不二とは(目からウロコの不二法門の真実)
封建時代にはハングリー精神も旺盛で、禅僧の中には悟りに到達した者はそこそこ見受けられたが、明治以降では一般人である私以外、禅僧、禅学者の誰一人として悟りに到達した者はいない。本当に悟った者は、決して悟りとはああだこうだと解説することはない。
悟りとは、説くものもなく、示すものもない、のが本道であり、説くものもなく、示すものもないものを説くことは二律背反になるからである。悟りに至らない者ほどマヤカシの理論を述べるのである。しかし、説くものもなく、示すものもないものをああだこうだと説けば説くほどとてつもない矛盾を説いているという理屈になるのだ。その筆頭が鈴木大拙である。
臨済は、真正の悟りを得、始めて天下の和尚たちの悟りの邪正を見分け得るようになった、と語っているが私も同感である。真に悟りに到達した者は、他の禅僧の一言半句を聞いただけで、その禅僧の真贋が判るのである。
夏目漱石が鎌倉円覚寺に参禅したことは衆知の事実であるが、そのときの管長は、鈴木大拙の師であった釈宗演である。私はどうしても釈宗演が悟りに到達した人とは認証することは出来ないが、むろんそんなことは当時の漱石は知る由もない。
小説「門」では、釈宗演は漱石に、「父母未生以前本来の面目」(父母もこの世に生まれていない時の本来のお前とはどういう存在だったのか)という公案を与えたことになっているが、実際のところは「無字」の公案を与えたらしい。漱石はそれに対して「門」には書かれてないが「人あって物あり、物あって人あり」という見解を示したらしい。
小説「門」から少し抜粋して見るが、「無字」の公案に対する漱石の見解だと置き換えて読めば興趣があらたになる。
この面前に気力なく坐った宗助の、口にした言葉はただ一句で尽きた。すなわち(人あって物あり物あって人あり)
「もっとぎろりとしたところを持って来なければ駄目だ」と忽ち云われた。
「その位なことは少し学問をしたものなら誰でもいえる」
宗助は喪家の犬の如く室中を退いた。後に鈴を振る音が激しく響いた。
それ位なことは少し学問をしたものなら誰でもいえるなんて言葉は、漱石の素性を見越しての一蹴である。それに、ぎろりとしたところを持って来なければと駄目だ、と云うが、公案の答えにはぎろりとしたところなどは全然必要ない。ぎろりとしたところということ自体すでに誤った応答なのである。私から見れば、釈宗演はこの一言で悟りに到達していないことを天下に露呈したと言える。
釈宗演に限らず、鈴木大拙、原田祖学、井上義衍、その弟子の原田雪渓と名のある禅僧、禅学者のいずれも悟りを誤った理論で解説している。説くものもなく、示すものもないものを説くと言う、矛盾を矛盾と感じない偏向的思考に捕らわれている事に本人達は気付いていないのである。
武者小路実篤は、不二について次のような見解を述べたが、不二の真髄にはほど遠い見解である。
僕は不二と云ふのは人間と宇宙、物質と精神、死と生、覚りと迷ひ、つまり之等は二つではないと思ふのだ。二つと見れば見れるが、もとは一つ、もとは一つと云ふよりも、一部分と思ふのだ。我等は生れる前の我等も、生れてからの我等も、別のやうで別でない。生れてゐる自分も死んでからの自分も別のやうで別でない。
故仏教学者で僧名もある鎌田茂雄氏はこう書いている。
たとえていえば、水と波との喩えになる。波の本性を離れて水なく、水の本性を離れて波はない。波の本性はどこまでも水だ。水の本性は波として起動している。水と波とはまさしく不二の関係にある。
死と生で考えてみれば、たしかに死と生はまったく別の存在ではあるが、生があるからこそ死があるのだ。生と死はまさしく非連続の連続である。生と死とを別の存在とみれば非連続であるが、生がなければ死はないのであって、生と死は連続していることになる。薪(たきぎ)と灰のようなものだ。薪と灰とは別なものだとみれば二であるが、薪が焼けたから灰になったのであり、薪と灰は不二ということにもなる。まさしく薪と灰との関係のように、生と死とは二にして不二でなければならない。
いっけんうまく喩えたようにみえるが、水と波は相反する語句ではなく、原因と結果のように関連するもので、このような説明では、その他の相反する善悪、高低、大小、美醜、等々の不二を説明することはできない。
また、生があるから死があり、生と死は非連続の連続で、生がなければ死はないというのは、善があるから悪があり、高があるから低があり、大があるから小があり、と言うのと一緒で何の説明にもなっていない。薪と灰の喩えを用いているが、薪と灰は相反する語句ではなく、原因と結果のように関連するもので、不二を説明するには適当ではない。
不二とは、多くの国語辞典などに寄れば、対立していて二元的に見える事柄も、絶対的な立場から見ると対立がなく一つのものであると説明されているが、これは全くの誤りで、二元的に対立しているものは、どこまで行っても対立のままで同列になることも交わることもない。
金剛経は
法相とは、如来説く、すなわち法相に非ず、これを法相と名づく
凡夫とは、如来説く、すなわち凡夫に非ず、これを凡夫と名づく
もろもろの心は、皆心に非ずと為す、これを名づけて心と為す
と、仮称の論理を説いている。
善と悪、美と醜、浄と垢、増と減というような、およそこの世で対立するすべてのものは、無相、無住の実体も根拠もない心が生み出した虚妄の世界での便宜上の仮称でしかない。
善とはすなわち善に非ず、これを善と名づく、悪とはすなわち悪に非ず、これを悪と名づくであり、どちらも仮称であり、それが証拠に他国では、当然呼び方も発音も違うわけである。
例えば、動物の名で言えば、日本では犬、猫、馬、牛という風に呼称するが、外国では、それぞれの呼び方も発音も違うのが当たり前で、これが本当の名称だと言うものはこの世に存在しない。そこから考えを及ぼしてこの世の全ての名称は無相、無住の実体も根拠もない心が生み出した仮称でしかないというのが不二法門の論理なのである。
たまたま良い行いを善と名づけ、悪い行いを悪と名づけているが、正覚からすれば、それぞれに付けられた名称には、そう名づけねばならない根拠など何一つなく、便宜上名づけられただけである。そのため、良い行いを悪と仮称するも、悪い行いを善と仮称するも、どちらでも良いが、仮に良い行いを悪と呼称しても、単に悪と呼称しただけで、実体は良い行いを意味することに変わりない。それゆえ元々は一つの行為に対する二つの仮称であるとして而二不二(二にして二ならず)といったのである。しかし、そうやって二つに別称された限り善悪は決して同列ではなく、善悪は歴然と区別されるべきもので、多くの宗教学者や修行僧が犯す誤りは善と悪は不二だから同列と錯覚することである。
山岡鉄舟が、弟子の嘔吐したものを「浄穢不二」といって自らの口で以って食べ尽くしたエピソードがあるが、鉄舟も不二を誤って解釈し浄穢を不二(二つでない)として、一つの物つまり同等に扱い汚いものを食べ尽くしたのである。
しかし、浄とは、すなわち浄に非ず、これを浄と名づく、穢とは、すなわち穢に非ず、これを穢と名づく、であり、それぞれに付けられた名称には、そう名づけねばならない根拠など何一つなく、便宜上名づけられた仮称であり、汚いものを浄いと仮称するも、浄い物を汚いと仮称するもどちらでもよいが、仮に汚いものを浄いと呼称しても、ただ単に浄いと呼称しただけで実体は汚いことには変わりないので、浄穢不二と言って汚いものを食べ尽くすのは大いなる誤りなのである。
浄土真宗の源信僧都が千菊丸といった幼少の頃、一人の旅の僧が汚い小川で手を洗っていたので、千菊丸はあちらの川の方がきれいですよと教えたところ、その旅の僧は千菊丸に礼を言ったあと、諭すように「浄穢不二」と言った。つまり浄も穢も二つでなく、もともとは一つで有り、二つに分けるのは迷う心があるからで、自分は迷う心がないのだという意味で「浄穢不二」と言ったのかも知れない。
しかし、千菊丸が「浄穢不二」ならどうして手を洗うのですか、と尋ねると、旅の僧は一言も返すことが出来なかったという。この旅の僧も鉄舟と同じような錯覚をしていたのである。
自分は美しいと思っている人が、それよりも美しい人に出会ったら、自分はそんなに美人ではなかったのかも知れないと思い直すように、美という概念も、実体のない根拠のない、無相で無住の心が名付けた虚妄の世界での便宜上の仮称でしかない。
虚妄でない正覚の世界では、全ての呼称は仮称であり、美しい物を美と呼称するも、醜と呼称するもどちらでも良いが、仮に美しい物を醜と呼称しても単に醜と呼称しただけで実体は美しい物に変わりない。しかし一旦、美と醜と二つに区別された限りは、美醜は決して同列ではなく、美と醜は歴然と対比する物であり、多くの宗教学者や修行僧が犯す誤りは美と醜は不二として同列と錯覚することである。
実際生活でも、美の中に醜があり、醜の中にも美があるといったような例はよくあり、美醜という概念は曖昧といえば曖昧な所があることも事実だが、だからと言って、決して美醜は一如でも同列でもない。
不二(二つでない)とは対立するものが、絶対的な立場から見ると対立がなく一つのものであるという国語辞典などの解釈は全くの誤りで、仏教では一つの事柄に対して、二つの相反する仮称を喩えにする場合も多く、それらに対して、元は一つであるとして不二(二つでない)といっているのである。
もし国語辞典などの解釈が誤りでないなら、善悪も生死も同列という理屈になり、たとえ銀行強盗や殺人などの悪を行っても善行をした事と同じになり、自殺しても生存している事と同じだという理屈になる。山岡鉄舟のように汚物を食べつくしても間違いでなくなり、旅の僧のように汚水で手を洗っても何の問題もなく、或いは汚水を飲んでも何の問題もないという理屈になる。
誤った理論を解釈している宗教学者や禅僧は、「浄穢不二」というものが本当に相反するものが一つになる世界を説いているというのなら、鉄舟のように人が揚げた汚物を食べてみるといいのである。また旅の僧のように汚水で手を洗うなり或いは汚水を飲んでみるといいのである。真の仏法を知らない者の解釈がいかに恐ろしいか身に沁みて分かる筈である。
ゐ山が仰山に質問した。
「涅槃経四十巻あるが、真の仏説本はどれほどあって、役にも立たない魔説本はどれほどあるだろう」
仰山が答えた。
「すべてが魔説本です」
ゐ山はこの答えを聞いて仰山の賢明さを称賛した。真に目が開かれていればこう見抜かねばならないのである。涅槃経のみならず、一大蔵経も禅門に伝わる多くの書物や祖録もことごとく邪説なのである。いわんや各宗派の教判のごときは皆ことごとく邪魔の臆説に過ぎぬのである。
煩悩と菩提(悟り)も実体のない無相、無住の心が名付けた虚妄の世界での便宜上の仮称でしかない。虚妄でない正覚の世界では、煩悩を菩提と呼称しても菩提を煩悩と呼称しても一向に差し支えない。仮に煩悩を菩提と呼称しても、単に菩提と呼び方を変えただけで、実体は煩悩に変りないのである。しかし一旦、二つに分けて呼称した限りは、煩悩と菩提は歴然と対比、区別されるべきものであり、決して同等に扱うべき物ではない。
しかし、多くの仏教学者や僧侶たちが解釈する煩悩即菩提とは、煩悩の概念そのものがなければ相対的な悟りの概念もないという解釈である。また悟りも煩悩も、その本体は真実不変の真如の現れであるゆえ煩悩を離れて菩提は得られず、また逆に菩提なくして煩悩から離れることはない、という解釈だが、こんな論理は全くの屁理屈でしかない。真に悟った禅僧なら決してそんな屁理屈は認めない。そんな屁理屈は不二法門の真髄を知らない宗教家や宗教学者が唱える論理である。
煩悩も菩提も真実不変の真如の現れと言われれば、それらしき理論に大抵の人が騙されてしまうのだが、しかし、こんな尤らしい理論がまったくの空論でしかないことを証明したい。
菩提というのは悟りを意味する言葉であることは大抵の人が知っているが、一切の煩悩も生じない菩提なる境地に誰が至ったと言うのか。人類史上最初にその境地に至ったのは釈迦と言われているが悟った釈迦にも煩悩があったことは周知の事実である。釈迦が悟ったのは悠久の古より存立しているたった一つの法なのである。それを俗に悟りといっているだけで、一切の煩悩から離れられる菩提などと言う境地はまったく存在しないのである。
六祖慧能が悟りに到達していることは、誰一人知らぬ者はいないが、慧能は、
北宗禅の臥輪禅師の偈に 、伎倆あり、よく百思想を断ず。境に対して心起こらず、菩提は日々に長ず。(わたしには巧みな技能があって、百種の妄想を断ち切ることができる。対象に向かっても心は動かず、悟りへの道は日に日に成長している)
と、いうのがあるが、この偈を聞いた慧能は、この偈は心の根底がまだ分かっていず、この通りに実行したならば束縛を増すばかりだとして、次のような偈を示した。
伎倆なしに、百思想を断ぜず、境に対して心しばしば起こる。菩提なんぞ長ぜん。(わたしには巧みな技能などない。百種の妄想を断ち切りもしない。対象に向かって心はそのつど動く。悟りへの道がどうして成長しようか)
悟りに到達しても、煩悩はゴロゴロ存在しているのである。それを馬耳東風と流すか、そんな煩悩を屁とも思わぬかは個人の裁量である。ロボットでない限り人間は生きている以上大小の多寡は有っても煩悩は必ず生じるのである。菩提とは仏教を推進するに当たって必要欠くべからざる境地で菩提という境地が存在しなければ仏教は成り立たなかったと言っても過言ではない。それゆえ菩提とは仏教関連者がこさえた架空の境地と言っても間違いない。
私は確信を持って言えるが、未だかって何の煩悩もない菩提なる境地に至った人間は古今東西誰一人居ないのである。存在すると言うのなら誰がその境地に至ったと言うのか知りたいものである。そんな人物がいたことは口の端にも聞いた事がない。
悟りとはたった一つの法を知ることを言うのである。ゆえに祖師たちも「一法」とそのものを呼称する。それは悟っていないものには決して想像もつかないもので、あえてその内容を言うならば、それ説法者は説くことなく、示すことなし。それ聴法者は聞くことなく、得ることなし。といった内容のもので、それを知りたいものは自らその境地に到達せねば分からないような物なのである。
それにもかかわらず、多くの仏教学者や修行僧は、煩悩即菩提なのだから煩悩イコール菩提なのだとか、煩悩と菩提は紙一重であるかのように勘違いしていることである。著名な仏教学者で大学教授でもあった故古田紹欽なども「禅への道」という著作の中で、煩悩即菩提、生死即涅槃を菩提、涅槃は煩悩の外に、生死は迷いの外に、あるわけではなく、迷いがそのまま悟りなのであり、と書いているので、仏教学者でもあり大学教授であった人すらそう感じるのだから、多くの人がそのように錯覚するのも已む無しかなとも思う。しかし、煩悩と菩提は全くの別物で煩悩即菩提、生死即涅槃というような表現が錯覚を生む土壌となっているのではなかろうかと思う。
多くの仏教学者や僧侶たちが誤りを犯すのは煩悩即菩提の即にあるとしか考えられない。即というのは、ただちに、すぐに、といった意味だが、そこから、煩悩も考えようによっては菩提に変ずるではないかという考え方である。しかし、常識に考えて、煩悩が菩提に変ずるようなことは永遠に有り得ないのである。
どんな高僧といえども釈迦にすら出来なかった一片の煩悩すらも持たない境地なんて物に到達できる訳がないのである。菩提とは仏教関連者が煩悩の対語として創作した境地でしかないのである。
煩悩即菩提とは、言葉の文脈から考えてこの場合の即は決して、ただちにとか、すぐにとかいう意味ではなく、すなわちと訳するのが正解なのである。
善とは、即ち善に非ず、これを善と名づく
悪とは、即ち悪に非ず、これを悪と名づく
が、善悪不二と称されたように、或いは、
般若波羅蜜多とは、仏説く、即ち般若波羅蜜多に非ず、是を般若波羅蜜多と名づく
と、称されたように、
煩悩とは、即ち煩悩に非ず、これを煩悩と名づく
菩提とは 即ち菩提に非ず、これを菩提と名づく
であり、つまり、仮称に他ならないといった意味でそう呼称されているだけである。
それゆえ、煩悩即菩提なのだから煩悩イコール菩提なのだとか、煩悩と菩提は紙一重であるかのように解釈するのは大いなる誤りなのである。
もし煩悩がそのまま菩提になるなら、山岡鉄舟が「浄穢不二」と云って嘔吐した物を食べ尽くしても誤りではなくなり、旅の僧が汚水で手を洗っても誤りでなくなり、毎日、残飯を食してもどんなに汚れた手であろうと永遠に洗う必要もないことになる。
しかし、ここで仏教の深遠というか摩訶不思議なロジックに一驚する。それは何かと云うと煩悩即菩提も生死即涅槃も不二法門の範疇から免れるはずはないのに、煩悩菩提不二とか生死涅槃不二といったような言いかたはされず、煩悩即菩提とか生死即涅槃と呼称されることである。
煩悩即菩提も生死即涅槃も同じ不二法門の範疇ながら、あきらかに善悪、美醜、浄垢、増減、迷悟といった語句とは別格に扱われていることである。多分、仏教の教説の便宜上別格にしたのかも知れないが、仏教論理には、言語のマジック、つまり詭弁というか屁理屈のようなものが存在するように思えるのは私だけだろうか。
菩提(悟り)とは架空の境地なので当然、悟りに到達しても煩悩は決してなくならない。釈迦は悟りに到達しても、第一の矢は受けるが第二の矢は受けないと、さまざまな煩悩を矢に例えて、煩悩の存在を認め、煩悩に一時は傷ついてもそれを克服するさまを弟子達に語っている。ここで重要なことは、釈迦は決して煩悩を消滅するとか絶滅するとかは言わずに「法は煩悩を覆い尽くす」と言っていることである。
そうなのである。悟っても煩悩は決して無くならない。私の場合「一法」に到達する前と到達後の煩悩は殆ど差異がない。では何が違うのかというと、「一法」に到達後は煩悩にあまり引きずられないようになるぐらいである。煩悩は仕方ないぐらいの軽い考えに変っていくようになる。その軽い考え方が釈迦の言う「法は煩悩を覆い尽くす」に当たるのかも知れない。
オウム真理教の麻原が、ニュースキャスターの生島ひろし氏に、煩悩はないですか、と尋ねられて、煩悩はないと言い切っていたが、北宗禅の臥輪禅師と似たようなケースである。二人共それぞれの発言が
偽覚者であるという馬脚を表している事に気付いていないのである。
悟りに到達しても、巧みな技能も生ぜず、煩悩を絶ち切ることも出来ず、対象に向かって心が動かないということもなく、悟りへの道が成長することもないというのが真実である。
真に悟った人間は、禅者の一言一句を聞くなり、公案にどういった見解を示したかで、真の悟りに到達したかどうかが判るのである。
最後に生と死について記述して見る。生死一如という言葉がある。生死一如とは生死不二をもじったもので、意味は当然、生死不二と同じ意である。
生とは、すなわち生に非ず、これを生と名づく、死とは、すなわち死に非ず、これを死と名づくであり、たまたま生きていることを生と名づけ、死んでいることを死と名づけているが、正覚からすれば、それぞれに付けられた名称にはそう名づけねばならない根拠など何一つなく、便宜上名づけられただけである。
そのため生きていることを死と仮称し、死んでいることを生と仮称するもどちらでも良いが、仮に生きていることを死と呼称しても単に死と呼称しただけで、実体は生きていることを意味することに変わりない。しかし、そうやって生と死と二つに別称した限りは生死は決して同等ではなく、生死は厳然と区別されるべきもので、よく世間では生死一如と言って生死を同等に捉える風潮が多いが、生死は決して一如(一つの如し)ではなく、全くの別物であり、天と地それ以上の、言葉では絶対言い尽くせないほどの隔絶したものである。
生死が一つの如しというなら、死ぬも生きるも一緒ということになり、苦労して生きる必要もなく、苦労に堪えられないようなら自殺してもいいことになる。そんな論理が通用するはずのないことは馬鹿でも分かる。
なぜ不二法門の論理が生じたかと言うと、維摩経にその答えを見つけることができる。。
一切法とは幻のごときものにすぎない。一切のものが没する、滅する、なくなるというのは幻のような虚妄の存在が否定された状態であり、真実の存在は、生ずることも没することもない不生不滅が真の相(すがた)なのである。
つまり、善悪、浄垢、大小、是非、生死、涅槃、煩悩、菩提、その他地球上に氾濫する語句は全て幻の如きものに過ぎず、それらを現実とした場合、虚妄であることを否定する状態になるからである。
真実の存在は、善悪も、浄垢も、大小も、是非も、生死も、涅槃も、煩悩も、菩提等も一切生ずることも没することもない不生不滅が真の相(すがた)だからである。
我々はいま生きているが、生きていると判断しているのは無相、無住の実体のない心が判断したものであり、実体のない心が判断したことは、裏返して考えれば、生きていないということでもあり、生きていなければ死ぬこともないのである。般若心経の不生不滅とはこういうことを言っているのである。
心を柔軟にして固執することや執着心を少なくすることで、人生の懊悩から脱却することが仏教の究極の教えなのである。
あるサイトでは「而二不二」(二にして二ならず)を説明するのに、一枚の紙を例にとって「紙には表と裏がある」ことを「而二」(二にして)と云い、「表と裏がそろって初めて一枚の紙になる」ことを「不二」(二ならず)だと説明している。そして、紙には表と裏という二つの面があり、その両方があるからこそ紙が存在しているので、このような表と裏のような切っても切れない関係を「而二不二」なのだと書いている。
しかし、このような説明では、大小、深浅、高低、是非、得失などという「而二不二」は説明できず、この「紙」の説明はあからさまな間違いであり、これを書いた人は多分僧侶の方と思われるが、仏教のエキスパートといえども誤るほど難しいのが「不二法門」の論理である。
仏教学者や大学教授、僧侶までが誤りを犯すのは、「一法」を知らないせいと云える。「一法」つまり悟りが何であるかを知らない限り「不二法門」は難問中の難問になると云っても過言ではない。
維摩経で、文殊菩薩が維摩を見舞いに訪れると、文殊が部屋に入るや否や、維摩は一言放った。
「よく来て下さいました。文殊師利、あなたは不来の相で来、不見の相で見ますね」と。
これなども本来なら「よく来て下さいました。文殊師利、あなたは来意の相で来られ、相見(しょうけん)の相で見ますね」と言うべきところを敢えて不二的な言い方をしているのである。
来るとは、即ち来るに非ず、これを来ると名づく
不来とは、即ち不来に非ず、これを不来と名づく
来と不来、見と不見、善と悪、美と醜、増と減、これら一切の言語は無相、無住の実体のない心が名づけた虚妄の世界の仮称でしかなく真実の存在は、生ずることも没することもない不生不滅が真の相(すがた)なのである。
芭蕉慧清は説法でこう言った。 「お前が杖を持っているなら、わたしは、お前に杖を与えよう。おまえが杖を持っていないのなら、わたしは、お前から杖を奪おう」
これは無門関四十四則の公案であるが、この意味の、持つ、持たないの語句も、無相、無住の心が名づけた仮称でしかなく、持つという本来の意を、持たないと解釈し、持たないという本来の意を、持つというふうに解釈すればこのいっけん矛盾する言葉の意味が解けるのである。持つ、持たないの仮称に拘わらなければ自在に変換することも可能で、
持つとは、即ち持つに非ず、これを持つと名づく
不持とは、即ち不持に非ず、これを不持と名づく(不持という熟語は私が勝手に作った)
維摩経ではそれを「而二不二」(二にして二ならず)と言っているのである。これは執着心に捕われることを嫌う禅者の智慧なのである。
のちに、大い慕てつ(だいいもてつ)は云った。「わたしは違う。お前が杖を持つなら、わたしはお前から杖を奪い取ろう。お前が杖を持たないなら、わたしは、お前に杖を与えよう。わたしのやり方はこの通りだ。誰でもいいが、杖をよく用い得るか否か。もし用い得るならば、徳山が先鋒となり、臨済が後衛となろう。だが、もし用い得ないならばまた杖を元の主に返そう」
道を求める者たちに対して、大慕と芭蕉はまったく正反対の暗喩をするが、持つ、持たないが、無相、無住の実体のない心によって、仮に名付けられた語句であると思えば、芭蕉の云ったことと大慕の云ったことは、まったく矛盾しないのである。華厳経も、世間種々の法、すべてみな幻のごとし、もしよくかくの如く知らば、その心動くことなし、と説いている。
維摩も、芭蕉慧清も、大い慕てつ(だいいもてつ)も、不二の本質を把握して本来の語句に執着せず自在に使いこなしているのである。何故このような理論が完成したかと言うと、心を柔軟にして、固執することや執着心を少なくすることで、人生の懊悩から脱却することが仏教の究極の目的だからである。 一法無双
禅の悟りとは(驚くべき悟りの真実) 鈴木大拙の誤り 稀代の大錯覚者鈴木大拙 自宅でガンを治す方法
トップページ(霊界の証明)