。
霊界からは言っています。他人への善行がないということそれ自体が悪です。山野会長は善行を行っていますか。尋常の価格ではないコメを、高いと思わないと平然と表現する山野会長は、決して善行を行っている風には見えません。
国民の半数は年収300万円以下だといいます。その中にはシングルマザーやシングルファザー或いは夫の給料だけで食べていけないので夫婦共稼ぎの家庭もあり困っている国民は多数居られると思います。25年5月18日のネットニュースにはこんな見出しもありました。「米が高くて買えない」ひとり親家庭から届く声…備蓄米を届けて涙ぐむ人も米不足で9月以降の支援は危機的状況に
新潟
多分、途方もない高給を貰っているかも知れない山野氏は自分の家族だけが幸せならばそれで満足なのですか。作為的であるコメの高騰は神の摂理である親切、寛容、同情、奉仕のいずれにも反する大罪ではないでしょうか。
次に掲げる文章は霊界からの霊訓を抜粋したものです。何の打算も作為もないこの人間離れした理路整然とした文章を見ても、山野会長は神の存在なんてあり得ない話だと思うのでしょうか。ご自分が死後、霊界でどういう運命を辿るか当てはまるような事も書いてあるのでお読みになってはいかがですか。
神とは自然法則のことです。顕幽にまたがる全生命の創造力です。完全なる愛であり、完全なる英知です。神は全宇宙に瀰漫(びまん)しています。あなた方がご存知のその小さな物的宇宙だけでなく、まだご覧になっていない宇宙にも瀰漫しています。その法則として働いているものは一体何か。無限なる存在です。旧約聖書に出てくる巨人のような人間ではありません、復讐心に満ち、機嫌を損ねると地上に疫病をまき散らすような、そんな気まぐれで憤怒に燃えた神ではありません。神はすべての生命にも充満しています。あらゆる存在の内部に息づいています。あらゆる摂理にも神が宿っています。生命であり、愛であり、すべてです。
神はこの広大無辺の宇宙で絶え間なく作用している無限の知性です。因果律の働きは完璧です。原因があれば数学的正確さをもって結果が生じます。その原因と結果のつながりに寸毫たりとも影響を及ぼす力を持つ者はいません。刈り取る作物は播いた種から生じているのです。神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用します。すなわち、親切、寛容、同情、奉仕の行為が自動的に、それ相応の結果をもたらして霊性を高め、反対に利己主義、罪悪、不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。この法則は変えようにも変えられないのです。みっともない執行猶予も、安価な赦免もありません。人間の法律は機能しないことがあります。改められることもあります。人間の成長と発達に伴って視野が広がり知識が無知をなくし、環境が変化するに伴って新たな法令が要請されると、従来の法律が廃止されたり、別の法律と置き換えられたりすることもあります。
しかし、神の法則に新しい法則が付け加えられることは絶対にありません。改正もありません。解釈上の変化も生じません。いま機能している法則は、これまでもずっと機能してきた法則であり、これからも変わることなく機能していきます。一瞬の休みもなく機能し、そして不変です。利己主義のタネを播いた人は、利己主義の結果を刈り取らなければなりません。罪を犯した人はその罪の結果を刈り取らねばなりません。寛容性のない人、頑な人は、不寛容と頑固の結果を刈り取らねばなりません。
ある花のタネを蒔けば、そのタネの花が咲き、それ以外の花は咲きません。あなた方の未来も同じです。過去と現在によって決定されるのです。外部から与えられる罰ではありません。自分でこしらえているのです。
あなた方が生き、呼吸し、考え、反省し、判断し、決断を下し、あれこれと思いをめぐらすのも、霊の力があればこそです。物を見、音を聞き、動き回り、考え、言葉をしゃべるのも、霊の力のお陰です。物質界のすべて、そしてその肉体も、生命力にあふれた霊力の流入によって、存在と目的と指針と生活を与えられているのです。
物質界のどこを探しても、意識の秘密は見つかりません。科学者、化学者、医学者がいくら努力してみたところで、生命の根源は解明されません。それは物質そのものの中には存在しないからです。物質は、それが一時的に間借りしている宿にすぎません。霊の力は、あなた方が“神”と呼んでいるもの、そのものです。もっとも、その神を正しく理解していただけないかも知れませんし、誤解してその意味を限定してしまっておられるかも知れません。ともかくその霊力が、かっては火の固まりであったものを今日ご覧になっておられるような生命あふれる緑の地球にしたのです。
私たちは因果律という絶対的な摂理を説きます。つまり誰一人として神の摂理のウラをかくことはできません。ごまかすことはできません。自分が自分の救い主であり、贖(あがな)い主であり、自分の過ちには自分が罰を受け、善行に対する報酬も自分が受けるのです。因果律の働きは完璧です。原因があれば数学的正確さをもって結果が生じます。その原因と結果のつながりに寸毫たりとも影響を及ぼす力を持つ者はいません。刈り取る作物は播いた種から生じているのです。
腹黒い実業家については、「そういう人は必ず罰を受けるのです。いつかは自分で自分を罰する時がくるのです。あなたと私との違いは、あなたは物質の目で眺め私は霊の目で眺めている点です。私の目にはいずれ彼らが何世紀もの永い年月にわたって受ける苦しみが見えるのです。その中で味わう悔恨の念そのものがその人の悪業にふさわしい罰なのです」
世の中が偶然によって動かされることはありません。どちらを向いても、天体望遠鏡で広大な星雲の世界を覗いても、顕微鏡で極小の生物を検査しても、そこには必ず不変不滅の自然法則が存在します。あなたも偶然に生まれてきたのではありません。原因と結果の法則が途切れることなく繰り返されている整然とした秩序の世界には、偶然の要素の入る余地はありません。
墓場で人生は終わるのではなく、苦難の生涯を送った人や挫折の人生に終わった人にも埋め合わせとやり直しのチャンスが与えられ、地上界のために貢献しながら逆賊の汚名を着せられた人にも、悔し涙をぬぐうチャンスが与えられるのです。
生命は死後にも続くのです。続くからこそ、愚かにも地上で威張り散らし、自然の摂理も逃れられるのだと思い込んでいた者は、その誤りを矯正するための試練を体験しなければなりません。そうした事実を知って、少しもおそれを抱く必要はありません。他人を思いやり慎み深い生活を送っている人は、何一つ怖がることはありません。怖がるべきは、利己的な人生を送っている人達です。
全生命を創造した力は、その支配のために、規則ないし法則、あるいは摂理というものを用意したのです。その背景としての英知も機構も完璧です。全ては霊的なものです。すべての生命は霊的存在だからです。生命が維持されるのはその本質が物質ではなく霊だからです。霊は生命であり、生命は霊です。
宇宙は道義的な意図で満ち溢れており、非道義的意図は神の摂理に反します。人生に偶然はありません。偶然の事故というものもありません。偶然の一致というものもありません。全ては普遍の自然法則によって支配されています。私達は因果律という絶対的な摂理を説きます。つまり誰一人として神の摂理のウラをかくことはできません。ごまかすこともできません。自分が自分の救い主であり贖(あがな)い主であり、自分の過ちには自分が罰を受け、善行に対する報酬も自分が受けるのです。
人間はみな地上生活の行いの結果を魂に刻み込んでおり、それを消し去ることは絶対にできません。その行いのなかに過ちがあれば、その一つ一つについて然るべき償いを終えるまでの霊性の進化は得られません。
善い行いをすればそれだけ霊性が増します。利己的な行いをすればそれだけ霊性が悪化します。それが自然の摂理であり、これだけはごまかすことができません。死の床にあっていくら懺悔の言葉を述べても、それで悪行がもたらす結果から逃れられるというものではありません。地上では特定の神を信じれば救われ、反対にその組織が崇拝する神を崇拝せね救われないと説く宗教がありますがそのようなことはありません。神とは自分が崇拝されたからと言って喜ぶような人間的存在ではありません。もしそうであれば神の公正が根源から崩れてしまいます。邪悪で利己的な人生を送った者が、神を崇拝したからと言って素直で利他愛に富んだ人生を送った者を差し置いて神の恩恵に浴することがありえましょうか。
神を崇拝し自分は選ばれた一人のつもりになり、宗教的行事に傾倒している人間よりも、転んだ人に手を差し伸べ、飢えた人にパンを分け与え、悲しみに打たれている人に励ましの言葉を掛ける無神論者の方が遥かに神に近く尊い人物です。
宗教に教義、経典、教祖、礼拝堂、賛美歌は必要ありません。宗教とは利他愛の実践、一言で言えば「サービス」これにつきます。大切なのは利他愛の実践であって、神を信じるかどうかは関係ありません。神を信じるかといって神から寵愛される訳でもなく、また神を信じないからと言って罰せられることもありません。
あなたは肉体を備えた霊的存在です。霊を備えた肉体的存在ではありません。決して肉体という鈍重で低俗な存在ではありません。死を迎え古い衣服を脱ぎ捨てるように肉体から離れる時がくれば、あなたが住むべき霊性に応じた本来の世界へ行きます。そこが地上に近い幽界付近(霊界で最下層の位置)であるか高級霊の住む世界であるかはあなたの霊性の程度によります。神を崇拝しようが宗教に入ろうが関係ありません。あなたの内面、霊性に応じた世界へ赴きます。地上と霊界の異なる点は地上では様々な霊性の霊が肉体をまとう事により一緒に生活していることです。
死ぬということは決して悲劇ではありません。むしろ今その地上で生きている事こそ悲劇といっても良いくらいです。神の庭園(地球のこと)が利己主義と強欲という名の雑草で足の踏み場もない状態となっていることこそ悲劇です。
死ぬということは、肉体という牢獄に閉じ込められていた霊が自由になることです。苦しみから解き放たれて霊本来の姿に帰ることが、果たして悲劇なのでしょうか。天上的色彩を見、言語で説明のしようのない天上の音楽を聞けるようになることが悲劇でしょうか。痛むということを知らない身体で、一瞬のうちに世界を駈け巡り、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなた方は悲劇と呼ぶのでしょうか。
──この肉体を棄ててそちらへ行っても、ちゃんと固くて実感あるのでしょうか。
「地上よりはるかに実感がありしっかりしています。本当は地上の生活の方が実感がないのです。霊界のほうが実在の世界で地上はその影なのです。こちらへ来られるまでは本当の実体感は味わっておられません。
悪行を続ける者に対してはこう言っています。
そういう人は必ず罰を受けるのです。いつかは自分で罰する時がくるのです。 中略 私の目には、いずれ彼らが何世紀もの永い年月にわたって受ける苦しみが見えるのです。暗黒の中で悶え苦しむのです。その中で味わう悔恨の念そのものがその人の悪業にふさわしい罰なのです。
さて苦しみとは一体なんでしょうか。苦しみとは自分自身または他人が受けた打撃または邪悪なことが原因で精神または魂が苦痛を覚えた状態を言います。が、もしその人が宇宙の摂理に通じ、その摂理には神の絶対的公正が宿っていることを理解していれば、少しも苦しみは覚えません。なぜなら各人が置かれる環境はその時点において関係している人々の進化の程度が生み出す結果であると得心しているからです。進化した魂は同情、思いやり、慈悲心、哀れみを覚えますが、苦痛は覚えません。
「バイブルにはイエスはわれわれのために苦しみを受けたとあります」の質問に対して、バイブルには事実でないことが沢山述べられています。いかなる人間も自分以外の者のために代わって苦しみを受けることはできません。自分の成長を管理するのは自分一人しかいない。他人の成長は管理できないというのが摂理だからです。贖罪説は神学者が時代の要請にしたがってでっちあげた教説の一つです。自分が過ちを犯したら、その荷は自分で背負ってそれ相当の苦しみを味わわなくてはなりません。そうやって教訓を学ぶのです。もしも誰かほかの者が背負ってあげることができたとしたら、過ちを犯した本人は何の教訓も学べないことになります。
善は自ら報酬をもたらし、悪と罪は自ら罰と断罪を受けると私は説くのです。向上するのも堕落するのも本人の行為一つに掛かっているのです。人生のあらゆる側面を神の摂理が支配しており、それをごまかすことも、それから逃れることもできません。
つまり地上に別れを告げて霊の世界へ移られると、誰がするというのでもなく、自家作用によって、自分で自分を裁くことになります。その時の判決の基準は地上で何を考えたかでも、何を信じたかでもありません。世の中のためにどれだけ自分を役立てたかということです。
その法則(因果律)が構想においても、働きにおいても、完璧であるからには、当然その中に人間的な過ちに対する配慮も用意されているにきまっております。埋め合わせと懲罰が用意されております。邪悪の矯正があり、過ちと故意の悪行に対する罰があり、何の変哲もなく送った生活にもきちんとした裁きがなされております。
地上では必ずしも正義が勝つとは限りません。なぜなら因果律というものは必ずしも地上生活中に成就されるとは限らないからです。地上生活を超えた長い目で見れば、因果律は一分の狂いもなく働き、天秤は必ず平衡を取り戻します。
しかし、いつ成就されるかという時期の問題になると、それは原因の性質いかんに係わってきます。すぐに結果の出るものもあれば、地上生活中には出ないものもあります。その作用には情状酌量といったお情けはなく、機械的に作動します。罪を犯すとその罪がその人の霊に記録されそれ相当の結果を生み、それだけ苦しい思いをさせられます。それが地上生活中に出るか否かは私にも分かりません。それはさまざまな事情の絡んだ複雑な機構の中で行われるのですが、因果律の根本の目的が永遠の生命である”霊の進化”にあることだけは確かです。
どっちにしろ死は、悪事を働いた者以外は、肉体からの解放を喜ぶべきものであり、決して悲しむべきものではないと言うのです。善良な者の死と、悪徳を働いた者との死は、霊界で歴然と差が生じ、悪徳を働いた者は暗黒のオーラで我が身を包み何百年ももだえ苦しむそうである。
一法無双
霊が存在する驚異の証拠 永平道元の生悟り アインシュタインの誤り量子もつれ